花とココアとウエハース

 「ナオさんの誕生花はなんでしたっけ?」

 「ユーストマとゼラニウム。ゼラニウムはどこかにあるかもしれないね」

 「ゼラニウムには、なにか面白い話ないんですか?」

 「洗濯がどうのって……」と、ナオさんは曖昧に言う。「ああそう。ムハンマドが、ある日シャツを洗濯した後、近くにあった植物に掛けて乾かそうとしたと。すると、シャツが乾くまでの間に、その植物が赤いゼラニウムに変わってたっていう話が」

 「へええ。乾かないうちに変わったんじゃあ、そのシャツはさぞいい匂いになったでしょうね」

 「バラみたいな匂いだよね。紅茶とかジャムの香りづけにも使われるとか」

 「あんな匂いの香水とかほしいです」

 「そういうのもあるみたいだよね」

 「へえ、今度探してみよう」

 「精油は高級なものみたいだよ」

 「え、そうなんですか」
 しばらく歩いた先に、池と、そこに浮かぶ花があった。

 「あの黄色い花、かわいい」簡単に描いた花のような五枚の花弁が、濡れた濃い緑の葉に載っている。

 「アサザだね。花言葉は『しとやか』とか『平静』、『信頼』。どの誕生日の花でもないんだ。花弁は、ここから見たらなんともないようだけど、近くで見ると造花にも見える形なんだ。一日花で、午前中に開いて夕方に閉じる」ハート形の葉っぱもかわいいんだよと、ナオさんは楽しそうに語る。

 「いつの誕生花でもない花なんてあるんですね、初めて知りました」

 「準絶滅危惧種に登録されてるみたいだけど、若葉は食用にもなるんだって」

 「おいしいんですかね?」

 「どうだろう」僕は食べたことない、とナオさんは言う。

 「あっ、あっちはハスですかね?」

 ナオさんはわたしの指の先を見ると、「あれはスイレンかな」と優しく声を発した。首から下げたカメラを構え、レンズを覗く。少ししてシャッターを切る。

 「え、どこでわかるんですか?」

 「葉っぱの形。スイレンは葉っぱに切れ込みがあるけど、ハスはないんだ。あと、花の高さかな。あれは水面(みなも)のすぐ上で咲いてるでしょう? ハスはもっと高い位置で咲くんだ」

 「へえ、すごい」

 「そういえば、スイレンって日中に咲いて、日が沈むと花を閉じるでしょう?」

 「ほう、そうなんですね」

 「それには少し悲しくも美しい話があってね」

 ほう、とわたしは続きを待つ。

 「遥か昔、湖のほとりにワヲタという酋領と、その恋人の美しい少女があった。少女の両親は二人の交際に反対しており、少女は煩悶した末に、湖へ身を投じてしまう。ワヲタが彼女を助けようとしたものの、その姿は消え、スイレンが咲いていた。以降そのスイレンは、ワヲタ――太陽の暖かさに花を開き、日没の頃には花を閉じるようになったという。スイレンは漢字で書くと――」

 「睡眠の睡に、蓮」

 「そう。そのスイレンという名も、日没の頃に眠るように花を閉じることに由来するんだって」

 「へええ。なんか、素敵。本格的に台本作ったら、一本の映画作れそうじゃないですか?」

 「そうだねえ。作家の翼というのは、実に容易く広がるものだから」

 「自分の物語の書き方について、花火のようなものだって言った人がいた気がします。一度着火されれば、想像は一気に空へ飛び、大きく咲く。でも結構すぐに消えちゃうから、忘れないうちに制作に取り掛かるんだって」

 「『三色菫』の作者かな」

 「あ、そうですそうです」

 「僕、あの主人公の女性の妹が好きなんだ。前向きで楽観的で、かわいかった」

 「そういう女の子が好きなんですか?」

 「まあ、あまり悲観的な人よりは」ナオさんは少し言葉を選ぶように間を空けて、少し笑って答えた。
 「この辺りは野草だね」と、ナオさんは通路の端を見ながら言った。

 「こういうのもわかるんですか?」

 「ある程度はね」

 「本当にすごいですね。知らないこととかないんですか?」

 「なにを言う」と彼は笑う。「知らないことだらけだよ」

 「それが嘘にしか聞こえないんだからすごいですよね」

 「君は存外疑い深い人なんだね」

 「この頃素直じゃなくなっちゃったので」と笑い返せば、ナオさんはただ穏やかに、「そうか」と笑う。一度は失いかけた素直さを取り戻しつつある、というこちらの中身がわかっているようだった。

 あっ、と、わたしは足を止めた。ナオさんも足を止め、そっと横を向いたわたしの横に着く。「あの白い花かわいい。ちょっとコチョウランに似てる形の」

 「ああ、トキワハゼだね。一年草で、花は基本的に四月から十月程度まで咲く。これも、いつの誕生花でもないんだ」

 「へえ」いつの誕生花でもない花というのは少なくないのだろうか。

 「漢字では、地名の常盤に爆発の爆って書くんだ」

 「かわいい見た目して物騒な漢字当てられましたね」

 「花言葉はかわいくて、『いつもと変わらぬ心』っていうんだ」

 「そうなんだ」

 「『常盤』は長期間花を咲かせること、『爆ぜ』は種の入った丸い実がはじけることに由来するみたいだよ」

 「へええ。じゃあ、花言葉の『いつもと変わらぬ心』っていうのも、その長期間咲き続ける花に由来するんですか?」

 「そうみたい」

 「へええ」

 植物っておもしろいですねと言うと、ナオさんは「それはよかった」と微笑む。しかし美しい人だ。絵を使って魅せる作品なら、この人を描けば登場人物は一人出来上がるだろうなどと、つまらないことを考えてしまうほどだ。
 ヤブラン。漢字では藪蘭と書くその花は、どこかラベンダーにも似た形の花だった。ヤブランという名前は、藪に自生し、蘭に似た葉を持つことに由来するらしい。一日花で、花言葉は「忍耐」、「謙遜」、「隠された心」。薄暗い木々の下で凛々しく咲くことから、忍耐や謙遜との言葉がつけられ、葉の間に隠れるように咲くその紫色の花の姿に由来するという。八月十二日や九月二十日の誕生花。

 クサノオウ。湿疹を治すということで瘡の王と名付けられた、茎や葉を切ると黄橙色の汁を出すことから草の黄と名付けられたなど、諸説あるらしい。一年草で、花言葉は「わたしを見つめて」。鮮やかな黄色の美しい花姿からつけられたのではないかという。七月二十六日の誕生花らしい。

 他にいつの誕生花でもない花として、ジシバリやヘラオオバコ、身近な植物からは、パプリカやイグサ、サトイモ、ゴマを教えてもらった。

 ジシバリは、漢字では地縛りと書くらしく、見た目はタンポポにも似ており、色も黄色だという。どこかしらで見たことがあるはずだと言われたときには、そのような花も見たことがないこともないように感じられたが、その花姿をはっきりと思い出す、思い浮かべることはできなかった。

名前の由来は、分岐した茎が地面を這って育つ様が、地面を縛っていくように見えることにあるという。別名にはイワニガという名前があるようで、それはニガナという植物の仲間で、岩の上に生えることに由来するという。

花言葉は「束縛」、「人知れぬ努力」。束縛の方は花名に由来し、人知れぬ努力は、少しでも土があれば岩の上にも自生し、美しく花を咲かせることに由来するのではないかという。

 ヘラオオバコは、漢字では箆大葉子と書くという。葉が箆の形に似ているオオバコというのが由来。オオバコは、大きな葉の形からきているという。花言葉は「惑わせないで」、「素直な心」。長い花穂の周りに、花弁のように風に揺れるおしべの様から、惑わせないでとの花言葉がついたという。素直な心は、まっすぐに伸びた茎の先で、おしべが風に花粉を乗せる様に由来するのではないかとのことだった。

 パプリカはナス科の一年草で、梅雨から初夏にかけて白い花を咲かせるという。その鮮やかな黄や赤、オレンジ色の実は、わたしの家ではカレーの彩りに添えられる。

花言葉は「君を忘れない」。これには諸説あるというが、アステカ神話に登場するチャンティコという火の女神の話が関係しているのではないかとも考えられているという。チャンティコは、火山やお(くど)などの火を司る火の女神であり、彼女はあるとき、食の掟――パプリカと焼き魚を食べること――を破ってしまったという。それに怒った食の神であるトナカテクトリは、罰としてチャンティコを犬の姿に変えてしまった、という話だ。

他、かの有名なコロンブスに関する話もあるという。コロンブスが旅先より持ち帰ったトウガラシの仲間であるピーマンを品種改良し、パプリカが生まれた、という話だ。

花言葉は他にも、「同情」や「憐み」もあるという。
 イグサは漢字では藺草と書き、畳や座布団、枕などに姿を変え、生活のそばにある植物だ。五月から九月に、黄緑色から淡い褐色の花を咲かせるという。果実の大きさなど、それぞれの特徴を持ったものがあるという。

燈心草(トウシンソウ)とも呼ばれるらしく、それは昔、油で明かりをとっていた頃に花茎の髄を燈心に使っていたことに由来するという。花言葉は「従順」だが、その由来やそれに関する話は、ナオさんもよく覚えていないという。

 サトイモの花言葉は「繁栄」や「無垢の喜び」、「愛のきらめき」。子孫繁栄を表す縁起物として、古くより祝い事に使われていたという。繁栄という花言葉も、一つの親芋から子芋、孫芋――とたくさんの芋ができることからついたという。花は黄色で、八月から九月に咲くという。

 ゴマは、古代エジプト、プトレマイオス朝の女王であるクレオパトラも愛用したという最古の植物油であるという。七月から八月に咲く、朝顔に似ていなくもないという花には、「救護」という言葉がついているという。中国の薬物書、「神農本草経」に不老長寿の秘薬と記され、遠い昔に栄養食として重宝されたその豊富な栄養成分などからつけられたのではないかという。

花の色には白と淡いピンク色があり、白は白ゴマ、淡いピンク色は黒ゴマである場合が多いという。ちなみに、ゴマと聞いて想像するあの小さな粒は、その植物の種だという。

 横に並んで緩やかな一歩を繰り返し、ナオさんの穏やかな声を聴きながら、彼の膨大な知識のこの極一部を、わたしはこれから何分頭に残しておけるだろうと複雑な心持ちになった。
 「君、売店の方には行った?」ナオさんが言った。

 「ええ、行きましたよ。休憩に」

 「そうか。お土産買う予定はある?」

 「あー……特に考えてはいなかったですけど。ナオさん買います?」

 「そうしようかなと」

 「いいじゃないですか。じゃあ、わたしもちょっと見ようかな」


 売店へ向かう途中、「誰に買うんですか?」と、何気なく問うた。「友達と弟に」とナオさんは答えた。

 「へえ、弟さんいるんですか」

 「ああ、双子の」

 「へええ」

 「小さい頃はしょっちゅう間違われて、それぞれイニシャルのアルファベットの小物を持ったり、イメージカラー作ったりして」

 「ナオさんは何色だったんですか?」

 「黄緑」

 「へえ」目の色と同じだ、と思った。

 「弟は紫だった。まあ紫と言っても淡いものだったから、藤色という方が相応しいかな」

 「へええ。そんなに似てるんですか?」

 「個人的には、弟の方が柔らかい雰囲気持ってると思ってたけどね」

 「ナオさんはとげとげしてたんですか?」

 「まあ小学校低学年くらいの頃は大きな差もなかったろうけど」

 「そうなんですね」

 「弟の方が純粋な感じ」

 「褒め言葉ですか?」

 「褒め言葉褒め言葉」とナオさんは笑う。「嫌味じゃないよ」

 なんていうのかな、と続ける。「素直なんだ、すごく」

 「ナオさんは素直じゃないんですか?」

 「いいや、そんなこともないよ」

 もう脱皮したからと言う彼へ脱皮ってなんですかと笑いながら食い気味に返すと、彼も同じように笑った。
 土産売り場には、植物を模した雑貨が多く並んでいた。人気キャラクターとの限定コラボ商品がどんと正面で迎え、園内で見学できる植物の写真がプリントされたクッションなどが、入って左側の壁を埋めている。店の奥には、青地に白で刻まれた「パズル」の文字が掲げられている。わたしはそちらへ歩みを進めた。

 目についたものを一つ手に取って振り返ると、ナオさんがいた。「このパズルシリーズなんかかわいくないですか?」園内の部分部分を切り取ったジグソーパズルだ。人気商品の四字を抱えたポップがそばにある。

 「これは……弟が寝不足で倒れる」

 「弟さん、パズル苦手なんですか?」

 「ううん、むしろ得意だと思うよ」

 「じゃあなんで……」と返すと、「僕が全部買って行っちゃうから」と、ナオさんは当然のように、少年のような笑みを見せる。「加減しましょうよ」とわたしは苦笑する。

 「弟は時間や寝食を忘れてのめり込む部分があるから、全部買って行こうものなら大変なことになる」

 「いや、だから加減しましょう?」

 「どうせ買うならぱーっと買いたいでしょう?」

 ねっ、と眩い笑みを見せるナオさんへ、「富豪ですか」と苦笑する。
 パズル売り場の少し手前、クッション売り場の少し奥に、植物の絵が並んでいた。その一角だけが黒を基調とし、高級感を放っている。一枚、妙に目に入ってきた絵があった。黄色のハスのような花が描かれた、どこか暗い印象の受ける絵だが、わたしには実に魅力的に映った。

 しかし、と思う。こう洒落たものを飾れるような空間が、我が家にあったかと疑問が湧いたのだ。玄関に飾るにしても、額が洒落た木製のもので、なんだか我が家の玄関には合わなそうだ。

 いや――。いざ飾ってしまえばさほど違和感はないのだろうか。合うように想像すれば、我が家の玄関もこの絵をすんなりと受け入れてしまう。その逆もしかり。

 これは、と思う。合うと思えば合うし、合わないと思えば合わないのではないか。第一印象は見る人によって変わろうが、我が家への来客は少ない。

 買うべきか、否か――。そうだ、値段は。くるくると手元の絵の向きを変え、見つけたバーコードのそばには七千五百円を表す数字が並んでいた。幸か不幸か、今の財布からすれば買えないこともない金額だ。

 ふと人の気配を感じて振り返ると、ナオさんがパズルを見ていた。こちらの視線に気づいた彼は、「いいものあった?」と優しく言う。

 わたしは体ごと彼の方を振り返った。「この絵、ナオさんだったら買います?」

 うん、と彼は即答した。「魅力を感じてるんでしょう? それなら買わない他ないでしょう」

 「七千五百円なんですよ……。バイトもしてない大学生には小さくない出費なんですよね……」今の財布の状態からすれば買えない値段であるのも事実だが、今後のことを考えると決して安いわけではないというものまた事実だ。

 「いいんじゃない? それでも買っちゃえば。やって後悔するより、やらずに後悔する方が嫌なものだよ」

 どきりとした。ああ、そうだ。わたしはそれを知っていたはずなのだ。それがこう、特別な不満を感じていない状況にあると、簡単に忘れてしまう。

 「たまにはやった後悔をしてみるのも、おもしろいんじゃない?」
 絵はダンボールに包まれ、ダンボールを縛る紐には緑色のフックがつけられた。フックに手を通して持ってみると、それは買うか買うまいか悩んでいるときよりも重たく感ぜられた。これが七千五百円の出費の重さか。

 売店を出て、バッグからペットボトルを取り出す。人肌、と言うには少し熱いようなスポーツドリンクは、あまりうまいとは思えない。

 「絵、買ったんだね」とナオさんの声が聞こえて振り返ると、彼は大きな袋を二つ持っていた。随分買ったなというのと同時に、こんな場所で土産を売っているような店にこれほどの大きさの袋があるのかとも驚いた。すごい、とわたしは小さく笑う。

 「ナオさん、随分買いましたね」

 「買い物は趣味なんだ」ものを買うのが好きなんだと彼は言う。


 「なに買ったんですか?」と、園の出入り口へ向かいながら問うた。

 「それはもう、いろいろ。自分用にはクッションとジグソー……あげるものには、ちょっとしたお菓子と立体パズル」

 「あそこ、お菓子高くなかったですか?」

 「それくらいの買い物の方がおもしろいじゃない?」


 車で来たのだというナオさんとは駐車場へ続く道と出入り口へ続く道とで分かれるところで手を振った。彼は舞台を変えて、引き続き“趣味”を楽しむという。