翌日ものどは痛かったけれど、熱が下がったので出勤した。ちゃんとマスクをして。
駅で会った榊さんは、俺を見て少しうろたえた。でも、すぐに覚悟を決めた様子で微笑んで、いつものように――いや、少し緊張気味で話をしてくれた。俺の方をまっすぐには見てくれなかったけれど、今朝はそんな態度に心をくすぐられる。
途中で知り合いが合流すると、彼女の力が抜けた。どうやら榊さんは、俺とふたりきりでいるときの方が緊張するらしい。その週はずっとそんな調子だった。
金曜日の帰りに榊さんを食事に誘った。ふたりでいることに緊張するばかりの彼女がリラックスできるようにと考えて、前に俺が飲み過ぎたスペイン料理の店に。狙いどおり、彼女はあの日のことを思い出して、少し笑ってOKしてくれた。
会社を一緒に出るとき、榊さんはやたらとおどおど、キョロキョロしていた。帰りに一緒になることなんて、ずっと前から何度もあったのに。
これでは俺たちがこれから他人に知られたくないことをしに行くと宣伝しているようなものだ。そう指摘すると、彼女はぎょっとした顔で俺を見た。そして、わざとらしい笑顔を作って元気に話し出した。
店に着いて案内されたのは、偶然にも前回と同じテーブルだった。知った顔がないことに安心した榊さんが、向かいの席でふっと緊張を解いたのが分かった。そのあとに俺に向けた微笑みは、恥ずかしさに嬉しそうなきらめきが混じって、この一週間で一番すてきな笑顔だった。
俺が、今日は酒を控え目にすると言うと、彼女が笑った。
「酔っ払ったことを気にしてるの? あれはあれで面白かったのに」
「そうですか?」
「うん。あんなにご機嫌な紺野さんは滅多に見られないもん。紺野さんは楽しくなかったの?」
そう尋ねた榊さんはにこにこしていた。俺が失敗だったと気に病んでいたことは、彼女にとってはほんとうに、ただの面白い出来事に過ぎなかったのだ。俺の失敗を咎めないからと言って次の日に彼女を責めたのは、まったくの筋違いだったということだ。
「楽しかったです。だから余計に飲み過ぎちゃって」
申し訳ない気持ちを添えながらそう答えると、榊さんが一層にっこりして「ね?」とうなずいた。
スパークリングワインのはじける泡が俺たちの新しい関係を祝う拍手のように見えた。
「あの次の日にね」
榊さんが前回の話を持ち出したのは、店を出てからだった。
美味しい料理と適度なお酒で、体も心もリラックスしていた。12月に入っている今日は、ふたりとも冬の装いになっているところがこの前とは違う。でも、歩いている俺たちの距離はほとんど変わっていない。
「紺野さん、あたしのことを怒ったでしょう? “どうして飲み過ぎたことを怒らないのか” って」
「はい」
「それは紺野さんに期待してないからからなのか、って言われて……いろいろ考えちゃった」
バッグを両手で後ろに持ってゆっくりと歩きながら、前を見つめたまま彼女は言った。その姿も前回の記憶と重なる。
「すみませんでした。勝手なこと言って」
「ううん、いいの」
彼女はゆったりと微笑んだ。
「あたし、言われて初めて、そう感じる人もいるんだって分かったの。もしかしたら、怒らないのは言われたとおり、あたしがほかの人のことを軽く……“どうせ怒っても無駄だから” って、見ているからなのかな、って考えてみたんだ」
「榊さん……」
俺がよく考えずに言った言葉をそんなに気にしていたなんて。
「ほんとうに俺――」
「ああ、違うの。あれは、言ってもらって良かったの。だから謝らないで?」
穏やかに微笑んだままそう言って、彼女は続けた。
「考えた結果ね、あたしはべつに、ほかの人を軽んじたりしていないって確信を持った。そういう気持ちで接したことは……ゼロとは言わないけど、ほとんどないよ。怒らないのは、怒って言ったって意味がないと思うからなの。分かってもらうなら、気持ち良く分かってもらいたいの。それが、あたしの信頼関係の作り方なの」
「はい」
「でもね、あたしが他人に期待しないっていうのは、部分的には当たってるの。それはね、自分のことに関して」
「自分のこと?」
「そう。他人が自分に何かをしてくれるっていう期待。それは持たないの。どんな小さなことでも」
きっぱりと言い切った榊さんの表情は穏やかで、決意や諦めのようなものは浮かんでいない。彼女にとって、 “他人に期待しない” ということは、彼女の生き方の一部になっているのだ。
「なんだか意地を張っているみたいに聞こえるかな? でもね、あたし、他人の重荷になるのが嫌なの」
「重荷だなんて」
俺が口をはさむと、彼女はちらりと俺を見て、「ふふっ」と笑った。
「だって、例えば『いつでも頼りにしてくださいね』って言われても、それは単なる社交辞令かも知れないじゃない。そんな相手に期待したら悪いでしょ? それにね、」
彼女が遠くの空を見る。
「人の気持ちは変わるものだから」
当たり前のことのように、さっぱりとした口調。
「未来はどうなるか分からない。そのたった一言で、あたしなんかのために、自分の未来を担保に入れる必要はないのよ。あたしだって、『あのとき、こう言ったでしょう?』なんて言いたくない。どんなに仲がいい相手でも、手伝ってもらえるはずだとも思わない。相手にそんなつもりがなかったら、嫌な思いをさせるし、自分も傷付いてしまうもの」
そう言って、そっと視線を落とした。
「あたしはそういうふうに生きてきたの。自然と周りに助けてもらえる人もいるけど、あたしはそっち側じゃないから」
ふと、高校生のころの彼女が目に浮かんだ。そして、彼女の言っていることはよく分かった。だけど。
「もしも、相手が待っているとしたら?」
「え?」
「ほんとうに、心から、自分を頼りにしてほしいって思っているとしたら?」
彼女は少し首を傾げて考えた。それから、微笑んで言った。
「あたしなんかのために、時間や労力を使わせるのは申し訳ないな」
(ああ、そうだった……)
榊さんはいつも「あたしなんか」と言う。まるで、自分に価値がないように。そんなことはないのに。
「 “榊さんなんか” じゃありません。俺にとっては、“榊さんだから” です」
「……え?」
「榊さんだから頼ってほしいんです。心配したり、手伝ったりしたいんです。そうできることが嬉しいんです」
駅で会った榊さんは、俺を見て少しうろたえた。でも、すぐに覚悟を決めた様子で微笑んで、いつものように――いや、少し緊張気味で話をしてくれた。俺の方をまっすぐには見てくれなかったけれど、今朝はそんな態度に心をくすぐられる。
途中で知り合いが合流すると、彼女の力が抜けた。どうやら榊さんは、俺とふたりきりでいるときの方が緊張するらしい。その週はずっとそんな調子だった。
金曜日の帰りに榊さんを食事に誘った。ふたりでいることに緊張するばかりの彼女がリラックスできるようにと考えて、前に俺が飲み過ぎたスペイン料理の店に。狙いどおり、彼女はあの日のことを思い出して、少し笑ってOKしてくれた。
会社を一緒に出るとき、榊さんはやたらとおどおど、キョロキョロしていた。帰りに一緒になることなんて、ずっと前から何度もあったのに。
これでは俺たちがこれから他人に知られたくないことをしに行くと宣伝しているようなものだ。そう指摘すると、彼女はぎょっとした顔で俺を見た。そして、わざとらしい笑顔を作って元気に話し出した。
店に着いて案内されたのは、偶然にも前回と同じテーブルだった。知った顔がないことに安心した榊さんが、向かいの席でふっと緊張を解いたのが分かった。そのあとに俺に向けた微笑みは、恥ずかしさに嬉しそうなきらめきが混じって、この一週間で一番すてきな笑顔だった。
俺が、今日は酒を控え目にすると言うと、彼女が笑った。
「酔っ払ったことを気にしてるの? あれはあれで面白かったのに」
「そうですか?」
「うん。あんなにご機嫌な紺野さんは滅多に見られないもん。紺野さんは楽しくなかったの?」
そう尋ねた榊さんはにこにこしていた。俺が失敗だったと気に病んでいたことは、彼女にとってはほんとうに、ただの面白い出来事に過ぎなかったのだ。俺の失敗を咎めないからと言って次の日に彼女を責めたのは、まったくの筋違いだったということだ。
「楽しかったです。だから余計に飲み過ぎちゃって」
申し訳ない気持ちを添えながらそう答えると、榊さんが一層にっこりして「ね?」とうなずいた。
スパークリングワインのはじける泡が俺たちの新しい関係を祝う拍手のように見えた。
「あの次の日にね」
榊さんが前回の話を持ち出したのは、店を出てからだった。
美味しい料理と適度なお酒で、体も心もリラックスしていた。12月に入っている今日は、ふたりとも冬の装いになっているところがこの前とは違う。でも、歩いている俺たちの距離はほとんど変わっていない。
「紺野さん、あたしのことを怒ったでしょう? “どうして飲み過ぎたことを怒らないのか” って」
「はい」
「それは紺野さんに期待してないからからなのか、って言われて……いろいろ考えちゃった」
バッグを両手で後ろに持ってゆっくりと歩きながら、前を見つめたまま彼女は言った。その姿も前回の記憶と重なる。
「すみませんでした。勝手なこと言って」
「ううん、いいの」
彼女はゆったりと微笑んだ。
「あたし、言われて初めて、そう感じる人もいるんだって分かったの。もしかしたら、怒らないのは言われたとおり、あたしがほかの人のことを軽く……“どうせ怒っても無駄だから” って、見ているからなのかな、って考えてみたんだ」
「榊さん……」
俺がよく考えずに言った言葉をそんなに気にしていたなんて。
「ほんとうに俺――」
「ああ、違うの。あれは、言ってもらって良かったの。だから謝らないで?」
穏やかに微笑んだままそう言って、彼女は続けた。
「考えた結果ね、あたしはべつに、ほかの人を軽んじたりしていないって確信を持った。そういう気持ちで接したことは……ゼロとは言わないけど、ほとんどないよ。怒らないのは、怒って言ったって意味がないと思うからなの。分かってもらうなら、気持ち良く分かってもらいたいの。それが、あたしの信頼関係の作り方なの」
「はい」
「でもね、あたしが他人に期待しないっていうのは、部分的には当たってるの。それはね、自分のことに関して」
「自分のこと?」
「そう。他人が自分に何かをしてくれるっていう期待。それは持たないの。どんな小さなことでも」
きっぱりと言い切った榊さんの表情は穏やかで、決意や諦めのようなものは浮かんでいない。彼女にとって、 “他人に期待しない” ということは、彼女の生き方の一部になっているのだ。
「なんだか意地を張っているみたいに聞こえるかな? でもね、あたし、他人の重荷になるのが嫌なの」
「重荷だなんて」
俺が口をはさむと、彼女はちらりと俺を見て、「ふふっ」と笑った。
「だって、例えば『いつでも頼りにしてくださいね』って言われても、それは単なる社交辞令かも知れないじゃない。そんな相手に期待したら悪いでしょ? それにね、」
彼女が遠くの空を見る。
「人の気持ちは変わるものだから」
当たり前のことのように、さっぱりとした口調。
「未来はどうなるか分からない。そのたった一言で、あたしなんかのために、自分の未来を担保に入れる必要はないのよ。あたしだって、『あのとき、こう言ったでしょう?』なんて言いたくない。どんなに仲がいい相手でも、手伝ってもらえるはずだとも思わない。相手にそんなつもりがなかったら、嫌な思いをさせるし、自分も傷付いてしまうもの」
そう言って、そっと視線を落とした。
「あたしはそういうふうに生きてきたの。自然と周りに助けてもらえる人もいるけど、あたしはそっち側じゃないから」
ふと、高校生のころの彼女が目に浮かんだ。そして、彼女の言っていることはよく分かった。だけど。
「もしも、相手が待っているとしたら?」
「え?」
「ほんとうに、心から、自分を頼りにしてほしいって思っているとしたら?」
彼女は少し首を傾げて考えた。それから、微笑んで言った。
「あたしなんかのために、時間や労力を使わせるのは申し訳ないな」
(ああ、そうだった……)
榊さんはいつも「あたしなんか」と言う。まるで、自分に価値がないように。そんなことはないのに。
「 “榊さんなんか” じゃありません。俺にとっては、“榊さんだから” です」
「……え?」
「榊さんだから頼ってほしいんです。心配したり、手伝ったりしたいんです。そうできることが嬉しいんです」