とりあえず授業は問題なさそうだが、
「車の運転と、日課の運動がなぁ」
すみれだけが知っている投げ込みである。
「キャッチボールぐらいなら、大丈夫じゃないですか?」
何気なく雪穂が言った。
「うちのいとこで、中学で野球やってるのいるんですよ」
相手にどうか、というのである。
「さすがに早い球は投げられんで、バランスとかいろいろあるし」
清正は笑ってから、
「大人しく教鞭とっとけってことなんかも分からんな」
どこか達観したような眼差しをした。
バスが茅ヶ崎の宿舎に到着すると、
「私はこれで帰ります」
茉莉江はミッションクリアといったような顔つきをした。
「帰っちゃうの?」
ののかが訊いた。
「だって宿決めてないし」
「うちに泊まれば? だって実家手伝ってるんだし、たまには息抜きしないと…」
ののかは引き留める。
「…じゃあ、明日まで」
茉莉江はスマートフォンを取り出し、何やらメッセージを打ち始めた。
しばらくして、返信が来た。
「先生もいるしって、OK出た」
「良かった」
ののかははしゃぐように喜んだ。
翌日。
ののかと茉莉江は宿舎に来て挨拶を済ませてから、羽田空港へと向かった。
「とりあえず、練習開始だね」
「今日は、自主練習にする」
唯は優海に伝えた。
気がかりなことがあったらしい。
チームが例の清正襲撃事件で変に動揺していないか、という点である。
が。
それは結露から言えば杞憂であった。
いつも厳しいことしか言わない優海が、メンバーが泊まる部屋を一部屋ずつおとずれて、
「これをチャンスにするしかない。それには前向きでいること、そして…みんなで団結すること」
仲間は信じるもの、と説いて回っていたのである。
茅ヶ崎の海岸通に面したホテルが、合宿の宿舎である。
大学の講義の合間を縫うように、ののかも姿を見せるので不安もなく、至って順調に調整が始まった。
合宿開始から五日目の夜、宿舎のホテルに電話が入った。
「ライラック女学院高等部の長内藤子さまへお電話です」
一同訝ったが、藤子自身と、長谷川マネージャーだけは薄々気づいていた。
「アカシア出版編集部編集長、星さとみといいます」
弊社の月間青少年文学誌・エメラルドスターに掲載されましたのでお知らせします、との由であった。
メンバーは仰天した。
いや、仰天したというレベルでは済まされない騒ぎとなった。
「藤子ちゃん、小説書いてたの?」
「うん…ライトノベルみたいのだけどね」
唯だけは驚かなかった。
「昔から空想とか物語とか好きだったもんね」
でも夢を叶えるとは思わなかった、と唯は言った。
さらに、と長谷川マネージャーは、
「アカシア出版青年文学新人賞の最終選考にノミネートされました!」
最優秀新人賞発表の日程を聞いて、さらに驚いた。
ハマスタの全国大会と同日なのである。
しかし藤子は平静で、
「大丈夫、私は全国大会に出るから」
間違いでなければ夕方の六時ぐらいに発表がある。
「あの段ボール箱の中身、使えたんですね」
ありがとうございます、と藤子は小声で、長谷川マネージャーにお辞儀をした。
「でもこれで勢いついたかも」
「いやマヤちゃん、少し落ち着こ」
マヤをすみれがたしなめた。
私もすみれちゃんと同じ意見かも、と藤子は言う。
「だって私にしたって最優秀新人賞じゃないし、アイドル部にしたってまだ本戦前だし。いちばん油断したらいけない時期なんだよ」
唯は深くうなずいてから、
「やっぱりシッカリしてるわ、幼稚園から知ってるけど」
思わず笑ってしまった。
「それに、もし両方ダメなら糠喜びなんだよ? 私は悪いけど、両方取るつもりで臨んでるよ」
珍しく藤子が強気なことを言ったので、
「熱ない? 大丈夫?」
思わず唯が藤子の額に手を当てた。
藤子の存在はかなり大きかったようで、のちにしばらく経って、みな穂がアイドル部の主力を担うようになった際、
「私には藤子ちゃんという手本があったから、多少のことがあっても何の心配もなく対処できた」
と他日、人に語っている。
だいたい曲のパフォーマンスも固まって、明日は本戦という前夜、ののかも加わって最後のミーティングが始まった。
「泣いても笑ってもこれが集大成だから、みんないい顔してパフォーマンスしよう」
唯は言った。
「私みたいにあんまり部長らしいことを出来てない部長でも、みんながいたからここまで来ることが出来たし、やっぱり仲間って信じるものだなって」
この日合流した翠もいる。
「翠ちゃんだって、メインのメンバーではないけど、あなたにはあなたにしか出来ない役割がある」
唯は翠を凝視した。
翠を見つめながら唯は、
「翠には重要な役割をお願いしたいんだけど、いいかな?」
と、近くに招いた。
「あなたにはカメラをお願いしたいんだ」
「カメラ?」
「ただのカメラじゃなくて、私たちの証拠を永久に遺すための仕事を頼みたい」
翠のプライドをくすぐるような言い方をした。
「大切な役割を託すから、お願いね」
翠は力強く承諾した。
部屋に戻る廊下で、優海は唯に訊いてみた。
「なんであんな大げさに?」
「あの子はプライドが高いから、ああやって多少オーバーに言ってあげたほうが、よく動いてくれるでしょ?」
唯らしい観察眼のなせる技であろう。
「人は頭ごなしに怒鳴ったって動かない。むしろ気持ち良く仕事をさせるほうが、回り回って効率的に進む」
いつの間にか唯も、部長らしくなっていたらしい。
決戦の朝。
少し早く起きた唯は、相部屋の藤子を起こさないように静かにベッドを出ると、大浴場で一人、気持ちを鎮めた。
戻ると藤子が起きていた。
「いよいよだね」
「うん」
身支度を整えると、カートを引いて食堂へ。
朝食を取り、忘れ物を点検してメンバーを点呼し、
「ありがとうございました!」
全員で深々とホテルに礼をし、会場の横浜スタジアムを目指してバスに乗り込んだ。
「いよいよだね!」
などと言いながら、茅ヶ崎から関内まで、比較的空いていたのもあって少しだけ早めに、横浜スタジアムへ着いた。
ののかがすぐに見つけたらしく、
「おはよー!」
ののかは結果を見られない旨を伝えた。
「今日、夕方面接なんだ」
何の面接かは言わなかったが、敢えて深くも訊かないのが、アイドル部の昔からの信頼関係であろう。
昨日の課題曲のあと、自由曲の発表での順番決めの抽選では、本戦の二十四高中いちばん最後を引いた。
「大トリだから目一杯出来るね」
唯は言う。
「今日は確かテレビ中継があるハズ…」
清正は続けた。
「えぇ顔してゆこうや」
目を細めた。