その週末は、榊さんへのアプローチは控えることにした。新人のフォローで忙しかったうえに、金曜日には怖い思いをして疲れているだろうと思ったから。それに、倉庫でのことをきっかけにして、俺のことをじっくりと考えてもらえたら、とも思った。
榊さんの様子がおかしいことが気になって、俺が食事に誘ってからおよそ一か月半。その間にいろいろな新しいことがあった。
榊さんの秘密を知った。
今までとは違う一面を見た。
二人で食事に行った。
休日に二人で会った。
感情的になって彼女を責めたこともあった。
そういうことを、考えてみてもらえないだろうか。俺の行動が今までとは違うと気付いてくれないだろうか。なんだか変だ、程度でもいい。
もしも直接「どうして?」と訊いてくれるなら、俺はきちんと答える用意がある。
土曜日も日曜日も、何事もなく過ぎた。けれど、カレンダーを見るたびに、次の日曜日に行われる榊さんの同窓会のことが頭をよぎった。そして一緒に同窓会の風景も浮かんでくる。
(榊さん……)
夜になると淋しくなってしまった。風呂上りに缶ビールを開けて、ぼんやりとテーブルの上のスマートフォンを見つめる。
いつでも目に入るように、きのうも今日も、ずっとテーブルの上に置いておいた。でも、そこに届くのはいらない情報ばかり。彼女からのメッセージは来ない。
当然だ。用事がないんだから来るわけない。
缶ビールを一口飲んで、自分で自分を嘲笑う。榊さんが俺に興味を持ってくれるなんて、自意識過剰もいいところだ。
(そうだよな)
仕事ができて、性格が良くて、みんなに頼りにされている榊さん。でも、本当は男が苦手で、臆病で――。
(臆病?)
ふと、高校時代の彼女の姿が頭に浮かぶ。秘密を話してもらったあと、一人になってから思い描いた場面。貸したノートを返してもらえなくて困っているのに、返してほしいと言うことができずに、その場を立ち去る榊さん。
(臆病……)
ノート男の態度をどう受け止めたらいいのか分からずに、でも、誰にも相談しなかったと言った。あの日、俺にも「どう思う?」とは訊かなかった。それは、与えられる答えが怖いから……?
だとしたら。
榊さんが俺に「どうして?」と尋ねることはないような気がする。
俺の行動にどんなに疑問を持ったとしても、きっと一人で考えて、どこかから正当な理由を引っ張りだして、片付けてしまうだろう。正当な理由――単なる同僚としての。
(榊さんは、ずっとそうやって来たんだ……)
静かに霧が晴れて行くような気がした。
ノート男がきっかけだったのかも知れない。いや。高校に入学したころにはもう男が苦手だったと言っていたから、その前だろうか? それはたぶん、彼女の自信のなさの現れ。
いつなのかは分からないけれど、彼女には好きな人がいた。けれど、その恋は成就しなかった。その苦しさや悲しみが辛くて、もう恋はしたくないと思ったんじゃないだろうか。
だから本能的に男を避けるようになった。親しくなって、相手に惹かれることが怖くて。好きになっても、自分が相手に好かれることはないと思って。
彼女はただ男が苦手なんじゃない。恋をすることが怖いんだ。恋をして傷付くことが……。
――「あたしはいいの」
恋人はいらないのかと尋ねられたときに、彼女がよく使う言葉。その言葉を、彼女はどんな思いで口にしていたんだろう?
ノート男のことも、そう思いながら見ていたんだろう。本当は訊きたかっただろうに。
――どうしてわたしにノートを借りにくるの?
――どうしてわたしに彼女の愚痴を言うの?
――どうしてわたしに話しかけるの?
でも、榊さんはそれをしなかった。
それを訊いたらノート男との関係が変わってしまうと思ったのかも知れない。その言葉がノート男に何かを決心させるきっかけになることを恐れたから、榊さんはその質問をしなかった。恋をすることが怖くて、「好きかどうかわからない」ままでいたかったから。
もしかしたら……。
ほんとうは、ノート男は榊さんのことが好きだったのかも知れない。でも、自分には彼女がいた。すでに心変わりしていたけれど、彼女に別れを言い出すことはできなかった。自分を信じてくれている相手を傷つけたくなくて。
(ああ……、そうかも知れない)
この方がすっきり説明がつく。榊さんがノート男のことを忘れられずにいる理由が。
榊さんが好きになった相手だから、きっと真面目な男だったに違いない。優しいところもあったんだろう。だから、自分の彼女に別れ話をもちかけることができなかった。高校生は世間が思っているよりもずっと「こうあるべき」という理想に縛られていたりする。
自分の心が彼女を裏切っていることで、自分を責めていたかも知れない。その苦しい状況の中で、榊さんと、クラスメイトとしてのギリギリの接点を求めた。
そうなのかも知れない。
そいつは何も言わなかったけれど、榊さんは感じていた。だから混乱した。そして、忘れられないでいる……。
(高校生の恋……か)
おとなと子どもの狭間の時代。たった3年間しかない特別な時間。
管理されて息苦しいような気もするけれど、未来があって、自由で、純粋で……傷付きやすい。
「フフッ……」
榊さんの様子がおかしいことが気になって、俺が食事に誘ってからおよそ一か月半。その間にいろいろな新しいことがあった。
榊さんの秘密を知った。
今までとは違う一面を見た。
二人で食事に行った。
休日に二人で会った。
感情的になって彼女を責めたこともあった。
そういうことを、考えてみてもらえないだろうか。俺の行動が今までとは違うと気付いてくれないだろうか。なんだか変だ、程度でもいい。
もしも直接「どうして?」と訊いてくれるなら、俺はきちんと答える用意がある。
土曜日も日曜日も、何事もなく過ぎた。けれど、カレンダーを見るたびに、次の日曜日に行われる榊さんの同窓会のことが頭をよぎった。そして一緒に同窓会の風景も浮かんでくる。
(榊さん……)
夜になると淋しくなってしまった。風呂上りに缶ビールを開けて、ぼんやりとテーブルの上のスマートフォンを見つめる。
いつでも目に入るように、きのうも今日も、ずっとテーブルの上に置いておいた。でも、そこに届くのはいらない情報ばかり。彼女からのメッセージは来ない。
当然だ。用事がないんだから来るわけない。
缶ビールを一口飲んで、自分で自分を嘲笑う。榊さんが俺に興味を持ってくれるなんて、自意識過剰もいいところだ。
(そうだよな)
仕事ができて、性格が良くて、みんなに頼りにされている榊さん。でも、本当は男が苦手で、臆病で――。
(臆病?)
ふと、高校時代の彼女の姿が頭に浮かぶ。秘密を話してもらったあと、一人になってから思い描いた場面。貸したノートを返してもらえなくて困っているのに、返してほしいと言うことができずに、その場を立ち去る榊さん。
(臆病……)
ノート男の態度をどう受け止めたらいいのか分からずに、でも、誰にも相談しなかったと言った。あの日、俺にも「どう思う?」とは訊かなかった。それは、与えられる答えが怖いから……?
だとしたら。
榊さんが俺に「どうして?」と尋ねることはないような気がする。
俺の行動にどんなに疑問を持ったとしても、きっと一人で考えて、どこかから正当な理由を引っ張りだして、片付けてしまうだろう。正当な理由――単なる同僚としての。
(榊さんは、ずっとそうやって来たんだ……)
静かに霧が晴れて行くような気がした。
ノート男がきっかけだったのかも知れない。いや。高校に入学したころにはもう男が苦手だったと言っていたから、その前だろうか? それはたぶん、彼女の自信のなさの現れ。
いつなのかは分からないけれど、彼女には好きな人がいた。けれど、その恋は成就しなかった。その苦しさや悲しみが辛くて、もう恋はしたくないと思ったんじゃないだろうか。
だから本能的に男を避けるようになった。親しくなって、相手に惹かれることが怖くて。好きになっても、自分が相手に好かれることはないと思って。
彼女はただ男が苦手なんじゃない。恋をすることが怖いんだ。恋をして傷付くことが……。
――「あたしはいいの」
恋人はいらないのかと尋ねられたときに、彼女がよく使う言葉。その言葉を、彼女はどんな思いで口にしていたんだろう?
ノート男のことも、そう思いながら見ていたんだろう。本当は訊きたかっただろうに。
――どうしてわたしにノートを借りにくるの?
――どうしてわたしに彼女の愚痴を言うの?
――どうしてわたしに話しかけるの?
でも、榊さんはそれをしなかった。
それを訊いたらノート男との関係が変わってしまうと思ったのかも知れない。その言葉がノート男に何かを決心させるきっかけになることを恐れたから、榊さんはその質問をしなかった。恋をすることが怖くて、「好きかどうかわからない」ままでいたかったから。
もしかしたら……。
ほんとうは、ノート男は榊さんのことが好きだったのかも知れない。でも、自分には彼女がいた。すでに心変わりしていたけれど、彼女に別れを言い出すことはできなかった。自分を信じてくれている相手を傷つけたくなくて。
(ああ……、そうかも知れない)
この方がすっきり説明がつく。榊さんがノート男のことを忘れられずにいる理由が。
榊さんが好きになった相手だから、きっと真面目な男だったに違いない。優しいところもあったんだろう。だから、自分の彼女に別れ話をもちかけることができなかった。高校生は世間が思っているよりもずっと「こうあるべき」という理想に縛られていたりする。
自分の心が彼女を裏切っていることで、自分を責めていたかも知れない。その苦しい状況の中で、榊さんと、クラスメイトとしてのギリギリの接点を求めた。
そうなのかも知れない。
そいつは何も言わなかったけれど、榊さんは感じていた。だから混乱した。そして、忘れられないでいる……。
(高校生の恋……か)
おとなと子どもの狭間の時代。たった3年間しかない特別な時間。
管理されて息苦しいような気もするけれど、未来があって、自由で、純粋で……傷付きやすい。
「フフッ……」