「岸根って、チェスできる?」土踏まずが痛い男――名は増家といった――にそう問われたのは、ある放課後のことであり、実に唐突だった。

 「なんで」

 「最近、個人的流行がきてるんだ」

 「マイブーム?」

 「そう。でも身近にいないんだ、やってる奴。ルールを知ってる奴さえ少ない。そんで、多角形のグラフを二回りほど大きく綺麗になぞる岸根に。文芸部、今日部活ねえだろ?」

 兄はどちらが利口だろうと考えた。ここでチェスはできないと断って、博識の面にひびを入れるか、できると見栄を張って負け、面を欠けさせるか。理想はできると対局を引き受け、チェックメイトの言葉を声にすることだ。チェスができる人間が身近にいない、というのはどういう意味だろうか。歳の近い者にいないということか、歳は近いが遠い場所に住む者ということか。いや、と兄は思考の方向を変える。技術に年齢は関係ない。

断るのも引き受けるのも簡単だ。部活のための本を読まなくてはならないと言えば断れるし、できるよと言えば引き受けられる。部活のための本なら、数時間あれば周りの部員と同程度の発言ができるほどには読めるが、精読せねばならないと言えば増家は素直に引き下がるだろう。

 兄は小さく息を吸った。「できるよ」と声を乗せて、そっと吐き出した。「まじか」と、増家の表情が花を咲かせる。