新聞が報じる悲報を読むたびに、良太の胸にはアメリカに対する敵愾心が湧いた。恩師の影響もあって、良太は高校生の頃から軍部の暴走をにくんでいたし、聖戦と称されている戦争に対しても批判的であったが、その一方で、勝てるとは思えないにもかかわらず、アメリカには何としてでも勝ちたいと、心の底から強く願った。
 6月の末にとどいた父親からの手紙が、良太につよい衝撃を与えた。従弟の龍一が南の海ですでに戦死していた。
 龍一の家も同じ村にあった。幼い頃の龍一はしばしば良太の家を訪れ、そのまま泊まることも珍しくなかった。良太にとって龍一は弟のような存在だった。
 手紙によれば、龍一の葬儀はすでに終わっていた。遺骨もない葬儀ということもあり、良太を帰郷させるようなことはしないで、すべてが終わってから報せてきたのであった。
 良太は龍一の父母と自分の家族に手紙を書いて、龍一にたいする哀惜の想いを伝えた。その手紙には、夏休を利用して帰省することも伝えた。戦時のために夏休は短いものとなったが、出雲でしばらく過ごせるだけの日数はあった。

 出雲に向かう日の前日、良太は浅井家を訪ねた。千鶴が千人針に関わる用事で出かけていたので、良太は畑の手入れをしながら、千鶴の帰りを待つことにした。
 千人の女によって一針づつ赤い糸を縫い付けられた白布が、千人針と呼ばれるお護りとして、出征兵士に渡されていた。妹の洋子が千人針を縫っている姿を、良太は出雲で見たことがあった。出征する村人のための千人針だった。
 畑の半分以上にサツマイモが植えられていた。出雲から取り寄せた種芋から苗をとり、6月に入ってから植えつけたのだった。4本並んでいるナスの株には、いくつもの黒い実が揺れていた。
 千鶴の声にふり返ると、千鶴と母親の笑顔があった。
 千鶴が風呂敷包みを持ちあげて、「千人針。出征するご近所の人のよ」と言った。
「俺が出征するときには、千鶴さんが縫ってくれた千人針を持って征くからな。卒業してすぐに出征するにしても、まだずいぶん先のことだけど」
「森山さんったら気が早いわね。その頃には終わってますよ、この戦争は」
「そうよ、終わるに決まってる。すぐに終わってほしい、こんな戦争なんか」
「だめよ、大きな声で。だれかに聞かれでもしたら、非国民呼ばわりされるわよ」と母親がたしなめた。
 良太は思った。俺と忠之に感化されたことで、千鶴に困ったことが起こったらどうしよう。そんなことにならなければよいが。
 本を読みながら千鶴を待つことにして、良太は先に書斎に入った。窓は開いていたが暑かった。風が入りやすいようにカーテンを引きあけてから、良太は書棚に近づいた。
 並んでいる現代日本文学全集のなかから、良太は石川啄木集をぬきだした。
 良太は椅子に腰をおろすと、机上にあったうちわを使いながら、〈雲は天才である〉のページを開いた。
 ほどなく、あけ放してある入り口から千鶴が入ってきた。
 千鶴は手にしていた盆を机におくと、「よかったわ、良太さんに食べてもらえて。おいしいのよ、このパイナップル」と言った。
 並んでいる皿を見ながら良太は言った。「これがパイナップルか」
「いただきものよ、パイナップルの缶詰。お父さんは2年も前に亡くなったのに、お父さんの仕事の縁で、こんな物をいただけるのよね、こんな時だっていうのに」
「俺は見るのも初めてなんだ、パイナップルは」
 良太は千鶴とならんで、初めてのパイナップルを味わった。
「なあ、千鶴さん」と良太は言った。「この書斎があったおかげだよ、俺たちがこんなふうになれたのは。千鶴さんのお父さんに感謝したいよ」
「そんなふうに言われると、とても嬉しい。私と千恵をかわいがってくださったお父さんが、まだ私のことを大事にしてくださっているみたいだもの」
 うちわで千鶴に風をおくると、「ありがとう、とても気持いい」と千鶴が言った。
 幾すじもの髪が千鶴の顔にかかって、うちわの風にあおられていた。眼をとじている千鶴が、なぜか淋しげに見えた。
「眼を閉じている千鶴さんは、心配ごとでもしているみたいに見えるよ」
「良太さんとこうしていると嬉しいし、とても幸せ。でもね、ときどき不安になるの、戦争がいつまでも続いたら、私たちはどうなるのかしらって」
「取り越し苦労はしないことだよ。せっかくの幸福な気分を大切にしなくちゃ」
 千鶴が体をまわして良太を見つめ、「幸せよ、私は。とっても幸せな気持ち。だけど私は……良太さんともっと幸せになりたい」と言った。
 良太は千鶴を抱きよせた。千鶴をいとおしく思った。千鶴にはいつまでも幸せであってほしい。千鶴といっしょに幸せな人生を送りたい。
 良太は千鶴にキスをした。ヨーロッパ映画では幾度も見たことがあったけれども、良太はぎこちなく千鶴と唇を合わせた。
 良太が唇をはなすと、千鶴は良太の胸に頬をおしあてた。千鶴の髪に手を触れながら、良太は口にすべき言葉をさがした。
「さっき千鶴さんが言ったみたいに、俺も千鶴さんともっと幸せになりたいよ」
「うれしい」千鶴がいかにも嬉しそうな声をだした。「良太さん……もっともっと幸せになりましょうね、私たち」
 窓からの風があっても暑かった。良太はうちわで千鶴に風を送りつづけた。遠くに見える欅の梢が揺れていた。空は明るかったが、午後も遅い時刻になっているはずだった。
 千鶴が良太の胸から頬をはなして、「明日の夕方に東京を発って、出雲に着くのはあさっての夕方だったわね」と言った。
「忠之が昨日の夕方に乗ったのと同じ列車だ。忠之はもうすぐ家に着くはずだよ」
「行ってみたいわ、出雲へ。良太さんについて行きたい」
 良太は千鶴を出雲につれて行きたいと思った。とはいえ、学生が女をつれて旅行できるような状況にはなかったし、千鶴の家族が許すとも思えなかった。
「戦争が終わったらいっしょに行こう。ふたりで出雲を見てまわりたいな」
「良太さんが遊んだところや、お弁当なしで遠足に行った所も見たいわね」
「忠之がしゃべったのか、そんなことまで」
「私がせがんだの、岡さんに。良太さんの子供の頃のことを聞きたいって。それで話してくださったのよ、岡さんが溺れそうになったことや、遠足のことなど」
「驚いたな、まったく」
「ごめんなさい、勝手なことをして。岡さんには約束してもらったの、良太さんのことをもっと話してもらうこと」
「どうして知りたいんだろう、俺の子供の頃のことなど」
「岡さんから次に聞かせてもらうのは、良太さんの中学時代のことなの」
「なんだか、心配になってきたよ。その次は高校時代なんだろう?」
「良太さんがいやならやめるけど、岡さんに話してもらうこと」
「いやというわけじゃないけど、どうして知りたいんだろ、そんなことを」
「もっと知りたいんだもの、良太さんのこと」
「俺は千鶴さんの子供の頃のことに、そんなに興味がないな」
「出雲生まれと東京生まれでは感じ方が違うのかしら。それとも、男と女で興味の持ち方が違うのかしら」
「千鶴さんと出会ったのも、こうして話し合うのもこの家の中だから、千鶴さんがどんなふうに育ったのか、何となくわかるような気がするんだ。多分そのためだよ」
「私は良太さんの家も、家の近くの風景も知らないし、子供のころに遊んだ場所も、想像さえできないのよ。だから岡さんに聞いたんだけど、ごめんなさいね、勝手なことをして。何かの拍子に聞かせてもらうことになったの」
「忠之なら、俺のことを面白がってしゃべるよ。もしかしたら、俺よりも忠之に聞いた方が、千鶴さんには面白いかも知れないな」
「よかったわ、お許しをもらえて。約束通りに岡さんが話してくださったら、良太さんに報告した方がいいかしら」
「もしも自分の子供時代のことを忘れたら、千鶴さんに聞くことにするよ。責任重大だぞ、何十年も覚えておかなくちゃならんからな」
「何十年も先の私たち……どんなふうに暮らしてるのかしら」と千鶴が言った。
 廊下に足音が聞こえて、開いたままになっていた入り口に、千鶴の母親が現れた。
 良太は立ちあがり、「珍しいものをご馳走になりました」と言った。
「畑であんなにお世話になってるのに、パイナップルしか差しあげられなくて」
「でも良かったわ、パイナップルがまだ一缶だけ残っていて」
「ねえ、千鶴」と母親が言った。「夕食を森山さんにも食べていただきたいから、手伝ってちょうだい」
 その夜、良太は浅井家の家族と共に食卓についた。
 千鶴ははしゃぐように快活だった。千鶴の母親がときおり良太に眼を向けた。書斎での良太と千鶴に何があったのかと、そのまなざしが問いかけていた。
 千鶴の祖父が言った。「森山君、ときには、こんなふうにして飯を食うのもいいもんだろう」
「おかげで久しぶりの賑やかな食事です。僕には豪勢な晩飯ですし」
「遠慮しないで食ってもらいたいよ。野菜はみんな君が汗をながして手伝ってくれたものだし、千鶴が世話になっていることだしな」
 千鶴が世話になっているとはどういう意味だろうかと、良太はあわただしく考えた。千鶴の祖父はその言葉によって、自分と千鶴の仲を祝福してくれたのだ。俺はこの家で千鶴と出会う幸運に恵まれ、千鶴との仲をこうして祝福されている。この幸運に俺は感謝しなければならない。
 8時を過ぎた頃、良太は歓待を謝して浅井家をでた。いっしょに玄関をでた千鶴が、門のところまでついてきた。
 千鶴が声をあげた。「良太さん、天の川。灯火管制で街が暗くなると、こんなによく見えるのね」
 出雲では夜道を歩いていると星空に眼が向いたが、東京では夜空への関心が失われていた。良太は千鶴と並んで空を見あげた。久しぶりに眺めるきれいな星空だった。
「出雲は田舎だから、星がたくさん見えるんだ。天の川もよく見えるよ」
「戦争が終わったら、出雲でいっしょに星を見たいな。満天の星と天の川」
「わかった、約束するよ。いっしょに出雲で星を見よう。俺は斐伊川の堤防を歩きながら、夏の夜空を見るのが好きなんだ」と良太は言った。
 その夜、千鶴は日記をつけ終えてから、良太とのキスを記したところを読み返した。
 〈……良太さんからいきなり口付された。その寸前に予感がしたのだけれど、それでもちょっと驚いたし、なによりも嬉しかった。冷静ではいられなかったけれど、とても幸せだった。この書斎が良太さんと私にとって特別な場所になった。……〉
 良太さんは今、何をしておいでだろうか。こんな時刻だから、出雲に帰るための準備は終わったかも知れない。戦争が終わったならば、ふたりで出雲を訪ねようとの約束をしたけど、いつになったら実現することだろう。良太さんに渡したあの写真を見て、良太さんの御家族は、私のことをどう思われるだろうか。
 庭を畑にする作業をした日に、祖父は古い乾板式の写真機で庭を撮り、ついでに千鶴と良太がならんでいる写真を撮った。千鶴はできたばかりのその写真を文庫本にはさんで、下宿に帰ろうとしていた良太に渡したのだった。
千鶴はペンをとって文章を加えた。
 〈今日は良太さんと約束をした。戦争が終わったら良太さんといっしょに出雲へ行き、良太さんの故郷を案内してもらうこと。出雲でいっしょに星を見ること。良太さんと口付したうえにすばらしい約束をしたのだから、今日は誕生日よりももっと大切な日になったような気がする。〉
 良太との約束が実現する日を想いつつ、千鶴は日記のノートを引き出しに納めた。
 机の上にうちわがあった。うちわを取ってあおぐと、良太が送っくれた風が思い出された。幸福な想いが千鶴の胸をみたした。

 出雲で良太を待っていたのは、龍一の戦死を悲しむ者たちだった。龍一の家族はもとより、良太の祖父母も深い悲しみに沈んでいた。
 龍一は出征に際して、自分の家族と良太の家族にあてた遺書をしたため、その保管を家族に依頼していた。筆無精でふだんは手紙さえもめったに書かなかった龍一が、かなりの時間を費やして書きあげたものにちがいなかった。良太は龍一の遺書を読み、それを記したときの龍一の心情を想った。
 龍一は高等小学校を卒業して、松江の海産物会社で働いていたが、満20歳で生ずる兵役義務に先立って、昭和17年の3月に志願して海軍に入った。まだ18歳だった。
 アメリカに戦争をしかけて間もないその頃、日本人の多くが緒戦の戦果に浮かれ、日本の勝利を疑わなかった。少年を含む少なからぬ若者たちが、皇軍に身を投じて一気にアメリカを降さねばならぬと意を固め、軍に志願した。彼等にそのような想いを抱かせたのは、学校を通して教えられた思想と、新聞や雑誌を飾る皇軍賛美の様々な記事、そして、それらに煽られた国民感情だった。それらが互いに重なり合って国民に覆いかぶさり、大衆を押し流した。龍一はその流れに乗って海軍に志願し、そして戦死した。
 良太は思った。龍一は19歳での自分の戦死を、ほんとうに意義あるものとして受け入れたのだろうか。自らの意志で志願したのだから、龍一には悔がなかったとしても、残された者たちは、癒されようのない悲しみにくれているのだ。
 夕食前のひととき、良太が新聞を見ていると、妹の洋子がそばに寄ってきた。
 洋子が声を抑えて言った。「千鶴さんのこと、忠之さんから聞いたがね。よかったね、いい人に会えて」
 良太はうろたえながら言った。「忠之が来たのか」
「今日の昼前に、鶏小屋の掃除をしちょったら忠之さんが来られて、話のついでに千鶴さんのことを」と洋子が言った。
 その夜、良太は千鶴の写真を家族に見せた。良太にそのような交際相手がいると知って驚きながらも、家族のだれもが千鶴とのことを受け入れてくれた。
「そのひとと結婚することになったら、こっちへ連れて来ることになーわけだの」と母が言った。
 予期していたことであったが、良太には気が重くなる問いかけだった。
 良太は東京での人生を想定していたのだが、その夢を家族にはまだ告げていなかった。両親の将来を弟に託せば、弟を束縛することになる。それでは自分勝手にすぎると言えはしないか。東京に出て以来のそれは宿題であったが、答を出せないままに過ごしていた。
「どげなふうにするか、まだ考えちょらんがね」と良太は答えた。「戦争がどげなことになーやら、先のことがわからんし」
 戦争を口実にして答えを避けたような気がして、良太は気持ちが少しかげった。
「龍一は戦死してしまったし、あっちでもこっちでも戦死しちょってだが、こーから先、戦争はどげなことになーかね」と祖母が言った。「お前、大学に行っちょってもわからんかや」
「相手のあーことだけん、そげなことは政府でもわかーしぇん」と祖父が言った。
 龍一が遺書の中で触れていたためでもあろうが、祖父と祖母はともに靖国神社への参拝を願っていた。戦時歌謡や軍歌が靖国神社を取りあげるにようになっても、英霊が祀られるその神社のことが、家族の中で話題になることはなかった。龍一が戦死したいまでは、祖父母は靖国神社の存在に救われているようにみえた。名誉の戦死をとげた龍一は、靖国の神となって祀られている。無駄に死んだわけでは決してない。良太には受け入れがたいところがあっても、そのような祖父母の気持は、充分に理解することができた。

 良太と忠之はふたりとも、その年の春には徴兵年令の満20歳になっていた。村の同級生にはすでに出征している者がいた。学生として徴兵を猶予されている者は珍しい村であったから、ふたりには居心地の悪い故郷であった。夏休と呼ぶには短い2週間ほどを村で過ごしてから、ふたりはいっしょに上京することにした。

 食料と生活必需品が不足し、不利な戦況の影響が日ましに強まる東京で、良太と忠之そして浅井家の姉妹は、学徒としての生活をつづけた。
 9月に入るとイタリアが降伏して、日本とドイツそしてイタリアよりなる3国同盟は、その一角が崩れる結果となった。それだけでなく、ドイツの状況も厳しさを増しつつあった。日本の戦況に対する国民の不安もつのるいっぽうだった。
 良太は勉学と仕事に追われながらも、しばしば浅井家を訪ねて、千鶴とのひとときを過ごした。
 9月のある日、良太は千鶴との語らいを終えると、忠之の部屋をのぞいてみた。
「いいところへ来てくれたな良太」と忠之が言った。「沢田の自慢話に飽きていたところだ」
「聞いてみたいもんだな。沢田よ、何をやらかしたんだ」
「野外演習で誉められたんだよ、沢田氏は」
「さすがは沢田だ、大いにがんばってくれ」畳に腰をおろしながら良太は言った。「俺はもうたくさんだよ、銃を担いで走らされるのは」
「そんなことよりもな」と沢田が言った。「さっき岡にも話したんだが、明日の夕方に講演会があるんだ。俺を誘ってくれた高校時代の剣道部仲間によると、講師は真珠湾攻撃とソロモン海戦に参加した海軍中佐だ。どうだ、俺といっしょに行ってみないか」
 戦場帰りの軍人が講師なら、戦争の実情をうかがい知ることができる、めったに得られない機会ではないか。良太はパン屋の仕事を休んで講演を聞くことにした。
 つぎの日の夕方、良太と忠之は沢田につれられて、講演会の会場に入った。会場はほぼ満員になっており、聴衆のほとんどが学生だった。
 定刻ちょうどに講師が現れた。白い夏用の士官服に身を包んだ海軍士官を、学生たちは大きな拍手をもって迎えた。
 講師は自己紹介を終えるとすぐに、南太平洋の戦況について語ったが、その多くは公表されていることだった。良太が不満を覚えていると、講師は学徒の在り方について語り始めた。
 海軍士官が学生の役割を論じるにおよんで、良太はその講演会の目的を理解した。軍はいよいよ学生を対象に何かを始めるらしい。
講師は語った。我々に大和魂があるように、米国人には米国魂が、支那人には支那魂があることを忘れてはならない。ここまで戦ってきて、米軍の戦意がきわめて高いことがわかった。その米軍の中核をなすのは、軍に志願した学生である。彼等は祖国のために挺身し、祖国の名誉のために戦うことに、無上の誇りを抱いていることがわかった。現今の戦争を主導するのは航空機だから、彼等はとくに空軍に志願し、米国空軍において中核的な役割を担っている。そのような米国の学徒に比して、はるかに勝る大和魂を持つ諸君は、皇国の興廃がかかるこの戦争において、自らの役割を自覚しなければならない。諸君は愛国心と大和魂を自らに問わなければならない。
 講師は演台から一冊の冊子を取りあげた。講師によれば、それは先ごろ刊行された学徒出陣なる定価30銭の冊子であり、日本の学徒が読むべきものである、ということであった。
講演を聞き終えた学生たちは、緊張した面持ちで会場をあとにした。良太たち3人は、互いに感想を述べながら夜の街を歩いた。
「あの将校は、アメリカの学生を誉めながら、俺たちに奮起を促したんだから」と良太は言った。「もしかすると、俺たちに志願をせまる前触れかも知れないな」
「学徒出陣とか言ったな、あの本の名前。良太が言うように、俺たちも出征することになるかも知れんぞ」
 下宿に帰るための別れ道にきたが、良太は忠之たちといっしょに浅井家に向かった。
 夜の本郷は、東京の街とは思えないほど暗かった。夜風にざわつく庭木の音が聞こえるほどに、人影の少ない街は静寂だった。見あげると、きれいな星空だった。千鶴と交わした約束が思い出された。千鶴といっしょに出雲の星空を眺めたい。その日が訪れるのはいつのことだろう。
 浅井家に着いたとき、時刻はすでに8時を回っていたけれども、千鶴に請われるままに良太は書斎に入り、いつものように並んで腰をおろした。
 良太は講演会の感想を語った。
「戦争が長く続いたら、良太さんも出征することになるのかしら」と千鶴が言った。「怖いわ、私。いつまで続くのかしら、この戦争」
「心配することはないよ、たとえ出征するようなことになっても、絶対に死なずに還ってくるよ。けがひとつしないで」と良太は言った。
 良太は思った、学生に出征命令がくだされる日も遠くはないという気がする。たとえそうなったとしても、俺は戦死することなく、千鶴のそばに還って来なければならない。俺は千鶴とともに人生を歩まねばならないのだ。
 良太は言った。「千鶴と約束したんだからな、いっしょに人生を送ると。出征することになったとしても、俺は絶対に千鶴のところに帰ってくるよ」
 千鶴が良太をのぞきこむようにして言った。「嬉しい、良太さん。そのほうが好き、千鶴と呼んでもらうほうが」
 千鶴がこれほど喜ぶのなら、もっと早くから千鶴と呼んでやればよかった、と良太は思った。俺にとっても、そのほうがずっと好ましい。
「千鶴だよ」良太は千鶴の髪に手をふれた。「これからは千鶴と呼ぶことにする」
 千鶴が「良太さん」と呟くようにして言った。
「何だい、千鶴」
「呼んでみたかっただけなの」と千鶴が答えた。
 良太が千鶴に腕をまわすと、千鶴は首をまわして眼を閉じた。良太は千鶴を抱きよせて顔を近づけた。
第3章 昭和18年秋

 良太はパン屋の仕事を終えると、通いなれた道を浅井家に向かった。
 浅井家につくと、千鶴だけでなく母親がいっしょに出迎えた。ふたりの表情がこわばっていた。
 良太は急かされるようにして口を開いた。「どうしたんだ千鶴。何があったんだ」
「大変なことになったわ、森山さん」千鶴の母親が良太を見すえて言った。「ラジオで放送があったのよ、学生さんも出征するんですって」
 講演会で学徒出陣という言葉を聞き、その日が来ることを予期していたものの、良太は強いショックを受けた。
 良太は言った。「いきなりだからびっくりしたけど、ほんとは、驚くほどのことじゃないと思いますよ。学生だけがのうのうとしていられる時じゃないですからね」
「大事な放送だと予告されていたから、岡さんと純ちゃんにも報せていっしょに聞いたのよ。森山さんも聞ければ良かったのに」
「千鶴、書斎で話さないか」と良太は言った。
「そうしなさい、千鶴」と母親が言った。「お願いね、森山さん」
 良太はいそいで靴をぬぎ、千鶴を追って階段に向かった。
 良太は書斎に入るとすぐに、机の上の花に気づいた。花瓶の形と色が、コスモスの楚々とした姿をひきたてていた。
「いいじゃないかコスモス。この花瓶もいいけど」
「この花瓶、お父さんが亡くなってからは使ったことがなかったの。お父さんがこの部屋を使っていた頃は、私がお花を活けたのよ、いつもこの花瓶に」
「この花瓶も本棚から出されて、なんだか生き返ったみたいに見えるよ」
「庭のコスモスを見ていて思いついたの。良太さんに喜んでもらえるような気がして」
「ありがとう、千鶴。ここに花があるのもいいけど、花瓶も喜んでいるみたいだ」
「良太さんに喜んでもらうつもりだったのに、今日はこんな日になってしまって」
「学生の出征が決まった日を記念する花だな、このコスモスは。いい花じゃないか」
「ごめんなさいね、良太さん。もっと早くにお花を活けてあげればよかったのに」
「今までは花など無くてもよかったけど、こんなふうに花があるのもいいと思うよ。千鶴がそうしたければ」
 いつものように、良太と千鶴は並んで腰をおろした。良太の腕はしぜんにのびて、千鶴の肩を抱きよせていた。
「ここで話し合うようになってから、もうすぐ1年になるわね」
「大学に入学して間もない頃だったな、初めてここで話し合ったのは」
「私は、もっとずっと前からだったような気がするのよね。どうしてかしら」
「そういえば、俺もそんなふうに感じるよ。この1年の間に新しいことをたくさん経験したから、同じ1年が何年分にも感じられるのかも知れないな」
「子供の頃の1年がとても長く感じられるのも、そういうことかも知れないわね」
「これからの1年も長くなるかも知れないな。いろんなことが起こりそうだから」
「ほんとに良太さんが出征することになったら、どうなるのかしら、私たち」
「大丈夫だよ、千鶴。どんなことがあっても、俺は死なずに帰って来るよ、千鶴のところへ」
 千鶴が良太の胸に頬をおしあてた。
 千鶴の髪をなでていると、いつものように微かな匂いがした。千鶴の髪から放たれるのか、それとも千鶴の肌から匂いたつのか、いずれにしてもその匂いに、良太は千鶴の身と心をともに感じた。いきなり、千鶴と結婚したい、という気持ちが沸き起こった。出征することになるのであれば、その前に千鶴と結婚したい。
 良太は千鶴を抱きしめた。強く抱き締めたまま、良太は千鶴の唇をもとめた。
 情動にけしかけられるまま、良太は千鶴にキスを続けた。千鶴があえぎ声をあげたが、良太は千鶴の唇をむさぼり、千鶴の舌をもとめた。
 椅子からずり落ちそうになってようやく、良太は千鶴から唇をはなした。千鶴が良太にしがみついていた。良太は千鶴を膝のうえに抱きあげた。
 千鶴の背中をなでながら、その細い首すじに顔を近づけると、千鶴の匂いが先ほどよりも強まっていた。
良太は千鶴を抱きながら思った。出征してどこで戦うことになろうと、俺は無事に還って、千鶴と共に幸せな人生を送らねばならない。この千鶴を悲しませてはならない。
 良太は夜が更けてから浅井家をでた。下宿への道すがら、良太は日本の現状と先き行を想った。さまざまな想いが頭をよぎったけれども、暗い未来しか思い描けなかった。
 良太はふと思った。千鶴はいま何をしているのだろうか。こんな日だから、まだあの書斎に残って、日記をつけているのかも知れない。
良太は日記をつけようと思った。俺には出征に備えた心構えがまったくできていない。日記をつけることを通して、多少なりとも思索を深めることができるのではないか。
 下宿の部屋に帰りつくなり、良太は机代りの板の上にノートをおいた。10月からの2年次で使う予定のノートが、東京でくらすようになって以来はじめての日記帳になった。
〈昭和18年9月22日
 理工系を除く学生に対する徴兵猶予の停止措置が発表される。パン屋からの帰りに立寄った浅井家にてそのことを知る。
 眼の前に軍人への道が開けたことに、不安とともに安堵感に似た気持を覚える。出征している幼なじみ達に対する負い目をもはや抱かずにすむ。
 千鶴と書斎で語り合ったあと、忠之の部屋に立ち寄り、沢田をまじえて今後のことなど話し合った。出征時期は不明なれども遠くないはず。残された時間を千鶴と如何に向き合い如何に過ごすか。悠長に構えてはいられない。出征までの残された時間を寸刻たりとも無駄にしてはならない。出征への準備をこの日記をもって開始する。〉
 良太は書き終えたノートを見て、こんな大きな文字で走り書きをしたなら、ノートのむだ遣いになると思った。書き方に注意して、ノートを長持ちさせなければならない。
 その夜、千鶴も日記をつけた。
〈今日になって突然に、良太さんたち学生に対する徴兵猶予が停止になった。良太さんが出征しなくてすむように、今すぐ戦争を終わりにしてほしい。
 夜になって来訪された良太さんと書斎で話し合ったが、戦争のことや将来のことはあまり話さなかった。飾っておいたコスモスの花を気に入ってもらえて嬉しい。
 いつものように良太さんと口付したのだけれど、今日はいつもとまるで違った。舌を通して良太さんの想いが伝わってくるような感じがしているうちに、身体がしびれるような不思議な感覚におそわれ、気がついたときには良太さんにしがみついていた。びっくりはしたけど、とても幸せな気持ちで良太さんに抱かれていた。良太さんが出征されたらこの幸せはどうなるだろう。良太さんは自分は運が良いから心配するなと言ってくださる。良太さんの幸運を信じよう。良太さんの幸運が続くように祈ろう。〉
 日記をつけおえて椅子から立ちあがると、コスモスの花がかすかに揺れた。なぜか良太とのキスが思いだされて、千鶴は思わず口に手をあてた。
 書斎のドアを開けると、忠之の部屋から話し声が聞こえた。忠之と沢田の議論はまだ続いていた。その声を耳にしながら、千鶴は階段の降り口に向かった。

 休学して故郷に帰る友人もいたが、良太はしばらく東京に留まることにした。出征する身を自覚しつつ千鶴と向きあい、その間に出征に向けた心構えを確立しなければならない。良太は両親に手紙を書いて、出征が決まったことに対する心境と、出征までの計画を伝えた。
 忠之の父親は良太の恩師であって、学資の援助者でもあった。良太にとって、恩師の期待に応え、その恩に報いることは重要な義務であったが、出征して戦死するようなことになったら、報恩どころか、学資の返済すらもままならないはずだった。
 良太は恩師に手紙を書いた。恩情と恩顧に対する感謝の言葉とともに、残された時間を有意義なものとすべく、勉学に全力を尽くしたいとの心情を記した。書かねばならぬと思いながらも、生還が叶わなかった場合のことには触れ得なかった。記すべき言葉がまだ見つからず、そのことは先送りするしかなかった。
 10月2日、在学徴集延期臨時特令が公布されるとともに、学生を対象とした徴兵検査の実施計画が公表された。10月の下旬に行なわれる徴兵検査を受けるため、良太は期日までに出雲に帰らねばならなかった。
 軍に身を投ずることになった学生に対して、文部省主催になる壮行会が行われることになった。10月21日のその壮行会は、首都圏に住む出陣学徒を対象に挙行され、女子学生や出陣予定にない男子学生に対しては、送る側としての参加が求められた。会場は明治神宮外苑競技場だった。
 送られる側の良太や沢田には、前日のうちに大学から歩兵銃が渡された。教練や野外演習で扱いなれた三八式歩兵銃だった。
 国による壮行会が行なわれる日の前夜に、浅井家は良太と沢田のための壮行会を行うことにしていた。千鶴の祖父にとっては孫にあたる沢田が、休学して横浜の家族のもとに帰ることになったからである。
浅井家での壮行会が行われる日の夕方、良太は翌日の国による壮行会に必要な歩兵銃などを持って浅井家に向かった。その夜は浅井家に泊めてもらい、翌日の国による壮行会には、千鶴や忠之たちとともに出発することになっていた。
 その夜、良太は沢田や忠之とともに浅井家の食卓についた。にぎやかな、そしてなごやかな宴会のような壮行会だった。食卓には収穫したばかりのサツマイモも載っていた。
 良太と忠之があとかたづけを手伝っていると、千鶴が近づいて、「良太さんのおふとんは岡さんの部屋に運びましたから」と言った。
 その夜、良太は忠之の部屋で寝ることになっていた。
「良太よ、少しくらい寝相が悪くてもかんべんしてやるからな、安心して熟睡しろよ」と忠之が言った。
つぎの朝、千鶴を交えた4人はいっしょに家を出て、千駄ケ谷の競技場に向かった。雨が降っていたが傘を持つ者はなかった。それぞれの腰には千鶴と母親が作った握り飯の弁当があった。
 競技場の周辺にはおびただしい学生が集まっていた。良太と沢田はそれぞれの隊に配属されて、雨の中で分列行進の開始を待った。千鶴と忠之もそれぞれ指定された場所に向かった。
 かなりの時間を雨の中で待機させられてから、ようやくにして分列行進がはじまった。800人が一つの隊をなし、軍楽隊の演奏に合わせて8列縦隊で進んだ。
 先頭を行く校旗がゲートをくぐりぬけると、あたりを圧するどよめきが沸きおこった。良太は銃を肩にして、前を進んでゆく校旗を見つめ、泥水をはね返しつつ進んだ。
 良太はスタンドに眼を向けた。右前方の台に立っているのは文部大臣だろう。胸に勲章をつけた軍服姿は東条総理大臣だ。
 バックスタンドに向かう頃になって、女学生たちが並んでいる場所が見えてきた。良太はまっすぐ前をむいたまま、女学生たちが集っている場所をながめた。あそこから千鶴は必死で俺に呼びかけているのだ。千鶴は今どんな気持でいることだろう。
 千鶴はスタンドの一角から、良太の姿をさがしもとめた。誰もが同じ制服と制帽をつけている。良太を見わけることなどできなかったが、それでも千鶴は良太の姿をもとめ、濡れた制服の腕をふりながら、良太に届けとばかりに叫びつづけた。
 行進をおえて整列した学徒を前に、総理大臣たちの訓示がつづき、出陣学徒の代表が答辞を読むときがきた。代表者が進みでてゆく。
 答辞を読む声が静寂の中にひびいた。千鶴は思った、良太さんは答辞の声をどんな気持で聞いておいでだろうか。良太さんはあそこに立って何を考えておいでだろうか。
 壮行会が終わろうとしている。〈海行かば〉の歌声が競技場をおしつつむ。千鶴は整列している学生たちを見つめつつ、精一杯の声で歌った。
 万歳の奉唱をもって壮行会が終わった。出陣学徒が行進をはじめた。宮城を遥拝するために退場してゆく。千鶴は思わず隊列の方へと歩きだしていた。周りの女学生たちもいっせいに学生たちに向かって動きだした。満場に漲る想いが重なりあって、感動が感動をよび、その感動に突き動かされて、女学生たちは叫びながら涙を流し、泣きながら手に持つ小旗やハンカチをうち振った。千鶴もまたひたすらに旗を振り、涙を流しながら叫びつづけた。
 良太はその午後も遅くなってから浅井家を訪れ、忠之の部屋で千鶴や沢田をまじえて語りあった。そのあと、浅井家で用意された夕食をとり、入浴してから下宿に帰った。
 早朝に起床して始まった一日が終わった。日記をつけさえすれば、あとは寝るだけだった。
 良太はノートを持って寝床に入り、腹ばいになってペンをにぎった。
〈前日の20日に浅井家にて壮行会をしていただく。忠之や沢田と共に馳走にあずかり、ご家族を交えて歓談す。なごやかな宴のごとき壮行会だった。そのまま浅井家に泊めてもらう。浅井家の御厚意に深く感謝す。
 今日は明治神宮外苑競技場で文部省などの主催になる壮行会。雨の中を千鶴を含めた4人で千駄ケ谷へ。
 スタンドを埋め尽くした数万人の気持を受けつつ雨の中を行進。あの数万人の気持は、国民すべての願望に通じている。戦局の前途容易ならざるとき、自分は如何ほどにその期待に応えることができるだろうか。今はただ我らの出征に意義あれかしと願うのみ。〉
 日記をそこで終えることにした。ノートを閉じてふとんの上に仰向けになると、千鶴のことが想われた。千鶴は何をしているのだろうか。握り飯を作る用事があったから、そのぶん千鶴は早く起きたはず。もう寝床に入っているのかも知れない。濡れた制服を冷たく感じながらの食事だったが、あの握り飯はうまかった。
 まもなく良太は眠りにおちた。
 その夜、千鶴は疲れをおして書斎に入り、机の上に日記用のノートを置いた。
〈神宮外苑競技場での出陣学徒壮行会。雨の中を良太さんと岡さんに純ちゃんと私の4人で千駄ケ谷に向かった。雨のためか式は少し遅れて開始。
 先頭の集団が現われたとたんに全身が震えるほどの感動におそわれた。声をかぎりに良太さんたちに声援を送った。総理大臣や文部大臣が演説したが、私はほとんど聞かずに整列している良太さんたちだけを見ていた。
 良太さんは午後遅くに来てくださった。見なれた制服姿ではなく毛糸のシャツを着ておいでだった。岡さんの部屋に4人で集まって話し合った。
 良太さんの感想。雨の中を行進していると、スタンドから呼びかけているこの人たちのために、日本に生まれ育った者のために、自分たちは出征して征くのだという気持ちが沸きあがってきた。それを聞いて、私は良太さんたちに感謝しなければならないと思った。私たちは感謝しながら、出陣される良太さんたちの無事を祈らなければならない。
 岡さんの感想。良太さんたちが出征されるのだから、理科の学生も何らかの形で戦争に参加しなければならない。岡さんはそのために何ができるか考えているとのこと。
 良太さんは徴兵検査を受けるために故郷へお帰りになる。しばらく会えないけれど、十日ほど待てばまた会える。良太さんを送って玄関を出たとき、あちこちから虫の声が聞こえた。虫の声を聞きながら、良太さんとしばらく立ち話をした。こんな戦争をしているときでも、虫の世界は平和なとき変わっていないはず。人間はどうして戦争などをするのだろうか。
 大学を休学した純ちゃんが明日には横浜の家に帰り、出雲から帰ってきた良太さんが代わりに入られる予定。しばらくの間とはいえ、良太さんはここでお暮らしになる。良太さんのためにできるだけのことをしてあげたいと思う。〉
 今このとき、良太さんは下宿で何をしておいでだろうか。お疲れのはずだから、もしかしたらすでにお休みになっているのかも知れない。昨日の夜、岡さんが冗談に良太さんの寝相のことを口になさった。良太さんの寝顔を見たい気がするけれど、いつになったら見ることができるだろうか。
 千鶴はノートを引き出しに入れ、机の前をはなれた。