彼の方も、心当たりがあって『なんとか先生』と呼んだわけではないだろう。

部屋を冷やして待ってくれていた、とは違うが、一段と暑い今日、帰ってきた部屋が既に涼しかったというのはありがたい。


彼の素性はたいして気にもせず、定位置の椅子に腰掛ける。


彼もソファから動く気がないようで、テーブルに置いてあった個包装の飴玉をつまみ上げ、僕を見た。


「食べていい?」

「どうぞ」


その日の会話はそれだけ。

昼休みが終わる頃になると、彼はありがとうございましたと律儀に頭を下げて出ていった。


それから数日後、今度は僕が準備室にいるときに彼は訪ねてきた。

前回はお互いに名乗っていなかったことを思い出して、彼に名前を聞いた。


担任の先生に注意をしておくつもりなんてなかったけど、それを疑ってすんなり教えてくれるかはわからなかった。

僕が先に名乗ると、彼は軽いノリで『サカキ ナツヤ』と答えた。


なぜここに来たのか、ここに人がいることを知っているのか、榊くんはいつもではないけど、授業のある時間にもここへ来るから、その理由とか、知りたいことはいくつもあったけど、どれも訊ねるほどのことではなかった。


「なあ、朔間先生」

「んー?」


化学とは全く関係のない、趣味のボトルシップをいじっていると、ソファで本を読んでいた榊くんが不意に僕を呼んだ。

顔を上げることはしなかった。

榊くんも、本から視線を上げていないのが視界の端に見えていたから。


「高校3年生ってさ、夢がないとダメなもん?」

「いやぁ、そんなことはないけど。人によるのかなあ、僕には夢があったから、その質問の解答権すらないと思うよ」


榊くんが受験生として、僕に教員としての助言を求めているのなら、不正解のバツがつくような返答。

形式上は『先生』と呼ぶけど、榊くんはトモダチに近い。


「俺の、夢さ。変かもしれないんだけど」

「お、教えてくれるんだ?」

「幼馴染みがいるんだ。大切なやつ。そいつが笑うところを、もう一度、何度でも見たいんだ」


榊くんの夢は、きっと他の友人や大人には大きな声で言えないようなものなのだろう。

榊くんのためになる夢ではなくて、叶ってしまえば榊くんは宙ぶらりんで宛もなく彷徨ってしまうことになるのかもしれない。


その儚くて切実な夢が叶わないうちに、彼に夢を見つけてほしかった。

そのための手伝いを、僕ははじめた。