母さんの指を叩き落とす。
それなのに、母さんは笑っている。
「そんなこと気にしてたの?玲生は小さかったんだから、仕方ないよ」
仕方ない、で済ませられる母さんは本当に尊敬する。
子供に死にたいとも取れるようなことを言われて、平気なはずないのに。かなり苦しんだはずなのに。
「私は今、玲生が生きようとしていること、私と旅行してくれてることが嬉しくて嬉しくて泣きそうなんだから」
信号が青になり、車は進む。
母さんの言葉に、俺が泣きそうになる。気付かれたくなくて、窓の外を眺めた。
「……大袈裟だよ」
照れくさくて、それはとても小さな声だった。
「ん?なんか言った?」
「ううん、なんでもない」
すると、ポケットに入れているスマホが振動した。取り出してみると、汐里さんから電話がかかっている。
「玲生くん、なんで退院したって教えてくれなかったの!?」
思わずスマホを耳から話してしまいたくなるくらい、大きな声だった。
「ごめん」
「それで、今どこにいるの?」
俺は母さんを盗み見る。また歌を歌っている。
そんな母さんを見ると、心の中の闇のようなものが消えていく。
「母さんとドライブ中」
俺はそれだけを言うと、一方的に電話を切った。なんとなく、この楽しい空気を邪魔されたくなかった。
旅館に着くと、そこは自然の中だった。
窓からの景色は山で、緑一色だ。
「車で一時間くらいでこんな景色が見れる場所があったんだな」
「綺麗だね」
俺と並んで外を眺める母さんが微笑んだ。その横顔を見ると、泣きそうになる。
俺はこの笑顔を、どれだけ見ていなかったんだろう。
「来てよかったね」
「……そうだな」
感情を押し殺そうとしていたせいで、機嫌が悪いと思われるような言い方をしてしまった。
母さんは心配そうに俺を見る。
「いや、本当に来てよかったよ。ただ……母さんのことを考えてなかった自分を反省してただけだから」
すると、母さんは俺の髪をぐしゃぐしゃにした。
「もう、またそれ?私は、毎日を楽しそうに過ごしてる玲生が見れて幸せだったんだから、気にしないの」
母さんは俺から手を離す。
「でも本当は、その楽しかった思い出を話すくらいはしてほしかったかな」
母さんは寂しそうに笑う。
俺はずっと、自分が楽しければいいと思っていたから、その日あったことを母さんに話す、なんてこともしてこなかった。
それをしていたら、母さんのこの悲しそうな笑顔を見る回数は少なかったのかもしれない。
「玲生が何をして、何を感じたのか、共有したかった。玲生の楽しい記憶をわけてほしかった。それだけで、よかったんだよ」
母さんは俺の背中を軽く叩き、窓辺から離れた。座椅子に座ると、お茶を淹れる。
「仕事ばっかりで家にいなかったくせに、何言ってんのって思われるかな」
俺はポットのボタンを押す母さんの手に、自分の手を重ねた。急須を受け取り、お茶を淹れる。
「そんなことない。俺は母さんに感謝してるよ」
淹れたてのお茶を母さんに渡す。
「産んでくれてありがとう」
母さんはまっすぐ俺を見る。そして口元を抑え、声を殺して泣いた。
静かに泣く母さんの涙があまりに綺麗で、見とれて動けなかった。
母さんの涙が止まったときには、もう日が暮れかけていた。それぞれ露天風呂を堪能し、夕飯を食べることにした。
部屋に運ばれてきたのは刺身としゃぶしゃぶがメインの食事だった。
「玲生、学校は楽しい?」
母さんは刺身に醤油をかけ、一切れを口に運ぶ。それが美味しかったらしく、幸せそうな顔をしている。
「最近世間知らずのお嬢様が転校してきて、結構楽しいよ」
「お嬢様って、お金持ちの娘さんってこと?」
茶碗蒸しを食べながら頷く。
「そんなお嬢様が、玲生の学校に?どうして?」
「さあ?社交場が疲れたとは言ってたけど」
次はしゃぶしゃぶに手を伸ばす。どの料理も美味しくて、箸が進む。
「玲生、その子のこと、気になってるの?」
「冗談やめてよ。交友関係を作っても、恋人は作る気ないから」
その理由は言うまでもない。
母さんは察してくれたみたいで、それ以上お嬢様のことについては言ってこなかった。
◇
目が覚めて、一瞬知らない場所で戸惑ったが、すぐに旅行に来ていたことを思い出した。
今まで自分で金を稼いでやりたいことをやってきたけど、誰かのやりたいことを一緒にやるのも、悪くない。
浴衣から持ってきていた服に着替え、顔を洗う。その途中に母さんが目を覚ました。
「おはよー……」
母さんは目を擦りながら洗面所に来た。母さんが顔を洗えるように少しずれる。
「おはよ、母さん」
お互い顔を洗い終えると、旅館を出る支度をする。
「次はもうちょっと遠くに行ってみたいね」
母さんはまた窓の外を眺めている。背中しか見えなくて、どんな気持ちで言っているのかわからない。
「……そうだね」
俺がもっと元気だったら、遠くに行くことも、長く寝泊まりすることも可能だ。
でも、俺がいつ体調を崩すかわからないから、今回みたいな旅行になった。
それでも楽しかったから、俺は満足だ。
「そうだ、汐里ちゃんにお土産買って帰ろうよ。何がいいかなあ」
振り返った母さんは笑顔で、俺は少し安心した。
俺たちはチェックアウトの準備をして部屋を出ると、旅館にある売店でお菓子を買った。
「これからどうする?どこか行く?」
車に乗ると、母さんはシートベルトをしながら聞いてきた。
「母さんはどうしたい?」
俺は母さんとゆっくり過ごすのも、どこかに出かけるのも、どちらでもよかった。
だから聞き返したが、母さんはそれが気に食わなかったらしい。
「玲生がやりたいことやろうよ」
「じゃあ……もう少し母さんとどこかに行ってみたい、かな」
ゆっくりする時間は、多分これからいっぱいある。母さんと出かけるのは、きっと、今しかできない。
「了解。どこがいいかなあ」
母さんは楽しそうに、この旅館の近くに何があるのか調べる。俺もスマホを取り出して検索してみる。
「いいところありそう?」
すると、母さんが俺の隣に座って画面を覗き込んできた。
母さんも見つけられず、探すのを諦めたらしい。
「微妙」
「じゃあ、いいところがないか、女将さんたちに聞いてくる」
母さんは車を降りて、旅館に戻っていった。
「この近くに商店街があって、コロッケが美味しいところがあるんだって。行ってみる?」
母さんはすぐに戻ってきた。
「いいね、コロッケ」
歩いて行けるということで、旅館側に許可を取り、車を置いて商店街に向かう。
「ねえ、玲生。昨日少し考えたんだけど……」
亀のようなスピードで歩いていたら、母さんが急に言った。
「恋人は作らないにしても、好きな人がいるくらいはいいんじゃないかな」
いろいろと話した中で、その話題の続きをされるとは思わなかった。
「……なんで?」
「好きな人がいるってだけでも、世界が変わるもん」
そう言って母さんは、学校でよく見かける女子と同じように楽しそうだ。
「……つまり、お嬢様を好きになってもいいと?」
二、三回首を縦に振られた。
「別に、そのお嬢様じゃなきゃいけないってわけじゃないけどね」
どう答えていいか迷っているうちに教えてもらった揚げ物屋に着いた。本当に近かった。
コロッケを二つ注文し、揚げたてを受け取る。
それを食べているときも帰るときも、母さんの言葉が頭から離れなかった。
商店街を歩きながら母さんが話しかけてきたが、どれも曖昧に返してしまった。
俺は、誰かを好きになると、相手に何かを求めてしまうような気がして、怖くてそういうことには関わらないようにしてきた。
相手が自分の想いに応えてくれたら、相手も同じように俺のことを好きになってくれたら、先にいなくなってしまう俺は、相手を残してしまう。
きっと、深く傷つけてしまう。
俺は、それが嫌だ。
「……玲生、私が言ったこと、気にしてる?」
車で帰っているとき、母さんが俺の様子を伺うように聞いてきた。
「……怖いんだ。誰かを好きになるのが」
言葉にすると、その恐怖が明確になって、声が震える。
「中途半端に誰かを好きになることはできない。かと言って、真剣に好きになったら……欲が出そうで……もっと生きたいって」
堪えきれずに涙が落ちる。まさかこんなことで泣くとは思ってなくて、自分で驚く。
「ずっと、後悔しないようにっていろいろしてきた。それが、全部無駄になるような気がするんだ」
全部言ってしまうと、少し気持ちが楽になった。指で涙を拭う。
「……玲生は、いい子だね。自慢の息子だ」
今の話でどうしてそうなったのかわからない。
「これは私が勝手に思ってることで、また玲生を苦しめるかもしれないから、聞き流してほしいんだけど……」
聞き流してほしいと言われると、できないような気がする。
「玲生がやりたいことを後悔しないように、自分の力でやっているところを見てると、私は玲生が死ぬ準備をしているように思えるの」
本当に聞き流せない。
たしかに後悔しないような生き方をしようって決めてるけど、それが死ぬ準備をしているつもりはなかった。
でも、そうか。他人から見ると、そう思うのか。
「だから、玲生がもっと生きたいって思ってくれるなら、やっぱり好きな人を作ってほしいなって、思っちゃうな」
それを最後に、お互い黙ってしまった。
どこかに寄る気分にもならなくて、まっすぐ帰ったから、家に着いたのは昼前だった。
インスタントラーメンを食べると、俺は自室にこもった。
ベッドに仰向けになって寝る。カーテンが開いていなくて、電気が付いていない部屋は、昼でも薄暗い。
黙って天井を見つめていたら、いつの間にか眠ってしまっていた。
母さんに夕飯ができたと起こされ、食卓に向かう。
「おはよう、玲生くん」
そこにはなぜか汐里さんがいた。
「恵実さんと旅行に行ってたんだって?学校サボって悪い子だなあ」
「お土産を嬉しそうに食べてる人には言われたくない」
「む。可愛くなーい」
汐里さんは俺に向けて舌を出した。
「ほら、二人とも仲良くね。汐里ちゃんには本当に感謝しなきゃいけないんだし」
母さんは料理を並べている。
それを言われると、俺は何も言えないじゃないか。
汐里さんが養護教諭をしているのは、俺が学校に通っているからだ。いつ体調が悪くなってもフォローできるように、と。
でも、汐里さんに感謝はしてるけど、それとこれは話が別だろう。
「でも、元気そうでよかったよ。電話かけても切られちゃったし」
「悪かったと思ってるよ」
反省はしてないが。
「学校は来れそう?」
汐里さんは誰よりも早く、母さんの料理に手を伸ばした。
「……また倒れたりしたら嫌だし、今週は休もうと思ってる」
「ま、私もそれがいいと思うよ」
野菜炒めを口に含んで、幸せそうに笑った。
そして俺たちは三人で食卓を囲んだ。
◇
二日後の夕方、俺はスマホのバイブ音で目が覚めた。
あの日から、俺はほとんどを寝て過ごしていたのだ。
電話をかけてきたのは、汐里さんだ。
「……はい」
「玲生くん、ごめん!」
寝起きでいきなり大声を聞くのは、機械越しでもきつい。
すっかり目が覚めて、体を起こす。
「ごめんって、なにが?」
日が暮れた部屋は、電気をつけないと何も見えないくらい暗くなっていた。ベッドから降りると、電気のスイッチを押す。
「小野寺さんたちに、病気のことバレたかも」
「……は?」
汐里さんの言葉を、冷静に考える。
小野寺さん。つまり、お嬢様か。
バレたって、なにが?病気?それは、俺の?
「……なんで?」
「今日、小野寺さんがなんで玲生くんが学校に来ないの?って聞きに来て、いつも通り、恵実さんのお見舞いってことにしたんだけど……」
それは、俺が頼んだことだった。俺の休む理由聞いてくる人はいないだろうけど、病院で俺を見かける人はいるかもしれない。
だから、もし聞かれたらそういうことにしてくれ、と。つまり、病気のことは隠したかった。
そう、頼んだはずなのに。
「高校に通うことが玲生くんの夢だったって話したら、いろいろあって、玲生くんは病気なの?って」
そのいろいろが聞きたい。そもそも、どうして俺が高校に通うことが夢だったっていう話になったんだ。
いや、一つも間違っていないが。
入院が長引いたりすると、学校に通うことが出来ない日が多くなっていた。
俺は学校は嫌いじゃなかったから、少しでも長く学校にいたくて、無理を言って今の学校に通っている。
それを、汐里さんは知っていた。
「私……違うって言えなかった」
そこは言ってくれ。
「……嘘つくのが嫌だったとか言わないよね?」
母さんが入院しているってことは間違いなく嘘だから、その理由はありえないだろうけど。
「そうじゃなくて……」
汐里さんは否定したが、なんだか泣きそうな声に聞こえた。
俺の声、そんなに怒っているように聞こえたのか?いや、だとしてもそれくらいで泣くような人ではないはずだ。
「……玲生くんが病気じゃないって、私がそう思い込みたいってことなんじゃないかって……」
それを聞くと、汐里さんのことを責められなくなった。
病気じゃないなんて、俺だって思いたい。
嘘だって。本当はもっと長く生きられるって。
病は気からと聞くが、そう願うだけで病が治るなら、どれだけいいか。
なんて、あの言葉は悪化させないように、ポジティブに考えろって意味だろうけど。なにより、それで病気が治れば、医者はいらないということになってしまう。
……いや、今そんなことはどうでもいいんだよ。
「そう思ったら、玲生くんが病気じゃないって、嘘つけなかった」
何を言っていいのかわからなくなって、ドアに背中を預けて床に座る。
言える嘘と、言えない嘘。
そんなこと、考えたこともなかった。
俺が頼んでいたせいで、汐里さんをさらにつらい思いをさせてしまったのか。
「汐里さん、ごめんね」
「え?どうして玲生くんが謝るの?」
たしかに、今の話の流れで俺が謝るのは変だったな。
「あ、でも、肯定したわけでもないの。ただ、黙ってただけで……だから、本当にバレたかどうかはわからない」
それを聞いて、汐里さんが最初にバレたかもって言った理由がわかった。
疑われているだけだとわかって、少し安心した。
それなら、約束を破ってない。
「俺が病気だって断言してないなら、いいよ」
「本当?玲生くん、怒ってない?」
電話越しなのに、汐里さんがどういう表情で言っているのか簡単に想像ついた。
それがなんだかおかしくて、笑ってしまった。
「怒ってないよ。お嬢様に何か聞かれたら、俺が誤魔化すから」
お嬢様は俺が病気かどうかなんて、どうでもいいかもしれないが。
もしものためにも、適当な嘘を考えておいたほうがよさそうだ。
「それが……小野寺さんだけじゃなくて、小野寺さんと同じクラスの、坂野さんと東雲さんも……」
汐里さんの声は小さかった。今度こそ怒られると思ったのか。
しかし俺は呆れてため息が出る。
坂野と、東雲か……なんて、名前だけ教えられてもどこの誰だか知らないが。
「……報告どうも」
俺は電話を切り、電気を見上げる。
面倒なことになりそうだ。
週末明けの月曜日、早めに学校に行き、昇降口で笠木さんを待つ。
来なかったらどうしようとか、遅刻気味に来るのではとか、不安点はいくつかあったけれど、不思議と待つことは苦ではなかった。
待っている間、何人もの生徒に不審がられたけど、それでも笠木さんを待った。
「あれ、えん?どうしたの?」
遅刻気味にやって来たのは、瑞希ちゃんだった。
「……おはようございます、瑞希ちゃん。今日こそは笠木さんが登校すると聞いていたので、待っていたのですが……」
「来なかったんだ」
頷くと同時に、俯く。すると、瑞希ちゃん以外の靴が目に入った。
「遅刻する気か?お嬢様」
私をお嬢様と呼ぶのは、この学校では一人しかいない。
私は勢いよく顔を上げる。そこには、待ち望んだ笠木さんが立っている。
泣きたくなるほど嬉しくて、笠木さんに抱きつきたい衝動に駆られた。だけど、その思いをぐっと堪える。
「えんはあんたを待ってたのに、その態度はなくない?てか、お嬢様ってなに」
私が笠木さんに声をかけるより先に、瑞希ちゃんが文句を並べた。最後の質問に、私が動揺してしまう。
「言動がお嬢様っぽいからそう呼んでるだけ。お前がえんって呼んでるのと同じようなもん」
汐里先生にはすぐに話してしまったのに、なぜか瑞希ちゃんには誤魔化した。その違いがよくわからないけれど、私は胸を撫で下ろす。
「笠木さん、お元気そうでよかったです。久しくお見かけしませんでしたので」
自然と笠木さんと話せていることに安心する。
「俺は元気だよ。てか、そんなことで待ってたのか」
笠木さんは無自覚だろうけど、優しく微笑んだ。それを見ると、私まで嬉しくなる。
「……はい」
瑞希ちゃんが私と笠木さんの顔を交互に見ている。それが気になってしまい、笠木さんに病気のことを聞くのは諦める。
「瑞希ちゃん、どうかしましたか?」
「笠木が笑ったり、えんがめちゃくちゃ可愛かったりって、頭が追いつかないんだけど」
笠木さんの笑顔が素敵なことは知っていたけど、私のことまで言われるなんて。
正直、ずっと愛想笑いばかりだったから、そう言ってもらえるのは嬉しい。変わっていると言ってもらったようなものだ。
「俺だって笑うことくらいある」
笠木さんは不機嫌そうにそれだけを言うと、上履きに履き替えて行ってしまった。
「私たちも教室に行こっか」
「そうですね」
本当に遅刻ギリギリだったらしく、席に着いた瞬間にチャイムが鳴った。瑞希ちゃんと目を合わせ、間に合ってよかったと笑いあった。
休み時間、笠木さんに話を聞きたかったのに、笠木さんを見つけられずに話せずにいた。
結局放課後になり、校舎を歩き回って笠木さんを探す。
「転校してきて結構経つのに、また迷子か?」
頭上から笠木さんの声がし、当たりを見渡す。笠木さんはどこにもいない。
だけど、そこは笠木さんと初めて出会った場所で、まさかと思い木の下に移動する。
「そこにいらしたのですね」
「なんだ、俺を探してたのか」
笠木さんに手で少し離れるよう言われ、何歩か後ろに下がる。私がいた場所に笠木さんが降りてきた。
「朝は俺を待ってて、放課後は俺を探して……お嬢様ってのは暇なのか?」
意地悪を言われているはずなのに、目の前に笠木さんがいることが嬉しくて、全く気にならなかった。
「笠木さんにお尋ねしたいことがあるのです」
今は二人きりで、聞きたいことを聞くチャンスだと思った。
だけど、どう質問していいのかわからない。
「……汐里さんに聞いた。俺が病気かってやつだろ?」
はっきり聞くことも、曖昧に聞くことも出来ないと思っていたところ、笠木さんが先に言ってくれた。
私は頷いて、変に緊張しながらその答えを待つ。
「……違うよ」
その返答に喜びを覚えたが、笠木さんの表情があまりに切なそうで、それが信じられなかった。
ちょうど横から風が吹いてきて、髪がなびく。笠木さんの表情は見えにくくなってしまった。
私の髪も風に煽られ、髪を押さえながら俯く。
「……本当、ですか?」
「ここで嘘ついても意味ないと思うけど。でもまあ、お嬢様が俺を病気にしたいなら、そう思われても仕方ないか?」
そういうつもりではないし、むしろ健康でいてほしい。
首を横に振って否定する。
「朝、言っただろ」
笠木さんが私の髪にそっと触れ、私は顔を上げた。笠木さんとの距離の近さに思わず目を逸らす。
「俺は元気だって」
「そう、ですね」
心臓の音がうるさくなっていく。
笠木さんと一緒にいることができて嬉しいはずなのに、どうすればいいのかわからなくなってくる。
それが伝わったのか、笠木さんは手を離してくれた。
「話はそれだけか?」
「はい……あ、いや」
もう少し一緒にいたいと思って引き止めたものの、話す内容がない。それなのに、笠木さんは私が話すのを待ってくれている。
なにか、笠木さんに話したいこと……
「……髪を、染めてみたい……」
笠木さんの金髪が目に入り、そう呟いた。
笠木さんの表情が固まり、そして声を上げて笑った。
「本気か?お嬢様」
自分で言っておきながらなんだが、自分でもそう思う。
「校則違反だけじゃない。家も厳しいだろ」
お父様の怒るところが容易に想像できる。
「……わかってます。言ってみただけです」
髪を染めることで笠木さんに近付けるなんて思っていない。ただ、染めてみたいと思っただけだ。
すると、笠木さんはもう一度私の髪に触れた。今度は毛先で、触れられた感覚はないはずなのに、また心音がうるさくなっていく。
「毛先だけ、染めてみるか」
「え……」
やめたほうがいいと説得されたばかりだったから、戸惑ってしまう。
「やりたいことを我慢するのは、好きじゃないからな。お嬢様が本気でやりたいって思ったなら、染めるのもあり」
笠木さんはいい笑顔を見せてくれる。
「今、校則違反だとか、家のこととか言って反対されましたよね……?」
笠木さんの笑顔が固まる。そして私の髪から手を離し、私に背を向けた。
「それは……あれだ。気のせい」
私が笠木さんの正面に移動すると、笠木さんは目を逸らした。笠木さんの周りを一周して目を見ようとするが、全く目が合わない。
「もう、どうして目を合わせてくださらないのです」
頬を膨らませる。
「お嬢様が可愛くて直視できないのですよー」
「な、何を……!」
私が戸惑っているのを見て、笠木さんは笑っている。なんだか笠木さんの策にはまったような気がして、悔しくなる。
「そんなふてくされるなよ」
いじめてきた本人に言われたくない。
ひとしきり笑ったあと、笠木さんは何かを考えるよう、腕を組んだ。
「お嬢様、金曜の放課後は暇か?」
「……ええ」
なぜそんなことを聞かれたのかわからないまま答える。
「お嬢様が怒られるのはできるだけ避けたい。だから、染めるとしたら、週末だけ」
それを聞いて、すぐに納得した。私のことを考えてのことだったらしい。
笠木さんが私のことを考えてくれていると思うと、無駄に舞い上がる。
「何色がいいと思います?」
恥ずかしくて近寄れないとか思っていたのに、今度は自分から近付いてしまった。
笠木さんの顔が目の前にあり、慌てて下がる。
「ご、ごめんなさい……」
私らしくない行動の連続で、穴があったら入りたい気分だ。
「変わったな、お嬢様」
笠木さんは微笑んでいる。
変わったという言葉が嬉しくて、頬が緩む。
「初めて見かけたときより、笑顔が自然だ」
言われてみると、そうかもしれない。由依ちゃんたちと話すときも、前ほどいろいろ考えていないような気がする。
「……笠木さんの、おかげですよ」
「俺の?まさか。お嬢様が自分から殻を破ったんだ。俺は何もしてない」
あのアドバイスは、笠木さんの中では何もしていないうちに入るのかもしれない。
だけど、あのとき笠木さんの言葉がなかったら、私は今も変われていない。
「きっかけを作ってくださったのは、笠木さんです」