花とココアとウエハース

 読み終えた本を、開いていない本のそばに置き、弟はダイニングテーブルを離れた。「お腹空かないの?」と言いながら、ローテーブルのそばのソファへ尻から飛び込んだ。ふんわりと自身を受け止めるソファに、弟はふうと息をつく。「兄ちゃん?」と兄を見やると、兄は「なに?」と声だけを返した。

「お腹空かないの?」と改めて問うと、「大丈夫」と返ってきて、弟はさらに兄のことが気になった。「脳みそって一番糖分使うんだって」と、今しがた小説で得た知識を話す。「あなたがなにを調べているのか存じないけれども、少しは休憩した方がいいんじゃなくて?」先ほど読んだ小説の主人公の妻の真似をして言った。実際にこんな言い回しがあったわけではないが、言いそうだなと思った。兄はなにも言わない。

 「兄ちゃん、宿題終わった?」

 「うん」

 「すごい。おれは昨日終わらせた。ほぼ昨日だけでだぜ、上等だろ」

 「そうだね」

 「……なにも食べないの? おれ、ご飯炊くけど」
 
 「じゃあ、少し」

 わかったと答えて、弟は腰を上げ、キッチンへ入った。炊飯器の蓋を開け、中の窯へ密閉容器に入った米と、水を適量入れ、「炊飯」のボタンを押す。軽快な電子音で承知と答え、炊飯器は仕事に取り掛かる。
 およそ一時間後、「作れるものないからおにぎりにするけど……」と弟が声を掛けると、兄は「じゃあ僕も」と、今まで通り、パソコンと向き合ったまま言った。弟は「了解」と努めて明るく答え、キッチンに入る。熱い米を握るのは苦手で、弟はふりかけを混ぜた米をラップに置き、それを鍋つかみに突っ込んだ手で、落とさぬよう注意を払って握った。

 「不格好おにぎり完成」と、ダイニングテーブルへ少し小さめの握り飯を二つずつ並べると、兄はようやくキーやマウスを操作していた手を止め、振り返ってチェアから腰を上げた。

 「ありがとう」と微笑んだその顔が、弟には懐かしくすら思えた。それほど、一昨日から兄の様子が気がかりなのだ。

 「小説、おもしろかったよ」言いながら握り飯のラップを開け、あちち、とダイニングテーブルへ放る。ふーふーと手に息を吹きかける。

 「それはよかった」と、兄は穏やかに言う。

 「新鮮味ないとか言ってたけど、おれには新鮮の塊みたいな品揃えだったよ?」

 「そう」と言う兄の声には、やはりいつもの元気さは見受けられない。

 兄はなんでもないようにラップを剥ぎ、握り飯をかじる。

 「兄ちゃん、おれと同じように生活しながらいつの間にあんな作家さん知ったんだよ。カーキとか、そんなに物知りなのか?」

 「そうだよ」兄はまじめな声で言った。いや、顔も真剣そのものだった。「ううん」と、兄は挟んだ。「もしかしたら、カーキたちは普通なのかもしれない。僕が、なにも知らないだけ」

 「なにも知らない? そんなことないよ。おれたち、結構勉強できるって自信あるよ?」

 「勉強じゃない」兄は真剣だ。「物知りっていうのは、勉強ができることじゃないんだ。いろんなことについて、深く知ってなきゃ、物知りとは言わない」

 「……兄ちゃんは物知りになりたいの?」

 「違う」

 「じゃあ、なにに?」

 「普通」

 「普通?」

 「カーキたちと気兼ねなく話せるようになりたい」

 「き……が……ね?」

 「気を遣わずに。怜央、こんな言葉も知らないの?」

 「うん、知らない」弟は明るく言った。そうしようとしてではなく、飾らずにそう答えた。「だって学校で習ってないもん」

 「学校で教わることがすべてじゃないよ。みんなは、学校で教わることの、それ以外のことをいっぱい知ってる。このままじゃ、僕だけじゃなく、怜央も置いて行かれちゃうよ」兄の目には、焦心か恐怖かの色が窺えた。

 「そうかなあ。おれはそうは思わないぞ?」

 兄は俯き加減ににして唇を噛み、それを解くと、「置いて行かれちゃうよ」と声を上げた。こちらをまっすぐに見つめる茶色の双眸は、恐れからか悲しみからか、涙に揺れている。「今はなにもなくても、それは、みんなが気を使ってくれてるからかもしれない。それなら、いつか、みんなの素が見える。みんなの普通で、みんなの基準で話をする。それについていけないとき……みんなは――」みんなは、と、兄は再び俯く。「驚くよ。こっちが十年間で一度も自分の名前を書いたことがないみたいに、十年間、自分の名前を知らずに生きてきたみたいに」

 弟はダイニングテーブルの上で、広げたラップに載っている握り飯へ視線を落とした。沸騰した湯を注いだ椀のように、もわもわと湯気を上げている。兄へ視線を戻す。

 「カーキたちに、そう驚かれたの?」

 兄はなにも言わない。ただ、握り飯を手に載せたまま深く頭を下げて、声を殺して肩や背を震わせている。

 「兄ちゃんは」弟は優しく声を発した。「なにも知らなくなんかないよ」兄は嫌嫌と言うようにかぶりを振る。

「兄ちゃんとか、カーキとか。そんな人らから見たら知らないのかもしれないけど、おれからすれば、すごいこといっぱい知ってる。前、おれ訊いたじゃん。どうしたら長く、速く走れるかって。シャトルランで、友達に負けたくないからって言ってさ。そしたら兄ちゃん、アドバイスくれた。その通りに走ったら、友達に勝てた。おれ、あれすっごい嬉しかったんだ。いつも十……頑張っても三回とか四回おれより長く走る友達に、五回も長く走って勝ったんだ。それから、算数の筆算。習いたての頃、繰り上げが苦手だったけど、兄ちゃんに教わったらできるようになった。しかも友達にテストで勝った。あとババ抜き。ババに愛されに愛されたおれが、ババとばいばいできた。相手がババに触ったとき、目を動かしちゃうのがお前の癖だって言って。それで特訓に付き合ってくれた。そのおかげで、友達に勝てた」

 兄は終始、違う違うと言うように首を振っていた。「兄ちゃんは先生が教えてくれないこといっぱい教えてくれるよ」

 また激しくかぶりを振る兄に、弟は苦笑する。「そんなに泣かないでよ。鼻水詰まってでっかい鼻くそできちゃうぞ」がっびがびでねっとねとのやつ、と弟が続けると、兄は少し笑った。弟も安堵して笑い、ボックスティッシュを差し出す。
 休み時間や昼休みには友達と遊び、授業中には窓の外を覗いて雲や雨粒を追い、テストが返ってくれば赤ペンで刻まれた数字の大きさを友達と競い、体育の時間ではいかに指定された動きについていけるかで友達と競い、一斉下校の金曜日には、放課後、ゲームの成績で友達と競い。弟の小学校生活は、一割の友人との遊びと、九割の友人との競争でできていた。

 小学校生活もいよいよ終わるという頃には、兄の笑顔はすっかりないものになっていた。まるで、兄がもとよりあまり笑わない人間であったかのようだ。いや、それならまだよかった。兄の笑顔は、弟の脳裏に息苦しさを感じるほど、頑固にこびりついてしまっていた。弟はその息苦しさを振り払う術を探したが、見つかりはしなかった。兄が笑うことも、兄の笑みを忘れ去ることもできなかった。

 そのどんよりとした酸素が当然になりかけた頃、弟の願いは、兄が笑うことでも、兄の笑みを忘れることでもなくなっていた。弟はその日も、私室の天井を眺めながら願った。眠りたい――。
 兄は恐怖していた。皆が自分を見ている。今までとは違う目で、見ている。自分の顔を見て、無知という言葉は認めず、対義語にも当たる博識の言葉を認める。その事実が堪らなく恐ろしかった。違う、僕はそんな大層な人間ではないと、必死に叫んだ。違う、違う、そんなふうに見ないでくれ。

 先日、高齢者から金を騙し取った男が逮捕されたとのニュースを見たが、自分も同じようなことをしているのではないかと兄は思った。騙しているのだ、周囲の人々を。なにも知りやしないのに、読み漁った書籍とインターネット記事で人並みを装った面を下げている。結果はそれだけでない。周囲の人々は、僕を博識な人間と見ている。それに実力が伴っていれば、これほど恐れはしない。剥がれるものがないのだから。しかし、現実はそうではない。僕はなにも知らない。ふとした瞬間に、吊り下げた面が欠けたり、風に靡こうものなら、周囲の人々はどうなるだろうか。その瞬間に僕のすべてを知り、憐れむなり軽蔑するなり、対応は大きく変わることだろう。やがて訪れようその瞬間が、兄の頭を占領してならなかった。兄はそれを恐れ、発狂しそうになった。

 暗闇が明るい。月は雲に身を隠し、部屋側の窓にはカーテンが広がり、照明は常夜燈さえ点いておらず、部屋は雨戸を閉め切ったときに並び最も暗い状態にあるはずだ。その暗さが、兄にはいやに明るく感ぜられた。曇った真昼、見上げた空の奥が眩く感じるのに似ている。時計は何時を示しているだろうか。じきに陽が昇る頃だろうか。
 部屋を出ると、弟が「おはよう」と眠そうに言った。「おはよう」と短く返しながら、兄は頭を占領する恐怖の瞬間に気を取られていた。少しでも面を丈夫にしておかなくてはと考えていた。この面を壊すわけにはいかない、外すわけにはいかない。そうしてしまえば、きっと今のようにはいられない。こちらに向く目が疑いや軽蔑に変わった場面を想像すると、恐ろしくて堪らなくなる。もうずっと、想像しては恐れるの繰り返しだ。

 普通の値に属すのは、想像したよりも遥かに難しいことだった。普通とはなにかと考える。わからない。黒髪で、黒い虹彩を持ち、平均値が出た分野すべてでそこに属すこと、だろうか。当然そのような人もあろうが、すべてにおいて平均地にある方が不自然に思う。

 「兄ちゃん」と言う弟の声にはっとし、「どこ行くの?」という声を認めたときには、階段を下りた先の壁に額と鼻をぶつけた。両手で痛むそれぞれを押さえると、弟は「ははは」と笑う。兄は「痛い」と呟く。弟はけらけらと笑う。

 「いやあ、兄ちゃんだ。よかったよ」

 「……よくない」

 「ごめんごめん」と弟は言うが、まだ愉快そうに笑っている。「なんか、ここ数年、間抜けな兄ちゃん見てないからさ」安心したよ、と弟は花のように笑う。大輪のヒマワリの花姿に似た、明るい笑みだ。
 中学校で初めてのクラス、兄は三組、弟は二組に振り分けられた。廊下で、「じゃあな」と手を振る弟へ、兄は「うん」と返して別れた。

 片づけを済ませて自席に着くと、「あいててててっ」と滑舌の良い声が聞こえた。すぐ隣の席からだ。兄がちらと見ると、声の主は上履きを脱いで右足の裏を左脚にこすりつけていた。へへ、と彼は兄へ苦笑する。

 「なんか土踏まずが急に」

 「……胃の調子でも悪いの?」

 「胃? 腹は別に。なんで?」

 「胃のつぼなんだって、土踏まず」

 「へえ、そうなんだ」

 「……君、大丈夫?」

 男は一瞬、なんのことだと言うような顔をして、はっとしたように「ああ」と頷いた。「体の丈夫さにはちょいとばかし自信があんだ」

 頭の良さには自信はないようだと兄は思った。これで自信があると言ったときには、兄の心配は倍増していた。

 「え、つぼってことはさ、胃の調子悪いなあってときに揉んだりするとよくなるの?」

 「そうなんじゃないの」

 「ふうん」ふはは、と男は笑う。「しっかし岸根は毎日毎日おっかねえ顔してんなあ。人生のうちで笑ったことあるか?」

 「そんな人いるの?」

 「さあな。おれにゃお前がそう見えたまでのことだ」

 「心配は無用だよ」

 「ほう。そりゃあなによりだ。笑いは心の栄養だって言うからな」

 「免疫力も上がるしね」

 「へえ。そのメンエキリョクったあなんだ?」

 「病原体などに対する防衛力みたいなもの。知らないの?」

 「知るかい。おあいにくお勉強は嫌いでな」

 「心配だ」

 「なにが?」

 「僕は君が心配だ。そんなことで生活できるの?」

 「きっついなあ」と男は苦笑する。「できるとも。だからここまで生きてる。生きるってのあ結構シンプルなんだよ。勉強なんざせんでも、食って呼吸して大小出してりゃできんだ。生まれたての赤子も蟻さんもできてらあ」

 男は鞄を開け、中身を机の中に収めていく。

 「おもしろいことを言うね。生命を維持しているだけでは、社会を生きることはできない」

 ああ、と男は少し視線を上げた。「確かにそうかもな。ならその社会から離れた場所に生きりゃあいい」

 「そんなことができるものか」

 「山奥にでも逃げ込んでごらんよ」

 男は鞄のチャックを閉めた。

 「野生動物の腹を満たせと?」

 「死んでんじゃねえか」と男は笑う。「そりゃあ、山奥じゃ野生動物もいようよ。だが、植物だって生きてることだろうよ。でなきゃ野生動物だっていやしない」

 「なにが言いたい」

 「その植物の中から、食えるもんを探しゃいい。見つけたら根ごと頂戴して、自分の陣地にその子孫を育てりゃあいい。これでもう生きられる」

 「衣服や家はどうする」

 「生きることならなくてもできる。まあそれで精神から死んでっちゃあ困るから、まあ社会から逃げ出す前に蓄えておくことだな、服も金も」

 「所詮金か」

 「嫌なら自分で家を建てりゃあいい。宮大工なる人々もいるくらいだ、釘だの機械だの、そんな御大層なもの使わんでも家くらい建つ。服は、本気で金を使いたくないならご近所さんにねだればいい。それが許されるくらいの人間関係を築けばいいまでだ」

 男は、これでどうだと言わんばかりに得意げだ。木を切ったり削ったりするものもご近所さんにねだれとでも言うのだろうか。兄はため息をついた。くだらない、と思った。あまりに現実味がないと思った。
 部活動は兄弟それぞれ、兄は文芸部、弟は演劇部に所属している。演劇部の活動内容は自分たちが演技をするという弟の想像とは少し違ったようで、ドラマや映画、舞台などを鑑賞後、感想を言い合ったり、批評したりする他、朗読や演技、それに関するトレーニングをするというものらしい。弟は、作品の鑑賞と朗読が一番楽しいと語っていた。感想の発表や批評に関しては、感想を言うまでならできるが批評は向いていないと困ったように笑っていた。その分野について詳しいわけでもなく、改善点を見出すのは難しいとのことだった。

 兄の所属する文芸部の活動内容もまた、兄の想像とは少しばかり違った。フィクションの影響か、兄はただ本を読むのが基本的な活動内容なのだろうと想像していた。それが実際は、演劇部に似た内容だった。部員全員で一本の物語を精読し、感想を言い合ったり批評したりする、読書会のようなものだった。なにかしらの部活動への入部が絶対である中で、最も人と話さずに済みそうな部活名だったので入部を決したが、活動時間のほとんどを他の部員と話している。部活動は基本的に月、水、金曜日に入っており、部活動のない日には物語を読み、ある日にはそれについて語り合うというのだ。

活動内容に関しては、部活動紹介の際に知らされた。入部を決める前に全部活動を見て回って、各部長より内容を聞かされるのだ。そのとき、部長は確かに読んだ物語の感想を言い合って批評をすると言っていたが、そんなのは時折やるくらい――それどころか部活動紹介のための台詞――で、実際のところはただ本を読んだり、なんなら部員同士が文芸とはかけ離れた話題に盛り上がっているというのが実情だろうと思った。

 そう甘く考えて入部したら、この様である。部室に入って右手の壁には、文豪と呼ばれる人々の写真だか上手に描かれた絵だかがびっしり飾られており、他の壁には図書館や図書室のように膨大な数の本が収納されている。いくら語り合うのが最近の作品が多いとは言え、文学の御偉方に見張られている中では、文学に関して発声する際には毎度、口から声以外のなにかが出そうになり、毛穴という毛穴が老廃物のすべてを出さんとしているような錯覚を起こす。
 「岸根って、チェスできる?」土踏まずが痛い男――名は増家といった――にそう問われたのは、ある放課後のことであり、実に唐突だった。

 「なんで」

 「最近、個人的流行がきてるんだ」

 「マイブーム?」

 「そう。でも身近にいないんだ、やってる奴。ルールを知ってる奴さえ少ない。そんで、多角形のグラフを二回りほど大きく綺麗になぞる岸根に。文芸部、今日部活ねえだろ?」

 兄はどちらが利口だろうと考えた。ここでチェスはできないと断って、博識の面にひびを入れるか、できると見栄を張って負け、面を欠けさせるか。理想はできると対局を引き受け、チェックメイトの言葉を声にすることだ。チェスができる人間が身近にいない、というのはどういう意味だろうか。歳の近い者にいないということか、歳は近いが遠い場所に住む者ということか。いや、と兄は思考の方向を変える。技術に年齢は関係ない。

断るのも引き受けるのも簡単だ。部活のための本を読まなくてはならないと言えば断れるし、できるよと言えば引き受けられる。部活のための本なら、数時間あれば周りの部員と同程度の発言ができるほどには読めるが、精読せねばならないと言えば増家は素直に引き下がるだろう。

 兄は小さく息を吸った。「できるよ」と声を乗せて、そっと吐き出した。「まじか」と、増家の表情が花を咲かせる。
 増家の自宅は、学校から五分も自転車を漕げば着くような場所にあった。その近さを、彼は「寝坊しても遅刻はしねえんだぜ」と自慢した。「寝坊なんかするの」と返すと、「そうきたか」と増家は苦笑した。

 増家の私室は、六畳ほどの部屋だった。足元は白のラグを被ったフローリングだが、壁で元が和室であることがわかった。扉も引き戸だ。室内には、黒の木製のボードの上に薄型テレビとスピーカー、ボードの中にDVDやCDといったディスク、その再生機器がある他、白と濃紺を基調としたベッドと、黒のローテーブル、その下に全巻揃った文庫版の漫画が一作収められているだけで、本人の印象とは少し違い、散らかってはいなかった。

 「君」対局中、兄はぽつんと声を発した。増家は「おう」と驚いたように声を発する。「文芸部は今日、部活がないだろうと言ってたけど、僕、君に部活のこと話したっけ」

 「え、なんか怖」と増家は苦笑する。「別に怒ってるわけでも嫌がってるわけでもない」と言いながら、兄は増家の一手に駒を動かした。迷いねえな、と増家は小さく笑う。

 「お前の部活くらい知ってるよ。お前は有名人だからな。女子が騒いでるぜ? 岸根君っていいよねって。まあ、ちとびびってる子もいるけど」

 「そう」

 「お前、好きな女子とかおらんわけ?」

 「いない」

 「はあ、嫌な男だねえ。女子はキャーキャー言ってるってのに。なに、奈央ちゃんは男子が好きなわけ?」

 「そっちの方が一般的かもね」

 「は?」

 「別に。特別な意味はない」

 「特別な意味しかねえだろ」

 「いいから、早くして。本当の試合なら大変なことになってるよ」

 「いや、ラフにやろうぜ。で、なに、まじでそうなの?」

 「違う」

 「じゃあなにさ」

 「なんで言わなきゃいけない」

 「おれが気になるから」

 「他人様の好奇心を満たすために個人的なこと喋る者があるか」

 「いいじゃんか、心の距離を縮めるにはお話が大事だろ?」

 早くしてと兄が再度言おうとすると、増家はようやく一手を打った。「僕は君と心の距離を縮めようとは思ってない」と言いながら、兄はさっと駒を動かす。「性格、北極かよ」と増家は苦笑する。