「数年もの時が経てば、わざわざ今日一日を思い出すことはせず、大学校生活はいかなるものだったかと考えるように僕は思います。――今この瞬間は、君にとってどんなものですか?」

 わたしは彼から目を逸らしてココアを飲んだ。「……無駄、とは思いません。楽しいです」

 「それで充分ではないでしょうか。数年後の君は、今日の君を覚えてはいません。今日の君が数年後の君のためになにか行動を起こしても、数年後の君はそれを知らず、自らの気の赴くままに動きます。それなら、知らない人のために時間を費やすよりも、今や今日を好きなように過ごす方が、よほど有意義であると、僕は考えます」

 「……人は二度死ぬ。一度は肉体的に、二度目は人々の記憶から消えて――」

 「はい?」

 「いえ。ふと思い出したんです」

 「確かに、そんな言葉も聞きますね」

 「人が完全に死ぬのが人々に忘れられたときなら、物事が無駄になるのはどんなときでしょう」ぽろりと発していた。

 「さあ。君はどんなときだと思う?」

 わたしが黙って目を見返すと、彼は小さく苦笑した。「そうだなあ。僕はいかなる物事も無駄になることはないと考えてるよ。先のように、その瞬間が楽しけりゃいいと考えてるからね」

 「……へえ。例えばわたしみたいに、今までやってきたことを変に考えを回して辞めちゃったとかでも? それを後悔してても?」

 「君は部活やその内容を辞めたことを悔いているの?」彼はしなやかに、サイドテーブルのグラスを取り、その淵に口をつけた。白く細い、まるで芸術品のようなその喉が、こくりと中身を飲み込む。

 「悔いてる――と言えば、悔いてるかもしれません。あの頃は楽しかったので」

 「そう」彼はそっとグラスを置いた。「なんてつまらないことを」。ぽつりと呟いた。

 「……え?」

 「後悔。実に嫌な気持ち。そんな心持ちでいるのは、実につまらないじゃない」

 「……そうだけど……」

 わたしが俯くと、彼はくすりと笑った。「もう辞めてしまったのだから致し方ない、とでも言いたげだね」ふっと苦笑して、「超能力者って信じます?」と返すと、彼は「興味深い分野ではあるよ」と答えた。「わたしの目の前にいるみたいです」と返せば、今度は「おやおや」と笑った。

 「君は今、部活動の内容をやりたいの?」

 「……どうなんでしょう。あの頃に戻りたいというか――」そこまで言って、「いえ」と首を振った。「やりたいんだと思います」と言うと、彼は「そう」と短く頷く。「なら、現状を脱すのは至極簡単じゃないか」

 「なにを言うんですか」

 「そんなに難しいことを言った自覚はないんだけどね」と彼は苦笑する。「やりたいことを辞め、それを悔いているなら、再開すればいいまでのことでしょう。あくまで君自身の意志で辞めたのでしょう? それさえなければ続けていたであろう、と。それなら、再開すればいい。大きな問題故に、辞めざるを得なかったわけではないのだから」

 「再開と言ったって、もう何年も経ってるんですから……」

 「できないと思うのなら、別に夢中になれるものを探す。やりたいという気が強いのなら再開する。簡単なことじゃないか」

 「そうですかね……。他に夢中になれるものを探すのが賢明な状況でも、再開したいと思ったら?」

 「再開してみればいいではないですか。それでだめなら、諦めがつくでしょう。本当に好きなことなら、一度、限界まで行ってみるのがいいですよ」

 自分の中で、なにかが動くような感覚がした。いや、動こうとしているような感覚だろうか。それにどう対応すべきか考える。それと同時に、動こうとしているものがなんなのかを考える。

 「僕は君のことを知っていますが」彼は言った。「僕は、思い切り笑っている君が好きですよ」

 「思い切り笑っている……。あの……わたしとナオさんって、いつ会ったのでしょうか?」

 「いつだろうねえ。ここで答えてしまうのは簡単だけど、なんだかもったいない気がしてねえ」

 「……当時、話したことはありますか?」

 「話したことはないかな」

 「……それで、わたしを知ってるんですか……?」

 「君は素敵な人だから。憧れのようなものもあったんだよ」

 背に嫌なものを感じた。話したことがないのにどうしてわたしのことを知っているのだろう。ああでも、とも思った。過去に、話したことはなくとも存在はよく知っているという先輩がいた。彼の中で、わたしもそれに似た存在だったのだろうか。いやしかし、とさらに否定する。わたしが一方的に知っている先輩は、わたしに限らず皆が知っているような人だった。しかしわたしは――。

 「僕はね、木が好きなんだ」。ぽつりと、どこか悲しげに、それでいて嬉しそうに、彼は呟いた。その言葉の真意は、わたしには読み取れなかった。