君への愛は嘘で紡ぐ

「ったく……なんであんな奴が……」

笠木さんがいなくなっても、先生は小さな声で文句のようなものを言い続ける。

そこまで言われるような人には見えなかった。いや、あの髪型や服装では、大人には好まれないか。

「どのような方なのですか?」

単なる好奇心のようなもので聞いたが、先生はこの世の終わりのような顔をして、私のほうを向いた。

言ってはいけないことを言ったのだろうか。

「いいですか、小野寺さん!決して!あいつには関わってはいけません!」

少しずつ、視線が落ちた。

この人も、私を見ていない。私の後ろにいる、お父様を見ている。

私の身分を知っているからこそ、そういう態度になるのかもしれないが、それではここに来た意味がない。

「……わかりました。ところで先生。あの約束は覚えていますか?」
「もちろんです」

先生は私の言う意味がよくわかっていないように、首を傾げながら答えた。

「いえ、わかっていらっしゃるなら結構です。ただ、今の態度ではそうは見えなかったので」

先生は目を泳がすと、咳ばらいをした。

「……職員室はこっちだ」

私が悪い方向に進むよりも私の願いを聞けないことのほうが大変なことになると察したのか、先生から敬語が消えた。

ぎこちない話し方ではあったが、先生は一階にある職員室に案内し、私のクラス担任のところまで連れていってくれた。

その先生にお礼を言い、担任の先生に挨拶と、遅れてしまったことに対する謝罪をした。

「気にしないで。小野寺さんが無事でよかったわ」

今の今まで話していた男の先生はこの学校の教頭で、校長と教頭以外は私のことは知らない。

初めて、他人の素直な微笑みを見たような気がした。

「じゃあ、教室に行きましょう」

先に職員室を出た先生の背中を追う。階段を上り、渡り廊下を歩く。

そこは笠木さんと出会った場所の真上だった。笠木さんが戻ってきていないかと、つい目で中庭を探してしまった。

遠くの方で風に揺れる金色の髪が目に入った。自然と足が止まり、その髪を見つめる。

「小野寺さん?どうかした?」

名前を呼ばれて視線を前に戻した。

私がついて来ていないことに気付いたらしく、先生は振り向いて心配するような面持ちで言った。

「いえ……」

先生から再び中庭に視線を戻したが、金色の髪は見つけられない。

少し残念な気分になり、足元を見つめる。

そのまま立ち止まっているわけにもいかず、足を進めた。先生のすぐ後ろに追いつくと、先生も歩き始めた。
二年四組の教室の前に着くと、先生がドアを開けた。廊下から中が見え、生徒は全員座っていた。

「おはようございます。今日からこのクラスに新しいメンバーが加わります」

先生に紹介され、教室に入っていく私に、ほとんどの人が注目してくる。私は一歩教室に入り、丁寧に振り返ってドアを閉める。

先生に促されて教卓の隣に立つ。想像以上に教室全体が見えて、緊張が込み上げてくる。

私の話を聞こうと真剣な表情の人。近くの人と小声で会話をしている人。初めから私には興味がないのか、俯いている人。

いろいろな人がいて、私はなぜか安心した。

緊張を解すために、深呼吸をする。

「小野寺円香です。よろしくお願いします」

とてもシンプルな自己紹介になったけど、これ以外何を言えばいいのかわからなかった。頭を下げていたら、小さな拍手の音や歓迎の声が聞こえた。

そっと頭を上げ、今一度教室を見渡す。興味無さそうにしていた人も、手を叩いてくれている。

「小野寺さんの席は窓際の一番後ろよ」

先生に言われて、机の間を通って指示された席まで歩いていく。私が席に着いたことを確認した先生は、連絡事項を伝えると、教室を出ていった。

「小野寺さん、どこの高校だったの?」

早速、前の席の人が話しかけてくれた。

その子の友達が一人、その子の席にやって来る。他の人は自分の友達と話しながらも、ときどき私に視線を向けていた。

転校生というのは、どこでも気になる存在なのだろう。

だけど、私は彼女の質問に答えられなかった。私が今まで通っていたのは、お金持ちだけが通うような私立高校だった。

そんなことを言ってしまえば、家が裕福だと教えているようなもの。ただの一般人として接してほしいのに、言えるはずがなかった。

「あ、ごめん!名前言ってなかったね。私は坂野由依。それでこっちが」
「東雲瑞希」

私が答えなかったのを彼女たちのことを不審に思っているからだと思ってくれたらしく、二人は名乗ってくれた。

胸あたりまである髪をサイドでまとめているのが坂野さんで、ショートカットでクールなイメージなのが東雲さん。

一度名乗ったのにまた名前を言うのはおかしいと思い、どうすればいいのか迷って、頭を軽く下げた。

「小野寺さんって、大人しいんだね」

私がどれだけ無愛想な態度をとっても、坂野さんは話しかけてくれる。

これほど優しい人に対して言葉を返せない自分が、嫌になる。

「二年の二学期に転校してきたら、クラスに馴染めるか不安で緊張もするでしょ」
東雲さんの言葉に、坂野さんは頷いた。

全く緊張していないと言えば嘘になるが、それが理由で話せないでいるわけではない。

訂正したいところだが、そのままでもいいような気もする。

「小野寺さん、わからないことがあったらなんでも聞いてね」

坂野さんは変わらず優しく笑いかけてくれる。

わからないことはたくさんあるが、何よりもあの金色の髪の彼のことが気になって仕方ない。

「では……一つだけ、聞いてもよろしいでしょうか……?」

坂野さんと東雲さんは固まってしまった。どうしてかわからず、私は二人の表情を交互に見る。

すると、東雲さんが笑いだした。

クールなイメージだったため、思わず東雲さんの笑顔に驚いてしまう。

「自己紹介のお辞儀の時点で礼儀正しい子だなとは思ったけど、まさかここまでとは」
「小野寺さん、私たち同い年なんだから、敬語は使わなくていいんだよ?」

そんなことを言われても、常にそうしていなければならなかったせいで、どうすればいいのかわからない。

「ありゃ?困らせちゃった」

坂野さんこそ困ったような表情をし、東雲さんはさらに声を出して笑う。

「少しずつ慣れていけばいいさ。それで?何が聞きたいの?」

笑いながら目に浮かんだ涙を指で拭いながら聞かれた。

金髪のあの人の名前はたしか、笠木だったはず。

「金色の髪をした、笠木さんという方についてなのですが」

東雲さんの動き、表情が固まった。坂野さんも戸惑っているように見える。

言ってはいけないことを言ってしまったのだろうか。

「あー……なんで?」
「今朝偶然見かけ、どのようなお方なのか、気になりまして」

二人は互いに顔を見合わせた。

「どんな人って言われても、全然関わったことないし……」
「いい噂も聞かないよね」

二人が浮かない顔をしていた理由がなんとなくわかった。

「それで構いません。教えてください」

初対面なはずなのに、私をいいところのお嬢様と言っていたのが、気になって仕方なかった。

どうして彼は、私がお嬢様だと知っていたのだろ。もしかして、彼も私のように身分を隠しているのかもしれない。

「……まず、授業は全部寝る。夜は高校生がいたらいけない場所にいる」
「見た目もなんだか近寄り難いよね」

たしかにあの見た目では、誰も近寄りたくないと思うだろう。

東雲さんの噂は、信じたくない反面そのような気がしていた。

笠木さんはいわゆる、不良。

初めて会ったときに登っていた木も、本当は登ってはいけないものなのではないだろうか。

彼は、ルールを守らない人、なのか。

「私たちが知ってるのはこれくらいかな」
「ありがとうございます」

笠木さんがどのような人なのかだけしかわからず、私のように身分を隠しているかまではわからなかった。

だからといって、それを顔に出すわけにはいかない。二人は最初によく知らないと言い、それでも構わないと言ったのは私だ。

文句を言っていいわけがない。

「でも……関わることはオススメしないよ?」

あの先生と同じことを言われ、思わず顔を顰めてしまった。

坂野さんはそんなつもりで言ったわけではないと、わかっているのに。
坂野さんは目を泳がせた。

しまった、と思っても遅かった。

「いや、ほら……高校生が行ったらいけないところに連れていかれたりしたらいけないし、なんか薬も飲んでるって聞いたから……」

坂野さんが心配して言ってくれたのだとわかっても、一度生まれた感情が消えてくれない。

しかし、これ以上坂野さんに罪悪感を抱かせないためにも、笑顔を取り繕う。

「心配してくださり、ありがとうございます」
「ううん。なんか、ごめんね」

それからお互いに気まずくなったまま、一時限目の古典の授業が始まった。

授業が終わり、教科書をしまっていたら、坂野さんが振り返った。

「小野寺さん、一緒に移動しよう?」

さっきの気まずさがまるでなかったかのように、明るく提案してくれた。

坂野さんの机の上には生物の教科書が置いてある。生物室の場所がわかっていなかったため、この誘いはとても助かる。

また迷子になるところだった。

「……はい」

私も立ち上がり、生物の教科書と筆箱、ノートを両手で抱える。東雲さんは出入り口付近で私たちを待ってくれていた。

私だけが気まずさを未だに引きずり、二人から一歩後ろを歩く。

だけど、二人はときどき私に話しかけてきた。そのたびに私は上手く笑えなかった。

自分のダメな部分が浮き彫りになり、俯き気味に歩いていたら、視界の端に金色の髪がちらついた。

まさかと思って右を向くが、目の前にはガラス、そして中庭を挟んで校舎があるだけで、笠木さんの姿はない。

見間違い、だったのか。

「小野寺さん?どうしたの?」

私が立ち止まったことに気付いた二人が、不思議そうに私を見ている。

「いえ……なんでもありません」

笠木さんを見かけたかもしれないと言えなかった私は、空いてしまった二人との距離を縮める。

生物室に着くまで何度も話しかけてもらっていたのに、さっきのことに気を取られ、余計に曖昧な返ししか出来なかった。

その授業が終わると、お手洗いに行くと嘘をつき、笠木さんを見かけたと思った場所に行った。

一度は気のせいだと思ったが、授業中ずっと気になっていて、確認することにした。

そこには階段があるが、この校舎にこれ以上階はない。つまり、今目の前にある階段は屋上への階段ということになる。

妙な好奇心に駆られ、一段足を踏み出す。

「おいおい、ここは立ち入り禁止だぞ、お嬢様。もしかしてまた迷子か?」

上から声が聞こえてきて、ゆっくりと見上げる。そこにはやはり、笠木さんがいた。

「また固まった。もしかして俺に惚れた?」
「ち、違います!」

慌てて否定すると、笠木さんは声を殺して笑った。
「冗談だよ。そんな必死に言わなくてもわかってるから」

冗談だとわからず否定した自分が恥ずかしい。それも、少し声を荒らげるように言って。

普段であれば、こんなことは絶対にないから、余計恥ずかしい。

「お嬢様はもっとおしとやかな人だと思ってたけど、違ったみたいだな」

やっぱり笠木さんは私のことを知っているらしい。だけど、私は彼と会った覚えがない。

しかしそんなことよりも、彼に言っておかなければならないことがある。

「あの、お嬢様と呼ぶのはやめていただけませんか?……隠しているので」

笠木さんの顔が固まってしまった。と思えば、唐突に声を出して笑い出した。

「無理だって、お嬢様。身分を隠しても雰囲気は隠せない」

そう言われて、東雲さんと坂野さんの言葉を思い出した。

『お辞儀の時点で礼儀正しいと思った』
『敬語は使わなくてもいいんだよ?』

「思い当たる節があるって感じだな」

何か言い返そうと思ったのに、言葉が出てこない。ゆっくりと視線が落ちていく。

「まあいいや。お嬢様って呼ばなきゃいいんだろ?」

私は小さく頷く。

足音だけで笠木さんが降りてくるのがわかる。そして何も言わずに私の横を通り過ぎていった。

「あ、あの!」

特に言うこともないのに、笠木さんを呼び止めてしまった。笠木さんは足を止めて振り向く。

私の言葉を待ってくれているとわかっているのに、何も言えない。

「もう少し……お話、できませんか……?」

笠木さんは黙って私の顔を見てくる。その視線から逃げるように、顔を背ける。

「迷子になるなよ」

その言葉が聞こえて、顔を上げる。置いていかれないように、笠木さんの背中を追った。



笠木さんから一メートルほど距離を取って歩きながら、三限の始まりを告げるチャイムを聞く。

「転校初日で授業サボりだって。俺が怒られそ」

笠木さんは笑いながら言った。背中しか見えなくて、その笑顔を正面から見たいと思った。

誰かに対してそんなことを思ったことなどなかったから、自分が自分ではないような気がしてなんだか気持ちが悪い。

幸い誰の目に触れることもなく、今いる校舎の一階に降りた。階段を降りてすぐ右手に保健室があり、笠木さんはそこのドアを開けた。

「いらっしゃい、玲生(れお)くん。最近はどう?」
「まあまあだな。いつも通り」

笠木さんが返事をしたということは、玲生は彼の下の名前なのだろう。

養護教諭の先生とそんな挨拶を交わしながら、中に入っていく。体調が悪いわけではないのに保健室に入ることに抵抗があった私は、出入り口付近で動けないでいた。

「入れば?」

そんな私に、笠木さんはただ一言だけ言った。

恐る恐る保健室に入ると、笠木さんはドアを閉めた。保健室には長い髪をサイドでまとめ、白衣を身にまとった先生がいる。

「見かけない顔?もしかして、転校生?」
「はい。小野寺円香です」

名乗ると、先生は口に手を当てて、小さく笑った。
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ」


ただ挨拶しただけなのに、また緊張していると言われてしまった。


汐里(しおり)さん。これ、この人の通常運転だから」


笠木さんは両手を上げて体を伸ばしながら、ベッドの方に歩いて行った。


笠木さんも先生を下の名前で呼ぶということは、二人は相当仲がいいらしい。


「なるほど、礼儀正しいのね。玲生くん、見習ったら?」


笠木さんは鼻で笑った。


「冗談。生きたいように生きるのが俺の座右の銘だから。堅苦しいのはごめんだね」


笠木さんは一番窓際にあるベッドに腰掛けた。
空を見上げてため息を一つつくと、流れるように私の顔を見た。


私は彼の視線から逃げることも出来ず、両手で抱えていた教科書の角を強く握った。


「……なんで黙ってんだよ。話したかったんじゃねーの?」


そう言われて、思い出した。
私は彼と話がしたくて、授業をサボり、体調が悪いわけでもないのにここに来たのだった。


咄嗟に声をかけたときは何も思い浮かばなかったが、ここに来るまでに一つだけ、話したいことができた。
話したいことというより、聞きたいことのほうが相応しいかもしれない。


「どうして私のことを知っていたのですか?」


質問をすると、笠木さんはまた窓の外を眺めた。
そしてそのままベッドに体を投げた。


聞いてはいけないことを聞いたのではないかと、内心焦る。


「たまたま。偶然。見かけた。……ご満足いただけました?」


そんな適当な。


寝転んだまま右手で頬杖をつき、私の目を見てくる。
納得がいかない私は首を横に振る。


「玲生くん、どうしてそんな意地悪なこと言うの。ちゃんと教えてあげなさい」


先生は笠木さんの投げやりな態度を注意した。


笠木さんは少し固まって、亀のような動きで枕に顔をうずめた。


「……知らねー」


こもった声だった。
隣で先生が呆れた表情を見せる。


「もう、本当子供なんだから。ごめんね、小野寺さん」
「いえ……」


先生に謝られると思っていなくて、空返事をしてしまった。


「せっかくだし、少し休憩していかない?」


先生の笑顔は、とても優しく、落ち着くものだった。
不思議と、もっとここにいたいと思った。


初めからある抵抗心のせいか、ぎこちない頷きになってしまった。


先生は冷蔵庫からお茶を取り出し、二つのコップに注いだ。
一つは円形のテーブルに置き、もう一つは笠木さんが横たわるベッドのそばにある小さな台に置いた。


「どうぞ?」
先生に促されて、コップが前に置いてある席に座る。透明のプラスチックで桃色の水玉模様がデザインされたコップは、とても可愛らしい。

先生は自分の机に置いていたカップを取ると、私の左斜め前に座った。

「コーヒーは?」

先生が話始めるより先に、笠木さんの声が聞こえてきた。起きてコップの中身を確認して、不満そうにしている。

「そんなものありませんー。いつも言ってるでしょ?」

先生は笠木さんに向けて舌を出す。

「じゃあ、汐里さんが飲んでるのは?」
「紅茶」

先生が答えると、笠木さんは綺麗に舌打ちをした。そしてコップに手をつけることなく、また横になった。

「お二人は仲がいいのですね」

私の知っている教師と生徒の距離感には見えない。

「玲生くんは私の従弟だからね」

二人の距離の近さも、腑に落ちた。従弟ならば、下の名前で呼び合ってもおかしくない。

「私からも質問していい?」

肯定の意味を込めて頷く。

「どうしてこんな中途半端な時期に転校してきたの?」

コップに伸ばしていた手が止まった。先生の表情を伺うと、少し首を傾げられた。

現在は十月初旬で、誰だってそう思うだろう。それは多分、ちょっとした興味で聞いているはずで、適当に嘘で誤魔化してしまえばいい。

だが、変に間を作ってしまったせいで、先生から笑顔が消えた。

「悩みごとがあるなら、聞くよ?玲生くんがいて話しにくいって言うなら、追い出すし」
「笠木さんはお休みになられているのでは……?」

笠木さんのほうを盗み見しながら、小声で尋ねた。

すると先生は立ち上がり、ベッドの横に立った。しばらく笠木さんを見下ろすと、私のほうを向いて笑った。

「寝てないし、今日は体調もよさそうだから、大丈夫。気にしないで」

いくら養護教諭とはいえ、そんな一瞬で判断されては、逆に気を使ってしまう。

「いえ、私のことは大丈夫です。笠木さんを休ませてあげてください」

なんて、本当は授業をサボろうと寝たフリをしているだけかもしれないが。

だが、笠木さんが本当に体調が悪いかどうかは、今はどうでもよかった。私はただ、自分のことを話さなくていい理由がほしかった。

「そう?じゃあ、話したくなったらいつでも来てね」

先生はそう言いながら、自分の机に戻った。
一枚の紙を取ると、右手にペンを持ち、何かを書き始めた。

それを持って、私の前に立った。

「体調悪くなくても、心の調子が悪いときだってあるもんね」

さっき書いていた紙は、保健室利用証明書だった。私の名前まで記入してある。

利用理由は頭痛と記されている。

わざわざ嘘を書いた先生の顔を見る。人差し指を唇に当てている。

「誰にでもするわけじゃないから、ヒミツね」

この場合の誰でも、というのは普通に仮病で来た人にはやらないということだと思う。

いや、普通こういうことはしてはいけないだろう。

それでも、この行為が私の心を少しだけ軽くしてくれた。

逃げ場があるというのは、これほど安心できることなのかと思った。
特に話したわけでもないのに、私が悩みを抱えているとわかった先生を尊敬する。

私は受け取った紙を無駄に大切に持ち、お辞儀をして保健室を後にした。

しばらくして笠木さんと満足に話せなかったこと、先生に出してもらったお茶を飲まなかったことを後悔したが、戻ることも出来ずに後ろ髪を引かれる思いで教室に向かった。

後ろのドアを開けて入ると、その近くの生徒、先生が私に注目した。なるべく音が出ないようにドアを閉め、教卓まで歩く。

その途中に居眠りをしている生徒以外が私に視線を向けてくる。

「遅れてすみません。保健室に行っていました」

その言葉とともに、嘘の利用証明書を渡す。先生が読んでいる時間は、バレてしまうのではないかと、心臓の音が大きくなっていく。

「大丈夫なの?」

それを受け取った先生は、心配の目をしている。

悪いことをしたと自覚はあるが、気付かれなかったことに安堵する。

「……はい」
「無理はしないでね」

それ以上は何も言われず、自分の席に戻った。私が椅子に座ると、英語の授業が再開した。

授業が終わると、早速坂野さんが声をかけてくれた。

「小野寺さん、保健室に行ってたの?大丈夫?」
「は、はい」

彼女に嘘をつくことに抵抗があり、自分でもわかるくらい、下手な作り笑いをしてしまった。そんな私の右頬に、誰かが指をあてた。

「慣れない環境に来たから、体調崩したんでしょ」

東雲さんだ。私は右手で頬をさすった。

坂野さんはそれを冗談として受け取らず、本気で心配そうに見てくる。

罪悪感が顔を出してくる。

「そっか……あ、さっきの授業のノート見る?」

坂野さんは机の上に開いたままにしていたノートを閉じた。

「では、お借りしてもよろしいですか?」

そして笑いながら私のほうに差し出した。

「もちろん。なんだろう、小野寺さんの話し方、くせになりそう」
「わかる。なんかね」

私には理解できないことで、二人は顔を見合わせて笑っている。私は戸惑いながら、坂野さんのノートを受け取る。

「あの……返すのは明日でも問題ありませんか?」
「うん?全然いいよ」

坂野さんはどうして私がそんな質問をするのかわからないのか、首を傾げながら許可してくれた。

「てか、英語だけで大丈夫?」

東雲さんのそれで、坂野さんはさっきの私の質問を理解したのか、納得したような顔をしている。
東雲さんの言う通りで、いくつかのノートを貸してほしいと言おうとした。

「まあ、貸してって言われても、授業中寝てる私のノートなんて貸せないんだけどさ」

それよりも先に、東雲さんが笑い飛ばした。
私も坂野さんも拍子抜けし、苦笑する。

「もう、瑞希ってば、どうしてそんなに」
「はいはい、不真面目で悪かったね。自分に正直なんだよ」
「眠気に負けること?」
「いいや、勉強したくないこと」

坂野さんは顔を顰めた。

そんな二人のやり取りが微笑ましくて、思わず笑みがこぼれた。

すると、二人は私の顔を凝視した。

「小野寺さんが笑った……」

驚いているような、感激しているように見える。

「わ、私だって笑いますよ……?」

自分で言いながら自信がなくなったのは、最近心から笑った記憶がないからだ。

「なんていうか、笑ってはいるんだけど、作り物感があったんだよね」

自分に正直だと言っていた東雲さんが言うのだから、それだけ作り笑いをしていたのだろう。

その自覚はあったが、相手にわかりやすいほどだったとは思っていなかった。

環境が変われば少しずつ変われるのではないかと思っていたが、そう簡単にことは進まないらしい。

「えっと……私、悪いこと言った?」

今度は東雲さんを不安にさせてしまった。さっきから二人と話しては、不快な思いにさせている。

何を言っても失敗に繋がってしまうような気がして、ますます何も言えなくなる。

気まずい空気が流れる。

「……なんて、会ってまだ数時間だし、作り笑いとかあって当たり前か。変なこと言ってごめん」

東雲さんの言う作り笑いというものが、どういうものかよくわかった。気まずさが続いてしまう。

そんな状態で、授業が始まってしまった。

せっかく私に声をかけてくれる二人と、どれだけ雑談をしても距離が縮まらない。

私が距離というか、壁を作っているのだろう。寄り添ってくれたところを、瞬間的にシャッターを下ろしてしまう。

授業中ではあるが、窓の外を眺めてため息をつく。

ここに来た一番の原因は、そう簡単には消えてくれないらしい。あのときは環境のせいにしていたけれど、私にも原因があったのかもしれないと思うと、授業どころではなかった。

授業が終わって昼休みになった。

「小野寺さん、一緒にお昼食べよう」

どれだけ不快な思いにさせても、坂野さんは私に話しかけることをやめなかった。

お弁当を持ってきた東雲さんも何も言わないということは、私を歓迎してくれているということだろう。

その誘いを受けたいところだが、楽しい時間を私のせいで台無しにしてしまうような気がしてしまった。

「……ごめんなさい、用事があって……」

私はどれだけ嘘を重ねる気だろう。優しくしてくれる人に嘘をつくだなんて、最低だ。

「そっか、気にしないで。また今度一緒に食べよう」

坂野さんの笑顔から逃げるように、弁当箱を持って教室を出る。