入口の真ん前で話していると、奥から足音が聞こえた。
木製の廊下には物が何も置かれていなくて、高い天井も相俟ってよく音が響く。
さっきの音とわたし達の話し声を聞きつけたのかもしれない。
「尚くん」
角からひょこりと顔を出した若い女性がこちらを見て、というかナオキを見て、困ったように眉を下げる。
ナース服を纏った女性はわたしにも気付いてきょとんと目を瞬くと、さっきより早い足音を立てて小走りでこちらへやってくる。
「尚くんの彼女?」
「え……?」
化粧っ気のない頬を血色で赤くして、興奮気味に聞いてくる。
第一声がそれか、と物申す前に、ナオキが深いため息をつく。
「ちげえよ。この子、船で手擦りむいてんの。手当してやって」
「あ、いや……ねえ、本当に大丈夫なんだけど」
ナオキに言い返しながら、サッと擦りむいた方の手を背中に隠す。
けれど、目敏くわたしの手の動きを追いかけた女性に腕を掴まれた。
「あら、本当。痛いでしょう」
「あの、本当に平気なんで。放っておいても」
こんな小さな傷をわざわざ治療してもらうのが本当に申し訳なくて、手を引っ込めようとするけれど、華奢な見かけによらず強い力で繋ぎ止められる。
「駄目よ。あの船汚いんだから」
「は? おい。毎日磨いてるぞ」
「そういう問題じゃないの」
ナオキの方は見向きもせずに傷の具合を確かめた女性は掴んでいた手を指先に持ち替えて、そっと引いた。
その間にナオキはスリッパを出してくれていて、自分は靴下のまま廊下へと上がる。
「あっ! 尚くんまた……靴下、真っ黒になるよ」
「先生に声かけてくる。カエデ、冬華のことよろしく」
床が軋むほど荒い足取りで廊下の奥へ行ってしまったナオキに、女性は呆れた声を漏らす。
「ごめんね。尚くん、慌ただしいでしょう」
「いえ……そんなに気にならないので」
今日初めて会ったのだとは言えずに、曖昧に濁すけれど、嘘ではない。
夏哉もわたしの前ではあんな風に騒がしい、無邪気な少年だった。
懐かしい、という気持ちさえ胸のうちに芽吹くほど。
「こっちにおいで」
子どもみたいに手を引かれて、廊下の突き当たりまでいかない手前の部屋に入ると、消毒液の匂いが鼻腔をつく。
病院というよりも、保健室を思い出す香りが部屋を満たしていた。
保健室なんて、高校生の内は一度も行ったことがないけれど。
「はい、手引っ込めないでね」
窓辺の椅子に腰掛けて向かい合うと、無意識に引き寄せかけていた手をがっしりと掴まれる。
やっぱりこの人、力がすごく強い。
逃げようとすると更に力を強くされてしまうから、諦めて脱力しようとするけれど、肩に入る力がそのまま手の方にも伝わるようで、指先が震えた。
「こわい?」
「こわいっていうか、普段は怪我することがないから、ちゃんと手当することもないし、緊張しちゃって」
体調不良はたまにあるけれど、こういう擦り傷を作ることはもうずっとなかった。
たまに紙で手を切ってしまったりだとか、枝で引っ掻いてしまったときにはもう、放っておくか絆創膏を貼り付けるかで、消毒をすることなんてない。