中学校で初めてのクラス、兄は三組、弟は二組に振り分けられた。廊下で、「じゃあな」と手を振る弟へ、兄は「うん」と返して別れた。

 片づけを済ませて自席に着くと、「あいててててっ」と滑舌の良い声が聞こえた。すぐ隣の席からだ。兄がちらと見ると、声の主は上履きを脱いで右足の裏を左脚にこすりつけていた。へへ、と彼は兄へ苦笑する。

 「なんか土踏まずが急に」

 「……胃の調子でも悪いの?」

 「胃? 腹は別に。なんで?」

 「胃のつぼなんだって、土踏まず」

 「へえ、そうなんだ」

 「……君、大丈夫?」

 男は一瞬、なんのことだと言うような顔をして、はっとしたように「ああ」と頷いた。「体の丈夫さにはちょいとばかし自信があんだ」

 頭の良さには自信はないようだと兄は思った。これで自信があると言ったときには、兄の心配は倍増していた。

 「え、つぼってことはさ、胃の調子悪いなあってときに揉んだりするとよくなるの?」

 「そうなんじゃないの」

 「ふうん」ふはは、と男は笑う。「しっかし岸根は毎日毎日おっかねえ顔してんなあ。人生のうちで笑ったことあるか?」

 「そんな人いるの?」

 「さあな。おれにゃお前がそう見えたまでのことだ」

 「心配は無用だよ」

 「ほう。そりゃあなによりだ。笑いは心の栄養だって言うからな」

 「免疫力も上がるしね」

 「へえ。そのメンエキリョクったあなんだ?」

 「病原体などに対する防衛力みたいなもの。知らないの?」

 「知るかい。おあいにくお勉強は嫌いでな」

 「心配だ」

 「なにが?」

 「僕は君が心配だ。そんなことで生活できるの?」

 「きっついなあ」と男は苦笑する。「できるとも。だからここまで生きてる。生きるってのあ結構シンプルなんだよ。勉強なんざせんでも、食って呼吸して大小出してりゃできんだ。生まれたての赤子も蟻さんもできてらあ」

 男は鞄を開け、中身を机の中に収めていく。

 「おもしろいことを言うね。生命を維持しているだけでは、社会を生きることはできない」

 ああ、と男は少し視線を上げた。「確かにそうかもな。ならその社会から離れた場所に生きりゃあいい」

 「そんなことができるものか」

 「山奥にでも逃げ込んでごらんよ」

 男は鞄のチャックを閉めた。

 「野生動物の腹を満たせと?」

 「死んでんじゃねえか」と男は笑う。「そりゃあ、山奥じゃ野生動物もいようよ。だが、植物だって生きてることだろうよ。でなきゃ野生動物だっていやしない」

 「なにが言いたい」

 「その植物の中から、食えるもんを探しゃいい。見つけたら根ごと頂戴して、自分の陣地にその子孫を育てりゃあいい。これでもう生きられる」

 「衣服や家はどうする」

 「生きることならなくてもできる。まあそれで精神から死んでっちゃあ困るから、まあ社会から逃げ出す前に蓄えておくことだな、服も金も」

 「所詮金か」

 「嫌なら自分で家を建てりゃあいい。宮大工なる人々もいるくらいだ、釘だの機械だの、そんな御大層なもの使わんでも家くらい建つ。服は、本気で金を使いたくないならご近所さんにねだればいい。それが許されるくらいの人間関係を築けばいいまでだ」

 男は、これでどうだと言わんばかりに得意げだ。木を切ったり削ったりするものもご近所さんにねだれとでも言うのだろうか。兄はため息をついた。くだらない、と思った。あまりに現実味がないと思った。