第5章 昭和20年春

 昭和20年の元旦、良太は仲間とともに整列し、年初の訓辞に耳をかたむけた。
 良太は思った、自分が正月を迎えるのはこれがおそらく最後であろう。燃料不足のために訓練すらままならないが、搭乗員が不足していることを思えば、実戦に参加する日も遠くはないという気がする。未熟な技量のままに戦う空中戦に勝ち目はない。
 その夜、良太はノートに元日の所感を記した。
〈………元日なれども外出できず、浅井家を訪問することあたわず。午後は雑談と読書に時間を費やし、今この所感を記す。………〉
 気がつくと、元日らしからぬ暗い文章をつづっていた。
良太はひとりの海軍士官として、命じられるままに行動し、命じられるままに戦うことしかできない立場にあった。それでは、と良太は思った。国を導く立場にある者たちはいかにすべきか。戦争を継続すれば国はどこまでも荒廃してゆくだろう。彼らは真にとるべき方策をとっているのだろうか。
 新しく迎えた年を意義あるものにしたくとも、良太自身にできることはなく、年頭の所感であろうと希望に満ちた文章は書けなかった。良太は短い文章を書き加えたノートを布袋に入れると、かわりに文庫本をとりだした。

 浅井家では全員が無事に新しい年を迎えた。わずかとはいえ餅が配給されたので、浅井家の家族と忠之は、その餅でいっしょに正月を祝った。
 それから間もなく、千鶴の祖父母と千恵は本郷を去り、渋谷からかなり西方に位置する三軒茶屋に移った。千鶴の祖母の実家であって、空襲の虞がない場所だった。
 空襲を受ける虞れはあったけれども、千鶴は本郷の家に残ることにした。良太と会うためにも、動員先の製薬会社へ通うためにも、本郷を離れたくなかった。広い家で暮らすのは、千鶴と母親そして忠之の3人になった。
 空襲に際して大切な品を持ちだすために、リュックサックがふたつ用意してあり、水筒と菓子、さらには写真や位牌などが入っていた。千鶴はそのひとつに、日記のノートや良太からのはがきも入れていた。どんなことがあろうと、失ってはならない品々だった。

 1月に入ってまもなく良太は外出許可を得た。すぐに浅井家に電報をうち、訪問する予定の日時をつたえた。
 その日、良太は歩きなれた道を浅井家に向かった。道の角を曲がると、不忍池の近くに女が見えた。街路樹の下に立っているのは千鶴にちがいなかった。
 もんぺ姿の千鶴がかけだした。下駄の音が聞こえる。良太はおもわず足を速めた。
 千鶴の声が聞こえた。「お帰りなさい、良太さん」
 良太は手をあげて応えた。
 走ってきた千鶴が、息をきらしながら良太に笑顔をむけた。
「あい変わらず元気だな、千鶴は」
「もちろん元気。B29が来たって敗けやしないわ」
「頼もしいじゃないか。元気な千鶴がいるから安心だよな、お母さんも」
「岡さんも居てくださるしね。きょうは岡さんも家で待ってらっしゃるわよ」
「久しぶりだな、忠之と会うのも」
「私のはがき見たでしょ」と千鶴が言った。「お祖父ちゃんたちが三軒茶屋に移ったから、家に残ってるのは3人だけなの。千恵も三軒茶屋だから」
「周りは畑だと書いてあったけど、そんな場所なら安心だな」
「ここは危ないから、お母さんと私はもんぺのままで寝るのよ」と千鶴が言った。

 浅井家の居間で千鶴の母親をまじえて語りあってから、良太は忠之とふたりで2階の部屋に移った。
 良太は森山家の将来について率直に語った。良太が戦死するようなことになったとき、弟妹たちが最も頼りにできるのは忠之だった。
 良太の用件がおわると、忠之が電探すなわちレーダーの開発状況を語った。
 忠之が言った。「まさかとは思うけど、こんな話を聞いたぞ。陸軍と海軍は、電探の開発では協力し合うどころか、足を引っ張り合っているというんだよ」
「兵学校を出た連中は、軍人精神が足りないからと、おれたち予備士官を殴るんだが、お前の話がほんとなら、軍人精神が欠如しているどころか、反逆罪を犯しているようなものだな」