二本の濡れた傘が玄関の扉に立てかけられていた。
 冷え切った部屋の中を暖めようとエアコンの稼働音が静かな空間に響く。
 ふわりと風に乗った熱が、手渡されたハンガーにコートをかけていた私の首に触れた。
「適当にかけちゃって」
 そう言ってレンジを操作していた常盤さんがキッチンカウンターから顔を覗かせた。私はキョロキョロと部屋の中を見渡す。リビングと隣の部屋を仕切る引き戸は開けられていて、そのレールの上にハンガーの先を引っ掛けてみた。手を離すとわずかな揺れを残して、コートはちゃんと吊り下げられていた。
「はい、どうぞ」
 ネクタイを外し、首元を緩めた常盤さんが水色とピンク色のマグカップをソファの前のローテーブルに置いた。並んだ二つのカップからは柔らかな湯気が立っていた。二人がけにしては少し大きい黒の革張りのソファに私が座ると、触れそうで触れない距離を保って、常盤さんも腰を下ろした。
「ホットミルクだけど、生姜と蜂蜜がちょっと入ってるんだ」
「……いただきます」
 出してくれた飲み物と常盤さんのイメージが結びつかなくて笑いそうになってしまったのを、カップに口をつけることでごまかす。
 牛乳の甘い湯気の中に生姜のすっきりとした香りが混ざり込む。口に含むと蜂蜜の甘さの後にピリリと生姜の辛さが舌に残るが、それもすぐに温かな牛乳の優しい味に流されていった。一口飲んだだけで、冷えていた体に熱が戻り始める。
「美味しいです」
「よかった」
 そのまましばらく、私も常盤さんも何も言わなかった。
 ——ここに来るまでに、私は自分が覚えている限りの、話すことが許されている限りのことを常盤さんに打ち明けていた。話を聞いた常盤さんは、反対方向の電車に乗ろうとしていた私を引き止め、「もうちょっとだけいいかな?」と柔らかく笑った。私はその今にも泣き出しそうな笑顔に、「はい」と頷いた。
「……」
 エアコンの風の音と、ホットミルクをすする音だけが静かな雨音に混ざって部屋の中に響いている。
 傾けたピンク色の丸い底の先、視線を上に向けると、壁にかけられた時計が目に入った。終電まではあと二時間くらいだろうか、そんなことを考えた時だった。
 中身を三分の一ほど残してテーブルにカップを戻すと、青色のカーテンの向こうから電車の通り過ぎる音が流れてきた。その大きさに思わず顔を向けると、こちらに顔を向けていた常盤さんと目が合った。
「……」
 言葉は何も浮かばなかった。私は繋がった視線を解かないように、静かに息を飲み込んだ。ふわりと視界の端で揺れたのは、こちらへと伸ばされた大きな手だった。私はまっすぐ常盤さんの瞳を見つめたまま、その手がゆっくりと近づいてくるのを待っていた。
「!」
 その指先が触れた瞬間、私の中に生まれたのは拒絶でも恐怖でもなかった。
 びくりと首をすくめた私に、一瞬戸惑うように震えた大きな手がそれでもまっすぐに私の顔に伸びてきて、そっと撫でるように前髪を持ち上げた。
「……これ?」
 いたわるような優しい声に、私は小さく頷くことしかできない。
「そっか」
 そう言って常盤さんは、両手で私の顔を包み込んだ。
「これがあったから、今こうして牧園さんはいるんだね」
「!」
 頬から流れてくる温かな体温に、まっすぐ私を見つめてくれる細い瞳に、泣きそうな表情で笑う顔に、私はもう堪えられなくなった。一度溢れたはずなのに、先ほどよりも大きくなって帰ってきてしまった。
「う、あ、う、わぁぁ……」
 涙がこぼれる。声が溢れる。鼻の奥が痛くて、両眼が熱くて、高くなっていく体温に胸の奥までぎゅっと握りしめられたみたいだった。

「……ひ、……ひっく……」
 どれくらいの時間が経ったのか、掠れた声が嗚咽に変わった頃、優しく触れているだけだった指先に少しだけ力が込められた。——そう、私が認識するよりも早く、閉じきれていない私の口に感じたことのない熱が触れた。
「!」
 声も、言葉も、何も出てこなかった。
 唇の先から伝わってくる高い体温と、無防備なほど柔らかな感触。
「……」
 ゆっくりと離されていく唇に、どこに視線を向けていいのかわからず瞬きばかりを繰り返す。
「……抱きしめていい?」
「え」
 答えを見つけるよりも早く、大きな腕が私を包み込む。
「あったかいよ」
「……」
「牧園さんは、ちゃんとここにいるよ」
「っ、」
 その優しい言葉に、初めて私は自分から常盤さんの背中に手を伸ばした。身長差のあまりない私ですら包み込んでしまうその大きな背中に、私はしがみつくようにぎゅっと力を込めた。

 ——それは、いつもとは違う景色。
 嗅ぎ慣れない、けれど不思議と安心する、心地よい匂いが私の意識をゆっくりと覚醒させていく。
 ぼやけていた視界は、目の前に眠るその顔に、一気に鮮やかさを取り戻した。
 聞こえるはずのアラーム音は鳴りだす前に止めてしまった。
 私は自分以外の体温で温まっている布団の中にそっと息を吐き出す。
 まだ、夢の中にいるであろう、その表情を確かめ、私は視線をぐるりと動かす。
 締め切られたカーテンはわずかな光も感じさせてはくれなかったが、その向こう側、電車の走る規則正しい音が新しい朝が来たことを教えてくれる。
 どこかまだ自分の体が自分のものではないような、不思議な感覚に支配される。鼻から息を吸い込むと感じられる優しい匂いに、思わず頬が緩む。体の奥、確かに刻まれた熱の痕が、ゆっくりと体温を上げてくれる。私の中には「幸福感」が満ちていて、これを間違いだと疑う余地など微塵もなかった。
 そっと耳を寄せると、かすかに触れる寝息がくすぐったくて、私は肩を小さく震わせて笑った。そんなわずかな振動を押さえ込むように、突然伸びてきた大きな腕に私は抱きしめられた。
「!」
 視線だけを振り返らせるが、そのまぶたはまだ閉じられていて、その顔はまだ夢に傾いている。寝ぼけているのか、それとも自然とそうなったのか、判断はできなかったが、昨日初めて触れたはずの肌が今はこんなにも心地よくて、離れがたい。私はもう少しだけ、その目が閉じられていることを願いながら、もう一度その呼吸に耳をすませた、その時——
「!」
 規則正しく揺れる寝息の代わりに聞こえてきたのはメッセージアプリの着信音だった。自分のものではない、と意識するより前に視線が音の方向へと引っ張られる。頭のすぐ上に置かれた、大きな手に馴染む紺色の縁を残して、暗かった画面が眩しいほどの光を放っている。
「……」
 自然と向けてしまった視線の先で、それは表示された。
 そして目に飛び込んできた名前に、その内容に、私は目を見開く。体の先まで満たされていた熱は一瞬にして消え、声をあげそうになった口を私は急いで押さえた。