退()け!」

 力強い低い声が部屋に響いた。
 暗闇に浮かんだのは和服の男性。緩くウェーブのかかった漆黒の髪を耳にかけ、月明かりに照らされた顔は鬼の形相だ。
 だ、誰!?まさか旦那!?
 浮気を見られたド修羅場かと思いきや、彼は俺の腕を掴んで引き上げる。

「荷物は!」
「えっ!?そ、そこの鞄だけです」
「服は!」
「全部しまってあります」
「よし、来い!」

 鞄を担いだ男にかっさらわれた。もう何がなんだか訳がわからない。
 手を引かれるがままに宿を出て山道を駆け抜けるが、辺りが真っ暗なせいで何度も木の根っこに足を取られそうになる。
 会話をする余裕もなく足を動かしていると、いつの間にか山のふもとまで降りてきていた。ぱっ、と手が離されたのは、集落へと続く道の途中だ。

「ちょっと、一体なんなんですか…っ!」

 つい勢いよく叫ぶと、男性はこちらを振り向いた。月明かりに照らされた顔が相当な美形で言葉を失う。歳は三十代前半くらいでだいぶ歳上のようだが、運動会の参観に来たら奥様方から黄色い声が飛ぶだろうなと想像できるほどの魅力があった。