半年後。
 
 奇しくも海里の誕生日の三日後に、真実さんは元気な男の子を産んだ。
 
 生まれてすぐに保育器に入れられたあいつとは正反対に、いたって健康な赤ちゃん。
 海里によく似ているというその子が、無事に生まれてきてくれたことを喜んだのは、なにも真実さんや彼女の家族や友だちばかりではない。
 
 ――私だって陸兄だって、心から嬉しかった。


 
「ひとみまだか? ……早くしないとおいて行くぞ!」
「ひどいなぁ、もう! ……だいたい……『会わせてあげるね』って真実さんに約束して貰ったのは私なんだから! 陸兄はただのつきそいのくせに!」
 
 玄関で靴を履くのに手間取っている私を、待ちきれないように急かせる陸兄の大きな背中を、私は恨みがましく見上げる。
 
「意地悪言うなよ……俺がこの日をどんなに楽しみにしてたか……お前だって知ってるだろ?」
 
 真実さんの友だちの愛梨さんからの電話を待ち侘びて、今か今かとウロウロしていた昨夜からの陸兄の姿を思い出す。
 
「うん……まるで陸兄が子供の父親みたいだった……」
 
 笑い出してしまわないように苦労しながら必死に真顔で答えたら、もっと真剣な顔でふり向かれた。
 
「本当に俺の子供が生まれる時は、きっともっと落ち着かないよ……覚悟しといて、ひとみ」
 
(なんで私が覚悟するの!)
 
 真っ赤になって反論したい心を、懸命にこらえた。
 そんなことしたらきっと陸兄は、まるで当たり前のような顔で、もっと私をからかうだろう。
 そうに違いない。
 
(ほんとにもう……! 兄弟して私で遊んでばかりなんだから!)
 
「陸兄のバカ!」
 
 まるで海里にそうしていたように、思いっきり文句を言う。
 
 そんな悪口さえ嬉しそうに受け止めて、「ハハハ」と大きな声で笑う陸兄の姿を、私はちょっと懐かしく見上げていた。
 
 海里が亡くなってから八ヶ月。
 私は、あいつともこんなやり取りをしていた日々を、やっと穏やかな気持ちでふり返ることが出来るようになっていた。



『飛行機だったら一時間。新幹線で三時間。高速バスだったら五時間』
 
 生前、海里は真実さんの実家がある町のことを指して、そう言って笑った。
 海里が新幹線で行き、帰りは真実さんとフェリーで帰ってきた町に、私は陸兄が運転する車で向かった。
 
「私……陸兄の運転だったら日が暮れちゃうんじゃないかって思ってた……でも意外と飛ばすんだね……」
 
 何事もおおらかな心で受け止めて、どちらかといえば海里よりのんびりしていると思っていた陸兄だったが、高速を走る車の速度メーターは常に百二十キロを軽く越えている。
 
 見る見る前方の車を追い越していく運転が恐くはなかったが、ちょっと意外だと思った。
 
「うん。まあ、のんびり行ってもいいんだけど……今日は、一刻も早く『海』に会いたいからね!」
「そ、そう……」
 
 運転席の陸兄に向けていた顔を、私は慌てて前方に戻す。
 遥か先のほうに、本当に鈍く光る海が見えてきた。
 
 真実さんは、生まれてくる子が男の子でも女の子でも『海』と名づけると以前から言っていた。
 
 ――それは彼女に名前さえ明かさなかった海里を、彼女が勝手に名づけて呼んでいた名前。
 
『絶対無理だと思ってたのにな……凄いよ……結構いいせんいってる! うん、今までで一番かも。真実さん凄い!』
 
 彼女にそう呼ばれて、海里がとても喜んでいたというのは、あとになって真実さんに聞かせてもらった話だ。
 
 その話を聞いた時に、やっぱり二人は特別だったんだなと思った。
 
 私なんかの――ううん。たとえ他の誰でも――入り込む隙間なんて全然ないくらい、出会って恋に落ちることが運命づけられていた二人だったんだなと、改めて思った。
 
 二人の特別な思い出がたくさん詰まった『海』という名を、これから真実さんは小さな我が子に対して呼びかける。
 
 海里の命を受け継いだその子に、これ以上ピッタリな名前はないと、私もそう思う。
 
「早く会いたいな……」
 
 どんどん近くなってくる窓の外の風景の海を眺めながら呟いたら、陸兄が「よし!」と返事した。
 
 ただでさえ速かった車の速度が、段違いにまた速くなるから私は大慌てする。
「そんなにスピード出したら、スピード違反で捕まってかえって遅くなっちゃうでしょ!」
 
 陸兄がまた、大きな声で「ハハハ」と笑った。
 
「大丈夫! 俺はそんなヘマはしない!」
 
 自身たっぷりの言い方が、また海里を思い出させて。
 でも本当に何事もそつなくこなしてしまう陸兄らしくもあって。
 私も声をたてて笑った。
 
「じゃあ、規定速度以内で急いで!」
「OK!」
 
 飛ぶように過ぎて行く窓の風景の中に、海はまた見えなくなった。



「ひとみちゃん! 本当に来てくれたんだ。遠かったでしょ? ありがとう……」
 
 十五時間以上も陣痛で苦しんだというわりには、とても穏やかな満ち足りた笑顔で、真実さんは私たちを迎えてくれた。
 
「陸人さんも、ありがとうございます……」
 
 真実さんの友人たちは、やっぱり陸兄の姿を見てちょっとたじろぐそぶりを見せたが、真実さんはまったく動じない。
 
 どんなに陸兄が海里に似ていても、彼女にとってはまったく別人なんだということが、私は嬉しくて誇らしかった。
 
「いえ。こちらこそありがとう……」
 
 真実さんに向かって深々と頭を下げる陸兄に、つられるように私も頭を下げた。
 そんな私たちを、真実さんは本当に聖母のような笑顔で見つめている。
 
「今、ちょっと検査に行ってるんだけど、もうすぐ帰ってくるから……」
 
 自分のベッドのすぐ横に置かれた新生児用の小さな小さなベッドを見ながら、真実さんが笑う。
 
 ベッドに付けられたプレートには、『白川海 男 50cm 2940kg』とマジックペンで書いてあった。
 
「もう名前が書いてある……」
 
 思わず呟いた私に、真実さんの友人で長髪美人の貴子さんが返事をくれる。
 
「そう。本当はまだ真実の名前が書いてあるはずの場所なのに、このママは『名前はずっと前から決まってるんです』って強引に書いてもらったんだ」
 
 ふふっと真実さんが嬉しそうに笑った。
 
「だって本当だもの。海君ともそう約束したもの」
 
 真実さんの声でひさしぶりに海里の呼び名を聞いて、なんだかドキリとした。
 
 その声にこもる愛情とか愛しいと思う感情とか、彼女に初めて会った時から何一つ変わっていないように感じた。
 
「お腹にいる時からずっとそう呼んでたから、きっと本人も自分は『海』って名前なんだって、わかってると思うんだよね……」
 
「生まれたばっかりの赤ん坊が、そんなことわかってたら恐いだろ!」
 
 貴子さんの叫びに、部屋にいた全員が笑い出した瞬間、扉が開いて淡い水色のタオルにくるまれた赤ちゃんを抱いた看護師さんが部屋に入ってきた。
 
「検査終わりましたよ。よく眠ってるけど、どうしますか? ベッドに寝かせますか?」
 
 ズラリと並んだお見舞いの面々を見渡しながら、看護師さんが真実さんに問う。
 真実さんは笑いながら、私の名前を呼んだ。
 
「ひとみちゃん、抱いてあげてくれる?」
 
 私は赤ちゃんを抱くどころか、小さな子供と接したこともほとんどない。
 ドキドキしながら頷いたら、陸兄が耳元でそっと囁いた。
 
「頑張れ、伯母さん!」
「なんで伯母さんなのよ!」
 
 大きな声で叫んだらせっかく寝ている赤ちゃんを起こしてしまいそうだったので、小さな声で文句は言っておいた。
 
 看護師さんから手渡される、温かくて確かな重みにドキドキする。
 タオルにくるまれた顔をのぞきこんでみたら、本当に海里によく似ていて思わず泣きそうになった。
 
「海……ひとみちゃんだよ。パパの従兄妹。パパはひとみちゃんのことが大好きだったんだ」
 
 真実さんが優しい優しい――本当に優しすぎる声でそんなことを言うから、ますます涙が零れそうになる。
 
 隣から手を出して、私の腕から海を抱き上げる陸兄にあとは任せて、私は両手で顔を覆った。
 
「海……陸人さんだよ。パパのお兄さん。海の伯父さんだね」
「初めまして、甥っ子君……」
 
 静かに囁いた陸兄の声は、ちょっと涙声だった。
 
「俺、かすかに覚えてるんだ……海里が生まれた時のこと……そういえばこんなふうだったなあって、海を見てたら記憶がどんどん鮮明になってくる……真実ちゃん、ありがとう……」
「ううん。私こそありがとう……今だけ……ごめんなさい……まるで海君が海を抱いてくれたみたいに見える……」
 
 彼女が謝ったのは誰に対してなのか。
 ――それは海里にかもしれないし、陸兄にかもしれない。
 ひょっとしたら私の陸兄に対する想いを、敏感に感じ取ってくれたからかもしれない。
 
 でもその時その部屋にいた人間は、誰もそんなことで気分を害すような者はいなかった。
 
 スヤスヤと眠る海を見つめて、嬉しそうに微笑む陸兄の姿に、私だって、決して見ることのできないはずだった夢のような光景を見たと思った。
 
 もしも海里が生きていたなら、海の誕生をきっと手放しで大喜びしたはずで。
 息子のこれからの人生を、全力で支えて守っていったはずで。
 だからその役目の一端でも、私も手伝いたいと思う。
 
 これからたった一人でこの子を育てていく真実さんを、少しでも助けてあげたいと思う。
 
「おっ? 目を覚ますか?」
 
 腕の中で身じろぎし始めた海を、陸兄がそっと真実さんに渡した。
 
 やっぱり誰よりも一番しっくりくる腕に抱かれて、小さな小さな命が、ふわっと欠伸をしてから目を開いた。
 
 真実さんに良く似た黒目がちの大きな瞳に真っ直ぐに見つめられて、のぞきこんでいたたくさんの大人たちは口々に感嘆の声を上げる。
 
「かあわいい。おーい海君。愛梨だよ」
「私は花菜!」
「こりゃあ、海里よりもいい男だな……」
「うん。真実よりかしこそうだ……」
「ひどい、貴子! ママだってちゃんと大学卒業できるように頑張ります!」
「ハハハハッ」
 
 その綺麗な瞳には、きっとまだ周りの風景は映らないだろう。
 でもにぎやかな声は聞こえているはずだ。
 
 小さな唇の両端が、偶然にも笑顔のようにちょっと持ち上がって、大人たちはまた歓喜の声を上げる。
 
「笑った! 笑ったよ!」
「きっとすぐに、海里みたいに大口開けて笑うようになるぞ」
「うん。そうだね……」
 
 小さな我が子の笑顔を見つめて、真実さん自身もまるで聖母のような笑顔になった。
 
 その二人を包みこむように窓から射しこむ、うららかな五月の光の中に、私は海里の姿を見たような気がした。
 
 嬉しそうに、幸せそうに、真実さんと小さな海を見つめて微笑んでいるような気がした。
 
(よかったわね……)
 
 心の中だけで話しかけたら、ニッコリとあのちょっと悪戯っぽい満面の笑みを向けられる。
 
(うん。ひとみちゃんも、兄貴と仲良くね)
(そ、そんなこと、あんたに言われなくったってわかってるわよ!)
(うん。そうだと思った。だから安心してる)
 
 それはきっとまぼろし。
 私にしか聞こえない幻聴。
 
 でも海里は本当に、これからも真実さんと小さな海と共にあるんだと思った。
 姿は見えなくても、声は聞こえなくても、確かにそこにいるんだと思った。
 
 ――だから大丈夫。
 きっと真実さんと小さな海は大丈夫。
 
 そう思えたことが嬉しかった。



 いつの間にか見えなくなった海里の姿と共に、私の中のちょっと切ない初恋への思いも消えていく。
 静かに穏やかに、まるで泡が消えていくように少しずつ昇華していく。
 
(バイバイ、海里)
 
 心の中で呟いた瞬間に、「ひとみ」と私を呼ぶ声がした。
 急いでふり返って、私に向けられる、決してまぼろしではない陸兄の笑顔に見惚れる。
 
「そろそろ、帰るぞ。真実ちゃん……また来るね……」
 
 海里の大切な真実さんにはぺこりと頭を下げて、私に向かってさし出される手。
 
 それが自分にだけ与えられるということが、どんなに特別でどんなに奇跡みたいに素晴らしいことなのか。
 私は知っている。
 
 だから、いつも意地を張ってばかりの自分を今だけは追い払って、素直に陸兄と手を繋ぐ。
 いつになくドキドキしながら繋いだ。
 
「よし! 帰りも全力で急ぐぞ!」
 
 私の手を握ったまま、高々と腕を突き上げる陸兄の姿に笑う。
 確かに――愛しいという想いを感じながら笑った。
 
(ハハハッ。よかったね。ひとみちゃん……)
 
 またどこからか、海里の大笑いと優しい祝福の声が聞こえた気がした。
 
 
 ――それはきっと、私が「ずっと好きだった」人からの、最後のメッセージ。



(終)