君への愛は嘘で紡ぐ

あれだけ私を見張るようなことをし、自由を奪っておいて、どうやって私を幸せにするというのだろう。

「……無理ですよ」

鈴原さんに対して恐怖心を抱いていたはずなのに、いつの間にかそれは薄れていた。私が口を開いたからか、笠木さんは手を止めた。

私はゆっくりと振り向き、鈴原さんの目を真っ直ぐに見る。少し睨まれているような気がするが、不思議と怖くなかった。

「私は、笠木さんといるときが一番幸せですから」

鈴原さんの顔が歪んでいく。恐怖が蘇り、私はつい顔を逸らしてしまった。

鈴原さんは私の前まで来る。

「今が幸せでも、彼との未来はないんですよ?結婚だってできません。そんな一瞬の幸せのために、長い幸せを捨てる気ですか」

なぜ折れないのか、一ミリも理解できない。

「彼ではお義父さんの会社を大きくすることだってできません」

いや、理解した。

私は立ち上がり、力の限り鈴原さんを押すと、鈴原さんは後ろによろける。

鈴原さんは何が起こったのかわからないというような表情をしている。

「私の幸せは、政略結婚をし、父の会社を大きくすることではありません」

一度お父様と話し合ったからか、妙に落ち着いて伝えられている。

「私は笠木さんとの未来を選びます。鈴原さんとは、結婚しません」

すると、後ろから左手首を掴まれ、私はベッドに座らされた。笠木さんは手を離すと、そのまま片手で私を抱きしめた。

「そういうことだから、帰れ」

怒っているのかと思ってしまうほど、笠木さんの声は低かった。鈴原さんは納得していないように見えたが、病室を出ていった。

乱暴にドアを閉めたのか、大きな音が後ろから聞こえる。

「怖い奴だなあ」

かつて不良だと言われていた笠木さんが言うのがなんだかおかしくて、笑ってしまった。

すると、笠木さんは私を抱きしめていた左手で私の頬を挟んだ。

「お前が言うなって思った?」

右側から顔を覗かせてきた。顔が近すぎて、目を逸らす。

笠木さんの手には力が入っていなかったのか、少し顔を動かしただけなのに、笠木さんの手が離れてしまった。

「……笠木さん」
「ん?」

名前を呼ぶと、とても柔らかい、眠そうな声が返ってきた。

「手術、してください」

断られるとわかっているからか、弱気になっているのが声に現れた。反応が怖くて笠木さんの顔が見れない。

「……なんで?」

肯定でも否定でもなかった。顔を上げると、笠木さんは切なそうに笑っている。

私が言おうとしていることをわかっていて、聞き返してきたのかもしれない。

私が素直に伝えることで、笠木さんをさらに苦しめてしまうかもしれない。

それでも、言わなければ後悔するような気がした。

「笠木さんと、もっとずっと一緒にいたいからです」

笠木さんはそのまま後ろに倒れた。

「……だよなあ」

両腕で顔を隠しているから、なにを思って言ったのかはわからない。

だけど、やっぱり困らせてしまった。
自分では伝えられて後悔はないが、困っている笠木さんを見ると、言わなければよかったと思ってしまう。

「一緒にいるようになって、もっと生きたいって思うようになっちゃったんだよなあ」

それを聞いた瞬間、どうしても表情が見たくて、私は笠木さんの腕を引っ張った。

笠木さんは私の行動に驚いていて、その独り言が本心なのかはわからなかった。

「今の、本当ですか……?」

恐る恐る聞くけど、笠木さんは答えるよりも先に体の向きを変えた。

私が笠木さんの手首を掴んでいたはずなのに、それは簡単に外され、右手を左手に絡めてきた。

笠木さんの優しい目が私を捕える。

「本当ですよ?」

嘘を言っているようには見えない。しかし笠木さんの声があまりに穏やかで、喜びと照れが混じり、複雑だ。

私が反応できないでいると、笠木さんはまた仰向けになった。

「でもなあ……手術したいって言っても、金がないし……」
「父に相談してみますか?」

それは何気なく出てきた言葉だった。だけど、それを言った途端、笠木さんの纏う空気が変わったような気がした。

間違ったことを言ってしまったのではないかと、不安になる。

「友達の親の金で手術したいとは思わねえよ」

拒絶でもされたかと思うほど、冷たい声だった。

笠木さんが寝返りをしてしまったせいで、本当に怒っているのかがわからなくて、余計にどうすればいいのかわからない。

しかしそんなことは関係なく、たったそれだけの言葉だが、私を悲しみに落とすには十分だった。

「友達、ですか……」
「そうでしょ。俺たち、付き合ってないじゃん」

また拒絶されたと思うが、事実だ。お互いに告白をしたわけではないから、交際は始まってすらいない。

「では、お付き合いしましょう」

そう提案すると、笠木さんは一瞬視線を私に向けた。

「そんな理由で俺が付き合う思ってるの?ていうか、そんな閃いた!みたいな感じに言われても」

何も言い返せない。

笠木さんのことは好きで、付き合うことができるならそうしたいが、今は違う。

笠木さんに手術をしてもらうために、そんな提案をした。

どうしてもっとしっかりと考えて話せないのかと、自分を責める。

「第一、娘の彼氏ってだけで手術費出してくれるような人なのか?」

私以上に、笠木さんのほうが冷静だったらしい。お父様を説得できるとは思えない。

だけど、笠木さんが手術をするには、お父様に頼るしかないはずだ。

そのとき、さらに馬鹿げたことを思いついた。

「……娘の夫なら、わかりません」
「……は?」

振り向いた笠木さんの表情が固まっている。

「それ、本気で言ってるのか?」

小声で、不機嫌そうに確認された。

自分でも、そう思う。付き合うことがダメなら結婚、なんて普通に考えておかしい。

「頭がおかしいことを言っているのはわかってます。でも、それしか思いつかないんです……」

笠木さんの反応をそれ以上見ることができなくて、顔を背ける。
ベッドの上に置いていた右手に、笠木さんが手を重ねた。恐る恐る様子を伺うと、少し前の笠木さんに戻っている。

さっきまでの怒られているような状況があったからか、不覚にもときめいてしまった。

「俺と結婚したいって思うくらい、俺のことが好きなんだ?」
「え……」

視線が泳ぐ。

そういう方向性のことを考えていなかったから、どう答えればいいのかわからない。

図星といえば図星だが、素直に言うのは照れくさくてできなかった。

「そう思っていなきゃ、そんな結論は出てこないだろ」

笠木さんはそう言いながら、体を起こした。だけど、目が合わない。

笠木さんは儚げな目をして窓の外を見ている。

「……俺はさ。生きる気なんてなかったから、高校のとき円香さんを突き放したし、自分の気持ちを押し殺した」

笠木さんは視線を落とした。膝の上に置いた手を組み、それを見つめている。

「一生会えないと思っていた人に再会できたのは奇跡に近いし、今隣にいて話しているのは、夢なんじゃないかって思う瞬間がある」
「笠木さん……?」

笠木さんが泣きそうな目をしているから、つい声をかけた。私が呼んだことで、笠木さんは視線を上げる。

やっと、目が合った。たったそれだけなのに、私は胸をなでおろした。

あのままでは、笠木さんがどこか遠くに行ってしまうのではないかと思った。

私の顔を見た笠木さんは、苦笑している。

「そんな泣きそうな顔するなよ」

そう言われても、笠木さんがつらそうにしていれば、私だってつらいし、泣きたくなる。

それが伝わったのか、笠木さんは私の頭を撫でて安心させようとしてくれた。

「ちゃんと最後まで聞け?」

小さく頷く。それからまた手を重ね、お互いに目を合わせた。

不思議と、時間の流れが遅いように感じる。

「円香さんが隣にいてくれるから、俺は生きたいと思った。もっと長い時間がほしいと思った」

笠木さんは私の手を握った。心臓の音がうるさくなっていく。

「これからもずっと、円香さんには俺の隣で笑っていてほしいって思う」

目頭が熱くなる。

「だから……結婚しようか、円香」

笠木さんは真っ直ぐと私を見て強く手を握っているが、耳まで赤くしている。

「はい……!」

私は泣きながら笠木さんに抱きついた。笠木さんはそっと優しく私の頭を撫でていた。
張り詰めた空気で、息を呑む。

「円香……自分が何を言っているのか、わかっているのか?」

翌朝、お父様に笠木さんとの結婚について伝えると、背筋が凍るほど睨まれた。

お父様は朝食の途中だったが、箸を置いた。まだ席に着いていない私は、一歩下がりそうになるのを、必死にその場に踏みとどまる。

後ろに下がれば、逃げたことと同じだ。お父様を説得できなければ、笠木さんは手術ができない。

逃げてはいけない。

「……わかっています」

お父様の顔はより険しくなる。

「わざわざ結婚しなくとも、彼の手術費は出す。それなのに、どうして結婚するなんて言い出したんだ」

誰かを一途に思うことは許してくれても、実際に結婚となると話は別らしい。お父様が怒っているように見えて仕方ない。

「笠木さんが……友達の親の金で手術はしたくない、と……」

声が震える。お父様はため息をついた。

「本人と直接話したほうが早いな」

驚いて口を開けたが、私の声は音にならなかった。お父様が笠木さんに会うと言ったことに動揺して、頭が回らない。

「柳、田崎に予定を調整するよう伝えておいてくれ」

私が固まっていたら、お父様は箸を手にして黙って立っている柳に言った。

田崎さんはお父様の秘書だ。

「……かしこまりました」

その指示に従うことが嫌だったのか、顔を顰めながら返答した。料理をつついているお父様には見えていないが、私からははっきりと見えた。

結婚に一番反対しているのは、柳かもしれない。

そんなことを思いながら、用意されていた朝ごはんを食べた。



お父様が笠木さんに話を聞きに行く時間を田崎さんに聞き、その時間に合わせて病院に行った。

今日は恵実さんが来ていたらしく、非常に気まずい空気になつている。

「えっと……円香ちゃん、この方は……?」
「円香の父です」

私が答えるよりも先にお父様が答え、頭を下げた。それにつられるように、恵実さんもお辞儀をする。

「笠木玲生の母です」

お互いに挨拶をしても、空気は変わらない。

私と笠木さんは、二人を交互に見て様子を伺う。

「それで、どうしてここに?」
「彼の手術費についての話をしに来ました」

お父様がそう答えると、恵実さんは目を見開いて笠木さんを見るが、笠木さんはその視線から逃げるように顔を背けた。

「玲生、どういうこと?手術する気になったの?」
「……まあ、そういうことになる」

笠木さんはどこか曖昧に答える。

だけど、そんなことよりも気になることがあった。

「笠木さん、言ってなかったんですか?」

大切な話で、恵実さんに言わずに手術をすることはできないはずだ。

それなのに、笠木さんはそれを言っていなかったのか。
「……どう切り出せばいいのかわからなかったんだよ」

笠木さんを責めるような空気が流れる。

「玲生、ちゃんと説明して」

恵実さんは無表情で言った。笠木さんに向けられた視線はあまりに冷たかった。

「円香と過ごしたことで、もっと生きたいって思った。だから、手術しようって決めた」

恵実さんは目に涙を浮かべている。今にも笠木さんに抱きつきそうだ。

「でも、金がないだろ?」

その一言で、恵実さんは固まってしまった。

笠木さんはその様子を横目で見る。

「そこで円香が父親に相談しようか?って提案してきた」

恵実さんとお父様の視線が私に向く。

今思えば、随分自分勝手な話だ。親の金で解決させようとしていたのだから、大馬鹿者だ。

「だけど、俺は友達の親の金で手術したいとは思わなかった」
「だから円香と結婚をすると決めたのか」

お父様は笠木さんを睨んでいる。

今の話だけでは、笠木さんがお金を目当てに私と結婚しようとしていることになってしまう。

私は否定しようとしたけど、笠木さんが手をかざして私を止めた。

「家族なら、金を出してもらうことに抵抗がないからだよ」

それは聞いたことのない、笠木さんの本音だった。お金目当てだと言っているように聞こえ、胸が締め付けられる。

「それに、結婚するなら円香しかいないと思ってる。だから結婚を決めた」

優しい表情をした笠木さんと目が合う。

笠木さんは、私が笠木さんの言葉に反応していたことに気付いていたらしい。だから、フォローするように私を見てきたのだろう。

「借りた金は働いて返すつもりでいる」

お父様は不思議そうな顔をして首を捻る。

「家族なら……とか言っていただろう」
「うん……でも、返すよ」

笠木さんが笑顔を返すと、お父様は恵実さんのほうを見た。

「私は二人が結婚しなくとも、手術費を出そうと思います」

耳を疑った。

「彼が生きることで、娘が幸せになるのなら、いくらでも」
「そんな、申し訳ないです」

首を振る恵実さんは、どこか悲しそうに見える。

「私が……頼りないから……」

恵実さんは消えそうな声で呟くと、俯いた。

私は恵実さんの言っている意味がわからなかった。

「違うよ、母さん」

笠木さんはズボンを強く握りしめている恵実さんの手に触れた。

「母さんは俺のために、めちゃくちゃ頑張ってくれてる。でも、頑張りすぎて疲れているところを見るのは、俺がつらい。俺が、これ以上母さんに負担をかけたくないって思ったんだ」

恵実さんは笠木さんの手を強く握り返した。

「私は、玲生のことで負担に思ったことなんて一度もない」

そう言い切ると、小さく深呼吸した。

「玲生が生きたいって思ってくれて、すっごく嬉しいよ」

さっき言えなかった言葉を伝えると、恵実さんは笠木さんを抱きしめた。
笠木さんの頭を撫でながら、一筋の涙を流した。

恵実さんはゆっくりと笠木さんから離れる。

「玲生はお金の心配をしてくれてたみたいだけど、ちゃんと貯めてるよ。玲生が手術したくないって言ってただけで、私は手術受けて欲しいって思ってたから」

一瞬得意げな表情を見せたが、すぐに曇ってしまった。そしてお父様に向かって深く頭を下げた。

「それでも、玲生の手術費には少し足りません。不足分だけ、貸していただけないでしょうか」

お父様は恵実さんの体を起こした。

いつも、冷たい目しか見たことがなかった。お父様は仕事人間で、笑顔なんて知らなかった。

「初めからそのつもりですよ」

だけど今日、生まれて初めてお父様が微笑んでいる姿を見た。そんなふうに笑うのかと、静かに驚いた。

「ありがとう、ございます」

恵実さんはもう一度頭を下げた。

「君は病気が治ったら、うちの会社に来なさい」

お父様に言われ、笠木さんは目を見開いた。

「元不良で、高校中退した人間を雇う気か?」

笠木さんが不良だと言われていたのも、高校を中退したのも、理由があるのに、笠木さんはそれを言わない。

ただ、事実だけを述べた。

「たしかに、君の経歴には問題があるが……娘の婿になるのなら、跡を継いでもらう。厳しくするから、覚悟しておくといい」

私にも向けられたことのない笑顔が、笠木さんに向く。

「おお、怖い」

二人が笑い合っているのを見て、私はどうしてここにいるのだろうと思った。今すぐにでも帰りたい気分だ。

手のひらに爪がくい込むほど拳を握ると、回れ右をした。

「円香」

だけど、すぐに笠木さんに呼び止められた。

「もう帰るのか?」
「……私が来ても、意味がなかったみたいなので」

すると、笠木さんは吹き出すように笑った。今のどこに笑う要素があったのか、さっぱりわからない。

私はさらにふてくされた。

「ごめんって、そんな怒るなよ。俺は円香が会いに来てくれて嬉しいよ?円香がいなかったら、俺はただの嘘つきだったろうし」

なぜ笠木さんが嘘つきになるのかわからなくて、首を傾げる。

「円香を好きだっていうのが演技だって思われてもおかしくなかったんだよ。円香の好意を利用する、最低な男になるところだった」

説明されても、いまいち理解できない。

「笠木さんは素敵な方ですよ?」

わかっていないまま、そう返した。

「いや、うん、そういうことじゃ……まあいいか」

私の頭の中には疑問符が増えるが、そんな私を見て、笠木さんは笑っている。

「えっと……私たちは外で話しますか」

恵実さんが気まずそうに、お父様に提案した。

「そうしましょう」

お父様が賛成したことで、恵実さんとお父様はそそくさと出ていってしまった。
ここに来て、見たことのないお父様ばかりを見ているような気がする。

「そんなにドア見つめてどうした?やっぱり帰りたいのか?」

笠木さんは少し残念そうに眉尻を下げている。

「いえ……父のこと、何も知らなかったんだなと……」

知らなかったと言っていいのだろうか。知ろうとしなかったの間違いではないか。

お父様と衝突することはあったが、私のことを怒るのは私のためではないと思い込んでいた。

いつも会社のことしか考えていないのだと、勘違いしていた。

話してもどうせ聞いてくれない。どうせ、頭ごなしに否定される。

そんなふうに思って、自分の思いを正直に伝えたことがなかった。

「知らなかったってわかったんなら、これから知っていけばいいよ」

笠木さんは穏やかに微笑んだ。

それでいいのだろうかと思ったが、不思議なことに、笠木さんに言われると問題ないように思えてくる。

笠木さんが丸椅子を叩き、私はそれに座った。

「それにしても……まさか本当に金を出してくれるとは思わなかったな」

笠木さんは思い出し笑いをしている。

「でも、結婚は許してくれたかは微妙だな」

言われてみれば、お父様はそれについて言及していなかった。

だけど、なぜか安心していた。

勢いで笠木さんとの結婚を決めたが、先のことなど一切考えていなかった。

「笠木さんは、私と結婚して……後悔、しませんか?」
「しないよ」

即答だった。嬉しい反面、不安は大きくなる。

「ああ、でもそうか。結婚しても、俺が円香を養えるかって言われたら、無理なのか」

笠木さんは思いついたように言った。

お父様に頼れば、お金の心配はしなくてもいい。だが、そこまで甘えるつもりはない。

「俺がちゃんと働けるようになるまで、婚約ってことにしておくか」

笠木さんは笑顔で提案してきた。

反対する理由がなかったため、素直に頷く。

「そうだ、忘れてた」

笠木さんが独り言のように小声で話すから、無駄に緊張する。私は黙って次の言葉を待つ。

「結婚したら苗字が一緒になるわけだから、今のうちに下の名前で呼ぶことに慣れておこう」
「え……」
「この前練習して言えたんだから、あとは慣れるだけだよ」

笠木さんは笑いかけているが、それが悪魔の微笑みに見えてしまう。

「……呼んで、と言われてすぐには……」

呼びたくないわけではない。ただ、どうしても恥ずかしいという気持ちが勝ってしまうのだ。

笠木さんはたしかに、と呟く。

「でも、結構待ったと思うんだけど?」

返す言葉もない。

「……頑張り、ます」
「うん、頑張って」

笠木さん、いや、玲生さんは終始笑顔だった。

私ばかり恥ずかしい思いをしているのは納得いかないが、玲生さんが幸せそうであるなら、こんなに嬉しいことはないと思った。


数日後、玲生さんの手術日が二週間後に決定した。お金はややこしくなるからと、全額お父様が出すことになった。

お父様には一生逆らえないと玲生さんは苦笑していた。

そして私は、奈子さんの家を訪ね、料理を習っていた。

理由は簡単だ。玲生さんが、私の手料理を食べてみたいと言ったから。

しかし、私は生まれて一度も包丁を持ったことがない。食事の時間になると、食卓に料理が並んでいる生活を続けてきたことを、ここに来て悔やむ。

包丁の持ち方から、食材の切り方を一から丁寧に教えてもらった。

私がどれだけ失敗しても、奈子さんは嫌な顔をしたり、怒ったりすることはなかった。

そして今日、ようやく奈子さんの手が加わっていない、私一人で一品作ることができた。

野菜炒めという簡単なものだが、それでも達成感があった。

それを小さな弁当箱に入れ、病院に持っていく。

玲生さんは相変わらず休憩室でほかの入院患者と話していた。

「こんにちは」

私が挨拶をすると、そこにいるほとんどの人が挨拶を返してくれる。

毎日のように玲生さんのお見舞いに来ているからか、みんな私にも優しく接してくれる。

「じゃあ、また。円香、病室行こう」

玲生さんはみんなにそう言うと、手を差し出した。私は自分の手を重ねる。

緊張は常にしているが、もう、手を繋いで歩くことに抵抗はない。

黙って歩いていたら、心臓の音に集中してしまいそうで、何か話さなければと思った。

「あの……野菜炒め、作ってきました」

歩くことに一生懸命だった玲生さんは立ち止まった。疲れが吹き飛んだように、顔が晴れる。

「やっと円香の手料理が食べられるんだな」
「あまり期待はしないでくださいね」

しかし玲生さんの耳にそれは届いていなかった。

ベッドに座ると、玲生さんは子供がご褒美をねだるような目をして見上げてきた。

お弁当箱と箸を保冷バッグから取り出し、ベッドに備え付けられている机の上に置いてから椅子に座った。

玲生さんは両手を合わせる。

「いただきます」

蓋を開けた玲生さんは、目を輝かせている。

「美味しそう」
「本当に、初めて作ったので、自信はないですからね?」

玲生さんははいはい、と私の言葉を適当に流し、箸箱から箸を取り出した。野菜炒めを口に運ぶ。

私の不安は、玲生さんの満足そうな笑顔で消え去った。

「よかった……」

それは思わず口から出てしまい、玲生さんは笑っている。

「美味しいよ」

玲生さんが嘘をついているようには見えなくて、さらに嬉しくなる。

「次も期待してる」
「そんな、やめてください」

私がすぐに言うと、玲生さんは笑った。
「結婚してからの楽しみが増えたよ」

最近の玲生さんは、よく未来の話をしてくれる。それを聞くだけでも、私は幸せな気持ちになる。

「円香は俺としたいこととかないの?」
「私ですか?」

考えてみるが、特に思い浮かばない。

「私は、玲生さんといることができるだけで十分です」

玲生さんは目を見開いたが、すぐに顔を顰めた。

「それはわかってんだよ。ほか、ないの?」
「えっと……」

玲生さんといるだけでいいと思っているのは本心で、玲生さんがやりたいと思うことを叶えたい気持ちもある。

「……玲生さんのやりたいことが、私のやりたいこと、です」
「円香は無欲だなあ」

野菜炒めを食べ終えた玲生さんは、弁当箱に蓋をする。

「俺は円香とやりたいこと、いっぱいあるよ」
「例えば……?」

空になった弁当箱を受け取りながら尋ねる。玲生さんは人差し指を立てた。

「まずは結婚式。円香のウエディングドレス姿が見たい」

結婚式はやるものだと勝手に思っていたから、それが玲生さんのやりたいことだったのは少し驚く。

「二つ目」

そう言いながら、もう一本指を立て、ピースサインを作る。

夢を語る玲生さんがとにかく楽しそうで、私まで楽しくなってくる。

「円香といろんなところに行きたい。いろんなものを見て、経験したい」

理由が玲生さんらしい。

「そして最後」

玲生さんは指を立てずに、まっすぐ私の目を見た。

「俺が退院したら、一緒に住もう」

嬉しさのあまり、一瞬言葉を忘れた。

「どこか一部屋を借りる余裕なんてないから、俺の家か円香の家、どっちかに住むことになるだろうけど……どう?」

私は何度も頷く。

「頷きすぎ」

玲生さんは笑っているが、それ以外どう喜びを表現すればいいのかわからなかった。

「いいね、楽しみがどんどん増えてく」
「ですね」

私たちは笑いあった。

「それで、一緒に住むとしたら俺の家か、円香の家、どっちがいい?」

難しい選択だと思った。

少しずつお父様のことを知り始めているから、ここで離れて暮らすことはあまりしたくない。

だけど、あの家には私たちのことを反対している柳がいる。玲生さんをあの環境で生活させることはできない。

「……玲生さんの家にしましょう」
「俺の家ね。狭いって文句言うなよ?」
「言いませんよ」

少しムキになって返すと、玲生さんは私に疑いの目を向けて笑った。

「何の話をしてるの?」

恵実さんが病室に入りながら質問してきた。

「俺の家で一緒に住みたいねって話してたんだ」

玲生さんが答えると、恵実さんは目を輝かせた。

恵実さんは私のほうに来て、両肩を掴む。