最後まで目を通して、手紙を開いたまま机の上に放る。
夏哉がユリにしたことは、具体的なことは何一つ書かれていなかった。
ユリに宛てた手紙だから、わたしにわかるように書いていないのは当然なのだけれど。
ユリと夏哉の関係は、友だちでないといけなかったのだろうか。
幼馴染みにお節介を足したものとは、なにがちがうのかがわからない。
「あのことって、なんだろう」
文脈的に、伝えて、というのは、わたしに、の意味なのだと思う。
二巡も覗いていい内容ではなかったから、閉じ目のボロボロになった封筒に手紙を入れ直す。
時刻は午後二時前。
おばさんがパートから帰ってくる午後四時過ぎまで、ここでじっとしていたら、わたしは何も変わらないままだ。
人任せで、自分にできることは精一杯し尽くしたと諦めて、放り出すのと変わらない。
閉じきらずに浮いた封筒から、もう一度便箋を出す。
窓越しにユリの部屋を見遣る。
こんなに近くにいるのに、心の距離は溝が見えないほど深く、ユリの姿が見えないほど遠いと思っていた。
わたしが近付けばいいだけだ。
ユリに嫌われていても、ユリが嫌いでも、わたしが歩み寄りさえすれば、ここから斜め向かいの家までの、ほんの少しの距離なのだから。
もう緊張する意味もないと割り切って、ユリの家の前に立つと、躊躇いなくインターホンを押す。
鳴り終わる前に、重ねてボタンを押し込む。
指を引っ込めて、完全に戻ってくる前にまた押して。
外にいても、響く音は微かに聞こえてくる。
きっと、家の中にはけたたましいほどの音が響いているのだろう。
迷惑なんていくらでもかけてやればいい。
わたしだって、夏哉の残した手紙に振り回されて、上手く事が進まなくて、そろそろ苛立ち始めているところなのだから。
これくらいにしておいた方が、と遠慮したがる自分をボタンと一緒に押し込んで、体感ではかなりの時間が経過した。
インターホンの電池の消耗への心配が掠め始めたころ、ふと視線を上げると、窓辺にユリの姿が見えた。
あんまりしつこいから、様子を見ようとしたのだろう。
ユリがわたしに目をとめたのなら、好都合だ。
「ユリ、ユリ!」
インターホンのマイクではなくて、見上げた窓に向かって呼びかける。
カーテンの裾が揺れて、ユリがその裏に隠れてしまっても。
「ユリ!」
ねえ、ユリ。
名前を連呼されるのは耐えられないでしょう。
止まないインターホンに耳を塞ぎたくなるでしょう。
声を張り上げたときに、ちょうど自転車で後ろを通り過ぎた、ひとつ先の通りに住むヤマダさんの、ぎょっとした顔を横目に見ても、ユリを呼ぶことを止めない。
どちらが折れるか、だなんて、もう決まっているようなものだ。
羞恥心で全身が熱いし、傍から見なくても非常識だし、もちろん近所迷惑。
でも、それもユリに見せつけるにはちょうどいい。
インターホンのボタンに刻まれた模様が指に転写されるんじゃないかってくらい、数えきれないほど鳴らした。
口の中がカラカラになるくらい、ユリって名前がゲシュタルト崩壊を起こすくらい、ずっと呼び続けた。
「いい加減にしてよ!」
予期しないタイミングで突然玄関のドアが開き、怒りを隠そうともしない顔のユリが出てきた。
「なんなの、あんた。何がしたいわけ」
最初から、それを聞いてくれたら良かったのに。
ユリが拒絶しか見せてくれなくて、理由がないのに訪ねてくるわけのないわたしを拒否し続けるから、こんなに時間がかかってしまった。
「これ」
門の隙間に手ごと便箋を突き出す。
玄関前に佇むユリが怪訝そうに顔を顰めて、こちらに近寄ってきた。
まだ警戒を解かずに、手紙とわたしとを見比べる。
その視線は、わたしをキッと睨みつける形で留まった。
「なにそれ。あんたが書いたの?」
「わたしじゃない。夏哉からの手紙」
ひったくられて、そのまま家に入られたらどうしよう。
すぐに引っ込められるように、少しだけ腰を引く。
「夏くんから……?」
夏哉の名前を出した途端、ユリの瞳が揺れた。
鋭かった目尻が、泣き出す寸前のように震える。
ユリの指先が手紙に触れようかと言うときに、わたしは口を開いた。
「わたし、これ勝手に読んだからね」
「は……?」
「開けてくれないなら、渡せない。ユリがこっちに来てくれないなら、ここでわたしが読み上げる」
後に引けないからって、あまりにも無茶なことを言っている自覚はある。
夏哉がユリにのこしたものを、形までなくすことはできない。
破り捨てるとは嘘でも言えないかわりに、いちばんユリが嫌がることを考えた。
「人の手紙を勝手に読むって、それおかしいよ。ありえない」
「わかってる」
「……最低。あんたなんか……」
続く言葉の候補はいくつか頭に浮かんだ。
嫌い、ではまだ生易しい。
大がつくくらいでも、まだ受ける傷は浅く済みそうだ。
ぐっと唇を噛んだかと思うと、ユリは門を開けて出て来た。
ようやく何の隔たりもなくユリと対面できたことにホッとして、つい気を緩めた瞬間を見計らったのか、ひったくるように手紙を奪われた。