夕食前のひととき、良太が新聞を見ていると、妹の洋子がそばに寄ってきた。
洋子が声を抑えて言った。「千鶴さんのこと、忠之さんから聞いたがね。よかったね、いい人に会えて」
良太はうろたえながら言った。「忠之が来たのか」
「今日の昼前に、鶏小屋の掃除をしちょったら忠之さんが来られて、話のついでに千鶴さんのことを」と洋子が言った。
その夜、良太は千鶴の写真を家族に見せた。良太にそのような交際相手がいると知って驚きながらも、家族のだれもが千鶴とのことを受け入れてくれた。
「そのひとと結婚することになったら、こっちへ連れて来ることになーわけだの」と母が言った。
予期していたことであったが、良太には気が重くなる問いかけだった。
良太は東京での人生を想定していたのだが、その夢を家族にはまだ告げていなかった。両親の将来を弟に託せば、弟を束縛することになる。それでは自分勝手にすぎると言えはしないか。東京に出て以来のそれは宿題であったが、答を出せないままに過ごしていた。
「どげなふうにするか、まだ考えちょらんがね」と良太は答えた。「戦争がどげなことになーやら、先のことがわからんし」
戦争を口実にして答えを避けたような気がして、良太は気持ちが少しかげった。
「龍一は戦死してしまったし、あっちでもこっちでも戦死しちょってだが、こーから先、戦争はどげなことになーかね」と祖母が言った。「お前、大学に行っちょってもわからんかや」
「相手のあーことだけん、そげなことは政府でもわかーしぇん」と祖父が言った。
龍一が遺書の中で触れていたためでもあろうが、祖父と祖母はともに靖国神社への参拝を願っていた。戦時歌謡や軍歌が靖国神社を取りあげるにようになっても、英霊が祀られるその神社のことが、家族の中で話題になることはなかった。龍一が戦死したいまでは、祖父母は靖国神社の存在に救われているようにみえた。名誉の戦死をとげた龍一は、靖国の神となって祀られている。無駄に死んだわけでは決してない。良太には受け入れがたいところがあっても、そのような祖父母の気持は、充分に理解することができた。
良太と忠之はふたりとも、その年の春には徴兵年令の満20歳になっていた。村の同級生にはすでに出征している者がいた。学生として徴兵を猶予されている者は珍しい村であったから、ふたりには居心地の悪い故郷であった。夏休と呼ぶには短い2週間ほどを村で過ごしてから、ふたりはいっしょに上京することにした。
食料と生活必需品が不足し、不利な戦況の影響が日ましに強まる東京で、良太と忠之そして浅井家の姉妹は、学徒としての生活をつづけた。
9月に入るとイタリアが降伏して、日本とドイツそしてイタリアよりなる3国同盟は、その一角が崩れる結果となった。それだけでなく、ドイツの状況も厳しさを増しつつあった。日本の戦況に対する国民の不安もつのるいっぽうだった。
良太は勉学と仕事に追われながらも、しばしば浅井家を訪ねて、千鶴とのひとときを過ごした。
9月のある日、良太は千鶴との語らいを終えると、忠之の部屋をのぞいてみた。
「いいところへ来てくれたな良太」と忠之が言った。「沢田の自慢話に飽きていたところだ」
「聞いてみたいもんだな。沢田よ、何をやらかしたんだ」
「野外演習で誉められたんだよ、沢田氏は」
「さすがは沢田だ、大いにがんばってくれ」畳に腰をおろしながら良太は言った。「俺はもうたくさんだよ、銃を担いで走らされるのは」
「そんなことよりもな」と沢田が言った。「さっき岡にも話したんだが、明日の夕方に講演会があるんだ。俺を誘ってくれた高校時代の剣道部仲間によると、講師は真珠湾攻撃とソロモン海戦に参加した海軍中佐だ。どうだ、俺といっしょに行ってみないか」
戦場帰りの軍人が講師なら、戦争の実情をうかがい知ることができる、めったに得られない機会ではないか。良太はパン屋の仕事を休んで講演を聞くことにした。
洋子が声を抑えて言った。「千鶴さんのこと、忠之さんから聞いたがね。よかったね、いい人に会えて」
良太はうろたえながら言った。「忠之が来たのか」
「今日の昼前に、鶏小屋の掃除をしちょったら忠之さんが来られて、話のついでに千鶴さんのことを」と洋子が言った。
その夜、良太は千鶴の写真を家族に見せた。良太にそのような交際相手がいると知って驚きながらも、家族のだれもが千鶴とのことを受け入れてくれた。
「そのひとと結婚することになったら、こっちへ連れて来ることになーわけだの」と母が言った。
予期していたことであったが、良太には気が重くなる問いかけだった。
良太は東京での人生を想定していたのだが、その夢を家族にはまだ告げていなかった。両親の将来を弟に託せば、弟を束縛することになる。それでは自分勝手にすぎると言えはしないか。東京に出て以来のそれは宿題であったが、答を出せないままに過ごしていた。
「どげなふうにするか、まだ考えちょらんがね」と良太は答えた。「戦争がどげなことになーやら、先のことがわからんし」
戦争を口実にして答えを避けたような気がして、良太は気持ちが少しかげった。
「龍一は戦死してしまったし、あっちでもこっちでも戦死しちょってだが、こーから先、戦争はどげなことになーかね」と祖母が言った。「お前、大学に行っちょってもわからんかや」
「相手のあーことだけん、そげなことは政府でもわかーしぇん」と祖父が言った。
龍一が遺書の中で触れていたためでもあろうが、祖父と祖母はともに靖国神社への参拝を願っていた。戦時歌謡や軍歌が靖国神社を取りあげるにようになっても、英霊が祀られるその神社のことが、家族の中で話題になることはなかった。龍一が戦死したいまでは、祖父母は靖国神社の存在に救われているようにみえた。名誉の戦死をとげた龍一は、靖国の神となって祀られている。無駄に死んだわけでは決してない。良太には受け入れがたいところがあっても、そのような祖父母の気持は、充分に理解することができた。
良太と忠之はふたりとも、その年の春には徴兵年令の満20歳になっていた。村の同級生にはすでに出征している者がいた。学生として徴兵を猶予されている者は珍しい村であったから、ふたりには居心地の悪い故郷であった。夏休と呼ぶには短い2週間ほどを村で過ごしてから、ふたりはいっしょに上京することにした。
食料と生活必需品が不足し、不利な戦況の影響が日ましに強まる東京で、良太と忠之そして浅井家の姉妹は、学徒としての生活をつづけた。
9月に入るとイタリアが降伏して、日本とドイツそしてイタリアよりなる3国同盟は、その一角が崩れる結果となった。それだけでなく、ドイツの状況も厳しさを増しつつあった。日本の戦況に対する国民の不安もつのるいっぽうだった。
良太は勉学と仕事に追われながらも、しばしば浅井家を訪ねて、千鶴とのひとときを過ごした。
9月のある日、良太は千鶴との語らいを終えると、忠之の部屋をのぞいてみた。
「いいところへ来てくれたな良太」と忠之が言った。「沢田の自慢話に飽きていたところだ」
「聞いてみたいもんだな。沢田よ、何をやらかしたんだ」
「野外演習で誉められたんだよ、沢田氏は」
「さすがは沢田だ、大いにがんばってくれ」畳に腰をおろしながら良太は言った。「俺はもうたくさんだよ、銃を担いで走らされるのは」
「そんなことよりもな」と沢田が言った。「さっき岡にも話したんだが、明日の夕方に講演会があるんだ。俺を誘ってくれた高校時代の剣道部仲間によると、講師は真珠湾攻撃とソロモン海戦に参加した海軍中佐だ。どうだ、俺といっしょに行ってみないか」
戦場帰りの軍人が講師なら、戦争の実情をうかがい知ることができる、めったに得られない機会ではないか。良太はパン屋の仕事を休んで講演を聞くことにした。