——ここがどこなのか、私は知っている。
 真っ白な壁の中に紛れるように一つだけ設けられた扉が、キィと高い音を鳴らしながらゆっくりと開かれる。扉の隙間に作り出される白一色の部屋の中とは違うはずの外の風景は、強い光に支配されてしまい何も視界には残らない。
 眩しさに目を細めた私に、聞き覚えのある柔らかな声が届く。
「こんにちは」
 ——どこかで予想していた。
 だから、だろうか。私の心臓はなんの衝撃も感じずに規則正しく動いている。明るさに目が慣れ始めた時、開いていたはずの扉は閉じられ、真っ白な世界に私以外の人物が立っていた。私は椅子に座ったまま、目の前に現れた彼を見上げる。
「……」
 何かを言おうと開きかけた口は、結局何も言葉を作り出せなかった。私は餌を求める池の中の魚のように間抜けにパクパクと口を動かしただけで、何も言えなかった。言いたいこと、聞きたいこと。たくさんあったはずなのに、そのどれもが、その先にあるはずの答えを私の中に見つけてしまう。わかっている答えを問いただすことに、私は意味を感じられなかった。
「まだ、覚えているよね?」
 その優しい声に、私の肩はピクリと揺れる。
「……はい」
 頷きながら視線を落とした私の目の前、古びた机を挟んで置かれた椅子に彼——いつものスーツ姿ではなく見慣れない白衣を着ている常盤さん——が静かに腰を下ろした。引かれた椅子の足が床をこする音も、体重を乗せた座面がわずかに軋む音も、一つ一つの音が大げさなほど部屋の中に響き渡る。
「……ごめんね」
「!」
 今にも消えそうな悲しい声に顔を上げると、その優しい穏やかな顔が今にも崩れそうなほどに歪んでいた。こんなに苦しそうな常盤さんの表情を私は見たことがなかった。「あ、」思わず声が漏れ、膝の上で握りしめていた手を伸ばしそうになる。
「本当はこんなことしたくはないんだけど、決まりだから」
「……わかって、います。いつもそうだった、ので」
 震える声に乗せてしまいそうになる気持ちを、両手を強く握りしめることでどうにかこらえる。そう、いつもそうだった。これが初めてなわけじゃない。だから、大丈夫。常盤さんが謝る必要なんてない。すべては私が間違えたのがいけないのだから。

 ——失敗は消したほうがいい。
 そもそも人は嫌な記憶を忘れる生き物だ。
 ——間違いは消してしまおう。
 そうすればまた正しいものだけが残る。正しい道を進むことができる。
 ——記憶のリセットを、人生のリセットを。
 そうやって何度も切り捨てられた記憶たちは、私の手の届かないどこか遠くへ行ってしまう。それを私自身が望まなくても、私の中に存在するもう一つの「意志」が判断すればそれは実行される。決定権は「私」には、ないのだから。

「牧園さん」
 まっすぐ向けられる強い視線を、震えるその声を、唇の先を噛み締めながら何かに耐える彼の表情を、私は憶えていられるだろうか。
「これは、今回のこれは、『間違い』だと僕は思っていません。牧園さんは何も悪くないし、むしろ『人』として当たり前の、普通のことだったと、僕は思ってます」
「……」
「僕は頭で決められた全てが『正しい』ことだとは思えないから。頭で考えてもどうにもできないくらいに動いてしまう感情があると思っているから。だから、どうか、これだけは言わせてください……」
 そう言って立ち上がった常盤さんは、不思議そうに見上げる私から視線を外すことなく足を踏み出す。浮き出た木目に指を添わせながら、こちら側へと体を動かし、ゆっくりとその大きな腕で私を抱きしめた。
「!」
「僕はあなたが好きです。間違えたのは、牧園さんじゃなくて、僕なんです。研究対象であるはずのあなたに恋愛感情を持ってしまった僕が、悪いんです。本当に記憶を消されるべきは、僕の方なんです……本当に、ごめんなさい」
 耳の奥へと直接響く声が、体を包み込む柔らかな匂いが、ゆっくりと流れ込む確かな体温が、私の胸の中に熱を灯す。言いたかった言葉が、伝えたかった想いが溢れ出す。
「……っ、いいんです。もう、いいんです。私も常盤さんが好きでした。だから、他の誰がどう言おうと、たとえ私の中に埋め込まれた『意志』が間違いだったと判断しても、私は、私自身は間違いだったなんて思っていませんから。だから、どうか常盤さんも間違いだったなんて思わないでください」
 ——忘れたくない。本当は忘れたくなんてない。
 私は私の体のどこかほんの一部分でも常盤さんを憶えていられるように、握りしめていた両手をその大きな背中へと回した。人間の機能の全てを司る脳に支配されていないどこか、私以外の『意志』の手の届かないどこかが、私の中にほんの少しでもあればいい。
 ——まだ私は全てを明け渡してはいないのだから。
「……僕が、憶えていますから。あなたの記憶が消えてしまっても、もう一度初めからやり直すことになっても、僕は憶えています」
「……っ、」
 ——もし、本当に頭で決められない感情があるなら、頭の中だけでは制御できない部分があるなら。それは、この気持ちであってほしい。たとえ記憶が消えても、この想いだけは消えずに残ってほしい。これは間違いでも失敗でもない。私が人として生きている証だから。
 ——たとえ誰かにとっての間違いであっても、失敗であっても、私にとってはそれも全部私の一部だから。だからどうか、どうか、消えないで……。