東京を発つ日がおとずれた。準備は数日前におえていたので、午後の出発時刻までには充分なゆとりがあった。
良太は書斎に入り、ノートの表紙裏に文字を記した。千鶴に渡すために用意したノートであった。
まもなく書斎に入ってきた千鶴が、着ていた服の内側から千人針をとりだし、「この千人針、私の祈りが染みこんでるの。絶対に良太さんを守ってくださいって」と言った。
千人針に顔に近づけると、千鶴の匂いがたしかにあった。
「ほんとうだ、千鶴の匂いがする。ありがとうな、千鶴。これさえあれば、かすり傷も受けずに還れそうな気がするよ」と良太は言った。
千人針を風呂敷につつみおえた千鶴が、机の引き出しから2枚の写真をとり出した。千鶴の祖父が良太と千鶴をならべて写した写真だった。
「この写真、良太さんにあげるために用意しておいたの。裏を見てちょうだい」
写真を裏返すと文字が記されていた。
良太さんと出会えた千鶴は幸せ者です
良太さんとの約束が実現する日を待っております
これと同じ写真で私は毎日良太さんに会います
良太は千鶴を抱きよせた。
「ありがとう、千鶴。俺も毎日この写真を見て、千鶴が書いてくれたこれを読むからな」
千鶴がもう一枚の写真をさしだした。
「これには良太さんに書いてもらいたいけど。どんなことでもいいから」
良太は写真を裏がえして文字を記した。
千鶴は良太の一番大切な宝物
千鶴と出会えたことに感謝している
千鶴と出雲で星を見る日を楽しみにしている
千鶴は写真に記された文字を読み、良太に笑顔を向けた。
「嬉しい、こんなふうに書いてもらえて。日記をつけるときに見るわね、この写真を」
良太は机の上から2冊のノートをとって千鶴にわたした。
「千鶴がいろんなことを考えてくれたから、俺も千鶴のまねをしてこんなことを考えた。表紙の裏をあけてみな」
千鶴がひらいたノートの表紙裏には、万年筆で書かれた言葉があった。
千鶴は声にして読んだ。
「千鶴よ、戦争がいかなる状況になろうとも決して絶望してはならない。千鶴よ、いかに厳しくてつらい環境にあろうとも希望を捨てることがあってはならない。千鶴にはいつか必ず幸せに満ちた日が訪れるに違いないのだから。良太」
「うれしい」千鶴が笑顔を向けた。「日記帳にするわ、この帳面。良太さんに励まされながら日記を書くことができるわ」
千鶴がもう1冊のノートをひらき、良太が記した言葉を声にした。
「千鶴よ、いかなる場合にも前向きに生き、幸せな人生を目指してくれ。たとえ絶望的な状況に置かれることになろうと、千鶴は決して諦めてはならない。諦めることなく歩いて行けば、希望の光が見えてくるに違いないのだ。良太」
「これ、とても嬉しいけど……絶望的なことなんか起こってほしくないわね」
「これから先の日本がどうなるかわからないのに、俺は千鶴のそばに居てやれないんだ。たとえどんなことがあっても、千鶴にはがんばって生きてもらいたいんだよ」
良太は別に用意しておいた2冊のノートを千鶴にわたした。
「これは海軍で使うことにしている日記帳だけど、俺のために何か書いてくれないか。もしかすると日記も検閲を受けるかもしれないから、気をつけなくちゃならんけどな」
千鶴が机のうえにノートをおいて、「こんなことなら書いてもいいかしら……千鶴は良太さんのご無事を祈りながら、良太さんとの思い出に満ちたこの書斎で日記をつけております。出雲でいっしょに星を見る日を楽しみにしております。どうか御無事で還ってきてください。これならかまわないでしょ」と言った。
「ありがとう千鶴、それでいい。そんなふうに書いてくれたら嬉しいよ」
文字を記しはじめた千鶴の横顔を見ていると、学徒出陣する友人たちとの会話が思いだされた。話し合って得た結論は、自分たちが生還できる可能性はゼロに近い、ということだった。千鶴にわたすノートには、生還できなかった場合にそなえて言葉をつづったのだが、そのことに千鶴は気づかないだろう。千鶴はひたすらに俺の生還を願っているのだ。俺が戦死する可能性など考えたくもないだろう。
千鶴は2冊のノートに言葉を書きおえた。
「ごめんなさいね、良太さん。私は自分の願いごとばかり書いたみたい」
「それでいいんだよ。そのほうが俺には嬉しいんだ」と良太は言った。
良太は千鶴から受けとったノートを机におくと、書斎の中をあらためて見まわした。千鶴とともに時間を過ごし、千鶴とキスを交わす特別な場所だった。この書斎でいつかまた、千鶴とふたりで語り合えるだろうか。それともこれが最後になるのだろうか。
千鶴が良太の胸に頬をつけ、小さな声で「良太さん」と言った。その声にうながされ、良太は千鶴に腕をまわした。
良太は書斎に入り、ノートの表紙裏に文字を記した。千鶴に渡すために用意したノートであった。
まもなく書斎に入ってきた千鶴が、着ていた服の内側から千人針をとりだし、「この千人針、私の祈りが染みこんでるの。絶対に良太さんを守ってくださいって」と言った。
千人針に顔に近づけると、千鶴の匂いがたしかにあった。
「ほんとうだ、千鶴の匂いがする。ありがとうな、千鶴。これさえあれば、かすり傷も受けずに還れそうな気がするよ」と良太は言った。
千人針を風呂敷につつみおえた千鶴が、机の引き出しから2枚の写真をとり出した。千鶴の祖父が良太と千鶴をならべて写した写真だった。
「この写真、良太さんにあげるために用意しておいたの。裏を見てちょうだい」
写真を裏返すと文字が記されていた。
良太さんと出会えた千鶴は幸せ者です
良太さんとの約束が実現する日を待っております
これと同じ写真で私は毎日良太さんに会います
良太は千鶴を抱きよせた。
「ありがとう、千鶴。俺も毎日この写真を見て、千鶴が書いてくれたこれを読むからな」
千鶴がもう一枚の写真をさしだした。
「これには良太さんに書いてもらいたいけど。どんなことでもいいから」
良太は写真を裏がえして文字を記した。
千鶴は良太の一番大切な宝物
千鶴と出会えたことに感謝している
千鶴と出雲で星を見る日を楽しみにしている
千鶴は写真に記された文字を読み、良太に笑顔を向けた。
「嬉しい、こんなふうに書いてもらえて。日記をつけるときに見るわね、この写真を」
良太は机の上から2冊のノートをとって千鶴にわたした。
「千鶴がいろんなことを考えてくれたから、俺も千鶴のまねをしてこんなことを考えた。表紙の裏をあけてみな」
千鶴がひらいたノートの表紙裏には、万年筆で書かれた言葉があった。
千鶴は声にして読んだ。
「千鶴よ、戦争がいかなる状況になろうとも決して絶望してはならない。千鶴よ、いかに厳しくてつらい環境にあろうとも希望を捨てることがあってはならない。千鶴にはいつか必ず幸せに満ちた日が訪れるに違いないのだから。良太」
「うれしい」千鶴が笑顔を向けた。「日記帳にするわ、この帳面。良太さんに励まされながら日記を書くことができるわ」
千鶴がもう1冊のノートをひらき、良太が記した言葉を声にした。
「千鶴よ、いかなる場合にも前向きに生き、幸せな人生を目指してくれ。たとえ絶望的な状況に置かれることになろうと、千鶴は決して諦めてはならない。諦めることなく歩いて行けば、希望の光が見えてくるに違いないのだ。良太」
「これ、とても嬉しいけど……絶望的なことなんか起こってほしくないわね」
「これから先の日本がどうなるかわからないのに、俺は千鶴のそばに居てやれないんだ。たとえどんなことがあっても、千鶴にはがんばって生きてもらいたいんだよ」
良太は別に用意しておいた2冊のノートを千鶴にわたした。
「これは海軍で使うことにしている日記帳だけど、俺のために何か書いてくれないか。もしかすると日記も検閲を受けるかもしれないから、気をつけなくちゃならんけどな」
千鶴が机のうえにノートをおいて、「こんなことなら書いてもいいかしら……千鶴は良太さんのご無事を祈りながら、良太さんとの思い出に満ちたこの書斎で日記をつけております。出雲でいっしょに星を見る日を楽しみにしております。どうか御無事で還ってきてください。これならかまわないでしょ」と言った。
「ありがとう千鶴、それでいい。そんなふうに書いてくれたら嬉しいよ」
文字を記しはじめた千鶴の横顔を見ていると、学徒出陣する友人たちとの会話が思いだされた。話し合って得た結論は、自分たちが生還できる可能性はゼロに近い、ということだった。千鶴にわたすノートには、生還できなかった場合にそなえて言葉をつづったのだが、そのことに千鶴は気づかないだろう。千鶴はひたすらに俺の生還を願っているのだ。俺が戦死する可能性など考えたくもないだろう。
千鶴は2冊のノートに言葉を書きおえた。
「ごめんなさいね、良太さん。私は自分の願いごとばかり書いたみたい」
「それでいいんだよ。そのほうが俺には嬉しいんだ」と良太は言った。
良太は千鶴から受けとったノートを机におくと、書斎の中をあらためて見まわした。千鶴とともに時間を過ごし、千鶴とキスを交わす特別な場所だった。この書斎でいつかまた、千鶴とふたりで語り合えるだろうか。それともこれが最後になるのだろうか。
千鶴が良太の胸に頬をつけ、小さな声で「良太さん」と言った。その声にうながされ、良太は千鶴に腕をまわした。