二人の乗ったバスが、だだっ広い駐車場に停車した。バスを降りると、登山道まではすぐそこであった。
「今日も快晴ね、私の日頃の行いが良いからかしら」
 彼女は空に向かって大きく伸びをしながら言った。
「こないだは途中から土砂降りだったじゃないか」
 T氏は空に向かって大きく欠伸をした。
「それはあなたの日頃の行いが悪いせいよ」
「その理屈で言うと、僕が生まれてから今日までの間、僕の周辺ではほとんど雨だったことになるね」
「そこまで卑屈になれとは言ってないわよ」
 登山口まで来た。スキー場のゲレンデを登っていくようだ。まだ白粉の塗られていないでこぼこで急勾配な山肌の上を、彼女は軽々と、T氏は這うように登っていった。
 早くもT氏が息を切らした。
「空気が冷たくて、肺の辺りがキリキリする」
「すぐに慣れるわよ」
 彼女が構わずに進むので、T氏はヒイヒイ言いながら後をつけた。一旦止まって息を整えたかったT氏は、前を歩く彼女に向かって必死の形相で「鼻をかむ!」と宣言した。すると、さすがに彼女も止まってくれたので、T氏は軍手を外し、ジャージのポケットからティッシュを取り出し、鼻をかんだ。これから先、苦しくなったら無理をせず、人間らしく鼻をかもうとT氏は心に決めた。
 林の中に入ると、勾配はだいぶ穏やかになった。登山道の両脇には、このところの気温の急激な低下にはうんざりだといわんばかりに、萎びた笹がだらしなく枝垂れている。登山者たちの足跡が深く刻まれている、若干の水分を含んだ土の上を、二人は足を取られないように気をつけて進んでいった。
 ぬかるみを抜けると、二人の目の前には、枯れ葉になりかけた紅葉の絨毯が広がっていた。裸の木々の隙間から覗く陽の光に照らされながら、最後の輝きが、惜しげもなく放たれるこの瞬間は、いかなる類の儚さとも無縁であった。
「秋の紅葉はさらなり、冬来たりて、土の上を覆い尽くさんさまもまたいとをかし、といったところかしらね」
「君、もうお腹が空いたの?」
「ほんっとに感性が鈍い人ね!」
 彼女は呆れた。本日一度目。
 草地に出た。二人の背丈ほどの枯芒の群れの中を、二人は横に並んで歩いた。穂先が彼女の頬を掠めると、彼女はくすぐったそうに目を閉じ、手で払い除ける。その度に彼女の髪が揺れ、T氏の視線を翻弄する。その間も枯芒たちは容赦なくT氏の顔面を直撃し、むず痒さに耐えられなくなったT氏は、ハックショーーン! と大きなくしゃみをした。そして盛大にブォーーーーン! と鼻をかんだ。いずれの音にも、山彦は毅然として応じなかった。
 再び林の中に入った。でこぼこで常に一定でない道を、足場を探しながら、岩や木に手をかけながら、二人は登っていった。まるで一種のアスレチックのようで、次第にT氏の中でも、しんどさよりも楽しさのほうが上回っていた。
 岩が増えてきた。水が、上のほうから下のほうへ、岩肌を伝って流れていた。T氏は何度か足を滑らせそうになった。
 さらに登ると、雪が現れた。ぐしょぐしょの雪をT氏が踏みつける度に、最後の悪あがきとでも言わんがごとく、雪解け水がT氏の靴の中に容赦なく侵入した。T氏は気にも留めなかった。
「見て見て、これ、すごく綺麗!」
 彼女が何かを見つけた。T氏も覗き込む。
 岩と岩が重なり合ったその真下に、棒状の氷の物体ができていた。流れた雪解け水が凍ってできたもののようだ。大きな二つの岩が身を寄せ合ってできた僅かな隙間に、二度と成長することのない細々(こまごま)とした石たちが、内緒の宝物を囲うように、その周りを埋め尽くしていた。
 目を輝かせる彼女の横でT氏は、溶けたり凍ったり忙しい奴だなと思ったが、彼女の機嫌を損ねぬよう一言、「綺麗だね」とだけ言っておいた。「君の横顔が」という気障ったらしい一言をつけ加えるのは止めておいた。
 道がなだらかになる度に、彼女のペースが上がった。T氏も必死に追い縋った。なだらかな道よりも、足場の安定しない道のほうが彼女のペースが落ちるので、T氏にはありがたかった。
 他の登山者たちを何人も追い抜いた。「若い人たちは登るのが速いわね」と言う婦人の声に、彼女は「どうも!」と爽やかに応えた。カメラを目に近づけて、何かを懸命に捉えようとしている青のウィンドブレーカーを着た青年は、颯爽と通り過ぎる二人のほうを見向きもしなかった。
 下山中の人たちとも次々にすれ違った。T氏は、「こんにちは」と挨拶してくる者に対しては、「こんにちは」と顔を歪めながらもできる限り明るい声で返し、しんどそうな表情のT氏に向かって「あと少し、頑張って!」と励ましてくる者に対しては、こんな登り慣れていそうな格好の人が言う「あと少し」など信用なるものかと思いながら、可能な限り明るい声で「ウィっす!」と応えながら軽く手を挙げた。
 後ろを振り返る余裕もなく、ただひたすら、T氏は彼女についていった。絶景を臨むのは登り切ってからのお楽しみよと、彼女は背中で語っているかのようであった。
 登れば登るほど、積もった雪の量が増えていく。季節が秋から冬へと移り変わっていくその過程を、二人は登りながらにして、ものの数時間でしっかりと体感した。
 彼女の足が止まった。そしてT氏を振り返り、言った。
「着いたわよ!」
 どうやら山頂に到達したようだ。ふぅ、とT氏は息をついた。
 無数の岩の間を、真っ白な雪が埋めていた。高く積もったままの所、溶けかかった所、靴の足跡とともに土と混じった所など、雪の残り方が一様でなく、所々起伏がある。
「まるで雪の川ね」
 彼女が言った。
「でも魚は泳いでいない」
 T氏は答えた。
「魚は私たちよ」
 彼女は笑った。
「こんなに高い所まで登ってくるなんて、僕らは鮭か何か」
 T氏も少し笑った。
「あら、私こんな寒い所で産卵なんてしないわよ、するなら暖かい所で、好きな人をそばに置きながら」
 人に戻った彼女はツンとした顔で答えた。その隣でT氏は赤面した。
 二人は適当な大きさの岩に腰を降ろした。周囲の山を見渡すと、中途半端に所々薄っすらと積もった雪が、縞馬のような模様を創っていた。
 T氏がリュックの中をゴソゴソ探り始めた。
「はい、君の分も」
 T氏はカップラーメンを取り出し、彼女に手渡した。
「あら、気が利くじゃない」
 彼女は嬉しそうに言った。
「マウンテンフード味のラーメンを探したんだけど見つからなかったから、仕方なくシーフード味のにした」
 T氏は自分の分の包装を破りながら言った。
「あなたって根っからのひねくれ者ね」
 彼女は呆れた。本日二度目。
 T氏は魔法瓶を取り出し、彼女の分にお湯を注いだ後、自分の分にも注いだ。
「ほら、こっちの方角を向けば、地平線の手前に海が見える。山頂から見る海もいいもんだ」
「ほとんど見えないじゃないのよ!」
 彼女は呆れた。もう数えまい。
 山の上で食べるラーメンは格別であった。冷えた身体に染み渡る。そして何より、景色も食べる物も、こうして二人同じ物を共有していることが、T氏には嬉しかった。
 食べ終えると、T氏が言った。
「ところでさ、登ってる途中で追い抜いたりすれ違ったりした人たちって、ほぼ例外なく挨拶してくれたり、声をかけてきたりしたよね。登山するときってそういうもんなの?」
「特にそういう不文律がある訳ではないと思うけど、何ていうか、仲間意識みたいなものじゃない? 同じ趣味を楽しむ者たち同士の」
「その理屈で言うなら、ディズニーランドは挨拶の大合唱ということになるね」
「してるじゃないの、実際。『ハロー、僕ミッキーだよ!』って」
「いや、それはないかな」
「何よ、せっかくあなたの屁理屈に乗ってあげたのに!」
 彼女はカップ麺のゴミをさっさとまとめ、T氏のリュックに放り込むと、そそくさと山を降り始めた。T氏も「ちょっと待ってよぉ」と言いながらリュックを背負い、後に続いた。