あとがき

 日本の戦争が終わった昭和20年の夏、私は国民学校の2年生だった。父が出征していたから戦争は身近にあったけれども、その実態を知ることなく敗戦をむかえた。
 出雲の農村は空襲をうけなかったし、まだ7歳の少年でもあったから、戦争に対して強い関心を抱くはずもなかったのだが、特攻隊のことは知っており、それがいかなるものかを子供なりに理解していた。
ある日の教室で、1年生担任の若い女の先生が、特攻隊が出撃したことを、そして、それがいかなるものかを話してくださった。先生の悲痛な表情を見ながらその声に耳をかたむけ、その言葉を理解することはできたけれども、幼かった私は心を強く揺すられるに至らなかった。そのような私ではあったが、先生の表情と口調は今なお記憶に残り、教室の情景とともに思い起こすことができるのである。特攻隊の出撃が初めて新聞報道されたのは、昭和19年10月29日の日曜日だから、私が特攻隊について聞かされたのは、おそらくその翌日の月曜日だったと思われる。
 昭和20年の春、日の丸をつけた暗緑色の飛行機が、数機ずつの編隊で飛来しては西に向かった。爆音が聞こえるたびに、私ははだしで庭にとびだし、超低空で頭上を通過してゆく機体をながめ、その姿が見えなくなるまで見送った。強い印象を残したその情景を、歳月を経てからもなお、折にふれては思い出すことになった。この小説を書くために調べた資料によって、それらの飛行機は、鳥取県の美保基地から九州へ移動してゆく途上の、ほどなく出撃することになる特攻機であったと推定される。特攻機と意識して見送ったわけではなかったのだが、機体の色と形はもとより、操縦席をおおっている風防の形状さえも記憶に残り、耳の奥には轟々たる爆音がとどまっている。
 この小説の人物たちに特定のモデルはないが、多くの書簡や日記を遺した学徒出身の特攻隊員たちが、良太のモデルであると言えなくはない。彼らの日記や書簡をまとめた遺稿集を読み、その心情を推しはかりつつこれを書いたからである。とはいえ、書き遺されたものをいかに読んでも、心情の一端が垣間見えるところまでしか近づくことはできない。良太の胸中に特攻隊員の心情を移入すべく努めたのだが、それをどこまで成し得たのか心もとなく思える。特攻隊員たちの御霊からお叱りを受けるところも多かろうが、哀悼と畏敬の念を抱きつつ書いたことをもって、ご容赦賜りたいと願っている。
多くの資料を参考にしたけれども、想像を加えて書かざるを得ないところも多々あった。主な参考資料を後にまとめて示すが、書店や出版社から入手できるものが少ないために、多くは図書館の蔵書を利用することになった。
 はっきりと意識していたわけではないが、私は小学生の頃から特攻隊への関心を抱き続けたような気がする。「特攻の真実」(深堀道義)を購入したのもそれゆえと思うが、それをきっかけとして、特攻隊に関する多くの書籍に眼を通すこととなり、ひいてはこのような小説を書く結果となった。
 舞鶴海兵団の部分では「ある学徒出陣の記録」(藤森耕介)が、そして土浦航空隊の部分では、「太平洋戦争に死す」(蝦名賢造)と「海軍予備学生」(蝦名賢造)が参考になった。特攻隊要員の募集過程については、「若き特攻隊員と太平洋戦争」(森岡清美)を参考にした。特攻隊員の心情を推察するうえで、「特攻 外道の統率と人間の条件」(森本忠夫)が参考になった。特攻隊員たちの貴重な遺稿と、以上にあげた書籍の著者と出版社には、特にお礼を申し上げたい。
ここに、参考にした書籍から歌を転載させていただく。特攻隊員の遺詠と遺族たちによって詠まれた歌である。

 市島保男(キリスト教徒の特攻隊員として沖縄に出撃)
  再びは生きて踏まざる神国の栄え祈りて我は征でゆく

 卓庚鉉(朝鮮出身の特攻隊員として沖縄に出撃)
  たらちねの母のみもとぞしのばるる弥生の空の春霞かな 
   「ホタル帰る」(赤羽礼子、石井宏)には出撃前夜の卓庚鉉にまつわる    哀切なエピソードが綴られている。

 塚本太郎(人間魚雷回天にて特攻出撃)
  われ亡くも永遠に微笑めたらちねの涙おそろし決死征く身は

 渡里修一(18歳の少年飛行兵として沖縄に特攻出撃)
  かくすれば国難突破出来るならいかでや軽きわが生命かな

 特攻隊員喜多川等の婚約者
  あたためてあげたき己がこの胸に今尚水漬く君が屍を

 特攻隊員巽精造の婚約者
  戦争とはむごきものなり残されてえぐりとられし心もつ吾

 特攻隊員伊奈剛次郎の父
  かがまりて粉ひく妻の髪白しいのちなげうちし子をば語らず

 林まつゑ(キリスト教徒の特攻隊員林市造の母)
  一億の人を救ふはこの道と母をもおきて君は征きけり
  泣くことは吾子に背くと思いつつ泣かぬはいよよ寂しきものを