こないだの一件があって以来、藤野美月とは非常に顔が合わせづらい。図書室にも行ってないし、部活に復帰した後も彼女が気になって調子が上がらないし散々だ。謝りたいし、この気まずい雰囲気をなんとかしたいのはやまやまだが……どうすればいいのか分からない。

「浩太くん!」
「……香里先輩」

 白い笛を首にかけた香里先輩が笑顔で俺の名を呼んだ。前はそれだけで空も飛べるほど舞い上がっていたというのに、俺の心は落ち着いたままだ。

「足は大丈夫? 無理してない?」
「あ、大丈夫ッス」

 香里先輩はベンチで休憩していた俺の隣に座った。高い位置で結ばれたポニーテールが揺れる。

「最近元気ないみたいだから心配してたの。部活にも支障出てるみたいだし……何かあった?」
「いや……別にないッス」
「本当に?」

 香里先輩に疑いの目でジトリと睨まれ、俺は仕方なく口を動かす。

「……ちょっと、知り合いと喧嘩しちゃって」
「喧嘩?」
「喧嘩っていうか……。俺が一方的に傷付けたっていうか。謝りたいんスけど、自分の気持ちの整理がつかなくて」
「そんな風に悩むのって珍しいね。浩太くんって感情のまま動いちゃうっていうか、猪突猛進、暴走機関車タイプじゃない?」

 まったくもってその通りなのだが、改めて言われると複雑な気持ちになる。

「難しく考えなくていいんじゃない? そういう時はさ、自分の思ってることを素直に伝えるのが一番いいと思うよ。下手な小細工なんてしないでさ」
「素直に……」

 自分でもまだまとまっていないこの感情を素直になんて……言えるか? 否、言えない。悪態なら簡単に()けるのになぁ。

「でも、そんな風に悩むって事はよっぽどその人のことが大事なんだねぇ」

 香里先輩は何やらワケ知り顔でニヤニヤしながら言った。俺はその意味に気付かぬ振りをして校舎を見上げる。

 東棟の三階。藤野美月は今日もあそこにいるのだろうかと視線を移すと、ちょうどその窓からこちらを見下ろしている女子生徒と目が合った。お互い驚いたように目を見開く。……間違いない、藤野美月だ! 俺が立ち上がった瞬間、彼女は弾かれたようにパッとその姿を消した。なんだよ今の態度……ムカつく。やはり俺は猪突猛進、暴走機関車タイプらしい。

「香里先輩! 俺部活ちょっと抜けます!!」
「えっ!?」
「色々ありがとうございました!」
「ち、ちょっと!」
「それと!」

 こんな台詞が自分の口から出てくるなんて信じられないが、今、心から思った。

「河口先輩とお幸せに!!」
「は、はぁっ!? ちょ、浩太くん!?」

 真っ赤になって叫ぶ香里先輩に後は任せて、俺は両手を動かしとにかく走った。足の痛みなんかまったく感じない。階段を駆け上がり廊下を全力疾走すると、その勢いのままバン!! とドアを開ける。

「おっっっ前!!」

 俺は初めて会った時のように大声で図書室に乗り込んだ。〝図書室ではお静かに〟なんて貼り紙は相変わらずまったく意味がない。ゼェハァと息が上がっているのはやはりここ数日の運動不足のせいだろう。

「えっ、な、岸くん!?」
「おっ前!! 今目ぇ合っただろ!? 何そらしてんだよ!!」
「いや、だって、せっかく佐倉さんと話してたのに邪魔しちゃ悪いと思って」
「なんでだよ! 俺はお前に無視されることの方が嫌だった!!」
「は、はぁ?」
「これからは絶対無視すんなよ! 絶対にだ!」
「ええ〜……」

 俺の小学生みたいな言い分に、藤野美月は眉を下げた困り顔で戸惑いを隠せないようだった。

「……こないだは言い過ぎた」

 ハッと息を飲む音が聞こえた。

「言われたこと全部図星だったんだ。俺はずっと香里先輩のこと好きだったけど、中学の時も今も何かと理由をつけて告白すんの避けてた。怖かったんだ。あの人に振られるのが。傷付きたくなかったんだ。でも、香里先輩に彼氏が出来て。何もしないでいても失恋することがあるって身に染みてわかった。その方がしんどいって事も。そしたら自分に腹が立って。全部自分が悪いって分かってるけど、バカみたいに八つ当たりすることしか出来なかった」
「……うん」
「でも、こないだのあれはお前と河口が仲良さそうにしてたのも悪いんだからな!」
「え?」
「と、とにかく! 俺はもう失恋するのは嫌だし後悔もしたくない! こんな気持ち味わうなんてもう二度とごめんなんだよ!! お前は!?」
「そりゃ、私も失恋するのは嫌だけど……」
「だろっ!? だから……藤野美月!!」

 俺は彼女の目を真っ直ぐに見つめた。心臓がバクバクと煩い。喉もからからだ。それでも、大きく息を吸った。

「お前が俺のこと好きになったらすぐ言え!! そうすれば二人とも失恋しないから! わかったか!!」

 藤野美月はぽかんと口を開け、パチパチと二回瞬きをした。しん、と水を打ったような静寂が続く。……沈黙が辛い。

「……な、なんか言えよ」
「ははっ、なにそれ。もう告白したようなもんじゃん」
「う、うるせーな!」
「ははっ、もう。ホント君って、」

 バカだなー。そう言った彼女の瞳からポロリと涙がこぼれ落ちた。俺は情けない事に酷く動揺する。

「な、おまっ、」
「じゃあ私、もう失恋しなくて済むんだね」
「は?」

 その言葉に、俺は頭をガシガシと掻く。

「いや……それはお前が俺の事好きになったらって言っただろ」
「うん、だから失恋しない。だって私、ずっと前から岸くんのこと好きだもん」
「…………はあああっ!?」

 な、何言ってんだコイツ!? だって、コイツは河口の事が好きだったんだろ!? 最初に図書室で会った時「失恋した」って言ってたじゃねーか!

「おまっ!? なっ、はぁ!? だってかわ、河口!」
「河口くんのことは好きじゃないよ。勝手に勘違いしたのはそっちでしょ? 私は最初から君に失恋(・・・・・・・・)してたんだよ、岸浩太くん」

 衝撃の事実を告げられた俺は動揺どころじゃない。頭の中は盆と正月とハロウィンとクリスマスが一緒に来たような大パニックだ。

「岸くんは覚えてないと思うけど。私、君に助けてもらったことがあるんだ」
「え?」
「駅で貧血起こしてしゃがみ込んでた時、同じ高校の男の子が大丈夫ですかって慌てて声掛けてくれたの。みんな見て見ぬ振りで通り過ぎて行ったのに。そのあとペットボトルの水くれて。それが岸くんだった」

 そういえばそんな事もあったような……。でも、それが藤野美月だなんてまったく気付かなかった。

「それから岸くんがサッカー部だって知ってここから見てた。頑張って練習してる姿を見てもっと君のこと知りたいなって思った。君が佐倉さんのこと好きだって事はすぐ分かったけど、私はそれでも好きだったの」

 彼女は続ける。

「河口くんは佐倉さんを、私は岸くんの事をこの窓から見てた。ここから同じ場所を見てたからお互いの好きな人が自然と分かって、そのうち悩み相談とかするようになって……。相談って言っても大したことなくてね、今日はたくさん喋れたとか次の席替えで隣の席になりたいとかそういう話をしてただけ。でも、あの二人がお互い好きなのは分かってた。……河口くんに佐倉さんに告白するって言われた時は()めようか迷ったよ。君が悲しむと思ったから。でも、私は彼とも友達だから止められなかった。……ううん。もしかしたらこれで君が佐倉さんのこと諦めてくれるかもって、心のどっかで思ってたのかもしれない」

 ぐす、と鼻をすする音がした。

「だからあの日、すごくびっくりしたよ。岸くんが図書室に来るなんて思ってもなかったから。それも怒鳴り込みで。でもね、失恋した君が図書室に来て私と話してくれる。愚痴でも文句でも、どんな形にしろ二人で話せる事が嬉しかったんだ」
「んだよ、それ……」
「ごめんね。私、最低だね」
「別に。お前は最低じゃねーよ」

 ……なんだよ。この人はずっと俺に失恋してたってことかよ。つまり河口じゃなく、俺の事がずっと──やべ。こんな時に不謹慎だけどちょっと嬉しい。ニヤけそうな口元をなんとか引き締める。

「あ〜、とりあえずあれだ。お前には俺の初恋ダメにした責任、ちゃんと取ってもらうからな!」
「責任?」
「そう。返せって言ったのに返してくれなかった初恋の責任だ!」


 初恋は実らないというジンクスの通り、俺の想いは見事に散ってしまったけれど。


「責任とって、俺の二回目の恋を成就させろ!」
「ははっ、喜んで」

 先輩は目を潤ませながら嬉しそうに笑った。それを見て、俺の口角も自然と上がる。

 こんな風に、失恋から始まる恋があったっていいと思うんだ。