「ああ、もしかして先輩はあれですか。女の子に免疫がなくて、いきなり名前を呼ぶなんてハードルが高くてちょっと無理だなあとか、そういうことなんですか」
「はあ?」
口から出まかせに言ってみたが、なんだこの煽り文句は。なんでこうなってしまったのよ。もう少し相手を考えればよかったよ。相手の視線が想像するに恐ろしすぎて口角が吊り上がってしまうよ。
「……だいたい、君の名前なんか知らない」
でも、桐嶋高雅の意識は確実にこちらに向けられている。
ひるんでいちゃダメよ、桃香。ここが正念場なんだから、根性見せるしかない。
「藤澤桃香です。高雅さん」
「……」
逃げ場は塞いだところだろう。名前を覚えてもらえないなんて初歩的なことを怠っていたら、この先も桐嶋高雅を攻略するなんて絶望的だ。
固唾を飲んで、私は彼の反応を待ち構える。
桐嶋高雅は、視線を落として立ち止まったままそこから微動だにしない。彼にかけてもらった毛布をきゅっと汗ばむ手で握りながら、その人がどう出るのかを固唾を飲んで見守る。
そして彼はその手でぐいっと私の制服の胸倉を掴むと、自分のもとに引き寄せる。その形のいい口元を、私の耳の近くまで当てる。
一瞬のことで胸倉を掴まれたことにも反応できなかったが、その時の桐嶋高雅の微笑が妙に艶やかだったことは印象に残っている。
「……この間のお菓子、わりとよかったよ。また今度作って来るのなら、考えてあげてもいいけどね。ねぇ、桃香」
至近距離で囁かれる声と吐息が、鼓膜を溶かすほど甘く聞こえる。
鼻腔をくすぐる彼の香りは、よく彼が飲んでいる茶葉の香りに似ている。
いつも無愛想な顔で、本ばかり読んでいる人が醸し出せる艶やかな雰囲気とは思えなくて、不覚にも動揺が顔に出てしまった。のぼせた私を、彼はその口説き文句を言い終わるとすぐに手を放して長椅子に放り込んだ。
そのまま本を数冊手にして消えていく背中を、呆然と見送ることしかできなかった。耳の奥までくすぐったくて、速まる鼓動を抑えずにはいられなかった。
心配そうに私のもとへすり寄って来た白猫に気づくのもそっちのけで、落ち着かない自分の気持ちとしばらく格闘することになった。