「返せよ!」
放課後の図書室。独特の静寂に包まれた空間を切り裂くような、鋭い大声が響き渡った。これが自分の口から出ているんだから驚きだ。
カウンターで悠々と文庫本を読んでいた女子生徒が、怒号に反応してゆっくりと顔を上げる。俺は刺すような勢いで彼女を睨みつけると、もう一度叫んだ。
「返せよ!」
こてん、と首を傾げた彼女は不思議そうに口を開いた。
「返せって、何を?」
その白々しい態度に腹が立っておもいっきり舌打ちを鳴らすと、俺は一直線に歩き出した。図書室ではお静かに、なんていう貼り紙は残念ながら申し訳程度にも役に立っていない。ズカズカと乱暴な足取りで彼女に近付くと、俺はバン! とカウンターに両手を叩きつけた。
「初恋だよ、初恋! 俺の初恋返せって言ってんだよバカ女!!」
バカはお前の方だろうが。誰もがそう思ったことだろう。勿論それは俺も分かっている。この瞬間の出来事は間違いなく俺の消したくても消せない暗黒歴史の一ページに刻まれたことだろう。それも分かっている。
──だがしかし。これは思春期真っ只中の男子高校生にとっては死活問題なのだ。恥ずかしいなんて言ってる暇があるなら、この名を黒歴史に刻んだ方が数倍マシだ。恋は盲目? 上等だ。
彼女は少し考えるような素振りを見せると、「ああ」と思い出したように頷いた。
「もしかして佐倉さんと河口くんの事?」
その名前を聞いた途端、俺の動きが全停止した。そして、彼女は追い打ちをかけるように続ける。
「あの二人付き合ったんだってね。良かったじゃん」
バァン!! 俺は再びカウンターを叩いた。精神的ダメージは特大である。
「〜〜っよくねーよ!! 全然まったくよくねーよ!」
佐倉香里先輩。
俺の所属するサッカー部のマネージャー。美人で優しくて面倒見が良くて、部員みんなの憧れの人。そんな彼女に、俺は中学の時からずっと片思いをしていた。先輩は当時もサッカー部のマネージャーをしていて、少しの怪我でもすぐに気付いて手当てしてくれたり、キツイ練習に挫けそうになった俺を励ましてくれたり、試合で負けた時は慰めてくれたりと、とにかく優しかった。いつも笑顔で仕事をこなす先輩が、俺はずっと好きだった。この高校だって先輩がいるから選んだんだ。次の大会で勝ったら告白しようと思ってたのに……なのに!
「ちっくしょう!! 全部お前のせいだ! 俺は知ってんだからな! お前、河口クソ野郎の恋愛相談にのってただろ!? お前が余計なことしなければアイツは告白なんかしなかったのに!!」
「なに? 私がいなきゃ佐倉さんは君と付き合ってたって言いたいの?」
「そ……れは……」
彼女の言葉にぐっとおし黙る。
「違うでしょ? 君がいくら佐倉さんを好きでも、佐倉さんは河口くんが好き。例え君が先に告白してても、佐倉さんは君の気持ちに応えてくれない。そんなこと、本当は言われなくたってわかってるんでしょ? 私に八つ当たりするのはやめてよね」
ぐうの音も出ないほどのド正論が心臓へと突き刺さる。もうやめて! 俺のライフはとっくにゼロよ!
「くっそー……」
「あまり落ち込むな。次があるさ少年」
「ふざけんな無理に決まってんだろ! 中学ん時からずっと好きだったんだぞ!? そんな簡単に次とかいけるわけねーよ!!」
「気持ちはわかる。でもね、この世にはどうにもならないことってのがあるの。大人になりなよ少年」
「お前に何が分かんだよ! 俺の心の傷がお前なんかに分かるわけないだろ!?」
「分かるよ。だって私も失恋したもん」
「……は?」
俺の眉間からシワが消えた。なんだって? 失恋? この流れで? ってことは……。
「お前……まさか、」
続きは言えなかった。まさかコイツも俺と同じだっていうのか……? 俺の動揺を知ってか知らずか、彼女はニコリと笑って文庫本に視線を戻す。
「……バカじゃねーの」
俺の怒りは空気の抜けた浮き輪のようにしゅるしゅると萎んでいった。そのままカウンターの近くに力なくしゃがみ込む。
「……じゃあさ、なんで手伝ったんだよ」
「なにが?」
「なんでわざわざ二人のことくっつけるようなことしたんだよって聞いてんの!」
「さぁ?」
「さぁ!?」
さぁってなんだよ! 普通自分の好きな人の恋路なんて協力しないだろーが!!
「そうだなぁ……。河口くんは私の友達で良き相談相手で、彼が佐倉さんのことを好きなのは話を聞いててよく分かった。そして佐倉さんは可愛くて素直でとても良い子だ。二人がお互い惹かれあってるのは傍から見ても丸分かりだったし。私が何か言わなくてもそのうちくっついてたと思うよ。てか、それは長年彼女のことを見てきた君の方がよく分かってるんじゃない?」
「だ、だからってそんな簡単に諦められるわけねーだろ!!」
「そう? 私はあの二人祝福するけど?」
「はぁ!? お前ほんとバカじゃねーの!?」
「先輩にお前とかタメ口ききまくってる君に言われたくない」
「…………」
そういやそうだ。怒りの勢いそのままで喋ってたからついついタメ口になっていたが、彼女は香里先輩と同じ学年。つまり、俺の一つ上だ。なんだか急に居心地が悪くなる。
「おま……先輩だって俺のこと〝キミ〟呼ばわりじゃないですか」
「わぁ。突然の敬語気持ち悪っ。タメ口でいいよキモいから」
クソ! 下手に出りゃ調子乗りやがって! もう一生敬語使わねぇ!!
「気持ち悪くて悪かったな! 三年A組藤野美月!!」
「おっ、私の名前知ってたんだ?」
「アイツに協力してる奴の名前くらい知ってて当然だろ? アイツの味方は俺の敵だからな!」
「あらら。私も河口くんも一応先輩なのに。随分ひどい扱いするねぇ岸浩太くん?」
「な、なんで俺の名前!」
「さて、なんででしょう?」
藤野美月はニヤリと口角を上げて意地悪く微笑むと、答えを言わないまま本に集中してしまった。どこで知ったとか別にそんな事どうでもいいけどさぁ。まぁ、どうせ河口の野郎にでも聞いたんだろうよ。アイツ、俺が香里先輩にアピールしてるの知ってたし。……知ってたくせに。あの野郎!
「あああああああー! もう!!」
「図書室ではお静に」
彼女は視線を本に向けたまま凛とした声で言い放つ。
「ちょっとくらい慰めてくれても良くね!?」
「突然怒鳴り込んで来るような非常識な人に分ける優しさは一ミリもありませーん」
……ここでもド正論が突き刺さる。ああ、世間は思った以上に冷たかったらしい。
俺ははぁ〜〜と口から大きな溜息を吐き出す。この失恋の傷は、しばらく消えそうもない。