兄は恐怖していた。皆が自分を見ている。今までとは違う目で、見ている。自分の顔を見て、無知という言葉は認めず、対義語にも当たる博識の言葉を認める。その事実が堪らなく恐ろしかった。違う、僕はそんな大層な人間ではないと、必死に叫んだ。違う、違う、そんなふうに見ないでくれ。
先日、高齢者から金を騙し取った男が逮捕されたとのニュースを見たが、自分も同じようなことをしているのではないかと兄は思った。騙しているのだ、周囲の人々を。なにも知りやしないのに、読み漁った書籍とインターネット記事で人並みを装った面を下げている。結果はそれだけでない。周囲の人々は、僕を博識な人間と見ている。それに実力が伴っていれば、これほど恐れはしない。剥がれるものがないのだから。しかし、現実はそうではない。僕はなにも知らない。ふとした瞬間に、吊り下げた面が欠けたり、風に靡こうものなら、周囲の人々はどうなるだろうか。その瞬間に僕のすべてを知り、憐れむなり軽蔑するなり、対応は大きく変わることだろう。やがて訪れようその瞬間が、兄の頭を占領してならなかった。兄はそれを恐れ、発狂しそうになった。
暗闇が明るい。月は雲に身を隠し、部屋側の窓にはカーテンが広がり、照明は常夜燈さえ点いておらず、部屋は雨戸を閉め切ったときに並び最も暗い状態にあるはずだ。その暗さが、兄にはいやに明るく感ぜられた。曇った真昼、見上げた空の奥が眩く感じるのに似ている。時計は何時を示しているだろうか。じきに陽が昇る頃だろうか。
部屋を出ると、弟が「おはよう」と眠そうに言った。「おはよう」と短く返しながら、兄は頭を占領する恐怖の瞬間に気を取られていた。少しでも面を丈夫にしておかなくてはと考えていた。この面を壊すわけにはいかない、外すわけにはいかない。そうしてしまえば、きっと今のようにはいられない。こちらに向く目が疑いや軽蔑に変わった場面を想像すると、恐ろしくて堪らなくなる。もうずっと、想像しては恐れるの繰り返しだ。
普通の値に属すのは、想像したよりも遥かに難しいことだった。普通とはなにかと考える。わからない。黒髪で、黒い虹彩を持ち、平均値が出た分野すべてでそこに属すこと、だろうか。当然そのような人もあろうが、すべてにおいて平均地にある方が不自然に思う。
「兄ちゃん」と言う弟の声にはっとし、「どこ行くの?」という声を認めたときには、階段を下りた先の壁に額と鼻をぶつけた。両手で痛むそれぞれを押さえると、弟は「ははは」と笑う。兄は「痛い」と呟く。弟はけらけらと笑う。
「いやあ、兄ちゃんだ。よかったよ」
「……よくない」
「ごめんごめん」と弟は言うが、まだ愉快そうに笑っている。「なんか、ここ数年、間抜けな兄ちゃん見てないからさ」安心したよ、と弟は花のように笑う。大輪のヒマワリの花姿に似た、明るい笑みだ。
中学校で初めてのクラス、兄は三組、弟は二組に振り分けられた。廊下で、「じゃあな」と手を振る弟へ、兄は「うん」と返して別れた。
片づけを済ませて自席に着くと、「あいててててっ」と滑舌の良い声が聞こえた。すぐ隣の席からだ。兄がちらと見ると、声の主は上履きを脱いで右足の裏を左脚にこすりつけていた。へへ、と彼は兄へ苦笑する。
「なんか土踏まずが急に」
「……胃の調子でも悪いの?」
「胃? 腹は別に。なんで?」
「胃のつぼなんだって、土踏まず」
「へえ、そうなんだ」
「……君、大丈夫?」
男は一瞬、なんのことだと言うような顔をして、はっとしたように「ああ」と頷いた。「体の丈夫さにはちょいとばかし自信があんだ」
頭の良さには自信はないようだと兄は思った。これで自信があると言ったときには、兄の心配は倍増していた。
「え、つぼってことはさ、胃の調子悪いなあってときに揉んだりするとよくなるの?」
「そうなんじゃないの」
「ふうん」ふはは、と男は笑う。「しっかし岸根は毎日毎日おっかねえ顔してんなあ。人生のうちで笑ったことあるか?」
「そんな人いるの?」
「さあな。おれにゃお前がそう見えたまでのことだ」
「心配は無用だよ」
「ほう。そりゃあなによりだ。笑いは心の栄養だって言うからな」
「免疫力も上がるしね」
「へえ。そのメンエキリョクったあなんだ?」
「病原体などに対する防衛力みたいなもの。知らないの?」
「知るかい。おあいにくお勉強は嫌いでな」
「心配だ」
「なにが?」
「僕は君が心配だ。そんなことで生活できるの?」
「きっついなあ」と男は苦笑する。「できるとも。だからここまで生きてる。生きるってのあ結構シンプルなんだよ。勉強なんざせんでも、食って呼吸して大小出してりゃできんだ。生まれたての赤子も蟻さんもできてらあ」
男は鞄を開け、中身を机の中に収めていく。
「おもしろいことを言うね。生命を維持しているだけでは、社会を生きることはできない」
ああ、と男は少し視線を上げた。「確かにそうかもな。ならその社会から離れた場所に生きりゃあいい」
「そんなことができるものか」
「山奥にでも逃げ込んでごらんよ」
男は鞄のチャックを閉めた。
「野生動物の腹を満たせと?」
「死んでんじゃねえか」と男は笑う。「そりゃあ、山奥じゃ野生動物もいようよ。だが、植物だって生きてることだろうよ。でなきゃ野生動物だっていやしない」
「なにが言いたい」
「その植物の中から、食えるもんを探しゃいい。見つけたら根ごと頂戴して、自分の陣地にその子孫を育てりゃあいい。これでもう生きられる」
「衣服や家はどうする」
「生きることならなくてもできる。まあそれで精神から死んでっちゃあ困るから、まあ社会から逃げ出す前に蓄えておくことだな、服も金も」
「所詮金か」
「嫌なら自分で家を建てりゃあいい。宮大工なる人々もいるくらいだ、釘だの機械だの、そんな御大層なもの使わんでも家くらい建つ。服は、本気で金を使いたくないならご近所さんにねだればいい。それが許されるくらいの人間関係を築けばいいまでだ」
男は、これでどうだと言わんばかりに得意げだ。木を切ったり削ったりするものもご近所さんにねだれとでも言うのだろうか。兄はため息をついた。くだらない、と思った。あまりに現実味がないと思った。
部活動は兄弟それぞれ、兄は文芸部、弟は演劇部に所属している。演劇部の活動内容は自分たちが演技をするという弟の想像とは少し違ったようで、ドラマや映画、舞台などを鑑賞後、感想を言い合ったり、批評したりする他、朗読や演技、それに関するトレーニングをするというものらしい。弟は、作品の鑑賞と朗読が一番楽しいと語っていた。感想の発表や批評に関しては、感想を言うまでならできるが批評は向いていないと困ったように笑っていた。その分野について詳しいわけでもなく、改善点を見出すのは難しいとのことだった。
兄の所属する文芸部の活動内容もまた、兄の想像とは少しばかり違った。フィクションの影響か、兄はただ本を読むのが基本的な活動内容なのだろうと想像していた。それが実際は、演劇部に似た内容だった。部員全員で一本の物語を精読し、感想を言い合ったり批評したりする、読書会のようなものだった。なにかしらの部活動への入部が絶対である中で、最も人と話さずに済みそうな部活名だったので入部を決したが、活動時間のほとんどを他の部員と話している。部活動は基本的に月、水、金曜日に入っており、部活動のない日には物語を読み、ある日にはそれについて語り合うというのだ。
活動内容に関しては、部活動紹介の際に知らされた。入部を決める前に全部活動を見て回って、各部長より内容を聞かされるのだ。そのとき、部長は確かに読んだ物語の感想を言い合って批評をすると言っていたが、そんなのは時折やるくらい――それどころか部活動紹介のための台詞――で、実際のところはただ本を読んだり、なんなら部員同士が文芸とはかけ離れた話題に盛り上がっているというのが実情だろうと思った。
そう甘く考えて入部したら、この様である。部室に入って右手の壁には、文豪と呼ばれる人々の写真だか上手に描かれた絵だかがびっしり飾られており、他の壁には図書館や図書室のように膨大な数の本が収納されている。いくら語り合うのが最近の作品が多いとは言え、文学の御偉方に見張られている中では、文学に関して発声する際には毎度、口から声以外のなにかが出そうになり、毛穴という毛穴が老廃物のすべてを出さんとしているような錯覚を起こす。
「岸根って、チェスできる?」土踏まずが痛い男――名は増家といった――にそう問われたのは、ある放課後のことであり、実に唐突だった。
「なんで」
「最近、個人的流行がきてるんだ」
「マイブーム?」
「そう。でも身近にいないんだ、やってる奴。ルールを知ってる奴さえ少ない。そんで、多角形のグラフを二回りほど大きく綺麗になぞる岸根に。文芸部、今日部活ねえだろ?」
兄はどちらが利口だろうと考えた。ここでチェスはできないと断って、博識の面にひびを入れるか、できると見栄を張って負け、面を欠けさせるか。理想はできると対局を引き受け、チェックメイトの言葉を声にすることだ。チェスができる人間が身近にいない、というのはどういう意味だろうか。歳の近い者にいないということか、歳は近いが遠い場所に住む者ということか。いや、と兄は思考の方向を変える。技術に年齢は関係ない。
断るのも引き受けるのも簡単だ。部活のための本を読まなくてはならないと言えば断れるし、できるよと言えば引き受けられる。部活のための本なら、数時間あれば周りの部員と同程度の発言ができるほどには読めるが、精読せねばならないと言えば増家は素直に引き下がるだろう。
兄は小さく息を吸った。「できるよ」と声を乗せて、そっと吐き出した。「まじか」と、増家の表情が花を咲かせる。
増家の自宅は、学校から五分も自転車を漕げば着くような場所にあった。その近さを、彼は「寝坊しても遅刻はしねえんだぜ」と自慢した。「寝坊なんかするの」と返すと、「そうきたか」と増家は苦笑した。
増家の私室は、六畳ほどの部屋だった。足元は白のラグを被ったフローリングだが、壁で元が和室であることがわかった。扉も引き戸だ。室内には、黒の木製のボードの上に薄型テレビとスピーカー、ボードの中にDVDやCDといったディスク、その再生機器がある他、白と濃紺を基調としたベッドと、黒のローテーブル、その下に全巻揃った文庫版の漫画が一作収められているだけで、本人の印象とは少し違い、散らかってはいなかった。
「君」対局中、兄はぽつんと声を発した。増家は「おう」と驚いたように声を発する。「文芸部は今日、部活がないだろうと言ってたけど、僕、君に部活のこと話したっけ」
「え、なんか怖」と増家は苦笑する。「別に怒ってるわけでも嫌がってるわけでもない」と言いながら、兄は増家の一手に駒を動かした。迷いねえな、と増家は小さく笑う。
「お前の部活くらい知ってるよ。お前は有名人だからな。女子が騒いでるぜ? 岸根君っていいよねって。まあ、ちとびびってる子もいるけど」
「そう」
「お前、好きな女子とかおらんわけ?」
「いない」
「はあ、嫌な男だねえ。女子はキャーキャー言ってるってのに。なに、奈央ちゃんは男子が好きなわけ?」
「そっちの方が一般的かもね」
「は?」
「別に。特別な意味はない」
「特別な意味しかねえだろ」
「いいから、早くして。本当の試合なら大変なことになってるよ」
「いや、ラフにやろうぜ。で、なに、まじでそうなの?」
「違う」
「じゃあなにさ」
「なんで言わなきゃいけない」
「おれが気になるから」
「他人様の好奇心を満たすために個人的なこと喋る者があるか」
「いいじゃんか、心の距離を縮めるにはお話が大事だろ?」
早くしてと兄が再度言おうとすると、増家はようやく一手を打った。「僕は君と心の距離を縮めようとは思ってない」と言いながら、兄はさっと駒を動かす。「性格、北極かよ」と増家は苦笑する。
「君はどうなの、恋愛対象」
「平凡だ」
「そう。じゃあ言わない」
「え、なにそれ。知らんうちに審査落ちてたんだけど」
「言いたくないから言わないだけ」
「ええ……。寂しいこと言うねえ」
「なんでそんなに知りたいの」
「仲良くなりたいじゃんか」
「それでここに突っ込んでくる?」
「いいじゃんか、斬新で」
「斬新が過ぎる」
「これ言い合えたらもう仲良し極まってるだろ」
「段階を踏め、段階を」
「そんなまどろっこしい人付き合いしてられっかよ」
「君は当たって砕けるんじゃなくて当たって砕く人だね」
「お、なにそれおもしろい。当たって砕く――いいな」
「お気に召したようで何より」
増家は一手を打つと、それが最善のものか不安になったのか、うーんと唸った。「おれはね、人間らしい女子が好きなんだ」
「というと?」
「喜怒哀楽の表現がはっきりしてて、最低でも人並みには食べて。まじめすぎず、程よくめんどくさがりで――って人。そりゃあ、いろいろあって感情を表に出すのが苦手だったりできなかったり、食べるのも手を抜くのも簡単じゃない人もいるだろうし、それを否定するつもりは微塵もねえけど、個人的にはこういう、人間らしい人が好き。まあ好きになった人がそうじゃなかったらもう、なんでもウェルカムだけど」
「心の広い人だね、君は」
「そうか? 好きな人だったらなんでも許せるだろ」
「へえ」
「岸根は? 絶対こうじゃなきゃ嫌って感じ?」
「どうなんだろう……わかんないけど」
「わかんない?」と増家は笑う。「自分のことだろ?」
「そうだけど。僕は特殊なんだ」
「特殊?」
兄は深く息をついた。嫌になったのではない。決心したのだ。
「僕は、好きになるのが人間じゃないんだ」
「へえ」素っ気ない、とも言い表せそうな反応だ。驚くでも、拒絶するでも、関心を抱くでもない。「なにが好きなんだ?」
「……樹。樹木」
「へえ、木ねえ。どんなのが好きなの? 樹木ならなんでもってわけじゃねえだろ?」
「大きくてしっかりした、簡単に描いた青々した樹、みたいな」
「ほうん。じゃあ、たまに見る細くてつるつるしたようなのじゃなく、スツールが模すような切り株を残すような、はっきり年輪を刻んでくしっかりしたのがってこと?」
「……うん……」
「へえ、いいじゃんか。おれもモデルとか芸能人みたいに華奢な子より、平均はあってほしいから。存在感があってほしいってのはわかるぞ」
兄はかーっと顔や体が熱くなるのを感じた。一昨年、ある樹に目を奪われたとき、なんだ木に見惚れてんのか、と笑われたのが蘇る。羞恥心は湧いた温泉のように止め処なく、兄は両手で顔を覆いたくなった。
「教えてくれてありがとうな」と純粋に笑う増家へ、「誰にも」と声を返した。それが精一杯だった。「絶対」と無理に出した声は、微かに震えた。「言わない言わない」と、増家は宥めるように笑う。
「ちょっと悪い」と部屋を出た増家が持ってきた水を飲んで、対局を再開した。「そんなに嫌だったか」と、彼は茶化すように笑った。「顔真っ赤だ、ごめんな」と同じように続けた。
「チェックメイト」。発したのは兄の声だった。「おお」と、増家は感心したように声を漏らした。「岸根すげえな。チェスもできるのか」
「……でも、対局は初めて」
「ええ、まじかよ。ド初心者に負けたのか、おれ。いや違う、お前がそれなりに経験のあるおれに勝ったんだ。すげえな岸根」完敗だ、と増家は笑う。
「相手してくれてありがとうな」
「僕も、放課後予定はなかったから」
「そうか。ええ、にしてもお前、なんでこんな強いんだ?」
「……対局の映像は観てた」
「へえ、それでここまでやるのかあ。すごいな、本当に」
「そんなことない」
「謙遜しなさんな、自信持てって。いやあ、また暇なときに相手してくれよ」
「……うん」
帰宅後、兄はテキストとしての本を読み終えると、リビングに下りてパソコンの電源を入れた。ソファでニュース番組を眺めている弟がこちらを見ているのがわかった。
「なにをそんなに調べることがあるのさ」
「部活のテキストについて」
「そう……。兄ちゃんなら、普通に読むだけでも大丈夫じゃないの?」
「そんなことない。どんな場面でも言葉を返せるようにしておかないと」
「なんで。大丈夫だって、絶対」
「……怜央、たこ好きだったね」
「うん、たこ焼き大好き」
「たこって、どう生まれるか知ってる?」
「え、卵からでしょ?」
「その卵はどう作られるか知ってる?」
「ええっと……。まあそれは、本能に従ってさ……て、なにさ」
「たこは、オスが精子の入ったカプセルのようなものを好きになったメスに渡して、それを受け取ってもらえたら告白成功。メスは受け取ったカプセルから卵を産み、およそ一か月、飲まず食わずで外敵から卵を守り抜いて、子供たちの誕生を見届けると、その場を離れて死ぬんだ」
「ええ……」壮絶、と弟は呟く。「でも、それが?」
「これ、質問してきた相手が僕じゃなかったらどうする?」
「どうするもなにも、知らないの一言で事足りるでしょう」
「そうとも限らないんだよ。笑う人は笑うし、こちらの無知さに驚き、引く人もいる」
「それはカーキたちでしょ? みんながみんなそうとは限らない」
「その場面に備えておくことは無駄じゃない。情報は活きるものじゃない、活かすものだから」
「誰も『ねえ岸根君、たこってどう生まれるの?』とか言わないって」
「たこの話じゃない」兄が言うと、弟は「ええ、だって兄ちゃんが……」と呟いた。
「部活で、これについて話し合うから内容を理解しておけって言われてるんだ。その理解が足りなければ、話にならないと置いて行かれる、切り捨てられる」
「それならそれでいいじゃん。文芸部辞めて演劇部来なよ。活動内容は似てるけど、わかんないも知らないも通用するよ」
兄は弟の名を呼びながら、チェアを後ろへ向けた。「僕みたいになっちゃ、だめだよ」