合宿も終わりに差し掛かった七夕──北海道は八月七日である──の夜、ミーティングが終わると、
「あの、…ちょっといいかな?」
藤子が手を挙げた。
「どうしたの?」
基本的に藤子は積極的な発言はしない。
人から訊かれれば的確に答えるが、かといって余計なことは言わない。
その藤子が、自分から発言するのは椿事であろう。
「私ね…マネージャーになろうかと思うんだ」
「…マネージャー?」
爆弾発言に一瞬、理解ができなかった。
が。
普段おっとりした雪穂が即座に反応した。
「藤子ちゃん、正気?」
「うん」
冷静に藤子はうなずいた。
ずっと考えていたことらしかった。
「私ね、合宿で気づいたんだけど…タイムキーパーとか事務とかやって、こっちが向いてる気がしたの。それに私、ダンスちょっと駄目になってきてるし」
例の捻挫のあと、藤子は左の足首に違和感を抱えるようになっていたらしい。
「だけどみんなのことが大好きだから、それならマネージャーになろうって」
藤子の言葉の端々には、固い決心が漂っていた。
実のところ藤子には、言い出したら引かない面があって、達観と言えるほどまで俯瞰できるだけに、決めたら動かない頑固さすらある。
黙って、みな聞いていた。
しばし沈黙があったのを破るように、
「…藤子、なんで我慢してたの!」
たまらず唯が叫んだ。
「あんたって昔からいつも、なんで我慢ばかりするの?」
昔からそうじゃない、と唯は、幼なじみらしく小学校の給食でプリンが出たときの話をし始めた。
「ガキ大将にプリン取られて、普通の子なら泣いちゃうようなシチュエーションなのに、藤子ったらうちで食べるからいいよって。ホントは悔しいくせに絶対に泣き言なんか言わない」
逆にそうした藤子だから、アイドル部に安心感と落ち着きを与えていたのかも知れない。
そんな藤子がマネージャーになる…という意味がどれほどであるか、それを唯は、痛いほど分かっていたらしい。
「だからどれだけ、悔しくてつらいかを分かるから…だから…」
抑え切れなくなったのか、唯は目を憚ることをしようともせず、声を放って哭いた。
みな人間が本気で泣くのを、初めて見たような気がした。
翌朝。
「おはよー」
いつものようにさりげなく、しかし気丈に振る舞う藤子に、澪とののかはぎこちない返事しかできない。
澪も思わず、
「好きなことを好きなようにやろうとすると、こんなに苦しいんだね」
あまり弱音を吐かない澪の本心に、ののかは、
「だから達成感が半端じゃないんだよ」
「…えっ?」
澪は向き直った。
「だからさ、私たちは藤子の分まで頑張らなきゃいけないんだって」
ののかは本心を悟られまいとして、つらいときほどわざとおどける癖がある。
しかし今のは本音かもしれない、と澪は感じたのか、
「うん!」
明るく返した。
合宿の最終日、全員で日和山の灯台まで来ると、
「ね、みんなで写真撮ろ!」
澪は清正に、デジタルカメラを渡した。
清正はさらに近くにいた鰊御殿の警備員に、
「すいませんが、シャッターお願いできますか?」
「もちろん」
そうしてメンバー八人と清正で数枚、メンバーだけでさらに数枚撮影すると、
「札幌に戻ろう」
澪はカメラを手に、メンバーと共に坂を降りてバス停へ向かった。
二学期が始まった。
藤子は本格的にマネージャーとして動き始め、
「このときのこのフォーメーションだと最後に位置が合わなくなるから、変えたほうがいいかな」
などと、特に優海、すみれ、雪穂の三人を、唯と二人でサポートするようになった。
「やっぱりマネージャーつけなきゃダメかなぁ」
澪はスタッフの重要性を痛感した。
澪とののかは、今まで上級生として面倒を見ていたのが、受験対策に時間を割けるようになったのも、大きなメリットであった。
「少しでも全国区にならないと、大変だからさ」
そう言って美波は、空いた時間でアルバイトをして交通費を貯め、東京でのオーディションを受け始めた。
「動画アップするだけじゃ、限度もあるしね…」
活動を動画でアップして宣伝をすることを積極的に提言したのも美波で、茉莉江からのアドバイスも借りながら、リラ祭でのライブの様子などをアップロードしていた。
清正も、レシートや会計を藤子に任せるようになり、残業が減った。
「あとは費用やなぁ」
いかにキリスト教系の学校で、寄付金と授業料で賄われているとはいえ、学割などを活用したとて限界もある。
「とりあえず、ライブとかイベントとか営業かけるより他ないわな…」
やはり世の中、金なのであろう。
九月に入ると、体育祭がある。
その体育祭では、一つだけ問題があった。
従来アイドル同好会時代、澪たちメンバーは競技に参加していたのだが、今のように知名度が上がってきていると、
──下手に怪我なんかさせたら何を言われることか。
事実、東京の同じようなスクールアイドルが体育祭で怪我をしたところ、契約しているレコード会社から損害賠償請求が来たというニュースもあって、
「今年からアイドル部は生徒会のサポートに回ってください」
との指示が出たのである。
「いや、普通に参加させてもいいよね?」
というアイドル部の当事者たちの意向が、学校のいわゆる大人の事情という代物にかき消されたのである。
「せっかくの体育祭だったのになぁ…」
美波はガックリと肩を落とした。
逆に、
「体育祭ちょっと苦手だったから、なんか助かった」
と藤子は喜んだ。
「世間がみんな、体育祭が好きだなんて思わないで欲しいな」
こういうところはやはり文学少女で、
「私は図書室で大人しくしてるから」
「何言ってるの? 藤子だけ特別扱いするわけにはいかないんだから」
最終的に藤子は記録担当に回った。
少し話を戻す。
職員室の並びにあった生徒会室へ澪と藤子が行くと、
「久しぶり!」
いたのは茉莉江である。
「アイドル部、すごい人気ね」
私も任期終わったら入ろうかな、と冗談めかした。
茉莉江がアイドル部に理解があるということも、今回の対応にはプラスとなっている。
「今回からアイドル部がサポートに回ることになって、でもどうしたらいいか分からないし…」
澪は言った。
茉莉江は一枚の資料を出して、
「こちらで考えたのは、表彰のメダル授与のサポートとか、タイムとかスコアの記録の手伝いとかなんだけどいい?」
「ありがとう」
「でもねー、実はあんまりアイドル部を現場に出さないでくれって言われてて」
茉莉江は内幕を話してくれた。
どうも学校側では、
「グッズ販売とかも考えてるみたい」
それは別にまだ良い。
「で、だから怪我されたらマジで困るみたいで」
校歌のCDを作ってアマゾンで販売するぐらいなのだから、グッズぐらいは訳なく作りそうであろう。
とは言え。
「外聞ばっかり気にして、結局は大人って金儲けとかしか頭にないから、バランスってのが分からないんだよね…」
茉莉江が言うバランスとは「私益と公益が釣り合わないと、最後は破綻する」という意味を指す。
「だからこれからは、アイドル部だって楽しいだけじゃダメだし、でもアイドルゲームみたいに銭ゲバみたくファンから搾取するだけでもダメだし、バランスが大事になるんだよ」
茉莉江の眼には何か違う世界が見えていたらしい。
部室へ戻る廊下で、
「グッズ販売、か…」
「私たち、そんなに知られるようになったんだね」
藤子は言った。
一年前の同好会のときには考えられなかった話ばかりでもある。
「でも藤子ちゃんがいなかったら、ここまでは来られなかった。それだけは確かなことだよ」
澪は続けた。
「私たちは一人じゃない。みんな助け合ったり、ときにはいがみ合う日もあるけど、でも一人きりでは生きられない」
ののかと藤子がいなかったら同好会すら作れなかった──と澪は藤子に向かうと、
「ほんとに、ありがとう」
深々と頭を下げた。
「私は別にいいけど…ののかにはちゃんと伝えといたほうがいいよ」
互いに小学校からの間柄らしい、柔らかい中に芯のある物言いをした。
「私たちは偶像だから選ぶ自由がないって、前に澪ちゃんは話してたけど、私は自由がある偶像になりたい」
藤子は珍しく本音を明かした。
「だって私たち、アイドルである前に人間だしさ」
どこか可笑しみのある言い回しに、
「そうだよね、私たち人間だよね」
当たり前のことだが、忘れ去っていたことを澪は口にした。
「グッズはさ、うちらで先に作って売ろ」
藤子らしからぬ言葉ながら、先を見据えてはいたようである。
体育祭の日。
それぞれスコアやタイムの記録、あるいはメダル授与のサポートにアイドル部は回った。
「さっき有澤雪穂からメダル渡してもらったさ」
「いいなー」
誰かが話す声がする。
「…やっぱり、参加したいよね」
美波は仮設テントでグランドを眺め渡しながら、溜息をついた。
「でも、参加しちゃ駄目なんですよね?」
ペアを組んだすみれが訊いてきた。
「ちょっとぐらいなら分からないかな」
それはさすがにルールにそむく行為で、すみれは嫌な顔を隠さない。
「行くなら先輩だけ行ってください。私は参加しないですから」
すみれには意外と堅物な面がある。
そんなとき。
「美波、ちょっといい?」
クラスメイトの声がしたので、
「ちょっと行ってくる。多分あの子だから何か手伝ってって感じなんだろけどさ」
美波は席を外した。
すぐにすみれも、
「ハードル片付けるのお願いしていい?」
「はーい!」
席を立った。
片付け終わると美波がまだ戻らない。
「まさか、マジで球技とか参加してなきゃいいけど…」
すみれはペットボトルの緑茶を一口飲んだ。
週が明けた。
「関口さん、ちょっと話があるんだけど…」
隣のクラスにいた茉莉江が、廊下で澪を見つけて追い掛けてきた。
「美波がバレーボール出てたの知ってる?」
「…えっ?!」
澪は信じられなかったのか、思わず素っ頓狂な声をあげた。
「うちのクラスの子で見たのがいるんだ」
「それは…」
重大なルール違反ではないか。
「で、すみれちゃんに訊いたら、うちのクラスメイトで彼女を呼んだ子がいたらしくて。調べたらバレーボールの助っ人にどうも呼んだらしくて…」
澪は絶望的な感情に襲われた。
しかしながら、美波の事情を聴取しないことには、処断どころか憎悪すらままならない。
どうやらすでに、清正の耳には届いているらしく、
「今日にも美波を呼び出すみたい」
茉莉江は伝えた。
同時に深く溜息をついてから、
「私がもう少し、ちゃんとしていれば良かった」
別に茉莉江の責任ではないはずなのだが、どうも罪悪感だけは深く感じていたらしい。
「それは私も同じだよ…」
澪は、底知れぬ程の暗い目をした。
ともあれ。
矢も盾もたまらず、澪は職員室へ急いだ。