深夜に体調を崩して帰ってきた日以降も、海里はどこかに出かけることをやめなかった。
毎朝、私が学校に向かうのとは反対の方角へ、足取りも軽く出かけていく。
しかもその出発時間は、日一日と早くなっている。
(ふーんそうですか……そんなにその子と会うのが楽しみなんですか……!)
私には関係ないことだなんて強がりながらも、内心は気になってしょうがなかった。
(どんな子なんだろ? あの海里が好きになった人……)
チクリと痛む胸をこらえながら、忙しい朝のひと時、一瞬そんなことを考える。
(まあ、どうでもいいけど……!)
机の上に置かれていた鞄を取り上げて、私は階段を駆け下りた。
「行ってきます!」
「え? ああ、行ってらっしゃい……」
海里が一緒に登校していた頃は、
「ちゃんと見ててあげてね」
「お願いね」
と煩わしいくらいに朝から念を押していたママも、私一人だとリビングの向こうから軽く声をかけて、それで朝の見送りは終わりだ。
(別にいいんだけど……!)
玄関の扉を押し開けて外に出ると、もう陽射しが眩しいほどだった。
「今日も暑くなりそうだな……」
ふとそんなことを考えれば、抜けるように色の白い海里の横顔が一瞬脳裏を過ぎる。
「ちゃんと帽子ぐらい被って行ったんでしょうね……? そろそろいいかげん倒れるわよ……?」
冗談になんてまるでなりようのないことを思わず口にしたら、我ながらため息が出た。
(だから……もう私が気にする必要はないんだって……!)
小さな頃からすっかり体と思考に染みついてしまっている海里優先の生活は、そう簡単には切り替えられそうにもなかった。
「ねえ……五十嵐さんってやっぱり、一生君とつきあってるの……?」
二時間目の休み時間。
次の英語の時間に自分が当たるはずの箇所の予習に励んでいると、よく聞き慣れたその質問を、ひさしぶりに投げかけられた。
ノートに覆い被さるようになって煩わしかった髪を耳にかけながら、ゆっくりと顔を上げてみれば、前の席の畠田さんが興味津々といったふうに瞳を輝かせて、体ごとこちらをふり返っている。
「違うわよ。ただの従兄妹」
なるべくぶっきらぼうにならないように気をつけながら、短くそう答えた。
本当は
「海里には他にちゃんと好きな人がいるから!」
とまで言ってしまいたかったが、そこで
「じゃあ、あなたは?」
なんて聞かれると、私には返す言葉がない。
海里が完全に私とは違う方向を向いてしまった今でも、懲りもせず片思いを続けているなんて自分でも認めたくなくて、私はそれ以上は口を噤んだ。
「ふーん、そうなんだ……」
あっさりと納得した畠田さんが、そのあとに続ける言葉は、
「てっきり恋人同士だと思ってた」
とか
「それにしては仲がいいよね」
とか、これまでにも散々言われてきた言葉だと思った。
だからもう視線をノートに戻して、予習の続きを始める。
なのに、ニコニコとした笑顔が可愛い畠田さんは、俯いた私の頭に向かって思いがけない言葉をかけた。
「じゃあさ。会って欲しい人がいるんだ……このクラスじゃないんだけど、入学したばっかりの頃からずっと、『畠田のクラスのあの黒髪美人を紹介して!』って、私、言われてたんだよね……!」
「……は?」
思わず間抜けな声が出てしまった。
ノートから上げた顔も、同じく間抜けな顔だったらしい。
畠田さんの笑顔がいよいよ綻ぶ。
「ははっ……五十嵐さんって美人でとっつきにくいと思ってたけど、意外と反応が面白いよね……そう思ったのは、一生君相手にまるでコントみたいなやり取りしてるのを見たからなんだけどさ……」
「…………!」
絶句する。
無邪気な笑顔で人をからかうのが趣味みたいな海里に、本気で立ち向かっている姿なんて、学校で見せるんじゃなかった。
(これじゃ私のイメージがぶち壊しじゃない!)
本当はそれほどこだわっているわけでもない、人の目に映る自分の姿を、さも大事にしているかのように心の中で毒づく。
(海里のバカ……!)
おかげで断わりを入れるタイミングをすっかり失ってしまった。
「昼休みに中庭の木蓮の木の下にいるからさ……ちょっと話だけでも聞いてあげてよ。お願い。ねっ?」
右手を顔の前に構えて、拝むようなポーズで片目を瞑り、畠田さんは私の返答も待たずに前に向き直った。
「えっ? ちょ、ちょっと……?」
慌てて声を上げる私を、肩越しに少しだけふり返る。
「会うだけでいいから。ねっ?」
困ったような笑顔で念を押されれば、無下に断わることはできなかった。
(まあいいか……会うだけなら……)
この手のことは、今までまったく経験がなかったわけではない。
中学時代にも何度か呼び出しのようなものを受けて、
「友だちからでいいんで、お願いします!」
という大仰な願いを受け入れて、少しは仲良くなった男の子だっていた。
でも海里の具合が悪くなれば、私は何を差し置いても付き添うし、入院している間は朝夕病院に通うから、空いている時間なんてまるでない。
すぐに
「やっぱりな……」
と諦めていく男の子たちを、なんの感慨もなく見送る私は、結局誰のこともなんとも思っていなかったんだろう。
これまで十六年間、誰だって私の『特別』にはなりようがなかった。
――海里以外は。
大きな木の下で私を待っていたのは、意外なことにあまり大柄ではない男の子だった。
意外だと思ったのにはわけがある。
なぜだか私は昔から、体格のいい男の子に好かれることが多かったのだ。
柔道部。
アメフト部。
ラグビー部。
バスケ部。
バレー部。
思い返してみれば、揃いも揃って運動部なのには何かわけがあるんだろうか。
(例えば……つきあったら、マネージャーっぽい世話の焼き方をしてくれそうだとか……?)
常に海里の世話をしている姿ばかり、中学時代も晒していたんだから、さも有り得そうな話だ。
そんなことを考えていたらため息が出た。
男の子から呼び出しを受けた。
――こんな時でさえ海里のことしか頭にない自分には、いいかげんうんざりする。
目の前に立つ男の子は、客観的に見れば格好いい部類かもしれない。
いや。
どちらかと言えば可愛いかも。
女の子みたいに綺麗な肌も、大きな目も、ダメだ――見れば見るほど海里と被る。
そのくせ、
(やっぱり海里よりは健康そうな肌の色だな)
とか
(力だってこの人のほうがありそうよね)
とか、ついつい海里と比較してしまう。
(無理……やっぱりこんな状態じゃ、いくらなんでも相手にだって失礼だ……)
早々に「ごめんなさい」と頭を下げて帰ってしまおうと思ったのに、それはなかなか上手くいかなかった。
相手の男の子――確か隣のクラスの伊坂君――は、ちっとも私に何かを表明するわけでも、答えを求めるわけでもない。
「この木って学校ができた当初からここにあるらしいよ」
とか
「今年の修学旅行は目的地が変わるらしいね」
とか、次から次へとあまりにも普通の話題を持ちだされるので、私もついつい普通に話に乗ってしまう。
「ふーん、そうなんだ……よくそんなこと知ってるね……」
気がつけば中庭の芝生に座り込んで、まるで昔からの知り合いのように話しこんでいた。
昼休みの終りを告げるチャイムにハッとして立ち上がる。
伊坂君も同じように立ち上がって、それから私に向かってニッコリ笑った。
「楽しかった……五十嵐さんってやっぱり、僕が思ってたとおりの人だ。ねえ、またこんなふうに話しようね」
まるで裏表を感じさせない屈託のない笑顔を向けられると、思わずドキリとする。
ずっとずっと私が見続けてきた笑顔に、彼が笑った顔はほんの少し似ていた。
「ええっと……」
さっさと謝って、それっきりにしようと決めていたのに、返答に詰まった。
(話するだけ……なんだよね? 今だってずっと、いろんなこと話してただけだもんね……それってつまりは、特別な意味なんかなくって、単なる友だちづきあいなんじゃないの……?)
話していて楽しかったし、だったら別にこれからも時々はそんな時間があったっていいんじゃないかと、私は頭の中でそう結論づけた。
「うん。時々なら……」
私が頷いたら、伊坂君はますます笑顔になった。
「よろしく!」
「う、うん。よろしく……」
なんとも不思議な気分だった。
毎朝、私が学校に向かうのとは反対の方角へ、足取りも軽く出かけていく。
しかもその出発時間は、日一日と早くなっている。
(ふーんそうですか……そんなにその子と会うのが楽しみなんですか……!)
私には関係ないことだなんて強がりながらも、内心は気になってしょうがなかった。
(どんな子なんだろ? あの海里が好きになった人……)
チクリと痛む胸をこらえながら、忙しい朝のひと時、一瞬そんなことを考える。
(まあ、どうでもいいけど……!)
机の上に置かれていた鞄を取り上げて、私は階段を駆け下りた。
「行ってきます!」
「え? ああ、行ってらっしゃい……」
海里が一緒に登校していた頃は、
「ちゃんと見ててあげてね」
「お願いね」
と煩わしいくらいに朝から念を押していたママも、私一人だとリビングの向こうから軽く声をかけて、それで朝の見送りは終わりだ。
(別にいいんだけど……!)
玄関の扉を押し開けて外に出ると、もう陽射しが眩しいほどだった。
「今日も暑くなりそうだな……」
ふとそんなことを考えれば、抜けるように色の白い海里の横顔が一瞬脳裏を過ぎる。
「ちゃんと帽子ぐらい被って行ったんでしょうね……? そろそろいいかげん倒れるわよ……?」
冗談になんてまるでなりようのないことを思わず口にしたら、我ながらため息が出た。
(だから……もう私が気にする必要はないんだって……!)
小さな頃からすっかり体と思考に染みついてしまっている海里優先の生活は、そう簡単には切り替えられそうにもなかった。
「ねえ……五十嵐さんってやっぱり、一生君とつきあってるの……?」
二時間目の休み時間。
次の英語の時間に自分が当たるはずの箇所の予習に励んでいると、よく聞き慣れたその質問を、ひさしぶりに投げかけられた。
ノートに覆い被さるようになって煩わしかった髪を耳にかけながら、ゆっくりと顔を上げてみれば、前の席の畠田さんが興味津々といったふうに瞳を輝かせて、体ごとこちらをふり返っている。
「違うわよ。ただの従兄妹」
なるべくぶっきらぼうにならないように気をつけながら、短くそう答えた。
本当は
「海里には他にちゃんと好きな人がいるから!」
とまで言ってしまいたかったが、そこで
「じゃあ、あなたは?」
なんて聞かれると、私には返す言葉がない。
海里が完全に私とは違う方向を向いてしまった今でも、懲りもせず片思いを続けているなんて自分でも認めたくなくて、私はそれ以上は口を噤んだ。
「ふーん、そうなんだ……」
あっさりと納得した畠田さんが、そのあとに続ける言葉は、
「てっきり恋人同士だと思ってた」
とか
「それにしては仲がいいよね」
とか、これまでにも散々言われてきた言葉だと思った。
だからもう視線をノートに戻して、予習の続きを始める。
なのに、ニコニコとした笑顔が可愛い畠田さんは、俯いた私の頭に向かって思いがけない言葉をかけた。
「じゃあさ。会って欲しい人がいるんだ……このクラスじゃないんだけど、入学したばっかりの頃からずっと、『畠田のクラスのあの黒髪美人を紹介して!』って、私、言われてたんだよね……!」
「……は?」
思わず間抜けな声が出てしまった。
ノートから上げた顔も、同じく間抜けな顔だったらしい。
畠田さんの笑顔がいよいよ綻ぶ。
「ははっ……五十嵐さんって美人でとっつきにくいと思ってたけど、意外と反応が面白いよね……そう思ったのは、一生君相手にまるでコントみたいなやり取りしてるのを見たからなんだけどさ……」
「…………!」
絶句する。
無邪気な笑顔で人をからかうのが趣味みたいな海里に、本気で立ち向かっている姿なんて、学校で見せるんじゃなかった。
(これじゃ私のイメージがぶち壊しじゃない!)
本当はそれほどこだわっているわけでもない、人の目に映る自分の姿を、さも大事にしているかのように心の中で毒づく。
(海里のバカ……!)
おかげで断わりを入れるタイミングをすっかり失ってしまった。
「昼休みに中庭の木蓮の木の下にいるからさ……ちょっと話だけでも聞いてあげてよ。お願い。ねっ?」
右手を顔の前に構えて、拝むようなポーズで片目を瞑り、畠田さんは私の返答も待たずに前に向き直った。
「えっ? ちょ、ちょっと……?」
慌てて声を上げる私を、肩越しに少しだけふり返る。
「会うだけでいいから。ねっ?」
困ったような笑顔で念を押されれば、無下に断わることはできなかった。
(まあいいか……会うだけなら……)
この手のことは、今までまったく経験がなかったわけではない。
中学時代にも何度か呼び出しのようなものを受けて、
「友だちからでいいんで、お願いします!」
という大仰な願いを受け入れて、少しは仲良くなった男の子だっていた。
でも海里の具合が悪くなれば、私は何を差し置いても付き添うし、入院している間は朝夕病院に通うから、空いている時間なんてまるでない。
すぐに
「やっぱりな……」
と諦めていく男の子たちを、なんの感慨もなく見送る私は、結局誰のこともなんとも思っていなかったんだろう。
これまで十六年間、誰だって私の『特別』にはなりようがなかった。
――海里以外は。
大きな木の下で私を待っていたのは、意外なことにあまり大柄ではない男の子だった。
意外だと思ったのにはわけがある。
なぜだか私は昔から、体格のいい男の子に好かれることが多かったのだ。
柔道部。
アメフト部。
ラグビー部。
バスケ部。
バレー部。
思い返してみれば、揃いも揃って運動部なのには何かわけがあるんだろうか。
(例えば……つきあったら、マネージャーっぽい世話の焼き方をしてくれそうだとか……?)
常に海里の世話をしている姿ばかり、中学時代も晒していたんだから、さも有り得そうな話だ。
そんなことを考えていたらため息が出た。
男の子から呼び出しを受けた。
――こんな時でさえ海里のことしか頭にない自分には、いいかげんうんざりする。
目の前に立つ男の子は、客観的に見れば格好いい部類かもしれない。
いや。
どちらかと言えば可愛いかも。
女の子みたいに綺麗な肌も、大きな目も、ダメだ――見れば見るほど海里と被る。
そのくせ、
(やっぱり海里よりは健康そうな肌の色だな)
とか
(力だってこの人のほうがありそうよね)
とか、ついつい海里と比較してしまう。
(無理……やっぱりこんな状態じゃ、いくらなんでも相手にだって失礼だ……)
早々に「ごめんなさい」と頭を下げて帰ってしまおうと思ったのに、それはなかなか上手くいかなかった。
相手の男の子――確か隣のクラスの伊坂君――は、ちっとも私に何かを表明するわけでも、答えを求めるわけでもない。
「この木って学校ができた当初からここにあるらしいよ」
とか
「今年の修学旅行は目的地が変わるらしいね」
とか、次から次へとあまりにも普通の話題を持ちだされるので、私もついつい普通に話に乗ってしまう。
「ふーん、そうなんだ……よくそんなこと知ってるね……」
気がつけば中庭の芝生に座り込んで、まるで昔からの知り合いのように話しこんでいた。
昼休みの終りを告げるチャイムにハッとして立ち上がる。
伊坂君も同じように立ち上がって、それから私に向かってニッコリ笑った。
「楽しかった……五十嵐さんってやっぱり、僕が思ってたとおりの人だ。ねえ、またこんなふうに話しようね」
まるで裏表を感じさせない屈託のない笑顔を向けられると、思わずドキリとする。
ずっとずっと私が見続けてきた笑顔に、彼が笑った顔はほんの少し似ていた。
「ええっと……」
さっさと謝って、それっきりにしようと決めていたのに、返答に詰まった。
(話するだけ……なんだよね? 今だってずっと、いろんなこと話してただけだもんね……それってつまりは、特別な意味なんかなくって、単なる友だちづきあいなんじゃないの……?)
話していて楽しかったし、だったら別にこれからも時々はそんな時間があったっていいんじゃないかと、私は頭の中でそう結論づけた。
「うん。時々なら……」
私が頷いたら、伊坂君はますます笑顔になった。
「よろしく!」
「う、うん。よろしく……」
なんとも不思議な気分だった。