入社して二ヶ月が経った頃、繁忙期を乗り越えた時期を見計らって、「遅くなったけれど」との前置きをつけて部署内で私の歓迎会が開かれることになった。
佐藤さんとランチに行くようになって、少しずつ話ができる人が周りに増えてきてはいるものの、私は会社帰りに誰かと一緒にご飯を食べたり、お酒を飲んで帰ったりまではしたことがなかった。そもそもこうやって自分の「歓迎会」をしてくれるような機会なんて今までなかったように思う。不安や緊張もあったが、私は自分の「居場所」をもらえたような気がして、素直に嬉しかった。
歓迎会として成立していたのは、最初の三十分だけだったように思う。気づけばみんな自由に移動していた。最初の座席に座ったままの人の方が少なくなった頃、一度も席を動いていない私の右隣に佐藤さんが座った。佐藤さんは半分ほど飲み物の入ったグラスを片手に私の顔を覗き込んだ。
「牧園さん、前髪長いよね」
それはほんの些細なことで、「もう少し短いのも似合うよ、きっと」そう言って佐藤さんが手を伸ばしたのは自然な流れだった。いつものように柔らかく笑った佐藤さんには悪気なんかなかったはずで、私も「そうですかね?」と軽く笑ってやり過ごせばよかっただけの出来事だった。それなのに……
「!」
佐藤さんの指先が触れた瞬間、私の体を激しいほどの拒絶と恐怖が駆け抜けていった。私は反射的に手を振り払っていた。
ぶつかってしまった手を握りしめて、驚いたように佐藤さんが私を見つめている。見開かれた大きな瞳がゆっくりと色を変えていく。
「あ、いえ、私、その、ごめんなさい。びっくりして……」
そう言ってなんとか笑顔を作ってみるが、私は佐藤さんの指の感触が残るこめかみの上から手が離せない。ドクドクと脈打つように心臓が忙しく動いているのがはっきりとわかる。
——見られた、だろうか。
「……あー、びっくりさせちゃったよね。ごめん、ごめん」
「あ、あの、ちょっと私、お手洗いに行ってきますね」
そう言って立ち上がった私は佐藤さんの顔を確かめる余裕もなく、個室を抜け出しお手洗いのある廊下の奥へと足を進める。
不自然だったかもしれない。気を悪くさせただろうか。でも、あのまま座り続けて何でもないフリができるほど私は器用じゃない。
押さえた右手からは、細くミミズ腫れのように盛り上がっている肌の感触がしっかりと伝わってくる。決して消えることのない傷跡。これは私が今生きている証であり、自分の一部を失った証拠でもある。
「……っ、」
私の両目には熱が溜まっていき、胸の奥からは苦しい痛みが溢れ出る。理由なんてわからなかった。悲しいのか、悔しいのか、どうしてなのか、私自身にもわからなかったが、ただどうしようもなく泣きたくなった。私は廊下の奥を曲がり、女性のマークのある扉へと手を伸ばした。
「牧園さん!」
「!」
突然後ろからかけられた声に驚き、振り返ると常盤さんが立っていた。見慣れたスーツ姿が、今は少しだけ緩んだ雰囲気を纏っていた。細い廊下は少しだけ照明が落とされているので、その表情まではよく見えない。
「……常盤さん?」
溢れそうになっていた涙をどうにか押しとどめ、私は震えないように気をつけながら常盤さんの顔へ視線を向ける。
「大丈夫?何かあったの?」
「え、いえ、何もないですよ」
「でも顔色悪いよね」
「あ、照明のせいじゃないですか?ここ暗いですし」
そう言ってふわりと視線を天井に向けた私が「あの、私、ちょっと……」と言葉を濁して廊下の奥へと体を持っていこうとした、その時——
「ちょっと待って」
「!」
肩に乗せられた大きな手に引き寄せられるように、私の視界は常盤さんの顔でいっぱいになった。ぶつかるように繋がってしまった視線の先、黒い瞳の真ん中に自分の顔が見えるほどにその距離は近かった。
「そんな表情してるのに、放っておけないよ」
「……っ、」
とっくに限界を超えていた私の涙腺はついに崩壊し、私は両手で自分の顔を覆った。常盤さんはそっと顔を寄せると、私の耳元で「ちょっと待っててね」と言い残し、飲み会会場になっている個室へと戻っていった。
このままみんなのところに戻るわけにもいかない状態の私は言われた通り、顔を隠すように俯けたままその場にとどまった。タイツの先から冷たい廊下の温度がゆっくりと上ってきて、溢れてしまった熱を鎮めるように心細さが持ち上がる。
——どうして、なのだろう。
私が何か困っている時や寂しい時、常盤さんだけが気づいてくれる。コピー機が紙詰まりを起こしてしまった時も、課長に注意を受けている時も、電話当番で一人オフィスに残っている時も——思い返せば、気づくと常盤さんが助けてくれた。直接手を貸してくれることもあれば、さりげなく話題を変えてくれることも、外から電話をかけてきてくれることもあった。そうやって常盤さんがいた場面を思い出していると、私の胸は温かくなっていき、心細さは次第に落ち着いていった。
「お待たせ。ごめんね。このまま外行こうか」
その声に顔を上げると、いつの間にか私の上着と荷物を持った常盤さんがいた。
私はどうしていいかわからず、ただ「……はい」と頷くのが精一杯だった。
「みんなにはうまく言っておいたから大丈夫だよ」
そう言って出口へと体を振り返らせた常盤さんに倣うように、私も受け取ったコートに袖を通して、カバンを肩にかける。そんな私の様子を視界の隅で確かめてから、常盤さんは「おいで」と私の手を握って歩き出した。
「!」
手を引かれ、見上げた視線の先、コートを羽織った常盤さんの背中はいつもより大きく見えた。私は自分の手を包み込んでくれる確かな体温に、身体中に張り詰めていた糸が緩むのを、そして感じたことがないほど顔が熱くなるのを自覚した。