千鶴が眼をあけた。良太を見つめて千鶴が穏やかにほほ笑む。良太はやさしく千鶴にキスをした。千鶴は口を少しあけたまま、唇をなぞられるままにしている。
 良太は千鶴の乳首を口に含んだ。乳首がもりあがる。千鶴の腕が巻きついてくる。良太は母に甘える子供のように、乳首に舌をからめた。千鶴の腕に力がはいり、良太をしっかり抱きしめた。抱きしめられたまま、良太は千鶴の匂いを胸いっぱいに吸いこんだ。
 窓の外が明るくなっている。良太が起き上がると、千鶴もふとんの上に身をおこした。裸の千鶴を抱きよせると、いとおしさと共に感謝の気持がわいてきた。
「ありがとうな、千鶴」と良太は言った。
「ありがとう、良太さん」と千鶴が応えた。
 千鶴は一夜をともにした俺に感謝してくれている。笑顔の千鶴はとても幸せそうだ。俺がまもなく出撃すると知ったら、千鶴はどうするだろう。千鶴がふびんに思われたとたんに涙がにじんだ。良太はひそかに涙をぬぐい、服を着るために立ちあがった。
 忠之から借りたふとんをかたづけてから、窓を開けて空気をいれかえた。夜はすっかり明けていた。
 洗面などをおえてから、良太は風呂敷を開いてノートを出した。
「千鶴、これを持っていてくれ」
 ノートを受けとった千鶴が怪訝な表情を浮かべた。「この日記帳はまだ新しいわね」
「千鶴への手紙みたいなものだけど、最近は忙しいし、その日記帳に書くべきことは書いたから、これからは、ほんとの手紙だけにするよ」
「もしかしたら、ここにも遺書が書いてあるのかしら」
「もしも俺が戦死するようなことになったら、そこに書いたことはみんな遺書ということになるだろうな」
 千鶴が良太を見つめて言った。「今ここで読んでもいいかしら」
 良太は一瞬ためらってから答えた。「いいよ……読むんなら、最後に書いたところがいいな。俺に万一のことがあった場合を思って、昨日の夜に書いたものだ」
 ノートに眼をおとしていた千鶴が、いくらも読まないうちに顔をあげた。
「お願い、良太さん、これを読んでちょうだい」千鶴の声がふるえた。「万一のことがあったときに読むくらいなら、いまの内に良太さんの声で聞いておきたいの」
 良太は千鶴からノートを受けとった。千鶴のためにこれを読まなければならない。千鶴がそれを願っているのだ。
 前日の夜に記したその文章を、良太は声にして読んだ。
「運命の糸に手繰られるまま浅井家に至り、爾来二年余にわたって厚情を受けたこと、深甚なる感謝あるのみ。………」
 声のふるえを抑えるために、良太は声を強めた。「………千鶴はいかなる道を歩むことであろうか。良太を伴ったままに新しき道を歩むことは困難であろう。千鶴は身軽にならなければならない。千鶴は身軽になって新しき道を歩まねばならない。千鶴よ幸せな人生を歩めよ」
 良太は大きな声で読みおえた。ノートを手にしたまま顔をあげると、良太を見つめている千鶴の頬には涙があった。良太は不安におそわれた。千鶴に覚られたのではないか、ノートに記したこの言葉が、出撃を目前にしている俺からの決別の言葉だと。
 良太は腕をのばして千鶴を抱きよせた。千鶴を抱いていると涙が滲みでた。千鶴を抱いたまま、良太は片手で涙をふいた。
 部屋の外から声がして、朝食の用意ができたことを伝えた。
 良太は千鶴とともに母屋へ行って、三つの膳とお茶を受け取り、忠之の部屋へ運んだ。
 千鶴から笑顔が消えていた。千鶴の不安を抑えるために、良太は意識して明るくふるまい、快活な口調で語りかけるよう努めた。
 千鶴の表情がどうにか和らいだころ、夜勤あけの忠之が帰ってきた。
 3人は慌ただしく食事をとり、7時半には部屋を出て、朝の畑道を吉祥寺駅に向かった。
 良太はいつしか早口となり、言葉の数も増えていた。良太は千鶴のなにげない言葉に愛おしさを覚え、千鶴を抱きしめたくなった。忠之の言葉が貴重なものに思えて、抱きついて感謝の言葉を伝えたくなった。駅が見えてきたとき、良太はその思いを声にした。
「ありがとうな」
「どうした、良太」
「なんとなく、お礼を言いたくなったんだよ、お前たちに」と良太は言った。
 忠之とは改札口で別れることにしていた。千鶴を先に改札を通らせてから、良太は忠之の手をにぎった。