やっぱり、といったような顔で雪穂は深く息をついてから、
「いじめられるのが怖かったの…」
雪穂は問い詰めるようなことはしない。
が。
「じゃあさ、約束して?」
「約束…?」
「あなたがあやめちゃんを守ってあげて。翠は生徒会長だから、そのぐらいは出来るよね?」
それまでの非礼を不問に付す条件である。
「…分かった」
「じゃあ、ちょっと入って」
そこで再び、
「今までのことを水に流す代わりに、セラミックス…じゃなかった、翠があやめちゃんを守るって約束をしてくれた──これでいい?」
「…はい」
「唯先輩、どうします?」
唯に伺いを立てた。
「そこまで話が出来てるなら、私は構わないけど…」
唯は意見を求めた。
しばらくみな黙っていたが、やがておずおずとすみれが口を開いた。
「じゃあ、この場で念書書いて」
「それはさすがに…」
「私がいる事務所は、すべて約束事は紙に残す決まりだから」
それが出来ないなら破談かすみれが退部するか、だという。
「またそういう話…?」
藤子が思わずつぶやいた。
グループ名のことを思い出したらしい。
「藤子ちゃん…」
「…分かった。紙切れ一枚で済むなら、何枚でも書くわよ」
いつもの翠が戻って来た。
「じゃあ決まりね」
パソコン机にいた優海がコピー用紙を取り出した。
こうして。
念書を翠は軽い気持ちで書いたのだが、やがてこれが、翠自身に結果的には跳ね返ってくることとなるのであるが、このときの翠は当たり前のことながら知らなかった。
五月も半ばをすぎると、練習は更に佳境に入る。
「リラ祭近いから気合い入れなきゃダメだよー」
雪穂にかかると、檄も間延びしてしまうのだが、
「本来部活動は楽しくなきゃいけないんだけど、なんか周りがガチャガチャしてるとストレスたまるよね…」
それでも、
「あの情緒不安定なセラミックスが落ち着いたからいいわ」
マヤにすれば実のところ頭の痛い存在だったのかも知れなかった。
入部はしないまでも、瀬良翠はアイドル部をバックアップする方針に変えた。
人が変わったように方向転換したことから、
「変節したね」
などとなじられることもあったが、
「そんなことは社会に出たらいくらでもあるって。今は自我を通すことのほうが難しい時代だしさ」
意外にもなぐさめたのは、念書を書かせたすみれであった。
そうした中でも。
毎日のダンス練習やボイトレは続いていた。
「私たちはね、来たるべき日に備えて生きていかなきゃならないのね。だから一日も休んじゃいけない」
ストイックで目標意識が強くて、それでいて周りには夢を振りまく…翠の見る目は少し変わったようで、
「私はどこで何を間違えたんだろう」
とだけ言った。
四月から翠のクラスで古典を教えるのが決まって、清正も多少忙しくなったが、日課の投げ込みは変わらない。
「別にトライアウトを受けるわけでもないのに」
すみれは不思議がった。
「なぜ投げ込みを続けるんですか?」
清正は手を止め、
「何が遭っても変えないものは変えない、ということは大切なんやで」
たまたまそれが十人十色で違うだけや、と清正は再び球を投げ始めた。
七月のハマスタ大会に向けたミーティングがひさびさに開かれたのは、五月の連休明けである。
「ひとまず全国大会には行けるようになった」
四月の予選では優勝こそしたものの、技術点が伸びなかった。
「あれでは全国では勝てへんかも知らんなぁ」
そこで清正は、
「映像を分析してみよう」
といい、長谷川マネージャーが撮影した予選の動画を全員で見直してみた。
「あ、ここ…」
千波が指摘したのは、藤子の左足である。
「やっぱり…」
藤子は自分で、わかっていたらしい。
「例の捻挫だよね…」
そうなると、藤子の決断は早かった。
「メンバー変えてみますか?」
全員が藤子の顔を凝視した。
藤子には先が見え過ぎる欠点がある。
映画を見ていても、
「多分この人が犯人かな」
というと果たしてそのとおりで、それは客観的に自己の映像を見ていてもそうであるらしい。
「私のポジションに誰か踊れる子が入れば勝てると思います」
あまりに冷静過ぎて誰も言い返せなかった。
「だって全国大会だよ? 藤子ちゃん出ないの?!」
やっと言葉を発したのは優海である。
「優海ちゃん、人は上へあがっていくためには、重荷をなるだけ捨てなきゃならないんだよ」
物言いは柔らかいが、内容は厳しかった。
何より足手まといになることを嫌い、他人に迷惑をかけることを殊更に嫌う藤子らしい言葉ではあろう。
でも、と優海は食い下がった。
「私は藤子ちゃんが出ないならハマスタに行かない」
「優海は力があるから大丈夫。歌唱力だってある。それを人のために、人生を悪いように変えちゃ駄目なんだよ」
誰もがスーパーサブと認める、藤子の面目躍如である。
片足をときにかばい、それでいて頭の良い藤子をファンたちは、
──アイドル界の黒田官兵衛。
とも呼んでいる。
それだけに。
「私ね、藤子ちゃんにだけは、てっぺん取らせてあげたいんだ」
と優海は言った。
「ありがとう」
藤子は深々と頭を下げた。
「同じように頭が良くても、セラミックスとはえらい違いだよね」
マヤは言った。
人は学校の成績では決まらない、ということなのかも知れない。
しかし。
ミーティングは結論が出ないまま、この日は終わった。
その日の夜。
藤子は長谷川マネージャーに連絡をつけ、深夜近かったが、自宅に来てもらった。
「マネージャーさんに頼みがあって」
玄関口まで出しておいた段ボール箱を、
「この中に、私が書き溜めた物が入ってるんで、使えそうなものがあったら使ってください」
と託した。
「ごめんなさい、こんな夜更けに」
「それより…ほんとに出ないんですか?」
長谷川マネージャーはあらためて問うてみた。
「これは私だけの戦いじゃない。アイドルを好きでいてくれる人たちみんなのための戦いだから、一人ぐらい討ち死にが出たって、それは仕方がないことだと思う」
藤子は清々しい眼差しをした。
翌日から、
「みな穂ちゃん、ちょっとお願いがあるんだ」
と藤子はみな穂に、自分が獲得したノウハウを一つ一つ、しかし確実に伝授してゆくことにした。
「みな穂ちゃんは私が憧れだって言ってくれたから、だからあなたに託す。その代わり、ちょっと厳しいよ」
藤子は笑顔を見せた。
それにいち早く雪穂が気づいた。
「藤子ちゃんの覚悟がそこまでなら、私は止めないよ」
「雪穂は雪穂のままでいいんだよ」
雪穂は帰り際に翠に、
「藤子ちゃんを助けて欲しい」
翠は瞠目した。
「私が?」
「翠、…挽回するなら今だよ」
こういう言い回しのチョイスが雪穂を小悪魔たらしめている。
「だって翠、アイドルになりたいんだよね?」
それだけ雪穂はささやくと、スッと教室から消えた。