花とココアとウエハース

 自宅に着くと、わたしは私室の収納を漁り、埃を被ったCDプレーヤーを取り出した。箱から引き抜いたティッシュで埃を拭き取り、蓋を開ける。少し探して見つけたイヤホンをジャックに挿し、紙袋に重なるうち一枚のCDを再生する。耳元で奏でられる音は、あの部屋で聴いたものとは少し感じ方が違うが、充分に心地良いものだ。

 借りたCDを聞き終えてイヤホンを外すと、階段の下より母の声が聞こえた。私室の時計は十九時過ぎを示しており、夕飯ができた頃だった。「今行く」と返して、取り出したディスクをケースに返し、イヤホンを簡単にまとめて部屋を出た。

 居間に入り、「勉強?」と問うてくる母へ、「嫌味かな」と返す。「音楽聴いてたの」と続けると、「珍しいね」と母は言った。「ある人からCDを借りてね。それを」

 「へええ。なんの?」

 「クラシックとジャズ」

 驚いたように「まあ随分印象とかけ離れた」と言う母へ「失礼だな」と笑い返す。

 「否定はしないけどね。実際、聴かないジャンルだなと思って借りたから」

 「へえ。まだ好奇心あるんだね」

 「二十歳前後にもなると好奇心なくなるの?」

 「そう聞かない?」

 「わかんない」

 母は天ぷらの並んだ皿と、茶碗、二つの小鉢と汁椀をわたしの前に並べた。最後に箸と、天つゆの入った小皿を置く。天ぷらはきすと夏野菜、小鉢には冷奴と椎茸の煮物が一つ。汁椀には、トマトとオクラ、玉子の味噌汁――おみおつけと言った方がいいだろうか――が盛られている。

 「今日、豪華だね」

 「そうなの。椎茸、安かったからつい買っちゃった。朝に食べようと、お豆腐を買いに出掛けたの。あと、油」

 残り少なかったから、と言う母へ、「そうなんだ」と返す。

 「いただきます」と手を合わせ、箸を手に取る。
 ナオさんに連絡をしたのは、ほんの数日後のことだった。今回返ってきた文字に文学の静かな語りは聞こえなかった。

 四分袖の丈の短い白いティーシャツにハイウエストのジーンズを穿いて、桜色のバッグと、借りたCDの入った紙袋を持って家を出る。

 ナオさんは縁側におり、先日完成したまりを持っていた。糸で描かれた鳥が羽ばたくように動く様は圧巻であった。

 彼はわたしに気づくと、「やあ」と笑みを見せた。「今日も暑いね」と言う彼は、わたしが近づくと「なに飲む?」と問うた。「ココアで」と答えると、「了解」と言って軽快に立ち上がる。わたしが頼んだのはココアだし、まりも完成しているが、残された状況は先日によく似ていた。足元には畳草履、縁側には冷茶グラスと辛そうなおかき。辛い物が好きなのだろうかと想像する。では、グラスに注がれた無色の液体は水と考えるのが自然か。

 「お待たせ」と戻ってきたナオさんは、グラスの他、ウエハースの載った皿もお盆から下ろした。「わあ」と声を漏らすと、「一昨日かな、友達が持ってきてくれたんだ」とナオさんは言う。

 ふと思い出して「土踏まずの痛い人ですか?」と笑い返すと、「正解」と彼は笑った。

 「すごいですね、中学生の頃からまだ付き合いがあるなんて」

 「友人関係は狭く深くを心に留めてるから」

 「素敵ですね」

 「光栄の至り」と、ナオさんは照れたように笑う。

 いただきますと口に含んだココアは、どこか懐かしいような甘みを持っていた。「おいしい」

 「よかった」
 
 わたしはウエハースをかじった。「好きだなあ」と、自然と声になった。
 「ああ。CD、どれもよかったです。なんかもう、それはそれは幸せな気分になりました」

 「本当。それはよかった」

 「チェロとかコントラバスとか、ああいう音ってなんなんでしょう。落ち着く――というだけじゃなくて、なんか魅力的。好みに合ってるというのもあるんでしょうけど」

 「ああいう音は、落ち着くって感じる人、多いみたいだよ。なんでも、人間の声の波長に似てるかららしい」

 「へええ。波長……音の揺れ方みたいなことでしたっけ」

 「そんなところ」

 「ナオさんは? 好きな楽器ってなんです?」

 「なんだろう……管楽器かな。特にフルートが好き」

 「わたし、フルートで演奏された花のワルツが好きです」

 「ああ、綺麗だよね」

 目が合い、ふわりと微笑むナオさんの真似をするように笑い返して、わたしは上体を後方へ倒し、適当な場所に両手をついた。

 「わたし、ナオさんといる時間、大好きなんです」

 「本当? 嬉しいな」

 「なんか、穏やかな心地になるんです。今、気温はすごく高くて暑いのに、春の公園みたいな心地良さがあるんです。なんだかふっと気が楽になって、そのまま眠れちゃいそうな」

 「僕も、君といる時間好きだよ。幸せな気になる」ナオさんはまりを投げ上げ、ぽんとそれを受け止める。「気が楽になる、というのも、わかる気がする。君といるときに感じるものが、そう表せるかもしれない」

 「わたしも嬉しいです、ナオさんにそんなふうに思ってもらえて」

 「君は、僕の憧れの人だから」

 「そんなこと言ってくれますけど、わたしはそんなにすごい人じゃないですよ?」

 「君は一途だ。僕はそうじゃない。ないものねだりのようなものだろうね。僕は君みたいに、一つのことを極めている人が好きなんだ」

 言葉を返すのに、少し時間を要した。くしゃりと皺の寄った、ティーシャツの腹部へ視線を落とす。「わたしは……一つのことを極めてなんかいませんよ。あれやこれやと余計なことを考えて、辞めてしまいました」

 「そうかもしれないけどさ。でも、新たに好きなものを見つけたでしょう?」

 「え?」

 「チェロとコントラバス。クラシックとジャズ」

 「でも、演奏するわけでもないですし」

 「好きならそれでいいじゃない。好きって、素敵なことなんでしょう?」

 わたしはふふふと笑った。照れ隠しのようなものだ。「ナオさんの頭の良さには敵いませんね、変なことは言えたものじゃありません」

 ナオさんも小さく笑った。

 好きというのは、素敵。ナオさんは好きな物事があるわたしをそう見てくれたのだろうか。それならわたしは、ナオさんがいる限り素敵で在れると思った。彼との時間が、彼自身のことが、好きなどという言葉では到底足りないほど大好きなのだから。彼といると、もわんと髪の毛を揺らす夏の風は桜や菜の花の香りに、人より遥かに短い一生を精一杯叫ぶ蝉の声は、小川のせせらぎに変わるのだ。
 「ねえ、ナオさん」

 「ん?」

 「わたし、ずっとやりたいことがなかったんです」

 「そうなんだ」

 「高校の頃、進路を考えたときから。世の中を、少し斜めに捉えていた部分があったんです。好きなことなんて、やっている瞬間は楽しいけど、どうせいつかは辞めなくてはならない瞬間がくるって考えてたんです。だから、周りには、新体操を続けた方がいいとか、新体操があるからいいよねとか言われたんですけど、結局辞めて、大学進学っていう無難な道を選んだんです。

それで、あれやこれやと考えてから起こした行動って、ろくな結果を持ってこないなって思って。それにはちゃんと根拠があるんです。新体操を始めたのも、部活として珍しいなって思ったくらいで、特になにを考えるでもなく入部を決めて始めました。やっている間はすごく楽しくて、ほとんど直感だったその決め方は間違ってなかったと思ってます。それでも、辞めるときには余計なことを考えて決断して、一度はすごい後悔した。

もう一つ、直感で選んだ道がいい結果を持っていてくれたことがあって。それがまさに、ナオさんとの再会なんです。大学の夏休みってすごい長くて、暇なんですよ。それである日、図書館に行こうと思って。その道中だったかな。この家の、ブロック塀の張り紙を見て、ナオさんに連絡してみた。暇だったし、リバーシくらいでなら、それなりに経験のある人にも勝てると思ったし。そうしたら、こんなにも楽しくて幸せな心地を味わえた」

 「直感、か。どうかな、僕に会ったのは、新体操を辞めちゃったからかもしれないよ。だから君は大学に進んで、夏休みに退屈を感じて図書館へ行き、僕に連絡をくれた」

 わたしは思わず噴き出した。「ナオさん、意外と楽観主義なんですね」

 「先日話したように、弟もそう思ってるみたいだったよ」

 「グラスに半分ある水を見て、ナオさんはどう思います?」

 ナオさんはふっと口角を上げた。「まだ半分ある、かな」

 「やっぱり」とわたしは笑った。
 「僕も、高校で進路を考えるっていう頃から、やりたいことがなかったんだ」ナオさんは真面目な声で言った。そういえば先日、そう言っていたなと思い出す。

 「今は見つかりました? やりたいこと」

 「うん。高校を卒業して少しした頃かな、これなら楽に稼げそうだと思って、見つけた」

 「あ、仕事を見つけたってことですか?」

 「まあ、そうなるのかな。仕事なんて御大層なものだとは思ってないけどね」

 「なにしてるんです?」

 「サイトの経営と、敷地を駐車場として貸してるんだ」

 「へえ、そんなに稼げます?」

 「まあ」こんな生活ができるくらいには、と、ナオさんは軽く両手を広げた。

 「結構みたいですね」とわたしは笑い返す。「サイトの方は? 会員制みたいなことですか?」

 「そう。月額制」

 「へえ。結構会員さんいるんですか?」

 「まあまあ」

 「へええ。もしかしたら、わたしもそのサイト使ってるかもしれないですね」

 「どうだろうね」とナオさんは笑みを見せる。

 「君はどう? 大学生でしょう、これからのことは考えてるの?」

 「世話焼いてくれるんですか?」

 「まさか」とナオさんは両手を小さく振る。「そんな大役は引き受けないよ」

 「そうですか。ナオさんになら、いくらでも世話焼かれたいです。お説教も、誰かしらにされなきゃいけないんならナオさんがいいくらいです」

 「説教なんかさせなければいいんだ。先生でも、親御さんでも」

 「でも絶対してきますよね」

 「結構しつこいからね、ああいう人たちは」

 「本当です」とわたしは笑い返す。「でも、大丈夫です。わたし、やりたいこと見つかったんで。しかも、こうして大学生しないとできないこと」

 「ほう。素敵じゃない」

 「今、大学では哲学科にいるんですけど、それを極めます。ナオさんのおかげで、知ることと、教わることの楽しさを知ったからです」植物園での一日のおかげですよとわたしは挟んだ。「なので、今度は教える側に回ろうかなと。興味のある分野について知っていくのって楽しいんだよって」

 ナオさんはただ優しく微笑んで、「そうか」と頷く。

 「はい。それに、世の中、意外と好きなことをやっていられるんだと気づいたのもあります」

 わたし、今度は途中で諦めたりしません――。わたしは強く宣言した。

 世の中、意外と好きなことをやっていられる。これに気が付けたのもまた、ナオさんのおかげだ。彼が再会したとき、自由に生きていたからだ。好きなことをして、自由に生きることができる。彼はわたしに、それを全身で教えてくれたのだ。

 文学の静かな語り――。今回の返信には感じなかったが、今思えば、それは彼自身から感じているものだったのかもしれない。
 僕は煙草を離して煙を吐いた。「すっかり秋だな」と言う増家へ、「そうだね」と返す。

 「なんかいいことでもあったか?」と、彼は言う。

 「どうだろう」

 「悪いことはなかっただろ」

 「そうだね」思い出したんだと言うと、彼は聞き返した。

 「思い出したと言うより、また新たに知ったと言おうか」

 「ほう。お前に知らないことなんかまだあるんだな」

 「神様でもあるまいし」

 「なにを知ったんだ?」

 大喜利は得意じゃないよと言うと、それなりのかましてんじゃねえかと増家は笑う。

 「僕が見ていた世界は、本当のそれの極一部に過ぎないってこと」

 「ほう。意外と普通なことだな」てっきり悟りでも開いたのかとと言う増家に、君は僕をなんだと思ってるんだと笑い返す。

 「まあ、お前ほどいろんなこと知っちまうと、それが全部なんじゃねえかとか思っちまうだろうなあ」おれにゃ想像もできんがと、増家は煙草を咥える。

 「世界は広いものだね。君みたいな人は数少ないと思ってたけど、そうでもないみたいだった」

 「ほう。それは心配な世界だな」

 「僕は嬉しいよ。君みたいな人は一緒にいて楽しい」

 「それは……悪口?」

 「滅相もない」と僕は手を振る。縁側に置いた灰皿に灰を落とす。「君みたいな楽天的な人は、話す薬みたいだなと」

 「過剰摂取は毒だぜ」

 「せっかくだけど手遅れだよ」

 そりゃあ大変だと笑う増家に笑い、彼と同時に煙を吐いた。ふわりと吹いた風が、二つの煙を混ぜてしまった。
 愚かしいと、つくづく思う。あれほど孤独を恐れていた自分を、自らに、偽のでも完璧を求めた自分を。中学生の頃のある日、弟は言った。人は不完全であるから存在できるのだと。彼が読んだ本には、人は自らの不完全さを補うために様々な開発を繰り返してきたのだとあったという。僕はその物語を知らない。いつかそれに出会ったときには、その物語はきっと、僕の在り方になることであろう。いや、その物語とは、出会わなくていいのかもしれない。弟の口から聞いた言葉だから、これほど記憶に残っているのかもしれない。

 当時、僕は弟のことが心配だった。彼は自分とよく似ている。それ故、自分と同じような道を行ってしまうのではないかと考えては怖くなった。しかし、それは杞憂であった。弟は、僕よりも人間として優れていた。彼は今でも、僕でさえ知っているようなことを知らないことがある。しかしそれを埋めてしまう――ないものにしてしまう――程の、なにか優れたものを持っている。彼もまた、エリのように、円満な人間関係を築くのが得意なのかもしれない。コンプレックスの正体を、知っているのかもしれない。

 増家も、僕よりうんと優れている。彼は、いつしか僕が忘れた楽天さを、綺麗なまま持っている。定期的に手入れをしているのか、あるいは、彼のそれは、ちょっとやそっとでは汚れたり落としたりしないものなのだろう。彼は、不幸や不運という言葉を知らないように思う。僕がそう感じてしまうような境遇に置かれても、彼はその中に小さく光る希望を見逃さない。むしろ、不幸や不運には目もくれず、それだけを認める。

 彼女――中野楓だって、素敵な人だ。再会した彼女は、どこか自分と似た部分があるように感ぜられ、心配になる瞬間もあったが、彼女もまた、優れた人だ。強さと柔軟さを併せ持った、一途な人だ。柔軟さが災いし、時折迷い悩むこともあろうが、彼女のことである、必ずや理想を形にすることだろう。

 僕の周りには、優れた人がたくさんいる。素敵な人がたくさんいる。

 知識は、時に持っている者を縛り付ける。しかしそれは、数や深さで重みを増して解けたとき、一気に自由をもたらし、自信や執念よりも心強い存在になる。知識に縛り付けられていたとき、僕は調子に乗っていた。僕のような矮小な者がなにを言おうと、誰も感情的になることはないだろうと信じて疑わなかった。しかしそうではなかった。誰も僕を、僕自身と同じようには見ていなかった。それ故に、何度も誤解を招き、人と衝突した。

 さて、僕はなにも知らない。皆が当然のように知っていることを、知らない。しかし、僕はそれを知っている。自分がなにも知らないことを知っている。コンプレックスは、僕の知らない花を咲かせる種だという。せっかく手元にある種だ、じっくりと成長過程を観察してみるのも、おもしろいかもしれない。

 ふと、ズボンのポケットの中で携帯電話が振動した。僕は煙草を咥えてそれを取り出す。「恋人か?」とからかうように言う増家へ「殴るよ」と短く返すと、鮮やかに秋の訪れを告げたブナの葉を、残暑の去った風が優しく揺らした。


花とココアとウエハース 。

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