ののかは唯やすみれ、マヤに囲まれて花束を渡された。
「夏休みには札幌に戻れると思う」
横浜の大学へゆくので、簡単には帰れない。
それだけに「新千歳まで見送りに行くから」という声がした。
美波は澪たちから少し離れた位置にいたが、
「来なって」
藤子に手を引かれて寄ってきた。
「美波、ありがとう」
「澪、最後のスピーチ凄かったね」
「みんなにどうしても、自分の言葉で感謝を伝えたかったからさ」
照れ臭げに頭を掻いた。
「でも私、春からもここに来るから」
一瞬、澪はよく分からなかったらしく、随分と不思議そうな顔つきをした。
別に留年じゃないよ、と前置きしてから、
「先生に頼まれて、コーチすることになってさ」
「仕事は?」
「すみれの事務所にアルバイトで雇ってもらうことになった」
澪は黙り込んでから、
「私、美波が東京にいるって思ったから、東京の大学受けたんだよ?!」
泣き笑いしながら美波を小突いた。
「なんで大事なこと言わないの!」
澪は泣きながら美波の肩ををポカポカと叩いた。
「そんな叩かなくたって…サンドバッグじゃないんだしさ」
ジョークも澪の笑いにはつながらなかった。
美波は拝むように、
「澪ごめんってば…でもさ、澪は結局は教育大だから市内じゃん」
「でもキャンパスのそばに部屋借りるから、実家にはなかなか戻れないかも」
澪は少しだけ後悔した顔をした。
「ののかだって結局、医学部諦めたしね」
それでもののかは横浜の私立大学へ進学する。
「来年は大変だよー、ネットに熱狂的なファンがいる藤子が卒業するんだからさ」
藤子のネットファンの熱狂ぶりは少し異常なほどで、
「われらの藤子様」
などと崇拝までしている者さえある。
「藤子がずる賢くなくて良かったわ。あれであざとかったら、間違いなく犠牲者が出るとこだった」
美波の落語みたいな口調に思わず澪は吹き出した。
卒業で離れ離れになるはずなのに、悲しくなかったのは美波のおかげであったかもわからなかった。
新学期。
晴れて入学したあやめとみな穂を加えた、新しいアイドル部九人での活動が始まった。
美波が週末にダンスコーチで来るようにもなり、スケジュールも外部は長谷川マネージャーが管理するようになった。
「前に比べてだいぶスケジュール見るの楽になった」
副部長のポジションになった藤子にすれば、同好会の頃に比べて格段の差であろう。
まずイベントのゲストと、部活動なので応援団的な要素での、他の部活の試合を盛り上げるといった内容が出てきた。
新年度の部活動紹介は盛り上がり、手の空いていたマヤと優海が出て二曲ほど披露しただけであったのだが、見学予約だけで半月待ちになるほど希望者が殺到した。
部長となった唯は、あやめとみな穂の基本練習に付き合っていた。
優海、雪穂、千波、すみれの新二年生四人と三年生になったマヤは、ボイトレを積極的にしている。
新人勧誘は、あえて控えめにしていた。
「瀬良会長がいると、ちょっとね…」
それでも見学者は毎日何人か来るので、
「体験レッスンをして、それで興味のある子だけ誘う」
という方法を取ることにしたのである。
「でも部室は広くなったし」
新学期前に工事で広くなった部室は面積が二倍になったばかりでなく、衣装のチェックも出来るようになった。
グッズ販売も、受注生産販売の形にしたおかげで在庫も少なくて済む。
「アイドルも楽じゃないわぁ」
思わず優海は漏らした。
それでも。
下級生たちの毎日は平和なもので、特にみな穂はいつも部室に本を何冊も持ち込む。
ジャンルも幅広く、与謝野版の源氏物語を読んでいたかと思うと次の日には阿川弘之だったり、さらに氷室冴子やら森鷗外だったり、万葉集の本もあれば魯迅もある。
このときには、海音寺潮五郎を読んでいた。
当然ながら知識は広汎で、
「でも知らないことがたくさんあるから、知りたくなるんだよね」
と意欲だけは強かった。
みな穂の鮎貝家はもともとルーツが仙台で、どうやら指折りの名家であったらしく、みな穂という名前も、
「みなに穂の稔りをもたらし云々」
という江戸後期の書物の一節から採られた。
古くから学者や教授を輩出している家で、みな穂もゆくゆくは学者をめざしていて、アイドルはたまたま社会経験のつもりで入部したらしい。
いっぽうの赤橋あやめはというと、
「ののか先輩みたいに何でも出来るようになりたい」
とダンスやボーカルのトレーニングをするのだが、どれも頭抜けて上手い訳ではない。
みな穂に知識で、太刀打ち出来る訳でもない。
それでも、
「昔の私みたいで、何かほっとけなくって」
と雪穂が気にかけていた。
「もっといろんなチャレンジをしてみたら、何か見つかるかも知れないよ」
かつて自分がそうであったように、雪穂は根気よくあやめと一緒に考えたりもした。
雪穂はあやめを放っておけなかったらしく、
「私もあなたみたいに、ダンス出来なかったんだ」
あやめにすれば信じ難いようなことを言った。
「だけど練習して、ときには優海や唯先輩に助けてもらって、だから上手くなれた。私が出来たんだから、きっとあやめちゃんも上手くなれるよ」
普段の雪穂は、とても穏やかで優しかった。
そんなとき。
雪穂が部室で整理をしていると、ドサッと音がした。
見ると、あやめのカバンから物が散乱している。
「あーあ、もぅ…」
まるで母親のように片付けていたときに、イタズラ書きをされたノートを見つけた。
真っ赤なペンで「不潔」「去れ」「消えろ」など書かれてあり、
「これは…」
雪穂はあやめがいじめに遭っていると直感した。
それとなく藤子に相談してみると、
「私も遭ったし、澪ちゃんも昔されたって」
澪のときには美波がかばってくれたし、藤子自身のときにはアイドル部が人気になったのですぐ消えた。
しかし今回は違う。
「私もあやめちゃんは見ておくから」
雪穂も気をつけて見ててね、と念を押した。
「うん」
この頃は雰囲気の近い藤子、雪穂、あやめの三人は姉妹のように、いつも集まって行動している。
そのため、
「アイドル部三姉妹」
などと呼ばれ、後日談だがこのうち雪穂とあやめはユニットを組むことになる。
何日かしてすみれは、あやめが来ていないことに気づいた。
「確か授業は来てたよね?」
みな穂はうなずく。
「…探してみる」
雪穂は胸騒ぎがした。
ピンときたので図書室の脇の階段を上がり、鍵が開いていたので、ドアを開け屋上に出た。
いた。
あやめは黙って座り込んで、西陽を眺めている。
「…よかった」
たまらず雪穂は後から、
「あやめちゃん」
「雪穂先輩…」
今にも泣きそうな顔である。
(泣かないで)
雪穂は内心思ったが、駄目だった。
みるみるあやめは涙をポロポロこぼし始めた。
「ずっと我慢してたんだね…私たち先輩が気づかなきゃいけないのにごめんね」
雪穂にはそれしか言葉が見つからない。
あやめははじめこそ雪穂の顔を見て安堵したのか、泣きじゃくっていたが、
「…なんでここが分かったの?」
「あのね、実は」
ノートの件を話した。
「別に見たかった訳じゃなくて、落ちたのを片付けてあげてたら見えてしまって。タダごとじゃないのだけは、すぐ分かった」
それで藤子に相談したらしい。
「藤子ちゃんに相談したら、それはいじめだからちゃんと様子見てあげてって」
「えっ…?」
あやめは顔を上げた。
「私たちはあやめちゃんを、一人になんかしないよ」
と雪穂は言った。
「だって、仲間じゃん」
いじめられたら部室に逃げればいい、と雪穂は言い、合鍵を渡した。
「先生や澪先輩だって、仲間は信じるものだって言ってたし」
一年で雪穂は、精神的に成長していたらしかった。
「先生には私から話すから、あやめちゃんは何も心配しないでいいよ」
ようやくあやめは涙が止まった。
しばらく雪穂は、あやめの隣に座って陽の傾きを浴びていた。