——繰り返す日常に嫌気がさしたのは、私が人間だから。
この雨が私を憂鬱にさせる。
この雨が私を安心させる。
——この雨音が私の世界を守ってくれる。
雨が降っている。
そう意識する必要もないほど、耳慣れた雨音が今日も私を現実へと導いていく。
何を見ていたのかも思い出せないような夢から覚めていく、その瞬間が、心地よくもあり、悲しくもあった。
あぁ、今日も1日が始まってしまう。
頬が沈む枕の感触も、体を包み込んでくれるシーツの匂いも、エアコンの風の温度を残した柔らかなタオルケットも、その全部が私を優しく守ってくれているようで離れ難い。――と、同時にそれはこれから向かう現実の辛さを肥大させる。ここにいたい、この幸せな空間にいたい、そう思えば思うほど、ここにいてはダメだ、ここから離れる辛さが増すだけだ、と自分の頭の中で声がする。
ピピピピピ……
視線を向けることなく、私は枕元に置いてあるスマホに手を伸ばす。毎日同じ時間にセットされたアラーム音を私は慣れた手つきで止めた。時間なんて確かめる必要もない。今日も昨日と同じ1日が始まるだけだ。
居心地の良かった空間を抜け出し、体を持ち上げる。たったそれだけの動作を行うために、私は思いっきり空気を吸い込む。冷房の切れた部屋に漂う空気には湿気が混じり、夜の間にゆっくりと取り戻された熱が、私の肌に消えたはずの汗の雫を作っていく。
「んー、よし」
自分だけに聞こえる声は、自分だけを励ます言葉。両腕を伸ばした勢いのまま、立ち上がる。
パジャマ一枚の体に触れるのは、夜から朝へと変わりゆく中で増していった生ぬるい空気と、部屋の中に干された洗濯物から流れてくる柔軟剤の香り。朝陽が差し込むはずの東向きの窓からは、悲しいほどに光が見えない。
それでも——私は手を伸ばし、カーテンを開ける。
隅に押しやられた黄緑色のカーテンの裾で、柔らかな灰色が小さく舞う。吸い込んだ空気には部屋中を漂う埃っぽい息苦しさが混ざり込んでいる。視線を落とした先、ベージュ色の床に裸足の爪が赤く光る。
——部屋の隅でぐるぐると回り続け、どこにも行けない塊になるのか。
窓に打ちつける強さを増した雨音に顔を上げると、ガラスに映る自分の表情の先には分厚い雲の裂け目から光が漏れているのが見えた。
「!」
——開いた窓へと流れる風に乗って、外の世界へと出ていくのか。
勢いを増していく雨と晴れ間を覗かせる空に、私はライトを点けるのも忘れて見入っていた。
見上げた先、ガラスに覆われた巨大なビルには今日も雲で覆われた灰色の空が映っている。近くの信号機が点滅を始め、人々の足を急かすようにメロディが途切れる。
立ち止まってしまった私を追い抜くようにいくつもの傘が通り過ぎていく。
頭のすぐ上でオレンジ色の布に打ちつける雨の勢いに思わず傘の柄を握る手に力がこもる。動けなくなってしまったベージュ色のパンプスには地面から跳ね返った雫がシミを作っていく。
毎日同じようにすぎる時間の中、始まってしまえば終わりに向かって進むだけの流れの中、この憂鬱感だけは消えてくれない。
「牧園さん?」
雨音を遮って耳に飛び込んできた声に、私は赤い傘の縁を傾ける。
「あ、おはようございます。常盤さん」
「……どうかした?」
「あ、いえ、なんでもないです」
「?……あ、今日歓迎会だからね」
そう言って優しく笑う顔に、私はそっと息を吐き出し、隣に並んだ水色のパンプスに促されるように足を踏み出す。
「間違えて帰っちゃダメだからね」
「はい」
ビルの入り口に敷かれた黒いマットが足元の雨を吸い取り、常盤さんの水色の傘が閉じられる。頭の上から下ろしたオレンジ色をゆっくりと萎ませると、不規則に鳴らされていた雨音から解放される。
エレベーターホールへと向かう自分よりも小さな背中を追いかけながら、私は視線をベージュ色の傘の柄を握る彼女の左手に向ける。
ガラス張りのロビーを照らすライトの光に、それは小さく輝いた。
「牧園さん?」
肩にかかる柔らかな髪が揺れて、小さく笑う顔が振り返る。
「……いえ、なんでもないです」
雨は、まだ降り続いていた——。