花とココアとウエハース

 一度きりの人生だ、好きなことをして生きろ、とでも言いたげな物語だった。では、とわたしは思う。そのためにはなにをすればいい。誰しもそう生きたいと考えていることだろう。好きなことをして生きる。それほど望ましい人生などないだろう。ただ、それができないのはなぜかと考えたとき、わたしは毎度、そのほとんどの人間がその術を知らないからだという答えを出してしまう。世の創作物には、こうして好きに生きろと語るものが多い。ただ、その術を提供するものに触れたことはない。皆それが知りたいのではないか、と毎度思う。好きなことをして生きろ、楽しめ、たった一度の人生だ。耳に胼胝ができるほど聞いた語り掛けだ。

 わたしはため息をついて、二冊の本を手に席を立った。

 本を戻して自動ドアをくぐると、日中よりは少し涼しくなったと感じられなくもないような風が、静かに髪の毛を揺らした。

 部屋着のジャージに着替えてベッドに寝転び、はあと息をつく。好きに生きろ、楽しく生きろ、精一杯生きろ――。好きなことなど満足にできないようなこの世界で、いかにしてそうも煌びやかな人生を送れというのだろうか。

 少し考えて、創作物とはなんて一方的なのだろうと思ったとき、はっとした。考えてわからないことはない――。いつかから肝に銘じてきた言葉だ。考えてわからないことはない、あの煌びやかな人生を送る術も、考えればわかるのだろうか。それなら、わたしの考えがまだ足りないのだ。
 好きなことをして、楽しく自由に生きる術――。好きに生きることを拒む物事に打ち克つ強さがあればいいのだろうが、それを得るには――。創作物の登場人物のように動いて、果たして自由に生きることはできるのだろうか。尤も、この世界で創作物の登場人物のような言動を取ること自体、易いことではないように思える。

 好きなことをして生きる――。わたしとは遥かな距離があり、ある種のファンタジーのように思える。そんなことはできるはずがないと、どこかに諦めのようなものがあるのかもしれない。実際、本当の意味で好きなことをして生きている人はどれほどいるだろうか。物事には必ず、光が当たっている面と陰っている面があると聞いたことがある。どれだけ望ましいものに見えても、必ずどこかしらにお呼びでない要素を孕んでいるのだ。

 人生山あり谷あり――。もう少し達観できれば、山と谷のコントラストが美しいなどと本気で言えるようになるのだろうが、今のわたしには難しい。
 テレビを点けると、先日公開された映画の広告が流れた。ラスト十五分、あなたはきっと涙する――。影があるから光があるのか、光があるから影があるのか。影を消そうとすれば光も消え、影を消そうとすれば光が消える。どうにか光だけで飾る術はないものかと考える。


 夕食は、魚の塩焼きときんぴらごぼう、わかめと豆腐の味噌汁と白米だった。

 「そうだ」食事を始めてすぐ、母が言った。「帰ってきたときにちょうど、お母さんから荷物が届いたの。楓の好きなお菓子も入れておいたって、メールが来たわ」

 「そう、嬉しい」

 「また送るわねって書いてあった。お母さん、楓大好きだもんね」

 ふと、父が「今日の味噌汁うまい」と呟いた。「まあひどい」と母は言う。「いつだっておいしいでしょう?」と続ける彼女に、父は「うん」と短く返す。少しいい加減に返したようにも見える。

 きんぴらごぼうを口に入れ、ゆっくり咀嚼しながら、わたしは、わたしの好きなお菓子ってなんだろうと考えた。
 母から受け取る濡れた食器を拭き、作業台に重ねていく。「はい最後」という言葉とともに受け取った皿を一番上に重ね、一気に食器棚へ納める。背後に居間からのバラエティ番組の音声が聞こえ、「お父さんもたまには手伝ってくれればいいのに」とわたしは呟いた。「無理だよ、あの人は考えが古いの。『男は台所に立たない』から」と、母は少し大きな声で言う。「地獄耳ってのは嫌だなあ」と言う父の声に、「そうでなくても聞こえるように言ったのさ」と母は笑い返す。「聴力検査を兼ねたのよ」と言って、彼女は「荷物見てみれば?」とわたしに言った。わたしは「そうだね」と返して、「玄関上がってすぐのところに置いてある」と言う母の声に「了解」と返す。

 “玄関を上がってすぐのところ”に、確かに段ボール箱が置いてあった。鋏忘れたと思った直後、「忘れ物だよ」と母の声が聞こえた。振り返ると、彼女は鋏の柄の方を差し出す。礼を言って受け取り、段ボール箱を開ける。

 「なに入ってる?」と言って、母はわたしの隣にしゃがむ。開いた段ボール箱の中には、見覚えのある濃い茶色の袋が入っていた。

 「コーヒーチョコのウエハース……」

 「ああ、確かに楓好きって言ってたね」

 「そうだっけ」

 「覚えてないの?」

 「どうなんだろう」と返すと、母は「他人事みたいに言って」と笑う。

 「あと、バナナチップスとドライフルーツ。あと、ちょっと高そうなチョコ菓子。随分くれたね」まあ箱は大きいと思っていたが、と心中に苦笑する。

 「こんなにいっぱいどうしよう」

 「友達にでもあげればいいんじゃない?」

 「お母さんはいつからそんないけずな魔女になったのかな。わたしに友達と呼べる友達はいませんよ」

 「あら嫌だ、悲しいことを言うねえ。高校の頃の友達は今だって友達でしょう?」

 「もう音沙汰ないよ」

 「連絡くらい取り合いなさいよ」

 「特に要件もないし」

 「それでも連絡するのが友達でしょうよ。わたしなんかあれよ、未だに高校時代の友達と連絡取ってるからね。もう三十年近い付き合いよ」

 「仲がいいのは何よりです」

 「久々に連絡でもしてみれば?」

 「お菓子のお裾分けよおって?」

 「いいじゃない。そういう何気ないことを発端に、またかけがえのない存在になったりするものよ」

 「ふうん」

 「まあ、楓の場合は自分で全部食べるっていうのも選択肢の一つじゃない?」

 お風呂入らなきゃと言って、母は身軽に立ち上がった。わたしは段ボール箱の中の菓子類を眺め、少しずつ食べればいいかと息をついた。
 湯船に浸かると、じわりと湯が溢れた。少し太ったかなと腕を見る。まあいいかと腕を下ろし、ふうと長く息をつく。天井を仰ぐと、髪の毛をまとめているタオルがずれたように感じ、適当に形を整えて固定し直した。

 湯に浅く手を入れ、両手を握るように一気に力を込める。勢いよく飛び出した湯は頬を叩いた。幼少期、よくこうして親と遊んだものだ。当時あれほど広く感じていた湯舟が、すっかり一人でちょうどよく感じられるようになっている。成長しているのだなと、寂しさのような焦りのような複雑な気が胸を泳ぐ。先月十代に別れを告げたが、精神的にはなにも変わっちゃいない。幼い頃には、一つ年齢の数字が大きくなる度に、お姉さんになったんだよと言って喜んでは背伸びしたような言動を取ることもあったが、それもいつからかなくなってしまった。一つ歳を取ったからといってなにが変わるのだ、誕生日といってもただの平日ではないかというのが最近の気持ちだ。そんな頃になって、父には時折、もう○○歳だろうと言われるようになった。他と同じように一日を過ごしたからといってなにも変わりやしないのだと、そう言っては彼を苦笑させている。もう、自ら成長を止めてしまっているのだ。好奇心も理想もない。動く理由がないのだ。動かなければ成長はできない。自分がなにをしたいのか、なにになりたいのかがわからない。まずはそれを知るところからなのだろうが、その術を知らない。
 風呂上がり、わたしは濡れた髪の毛にタオルを被って、段ボール箱から茶色の袋を取った。台所に寄って冷蔵庫から五百ミリリットルペットの天然水を取り、テレビを見て笑う父に「お風呂空いたよ」と告げる。母は父とテレビを見ながら、アイスカップを手の中に包んでいる。

 私室に戻り、水を半分ほど飲んでふうと息をつく。持ってきた茶色の袋を開け、がさりと入った中身を一つ取り出す。細長い濃い茶色の物体には見覚えがある。チョコレートでコーティングされたようなものだ。コーティングするチョコレートはしっとりしているが、包まれたウエハースはさくさくしている。味は「コーヒーチョコ」と書かれているだけあって、チョコレートの甘みの中にコーヒーの香ばしさと心地よい程度の苦みがある。おいしい。ああ、確かにわたしはこれが好きだったかもしれない。“これ”が好きであると思い出しただけで、なんだか自分という人間を少し理解できたような気がした。新たにウエハースを口に入れ、一喜一憂という言葉を思い出す。少しすればまたなにかわからないことに出くわし、憂うのだろう。

 歯を磨いて戻り、ベッドに寝て天井を眺める。好きな物事、得意なこと、嫌い、苦手な物事。もしも高校二年の秋に友人に言われた“得意なこと”を続けていたなら、現状はもう少し違ったのだろうか。いやしかし、と当時は思ったのだ。仮に“得意なこと”を続けていたとしても、いつかはやめなくてはならない瞬間がくるに違いないのだと。不可抗力によって諦めるくらいなら、自らの意思で辞める方がまだ気分がいいと思った。しかし今では、辞める他の選択肢などないところまで上り詰めて辞める方がよかったとも思える。

 ああ、綺麗になりたい――。
 電源ボタンを押した携帯電話は、ロック画面に十一時四十八分を表す数字を並べた。夏休み開始早々半日終わってら、と苦笑する。わたしは携帯電話を開き、白い画面に文字を並べる。「おうちの張り紙を拝見した者です。夏季休暇で時間を持て余しているので、よかったらリバーシの対局で相手になっていただけませんか?」――。もう少しまともな文字の並べ方があろうと思い、一気に文字を消す。そして何度か書き直して、文字を送信した。

 返信は早かった。「もちろんです! 日時の希望はございますか?」

 「特にありません。貴方の都合のいい時にでも」

 「僕はいつでもかまいませんよ。いつもお相手の希望に合わせて決めています。今日でも明日でも、一か月後でも大丈夫です」

 「じゃあ、今日でも?」

 「もちろんです。時間はいつ頃にしましょう?」

 「一時間後とか?」冗談のつもりだった。相手がどう返してくるのかが気になった。ほんの悪戯心、といったものだ。

 「もちろんです。お待ちしております」文末には、穏やかな表情で目を閉じる顔文字が添えられていた。これだけのやりとりだけで判断するとしたら、非常に穏やかで親しみやすい人物となるが、実際にはわからない。それでも、こちらから対局を申し出た以上、わたしはあの家へ向かう。幸い、足の速さにはいささか自信がある。体の軟らかさや瞬発力もまたそうだ。
 白い外壁、真紅の屋根の平屋。煉瓦調のブロック塀に、無用心にもでかでかと連絡先を記した張り紙。ああ、ここだ。わたしはブロック塀の間から敷地に入り、微かな緊張感とともに足を進める。昨日も見たが、しかし大きな庭木だ。なんの種類なのだろうか。もくもくとした雲を抱く青空の下、蝉の声と気まぐれに吹く乾いた熱風に青々とした葉を揺らしている。

 和とも洋ともとれない石畳がいくつか並び、ブロック塀から十メートルほどで玄関前に着いた。玄関扉は引き戸だが、これもまた和にも洋にも属さないようなものだった。呼び鈴のボタンを押すと、なんの変哲もない間の抜けたような音が二度繰り返された。五秒ほど蝉の声を聞いたかという頃に、引き戸ががらりと開いた。「こんにちは」と言う家主を見て、どきりとした。白に限りなく近い艶やかな金髪に、無駄なもののない白い肌、儚さと優しさを併せ持った双眸は、向かって左は茶色、向かって右は薄い緑色をしている。顔立ち自体も美しく、人形――ドールと呼ぶ方が多いもの――のようだと思った。

 彼はふっと、穏やかな表情を浮かべた。

 「君だったんだね」

 「……え?」

 「なんでもない」

 「わたしのこと、知ってるんですか?」

 「まあね。さあ、蝉が元気に歌う時期です、さぞ暑かったでしょう」お上がりください、と彼は続け、中に入っていった。「失礼します」と言って後に続く。

 「……庭の木、随分大きいですね」彼の後に続いて廊下を歩きながら、わたしは言った。彼はある扉の前で足を止めると、「美しいでしょう?」と笑みを見せた。

 「美しい?」あなたがということならば否定はしませんがと言いたくなった。

 彼はふわりと、どこかに憂いを感じさせるように微笑んで、がちゃりと扉を開けた。
 扉の先は、入って右側の壁に様々な玩具が並んだ、濃い茶色や深い赤を基調とした空間だった。壁は茶色、足元には深い赤の絨毯が敷いてある。部屋に入って左側に、透明な椅子と机が置かれていた。

 「リバーシでしたね」彼が言う。「はい」と頷くと、彼は「どれにします?」と壁を見た。

 「どれ、と言いますと?」

 「リバーシの盤や石にも個性があって、触り心地や音、見た目も一つ一つ全然違うんですよ。お好みのものをお選びください」

 「ええ……いや、わたしそこまで詳しくなくて……。こういうのが好きとかもないんで。なんでも大丈夫です……」

「そうですか」と言うと、彼は「では夏らしい見た目のものにしましょうか」と、“魅せる収納”と言えそうな壁から、なにやら透明な盤と二本の筒を取った。

 「なに飲みます?」彼は壁から取ったものを机に並べながら言う。え、と発したのは、我ながら随分と間の抜けたものだった。彼は落ち着いた様子で言葉を並べる。「頭を使うと喉が渇きます。なにかお好みの飲料、ご用意致しますよ」

 「えっと、じゃあ……ココアとかありますか?」

 「ココア」彼はまたふわりと穏やかに微笑み、「少々お待ち下さい」と残して部屋を出て行った。

 静寂と残されたわたしは、くるりと体の向きを変え、壁の収納を眺めた。張り紙に書いてあったボードゲームの盤とトランプがずらりと並んでおり、なにより「将棋」や「将棋駒」と書かれた箱や、蓋を被った壺のような木製の入れ物が多く並んでいる。その数は、小さな博物館と見紛うほどだ。

 彼は静かに部屋に入ってくると、「お待たせしました」と優しい声を発した。

 「あの、この箱とか、入れ物ってなんなんですか?」言った後、わたしは壁に並ぶ物物に目をやった。

 「将棋駒と碁石です」彼の声の後、硝子が机に置かれる音が続いた。「将棋駒や碁石にも、皆――プレイヤーそれぞれに好みがあります。なので、対局前にお好みのものを選んでいただくようにしてるんです」

 「へえ……。えっ」わたしは彼へ、揃えた指先を向けた。「結構、拘ってらっしゃるんですか?」

 いやいや、と彼は手を振って苦笑する。「僕は全然。対局さえできればいいくらいに思ってるほどなので」

 「そうなんですね。なんか、ちょっとほっとしました。あまり真剣に向き合ってらっしゃる方だったら、なんかわたしなんかが対局を申し出たのが申し訳ないなって」

 「拘りなんて難しいことは置いておいて、好きならそれでいいんです」彼は穏やかに言うと、椅子に腰掛け、「どうぞ」とこちらを振り向いた。「失礼します」と会釈して、わたしは彼の前の椅子に着いた。