突如闇の中から現れ、オーガの群れを蹴散らした法衣姿の男、そしてブリオー姿の少女。
魔法らしき幻想的な灯りに浮かび上がる男女の顔はとても美しかった。
まずは男。
漆黒の法衣から覗く二の腕は女のように白い。
長身痩躯。
肩まで伸びた、さらさらの美しい金髪。
「ぴしっ!」と鼻筋が通った彫りの深い端正な顔立ち。
切れ長の目に妖しく碧眼が輝き、少年を「じっ」と見つめている。
しかし男の美しい碧眼には何の感情も浮かんでおらず、まるで石ころでも見るような眼差しだ。
一方、少女の体格は男と対照的にとても小柄である。
シルバープラチナの髪をなびかせる少女は、超一流の職人が造った美しい人形のように端麗な顔立ちをしていた。
だが、ぱっちりした目に浮かぶ瞳だけは、真紅のルビー色をしており、完全に人間離れしている。
ブリオー服の少女は冒険者の少年を一見して、柔らかく微笑む。
何とも不可思議な雰囲気の……
そして嬉しそうな笑顔である。
「あら? 貴方はもしや……驚いたわ……これは奇遇ね」
小さく驚く少女の反応を見て、彼女から『お父様』と呼ばれた男は無表情でぽつりと言う。
「ふむ……お前はこの少年を知っているのか?」
「はい……この子の事は良く知っています。……私と同じ子なのです」
少女が言うと、法衣の男は少年をじっと見つめる。
「ほう、お前と同じ子なのか? なるほど……それにしてもこの少年、興味深い瞳を持っている」
無表情のまま……
まるで歌うように、少女が発した言葉を繰り返す法衣の男。
どうやら少女は、冒険者の少年をよく知っているらしい。
しかし少年には、この少女に全く見覚えがない。
そして……
何故か、少年の身体が硬直して動かない。
声も発する事が出来ない。
まるで蛇に睨まれた蛙のように。
ただ目を大きく見開き、「ぺたん」と迷宮の冷たい石の床に座っていた。
片や、少女は何か、男へ頼み事をするようだ。
「……ねぇ、お父様」
「何だ?」
「この子、良い子よ。私が頂いて良いかしら」
「頂く? どういうつもりだ?」
「私ね、丁度、可愛い下僕が欲しいと思っていたの。魔力の相性も良さそうだし……この子ならぴったりだわ」
「ふ! 下僕か……良いだろう。お前の好きにするが良い」
「じゃあ楽園にも連れて行って宜しいですか? お父様」
「好きにするが良い。但し私との約束は忘れるな」
「忘れません、お父様」
「結構! では私はそろそろ行く」
「はい! お父様」
少女が戻した短い返事と共に……
法衣の男『お父様』は煙のように消え失せた。
どうやら転移の魔法を使ったらしい。
と、同時に。
少年の呪縛が解けた。
何故か怪我の痛みも和らいでいる。
何とか声も出るようだ。
首を「ぶるぶる」ふった少年は、まず聞きたかった事がある。
「き、き、君は誰だ?」
大いに噛んだが、質問は出来た。
対して、少女は悪戯っぽく笑う。
「私? そう言えば、まだ貴方へ名乗っていなかったわね」
「う、うう……」
改めて見やれば、少女はやはり美しい。
笑顔も凄く素敵だ。
しかし……彼女には底知れぬ恐怖を感じる。
冷酷さと非情さと、そして憎しみの感情が伝わって来るのだ。
「そんなに怖がらなくても良いわ。貴方を取って喰おうなんて思っていないから……」
「……き、君は一体?」
「私はツェツィリア」
「ツ、ツェツィリア? ど、どうして? お、お、俺はっ! やはり、君なんか知らないぞっ」
そう、少年は謎めいたシルバープラチナ髪の少女・ツェツィリアを全く知らないのだ。
しかし……
ツェツィリアは「全て承知だ」と、再び謎めいた笑顔を少年へ向けて来る。
「うふふ」
「な、な、何故? 君は、お、俺の事を知っている!」
全身の力を振り絞って……
何とか尋ねる少年であったが、
ツェツィリアはシルバープラチナの髪を「すっ」とかきあげ、淡々と、そしてあっさり答える。
「ええ、貴方は私を知らなくても、私は貴方を良~く知っているわ、随分前からね、アルセーヌ・ルブラン君」
「わう! な、名前まで!」
「だけど、その名前は仮初《かりそめ》の名。実の親がつけた貴方の本当の名前ではない」
「な!? そ、そ、そこまで知っているのかぁ!」
「ええ、雪がたくさん降った日、孤児院の門前に捨てられていた貴方を拾った司祭が勝手に且つ、適当に付けた名前だもの」
「あううう……な、何故!?」
「しかし適当につけられた仮初の名でも……今迄貴方が背負って来た大事なものよ。まあ、詳しいお話はゆっくりと別の場所でね」
「詳しい話? べ、別の場所?」
「ええ、もう怪我は治ったでしょ? それにこんな迷宮では落ち着いて話も出来ないもの」
「うう」
不思議であった。
ツェツィリアの言う通り……
確かに痛みは消えていた。
ホッとして軽く息を吐き、アルセーヌは改めて辺りを見回す。
深く底が知れない迷宮……
物音ひとつしない。
ふたりの周囲にあるのは、静寂と無機質な石の壁だけなのである。
「ふふ、でもね、ここでのんびりなんかしていたら、さっきみたいなオーガがまた来るかもしれないわ」
オーガが来る。
確かに、ツェツィリアの言う通りかもしれなかった。
「ああ、そうだな」
「まあ、あんな奴ら、私にはどうって事ないけれど……今の貴方には困るでしょ?」
「え? 今の俺?」
「ええ、貴方はまだ覚醒はしていない。真の力を得ていないの、かつての私みたいにね」
「かつての私?」
「そう、でも私との出会いで貴方は絶対に変わるの。私には……確信があるわ」
「ツェツィリア。き、君には、確信があるのか? こんな俺は……魔法も武技も度胸も……何の取り柄のない底辺冒険者の俺なんかでも……変わる事が出来るのか?」
「ええ、貴方は変われる。私の助けがあれば、がらりとね」
「がらりと……」
「そうよ。貴方の秘めた才能が開花すれば、素晴らしい存在になれるわ。間違いない。そして今迄貴方をバカにして散々裏切った奴らを、逆に思いっきり踏みつける事が出来る」
「あ、ああ!」
ツェツィリアが囁く励ましを聞くと、不思議な力が湧いて来る。
強力な身体強化魔法の言霊《ことだま》をかけられたように。
アルセーヌの身体には底知れぬ力が漲《みなぎ》って来るのだ。
そんなアルセーヌに、ツェツィリアは再び囁く。
「アルセーヌ……私には貴方が必要よ」
「必要? 俺が!? こんな俺が?」
「駄目よ、己を卑下しないで、アルセーヌ。そして、貴方には私・ツェツィリアが絶対に必要なの」
「俺には君が? ツェツィリアが絶対に必要なのか?」
「ええ、自信を持って、アルセーヌ」
熱く励ましたツェツィリアは、何と!
アルセーヌを抱きしめる。
優しく、そしてしっかりと。
「あ……」
な、何て冷たい。
体温を感じない。
この子は……やはり人間じゃない。
「さあ! 貴方もツェツィリアをしっかり抱いて、アルセーヌ。もう二度と離さないって誓って」
「!?」
更にアルセーヌの心臓にある、残り少ない魔力が奪われて行く……
でもアルセーヌは気にも留めなかった。
どうなっても良い。
この子に抱かれながら、魔力がなくなって死んでも構わない。
そう思った。
アルセーヌは、甘えるツェツィリアに応え、彼女の小柄な身体をしっかりと抱き締めたのである。
「ああ! 誓うよ! ツェツィリア! 何があったってもう君を離さないっ!」
薄暗い迷宮にアルセーヌの決意が満ちた、その瞬間。
彼は更に不思議な感覚に捉われた。
「ふわっ」と、身体が宙へ浮き上がるような感覚だ。
「あああっ」
思わず漏らした悲鳴と共にアルセーヌは意識を失っていたのである。
どれくらい時間が過ぎたのだろうか……
失った……アルセーヌの意識は……戻りつつある。
彼の鼻腔へ、爽やかな草の香が、そっと入り込む。
思わず気持ちが穏やかになり、目がゆっくりと開けられる。
仰向けになり、横たわっていたアルセーヌの頭上には、真っ青で広大な空が広がっていた。
空には、いくつもの千切れ雲が飛んでいる。
ゆっくり動いて行く。
大気は清々しく、風も心地良い。
ここは、どこだろう?
少し戸惑いながら、アルセーヌは起き上がった。
周囲を見渡せば、彼はひとりだった。
そして、今居るのは見渡す限り緑の大草原である。
ところどころに森が点在していた。
アルセーヌがすぐ目の前の森を見れば……
木々には、鮮やかな果実が実っていて、土地がとても豊かである事を示している。
遠くで、鳥が鳴く声がしていた。
と、その時。
背後で、いきなり彼を呼ぶ声がした。
「アルセーヌ」
低くも甘いツェツィリアの声である。
「え?」
慌ててアルセーヌが振り向くと……
優しい笑顔を浮かべた、シルバープラチナの髪を持つ少女が、いつの間にか立っていた。
「ようこそ、私の世界へ」
「私の世界だって?」
と、アルセーヌが聞けば、
「ええ、この地は……第3界であるオーラムイエツィラー」
「オーラムイエツィラー?」
「ええ、人間がエデンと呼ぶ楽園を模して、創った異界なの」
「エデン!? い、異界!」
「そう……私ツェツィリアが住まう世界よ……」
答えたツェツィリアの瞳は……
目の前のアルセーヌを見ていながら、何故か遠くをも見つめていた。
呆然とするアルセーヌへ、ツェツィリアは悪戯っぽく笑う。
「うふふ、アルセーヌ。貴方、今自分の身に起こっている状況が、全く理解出来ないでしょう?」
「…………」
アルセーヌからは、言葉が出て来ない。
確かに頭が回らない。
今迄持っていた、当たり前の常識という奴が、完全に破壊されているのだ。
無理もない。
起こった事実を改めて認識し、アルセーヌはやっと言葉を絞り出す事が出来た。
「あ、ああ……そうだ、こんな場所、今迄に見た事がない! う、生まれて初めてだよ」
「うふふ、でしょう? そして貴方の気持ちも……凄く強くなっているわよね?」
「そ、その通りさ! ツェツィリア! き、君を抱いてから……抱き合ってから! ……俺は何でも出来る! そんな気がするよ!」
「そう……貴方は、大切な女の子を守れる立派な男の子よ。自信を持って!」
「ああ、で、でも! さ、さっき! 君が言った疑問を知りたいっ!」
「ふふ、知りたいの?」
「そうさっ! ツ、ツェツィリア! き、君は何故、俺を知っているんだ?」
「うふ、聞きたい?」
「聞きたいさ! 君みたいな可愛い子が! お、俺みたいな、さ、さ、さえない男と何故!」
「抱き合ったのだ?」という言葉をアルセーヌは呑み込んだ。
何故ならアルセーヌには分かっている。
どんなに褒められても……信じられない。
優れた才能も、綺麗な容姿も持ち合わせない、こんな自分には自信など全くないからだ。
しかし!
「駄目!」
ツェツィリアは、アルセーヌへ真剣な眼差しを向け、首を横に振った。
「え?」
「駄目よ、アルセーヌ。さっきも言ったじゃない? 貴方は素敵な男の子なの。自分をそんなに卑下してはいけないわ」
「俺が素敵?」
「ええ、貴方は生まれの逆境にけして負けず、明るく必死にやって来たわ。とても素敵よ」
そう……
実はアルセーヌには……暗く辛い過去がある。
何故か、ツェツィリアは『全て』知っているようなのだ。
アルセーヌは吃驚し、叫ぶ。
「ツェツィリア!」
「なあに?」
「お、俺の、な、名前の由来もそうだけど、君は俺の生い立ちを含め、全てを知っているのか?」
「うふふ、私は貴方をもっと知りたいわ」
「俺の事を知りたい? もっと?」
「ええ! 心ゆくまで、ふたりきりで、ゆっくり話しましょう。お互いを、もっともっと分かり合う為に……」
「え? お互いを?」
「ええ、私の事も貴方には良く知って貰いたいわ。その為に、この世界へ、私の住まう楽園へ……アルセーヌ、貴方を……連れて来たのよ」
何となく「ぼうっ」としていた、アルセーヌの意識は……
はっきり戻りつつある。
改めて見回して、今、広大な草原に居る事を実感する。
爽やかな大気だ。
思いっきり吸い込みたい。
重くすえた臭いの迷宮とはまるで違う。
豊かでさわやかな草の香りに囲まれ、思わず気持ちが穏やかになる。
でも、さっきから楽園って?
一体ここは、どこの国なんだろう?
少し戸惑いながら、アルセーヌは考える。
でも、はっきりしている事がひとつある。
「良く分からないけれど、ここは凄く素敵な場所だ……」
「ええ、そうね」
「ああ、俺がこれまで人生を過ごして来た場所とは雲泥の差だ」
アールセーヌは記憶を手繰る。
王国から予算が出ない為、孤児院での暮らしはとても貧しく、食事も満足に与えられなかった。
明日が全く見えなかった。
院を出て、何とか冒険者になってからも、事態は好転しなかった。
冒険者ギルドで適性検査をしたが、単に魔力が高いだけ。
肝心の魔法が使えない。
これまでろくに訓練もしていないから、まともに武器も扱えず、体力さえもない。
魔力供与士という特殊な職業から人間ポーションと呼ばれ、単なる便利屋扱いにされた。
「お前は他に何も出来ない」と一方的に罵られ、重い荷物を運ばされ……
非道な主人が無茶使いする哀れなロバのように休みなしで働かされた。
結局、そんな日々を送った上、クランを馘《クビ》になった……
同じ事の繰り返しだった。
短期間で様々なクランを転々とした。
反論する事も出来ず『使い捨て』にされる虚しい日々だった。
挙句の果てに、最後は裏切られ、深い迷宮の奥へ置き去りにされたのだ。
「アルセーヌ、前向きに考えて……貴方は今迄、雌伏の時を過ごして来た」
「雌伏の時……」
「これから私と一緒に巻き返すの。悔い無きよう素敵な人生を送る為にね」
「巻き返す……悔いの無い素敵な人生を送る為に」
「ええ、だから頑張りましょう。せっかく生まれて来たんだもの。生きる事を簡単に諦めては駄目よ」
生きる事を簡単に諦めては駄目……
それはかつて幼いツェツィリアがあの『お父様』と呼ぶ魔法使いから言われた言葉であったのだ。
アルセーヌとツェツィリアは現世とは異なる世界、『エデン』に居る。
広大な草原で……
ふたりは何を話すのでもなく、暫くの間、並んで座っていた。
アルセーヌは、自分でも不思議であった。
謎めいた、美しい少女ツェツィリアの事を少しでも早く、そして詳しく知りたい。
間違いなく、強い強い気持ちがあるというのに……
反面、「焦る事はない」という余裕の気持ちも同時にあったのだ。
「え? あ!」
突如!
ふたりの目の前に、直径30㎝くらいの水晶球が出現していた。
誰が何をどうやったのか、魔法使いのアルセーヌにも不明であった。
そして見る限り、ただの水晶球ではなさそうだ。
とんでもなく強い魔力が放たれていたし、表面は鮮やかな虹色に輝いている。
「こ、これは!」
思わずアルセーヌが驚けば、ツェツィリアは微笑む。
どうやら、ツェツィリアの仕業らしい。
「うふふ、これはね、魔導水晶……とても便利なのよ」
「魔導……水晶……」
「全世界の、過去現在未来を見通す素晴らしい魔道具……この世界でひとりぼっちの私が、寂しくならないよう……お父様がくださったの」
「お、お父様? さっきツェツィリアと一緒に迷宮に居たあの人?」
「ええ、そう。とても優しい、私の大好きなお父様よ」
「…………」
ツェツィリアの父?
あの謎めいた魔法使いか?
転移魔法も使いこなす恐るべき魔法使いだ。
彼女の父親にしては若すぎる気もしたが……
また何故、父とふたりきりで危険な迷宮に居たのか?
曖昧なツェツィリアの話は、今のアルセーヌには理解出来ない。
と、その時。
ツェツィリアがいきなり水晶球を指さした。
「ねぇ、見て」
アルセーヌが固唾を呑んで見守っていると、ツェツィリアは指を「ピン!」と鳴らした。
すると!
水晶球に映る光景は、アルセーヌにとっては見覚えのある王都の風景である。
そして、これまた彼が見慣れた石造りの建物が見えて来た……
「こ、ここは!」
「ええ、アルセーヌ。貴方が良く知っている場所ね」
「…………」
「あの建物は王都セントヘレナにある、創世神教会付属の孤児院……貴方が育った場所」
「…………」
やはり……ツェツィリアは、アルセーヌの素性を知っている。
ここは黙って……彼女の話を聞いた方が良さそうだ。
アルセーヌが無言になったのを見て、ツェツィリアはそのまま話を続ける。
「私は見た……貴方は16年前、誰もが凍える雪の日に……この孤児院の門前に捨てられていた……可哀そうに……」
「…………」
「天涯孤独な捨て子の貴方は……当然親の顔を知らない。でも腐らず、めげずに、たったひとりぼっちで、ずっと頑張って来た……まともに職にもつけず、仕方なく冒険者となり、辛い思いをしながら、今迄生き抜いて来た」
「…………」
「……私はね、この異界から魔導水晶を使って、ずっと見ていたわ、アルセーヌの事を」
「ツェツィリア……」
「貴方の生き方が私を救ってくれたのよ、アルセーヌ……」
「な? 俺が!?」
「ええ……貴方はとても不器用。だけど、ひたすら誠実……」
「…………」
「そんな貴方が励みとなり……同じく両親に見捨てられ、自暴自棄になり、怖ろしい悪鬼へ堕ちるはずだった……ひとりの女の子が救われたの……」
「お、同じく? そ、それに怖ろしい悪鬼!?」
アルセーヌは驚いて声を出した。
まずツェツィリアが自分と同じ捨て子だという事に。
そして『悪鬼へと堕ちる』……とは、一体どのような意味なのだろうと。
「ええ、私も貴方と同じよ……10年前に人里離れた不気味な森へ、たったひとり置き去りにされ、捨てられたのよ……」
「えええっ!? で、でもさっき、君はお父様って!」
またも驚き、アルセーヌは思わず尋ねた。
捨てられたのに……父が居る?
「…………」
対して、無言で真っすぐにアルセーヌを見つめ返すツェツィリアの顔には……
氷のように冷たい微笑みが、張り付いていたのである。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
両親に捨てられた筈なのに……
何故?
『お父様』と呼ぶ存在が居る?
そんなアルセーヌの疑問には答えず、ツェツィリアはまた話し始めた。
「貴方には正直に言う。それで……私を嫌いになっても構わないわ」
「そ、そんな!」
「いいえ、アルセーヌ。もし私が貴方の立場なら……嫌いになるのもありえる。仕方がないから……」
「…………」
「私を生んだ両親は人間よ。幼い私をあっさり捨てた鬼畜以下の奴等だけど、確かに人間。それは間違いない……」
「…………」
「でも私は……人間ではないの」
「え?」
ツェツィリアが……人間ではない!
あまりの事に、アルセーヌは言葉が出て来ない……
そんなアルセーヌを他所に、ツェツィリアは淡々と話している。
「普通の人間から……唐突に魔族が生まれる。貴方は聞いた事ある?」
「…………」
「その魔族が私……よ」
「…………」
「創世神様の悪戯というには、あまりにも過酷な運命……そんな運命の星の下に生まれたのが……私」
「ま、まさか!」
「そう……私ツェツィリアは人間ではない。人外の夢魔……夢魔モーラなの」
「えええっ!」
夢魔モーラ。
冒険者のアルセーヌも名前だけは知っていたが、幸いというか、まだ遭遇した事はなかった。
モーラは『獲物』の心臓から、魔力もしくは血を吸うと言われる少女の姿をした怖ろしい人外である。
凄まじい魔力を持ち、変幻自在で姿を自由に変えるとも言われていた。
そして……
ツェツィリアが言う通り、夢魔モーラは稀に人間からも生まれる事があるという……
あまりにも衝撃の事実に……
アルセーヌは呆然として、目の前のツェツィリアを見つめていたのであった。
ツェツィリアは夢魔モーラ!?
目の前の美しい少女が?
人間にしか見えない可憐な少女が?
到底、信じられない。
衝撃の事実を聞き、呆然とするアルセーヌを尻目に、ツェツィリアの『告白』は続いている。
遠い目をしながら、ツェツィリアは話す。
淡々と……
「母が……魔法使いの母は空腹を訴える私に……密かに魔力を与えていた。彼女は気付いていたの。私が魔族である事を」
「…………」
「その秘密が、ある日父親に知れた。父親は母を殴って罵《ののし》り、私をどこか遠く、もう戻れない場所へ捨てると決めた……」
「…………」
「人間ではない、私……人々から忌み嫌われる夢魔モーラであるが故に……」
「…………」
「実の両親から、人里離れた深い不気味な森へ捨てられた私は……飢えたゴブリン共の大群に囲まれ、あっさり餌になる……普通なら、すぐに死ぬ運命だった……」
「…………」
「ゴブリン共に生きながら喰われる……もうお終い……すんでの所で、私を助けてくれたのが、お父様なの……」
「ね、ねぇ、ツェツィリア! さっきから君が言ってる、そ、そのお父様って誰なの?」
アルセーヌは気になる。
ツェツィリアの言う『お父様』の正体とは一体、誰?
果たして何者なのか?
どうやら……
ツェツィリアは、『お父様』に対する質問には、まともに答えたくないらしい。
それより、アルセーヌがとても気になる事を言い放った。
「……ええ、お父様が私を助けてくれたのは、ほんのきまぐれ。でも魂の契約に基づき、私を鍛え、いろいろなものを与えてくれたのよ……」
「な? た、魂の契約って? な、何!?」
アルセーヌはそう言うと、周囲を見渡したが……
ツェツィリアの言う『お父様』らしき者は見当たらなかった。
もしもこの世界に居るのなら、あの男『お父様』へいろいろ問い質したい……
そう思ったのだ。
しかし改めて周囲を見回しても、自分とツェツィリアのたったふたりきり。
他に人間は見当たらない。
困って頭をかいたアルセーヌは、仕方なくもうひとつの疑問を、ツェツィリアへぶつけてみる事にした。
「ええっと……ツェツィリアが夢魔モーラって事は分かったけれど……何故俺なの?」
「うふふ」
「笑わないでくれよ。俺、真面目に聞いているんだから」
「あら、私は真面目よ。貴方をからかってなんかいないわ」
「だってさ。孤児院には他にも、親に捨てられた孤児が大勢居た筈だ……俺よりずっとカッコいい奴がいっぱい」
アルセーヌは思う。
確かに自分は孤児で不幸な境遇だ。
まじめに生きて来たという自負もある。
しかし……
地味な自分以上に、美しいツェツィリアには相応しい相手が居るとも思う。
アルセーヌは、またも己を卑下したのである。
そんなアルセーヌをツェツィリアはたしなめる。
悪戯っぽく笑って……
「うふふ、駄目よ、そんな事言っちゃ。私には、貴方を選んだはっきりとした理由があるわ」
「え? 俺を選んだ、はっきりとした理由」
アルセーヌは……選ばれた。
間違いなく、ツェツィリアに選ばれた。
大事なパートナーとして。
まだ半信半疑のアルセーヌへ、ツェツィリアは言う。
「さっきも言ったけれど、貴方は私を救ってくれた……くじけそうになる私の心を……いつもしっかり支えてくれたの……」
「…………」
「うふふ、じゃあ教えるね。理由は他にもあるの、それも3つもよ」
「3つも? 俺を選んだ理由が?」
「そうよ。さっきも言ったけど……まず貴方の生き方。誠実さ、つまり人柄よ。第2は貴方の力……」
「力?」
「うふふ、だって私は魔力を糧とする夢魔モーラ。いっぱい魔力を与えてくれる魔力供与士の貴方は、パートナーとしてぴったりじゃない?」
ツェツィリアの言葉を聞き、アルセーヌは納得し頷く。
誠実さはともかく、魔力を喰らう夢魔ならば……
彼女の言う通り、確かに魔力供与士の自分は、ぴったりのパートナーだと。
「な、成る程。だったら最後の3つ目は?」
「最後の……第3の理由は……貴方の持つ魔力の質が……最高だから。私と相性ピッタリなのよ」
「質が? さ、最高? 俺と君は相性がぴったりなのか?」
「その通り! 論より証拠……思い出してみて……貴方と私が抱き合った時の事を……」
「あ、ああ……」
アルセーヌは思い出した。
迷宮でツェツィリアと抱き合った甘美なひと時を……
まるで身体が、とろけたチーズのようだった。
いつも仕事で、事務的に魔力を与えていた時とは大違いだ。
魔力を出す瞬間に、思わず情けない声が出てしまったくらいである。
そしてツェツィリアも、甘い魅惑的な声で応えてくれた。
単なる魔力の交歓であそこまで感じるのだ。
もし男として、ツェツィリアを抱いたら……
一体どうなるのか?
想像しただけで、怖くなる。
否、期待に胸が打ち震えてしまう……
そんなアルセーヌの心の中を読んだように、ツェツィリアがまたもや悪戯っぽく笑う。
「ねぇ……アルセーヌ。私が……欲しい?」
「あ、ああ……ほ、欲しい! 君を抱きたい!」
「うふふ、安心したわ。貴方、健康な男の子ね。でも……」
「…………」
「アルセーヌ」
「…………」
「貴方が……本当に私を愛してくれるのなら……夢魔の私は……変われるかもしれない……」
ツェツィリアが謎めいた言葉を告げ、何故か口籠った、その時。
「少年!」
凛とした男の声が、いきなりアルセーヌの背後から響く。
声を聞いたツェツィリアが、にっこり笑う。
「あら? お父様」
「へ? お父様?」
ツェツィリアの声に反応し、アルセーヌも慌てて振り返った。
何という事だろう。
いつの間にか……
迷宮でアルセーヌが出会ったあの謎めいた男、
転移魔法で煙のように消えた魔法使いが居た!
10年前のあの運命の日……
恐怖に慄き、泣き叫ぶツェツィリアをゴブリンの大群から助けた魔法使いが……
ふたりの傍に立っていたのである。
異界エデンに居るアルセーヌとツェツィリアの傍らに、いつの間にか立っていたのは……
漆黒の法衣を着込み、同色の大きなマントをひるがえす。
長身痩躯の30過ぎそこそこの若い男だ。
彼こそがツェツィリアから『お父様』と呼ばれる謎めいた男……
そう、10年前に全属性の魔法を軽々と使いこなし、ツェツィリアの危機を救った男である。
青に近い色白の肌。
小さい顔。
なで肩まで伸びた、さらさらの美しい金髪。
「ぴしっ!」と鼻筋が通った端正な顔立ち。
切れ長の涼し気な目には感情が全く見えない。
碧眼の瞳に映るふたりを、まるで『もの』を見るように捉えていた。
不思議なのは……
森での救出劇から約10年の月日が流れ、当時6歳だった幼子のツェツィリアが美しい少女へと成長したのに……
この男の容姿は、10年前と全く変わっていない。
全く年を取った様子がないのだ。
当然アルセーヌは、その不思議な事実を知らない……
ぞくり……
アルセーヌに鳥肌が立った。
男のまとう、感情が伝わらない冷え冷えとした雰囲気が、アルセーヌへ底知れぬ恐怖を呼び起こす。
分かる。
魔法使いのアルセーヌには気配、魔力の波動で分かる。
冒険者としての感覚でも分かる。
この男は……人間ではない。
怖ろしい人外だと……
いきなり男が問う。
矢を射るような鋭い視線をアルセーヌへ投げかけて。
「少年……アルセーヌと言ったか? ツェツィリアに気に入られたようだな」
「あ、わわわ…………」
しかしアルセーヌは恐怖に囚われ、身体だけではなく、口も動いてくれなかった。
返事どころか、恐怖からろくに言葉が出ないのだ。
もしこの男に会えたら、いろいろ『事情』を聞こうと思っていたのに。
だが、すかさずツェツィリアがフォローしてくれた。
「そうよ、お父様。彼の名はアルセーヌというの」
男は肩をすくめ、ツェツィリアに向き直る。
「ふむ……ツェツィリア、どうだ?」
「見込んだ通り、彼は、アルセーヌには素晴らしい素質があります。私とは魔力の相性も最高です」
「素質、相性……成る程。だが性根は?」
アルセーヌの性格……
聞かれたツェツィリアは、きっぱりと言い放つ。
「せ、誠実です。信じられます」
「そうか? この少年は真面目ではあるが、豪胆さに欠ける、つまり極めて小心だ。……気持ちが相当弱いと見たが……」
男が指摘すると、何故かツェツィリアは必死に庇う。
アルセーヌの事を。
「ア、アルセーヌは! や、優しいだけです。優し過ぎるのですっ! 私がパートナーとなり、挫けないようしっかり支え助けますっ!」
「分かった。単にこの少年が下僕なら問題ないが……お前に相応しいかどうか……彼アルセーヌの試験をしよう」
男はピンと指を鳴らした。
瞬間!
またも、アルセーヌは足元の感覚を失い、あっさり意識を手放していた。
ただ意識がなくなる時。
「アルセーヌ、頑張って! 信じてる!」
という、ツェツィリアの熱い励ましが、確かにアルセーヌの耳へ響いたのである。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
やがて……
アルセーヌの意識が戻って来る。
いつのまにか、アルセーヌはどこかへ横たわっていた。
目を徐々に開けると、辺りの様子が変わっている。
何もない……のだ。
今迄あった楽園の大草原が、森が、頭上の大空が……
風もない、温かくも寒くもない。
そして、色さえもない。
周囲は真っ白な世界なのである。
「こ、ここは……」
どこだ?
と思わず声が出たアルセーヌに対し、
「ここは、私が創った別の異界。先ほどのエデンともまた違う場所だ」
「は!?」
いきなり『男』の声が響き、アルセーヌは吃驚して思い切り起き上がった。
「あ、貴方は!」
声の主は、やはりツェツィリアが『お父様』と呼ぶ男であった。
相変わらず漆黒の法衣姿でアルセーヌの前に、佇んでいる。
「少年よ、私の事は、ルイと呼べ」
ルイと名乗った男は淡々とした口調で、いきなり申し入れをして来る。
「ルイ……」
「そうだ! アルセーヌとやら、私と取り引きをしよう」
「取り引き?」
「うむ、ツェツィリアは魔導水晶でたまたまお前を見つけてから……何故か、ずっと執着している」
「俺に? 執着?」
「私は困っていた。お前が原因でツェツィリアは人の心を捨てきれず、夢魔モーラとして覚醒せず未だ完全体になれない」
「…………」
困っていた?
ツェツィリアが自分のせいで?
完全な夢魔になりきれない?
一体何を言っている?
この男……ルイの意図は、何なのだろう。
アルセーヌがつらつら考えていると、ルイは更に言う。
「まだ分からぬか? ツェツィリアはな、私の良き片腕になれるほどの逸材なのだ」
「え? ツェツィリアが?」
「ああ、そうだ。いっそ、事故に見せかけ、お前を殺しても良かったが……」
「え? 俺を殺す?」
「うむ、あの子が完全体になるには、お前という存在が邪魔だからな」
「あ、う……」
アルセーヌは絶句した。
ルイが、あっさり殺すと言い切る言葉の持つ恐怖。
淡々と、感情がない。
まるで人が、小さな虫けらを、無造作にひねり潰すような趣きだ。
「だが……もしもお前を殺せば、当時の幼いツェツィリアは生きる事に絶望し、自ら命を絶っただろう。だから私は、敢えてお前を見逃していた」
「…………」
「しかしツェツィリアは以前よりもずっと強くなった、心身ともに。それ故、お前が居なくても、もう死にはしない」
「…………」
「だが安心しろ……今更、お前を殺すつもりはない。ツェツィリアに免じて命だけは助けてやる」
「…………」
「その代わりアルセーヌ、お前からツェツィリアへ別れを告げよ。夢魔のお前など嫌いだ、もう二度と会わないと、きっぱり宣言するのだ」
「え?」
夢魔のツェツィリアに嫌いだと言え……二度と会うな。
ルイの持ちかけた『取り引き』とは……とんでもないものだった。
「永遠の別離を告げれば、お前の持つツェツィリアの記憶は完全に消去される。ツェツィリアからも同じくお前の記憶を消す」
「な、そんな!」
「ふむ、何故だ? 何か問題があるのか? ……お前には、そんなに動揺する理由がない筈だ」
慌てるアルセーヌを不思議そうに見て、ルイは首を傾げた。
そして、氷のように冷たい眼差しで、改めてアルセーヌを見据えたのであった。
ここで、初めてルイは笑う。
しかし、氷のように冷たい微笑である。
そして、何かまた話をするようだ。
「これは取引きだ。無論、ただとは言わぬ。お前がツェツィリアに二度と会わないと約束すれば……」
「…………」
「殺さないのは勿論、お前には優れた力と美しい結婚相手、そして高い身分を与えよう」
「え?」
まさに!
ルイはまさに、鞭と飴《あめ》を使い分けていた。
アルセーヌへ対し、散々死への恐怖をちらつかせながら……
今度は、とても甘い果実を与えると言うのだ。
心が翻弄されるアルセーヌは、どんどんルイに言いくるめられて行く……
まるで、見えない蜘蛛の糸にまかれた、身動きのとれない獲物のように……
「まずは力だが……結構な魔力はあるのに、ろくに魔法が使えないお前へ……上級魔法使いの力を与える」
「じょ、上級魔法使い…………」
「そうだ。お前を……様々な攻防の魔法が使える、複数属性魔法使用者《マルチプル》にする。水、火、風、地のうち、どれでも好きな属性をふたつ選ぶが良い」
「俺が複数属性魔法使用者、……す、凄い」
「ふむ! 更に結婚相手も与えよう。美貌を誇る、さる王国の王女だ。お前はその王女と結婚し、高い身分も得る。……父王の腹心たる王宮魔法使いの地位だ。要領良く立ち回れば次期国王も夢ではない」
美しい王女と結婚、王宮魔法使い、次期国王……
ルイの言葉は、まるで夢の世界へ行くような誘いに聞こえた。
当然、アルセーヌには信じられない。
「ま、まさか! そんな事!」
「まさかではない、可能だ。私にとってみれば全く容易い事なのだ」
「…………」
「アルセーヌ、お前にとっても悪い話ではあるまい」
ルイは自信たっぷりに言い切った。
無理もない。
ルイが告げた内容がもしも実現するならば、悪い話どころではない。
さえない無名のいち冒険者に過ぎぬアルセーヌにとっては、最高の条件と言っても良い。
「…………」
「アルセーヌ、お前はツェツィリアの過去を彼女から聞き、同情したのだろう?」
「…………」
「確かに、ツェツィリアは不幸だ。しかしお前に何の関係がある?」
「…………」
「所詮、縁もゆかりもない女。赤の他人、それも今日初めて会った女だ」
「…………」
「それどころか……人間のお前とは違い、怖ろしい夢魔だ」
「…………」
黙り込んだアルセーヌの心に、ツェツィリアの笑顔が浮かぶ。
美しいが……
とても寂しそうな笑顔である。
もっと……もっと……
楽しそうに、嬉しそうに、ツェツィリアには笑って欲しい……
アルセーヌは、そう思った。
ルイが、先ほど告げた言葉も甦る。
「お前が原因で、完全な夢魔になりきれない」と。
突如!
何かが弾ける。
アルセーヌの、固く閉じられた心の扉が勢いよく開いた音だ。
ツェツィリアの真摯な気持ちが、深い想いが……
アルセーヌは遂に分かったのだ。
親に見捨てられた、同じ境遇のアルセーヌを……
日々人間でなくなって行く、夢魔のツェツィリアが……
『心の支え』にしたという意味が、はっきりと理解出来たのだ。
そんなアルセーヌへ、更にルイの言葉が聞こえて来る。
「縁もゆかりもない見ず知らずの女と、もう会わない……たったそれだけを約束すれば、お前は最高の幸福を手に入れられる。……素晴らしいとは思わないか?」
ルイが、アルセーヌへ同意を求めた時。
不思議な事に……
アルセーヌの心の中に、先ほどのツェツィリアの笑顔とは全く違う、鮮明な映像が浮かび上がって来た。
シルバープラチナの髪を持つ、幼い女の子がたったひとり、暗い森に置き去りにされ……悲しみと恐怖で泣き叫んでいた。
そして、すぐにシーンは変わった……
同じ幼い女の子が……
先ほどの、エデンと言われる異界で……
これまた、ひとりきりで水晶球に見入っていた。
ずっとずっと熱心に……食い入るように……
どうやら……
ツェツィリアの幼い頃の記憶が、アルセーヌへ流れこんで来たらしい。
何故なのか、理由は分からないが……
心に映る女の子を、見守るアルセーヌの目には……
いつの間にか、大粒の涙が浮かんでいた。
だがツェツィリアの過去を見ずとも、アルセーヌの『答え』は最初から決まっている。
「…………思わない!」
断言したアルセーヌは、今迄の卑屈さが消え、堂々とルイを見据える。
「なに?」
ルイは驚いた声を出すが、冷たい表情は変わっていない。
平然としていた。
刺すような視線が、アルセーヌを鋭く射抜く。
だが!
アルセーヌは臆さず、首を横に振った。
そして、きっぱりと言い放つ。
「全然、素晴らしいなんて思わない! 力、結婚相手、身分が何だ! ルイ、貴方の提案など断るっ!」
「ほう、せっかく出した私の提案を断るのか……アルセーヌよ、理由を言え」
「ああ、言うさ! 俺はな、親に見捨てられ、周囲から散々馬鹿にされ、踏みつけられて生きて来た。さっきだって迷宮の奥で死のうと思っていた……」
「…………」
「だけど! こんな俺を励みにして、あの子は! ツェツィリアは! 人としての心を捨てずに、ずっとずっと生きていてくれた」
「…………」
今度は、ルイが黙り込んだ。
しかし、怒りもせず、不思議な事に『慈父』のような表情を浮かべていた。
アルセーヌは更に言う。
「そして! 俺に初めて生きる気力をくれた」
「…………」
「さっきだってそうだ! 頑張って、信じてるって、俺を励ましてくれたんだ」
「…………」
「ルイ、あんたのくれるものは……素晴らしいものかもしれない」
「…………」
「美しい王女と結婚、王宮魔法使い、次期国王。最高の幸福か……傍から見れば確かにそうだ。冒険者の俺には一生縁がないものばかりだろう!」
「…………」
「しかし……今の俺にとっては偽りの幸福に過ぎない」
「…………」
「……はっきりと分かったのさ。あの子の、ツェツィリアの俺への気持ちは……本物なんだって!」
「…………」
「俺はあの子を、これからも助けてあげたい。彼女の支えになれるのなら、絶対になってあげたい」
「…………」
「だから! 俺は、彼女の他には何も要らない。あの子さえ、ツェツィリアさえ傍に居てくれれば良い!」
「…………」
「俺はもっともっと、ツェツィリアの笑顔を見たいんだあっ!!!」
アルセーヌが大きく叫んだ瞬間!
ぱあああああん!!!
凄まじい音を立てて、真っ白な世界が砕け散った。
「あ!?」
気が付けば……
アルセーヌは、最初に来た異界、エデンに立っていた。
そして、目の前には……
大粒の涙を浮かべた、ツェツィリアが立っていたのである。
「あ、ありがとう……アルセーヌ……わ、私でいいの? 人間ではない夢魔の……こ、こんな私で……」
声を絞り出すように、ツェツィリアは言う。
どうやら……アルセーヌとルイのやりとりを聞いていたようだ……
アルセーヌも即座に、ツェツィリアへ言葉を返す。
心の底から、強い意思を籠めて。
「そうさ! 君が良い! 俺にはツェツィリアが絶対に必要なんだ!」
「アルセーヌ!!!」
「ツ、ツェツィリア!!!」
名を呼び合ったふたりは駆け寄り、固く抱き合った。
しっかり抱き合った。
もう二度と!
離れない!
とでもいうように……
先ほどのおそるおそるした、身体だけの抱擁とは全く違う。
アルセーヌとツェツィリアはお互いを想い、心と心でも抱き合っていたのである。
「ふむ……お前達の意思と気持ちは良く分かった。とりあえず一次試験は突破というところだな」
「え?」
「お父様」
聞き慣れた声が、唐突にした。
抱き合うアルセーヌとツェツィリアの傍らに、いつの間にかルイが立っている。
先ほどは、一瞬だけ慈父のような優しい表情をしたルイであったが……
今は一変し、全く感情を表してはいない。
冷たい氷のような眼差しで、ふたりを見つめていた。
ツェツィリアは、アルセーヌからそっと離れ、ルイへと向き直った。
「一次試験は突破? ……では、お父様。認めて下さるのですね? 私がアルセーヌと愛し合うパートナーになる事を……」
アルセーヌとツェツィリアがパートナーに……
問われたルイは、肯定も否定もしない。
軽く鼻を鳴らし、
「ふむ……だが、言うは易く行うは難し……だ」
と意味深な言葉を述べた。
その諺は、傍らで聞いたアルセーヌも知っている。
……口で言うのは簡単、しかし実行するのは難しいという意味だ。
ルイの言う意味は、アルセーヌにも分かる。
人間と異種族の愛を成就させるのは、不可能ではないが困難極まりない。
更にツェツィリアは、様々な種族に忌み嫌われる夢魔なのだから……
当然ツェツィリアも、ルイの言った事は承知している。
「はい……お父様の仰る通りですわ」
だが……
同意したツェツィリアへ、ルイは更に厳しく言い放つ。
「ツェツィリア、まだまだ認識が甘い……お前達の愛は、口先で言うほど簡単ではない」
「は、はい!」
「ぴしり!」と言われ、いつもは冷静に、落ち着いて話すツェツィリアが珍しく動揺する。
厳しい言葉を聞き、傍らでアルセーヌも唇を噛み締めていた。
ルイは更に言う。
「片や夢魔、こなた人間という、素性の全く違うお前達ふたりが……真に、愛し愛される関係になるには厳しい試練が生じる……」
「は、はい!」
「ふたりが愛を成就させる為には、いくつもの困難と逆境を乗り越えねばならぬのだ」
「はい、お父様! 頑張ります! ツェツィリアはどんな困難も、必ず乗り越えてみせます」
きっぱりと決意を述べるツェツィリアへ、ルイはひとつの質問を投げかける。
「だがツェツィリア……お前は私との契約を忘れてはいまいな? 魂の契約を」
「はい……それは分かっております」
ルイとツェツィリアの会話を、見守っていたアルセーヌであったが……
とても気になる言葉が聞こえ、つい口を挟んだ。
「け、契約!? ルイ! 契約って何だ!」
アルセーヌは思い出したのだ。
……ツェツィリアも言っていた。
それも……確か、魂の契約と……
ルイは、問いかけたアルセーヌを鋭い眼差しで見据える。
冷え冷えした怒りの波動が放たれ、急に辺りの大気が凍り付く……
「おい……小僧。確かに私を、その名で呼べとは言った」
「ひ!」
「だがけして呼び捨てにはするな……口の利き方に気を付けろ。二度は許さぬ」
口調こそ平たんではあった。
しかしアルセーヌの物言いが、ルイの機嫌を損ねたのは明らかだった。
「う!」
ルイの恫喝を聞き、アルセーヌは全身が硬直した。
まるで伝説の巨人の手で、強く握り潰されるような感触を覚える。
先ほどの会話でも感じた。
ルイは、アルセーヌなどあっさり殺すと。
虫けらのように……
可愛がっているらしいツェツィリアの『想い人』であったとしても、全く関係ないだろう……
ただならぬ雰囲気に、ツェツィリアがふたりへ割って入る。
「お、お父様、申し訳ありません! 私が彼に代わってお詫び致します」
失言したアルセーヌの代わりに、必死で詫びるツェツィリアをスルーし……
ルイは腕組みをし、小さく頷いた。
「まあ良い……小僧、お前の気持ちに免じて特別に答えてやろう。魂の契約とは文字通り、魂を対価に結ぶ契約だ」
「た、魂を対価に? で、ですか?」
アルセーヌは、ルイが言った、魂を対価とする契約を聞いた事がある。
魔導書で読んだ事もある。
確か……怖ろしい悪魔が持ちかける……死をもたらす契約だ。
「うむ……人の時間で計る事10年前……私はツェツィリアへ問うた。生きるか? それとも死ぬかと」
「生きるか、死ぬか……」
「その際、ツェツィリアは答えた。はっきり、生きたいとな……だが当時のこの子には素晴らしい素養はあっても、あまりに幼くひ弱だった」
ルイがそう言うと、ツェツィリアは我慢出来なかったのか、つい口を挟む。
「はい! お父様は命を助けてくださり……更に……心身ともに弱かった幼い私を鍛え、様々なものを与えて下さいました」
しかしルイは、ツェツィリアの言葉に反応せず、アルセーヌへ話を続ける。
「……時を経て、ツェツィリアが夢魔モーラへと完全覚醒し、身も心も完全な魔族となった時……魂を私に渡す。つまり魔界の住人となり、私の忠実な配下となる、そう約束したのだ」
ツェツィリアが、ルイと交わした『魂の契約』
完全な魔族となった彼女が、魂を明け渡し、魔界に棲むルイの配下となる。
『魂の契約』……
それはやはり、『悪魔の契約』同様に、怖ろしい死の契約だったのだ……
アルセーヌは『魂の契約』の内容を知り、慌てた。
絶対に、確かめなければならない。
「ル、ルイ様! そ、その契約が! 俺とツェツィリアがパートナーになっても取り消しにはならず有効だと、い、いや! ゆ、有効なのですか?」
「その通りだ……小僧。お前がもしツェツィリアのパートナーになっても、私とツェツィリアの契約は……解除されぬ」
「え? か、解除されない?」
「うむ! 先ほど私が言った通り……このまま時が経てば……ツェツィリアは人の心を失い、冷酷で無慈悲な夢魔と化すだろう。その時、魂の契約は完全に成立する……」
ルイの突きつけた非情な現実……
このままでは、ツェツィリアが人ではなくなり、完璧な夢魔モーラとなる。
運命の出会いをしたアルセーヌの下を離れ、闇深き魔界へと堕ちてしまう……
そうなれば、彼女とは永遠に会えなくなってしまう。
絶句するアルセーヌ……
「そ、そんな!」
「そんなもこんなもない……紛れもない事実だ」
「じゃ、じゃあ! ど、どうすれば! ツェツィリアが夢魔にならずに済みますかっ! お、教えて下さいっ!」
ツェツィリアを救いたい!
方法を知りたい!
ルイへ迫るアルセーヌは、徐々に考えが変わり始めていた。
……自分と会えなくなるなど、どうでも良い。
そう思い始めていたのだ。
両親が人間なのに……
ツェツィリアは夢魔モーラになど生まれてしまった。
更に、それが理由で……
彼女を生んだ実の両親から森に捨てられるという、過酷な運命を背負った。
悲運としか言いようがない不幸なツェツィリアを……
少しでも幸福にしてあげたい!
何故ならば、自分が……
親にあっさり捨てられた、心の辛い痛みを知っているから……尚更なのだ。
アルセーヌは、もう必死だった。
ルイならば、『解決方法』を知っているに違いない。
すがるしかない。
だがルイは、冷たくアルセーヌを突き放した。
「小僧! 甘ったれるな!」
「う、ぐ……」
ルイの声は、魔王の持つ威圧、つまり金縛りの効果でもあるのだろうか……
アルセーヌは、またも全身が硬直したのだ。
そんなアルセーヌへ、ルイは鼻を鳴らし、吐き捨てるように言う。
「愚か者めが。私は言った筈だ、お前達が往く道は果てしなく困難だと」
「ううう……」
「茨《いばら》の道へ進む事を、自ら選んだのだ」
「…………」
「どうすれば、ふたりが幸せになれるのか、他者になど頼らず、自分達で探してみせい」
「…………」
高い崖から、容赦なく突き落とされたようなショックを受け、アルセーヌは無言で俯いてしまった。
ふたりの往く道は茨の道……
ツェツィリアが、「覚悟はしている!」と宣言する。
「お父様、成し遂げます! 必ず! ふたりで幸せになってみせます!」
ここで……
突如ルイが、「にやり」と笑う。
アルセーヌへ、『最初の取引き』を持ちかけた時と同じ笑いだ。
「ふふ、小僧、お前がそこまで言うのならば、私と取引きをしようか? 先ほど以上にとても良い話だぞ……」
「と、取引き? 先ほどよりも!? と、とても良い話なんですか!」
アルセーヌは、甘い蜜に引き寄せられる蝶のように「ふわふわ」と、たよりなく身を乗り出した。
「そう、素晴らしい取引きだ」
話を聞いていたツェツィリアは、嫌な予感がした。
もしかしたら……
「お父様! ま、まさか!」
「ふふ……実は、ツェツィリアをすぐ人間にする方法がある」
「え? ほ、本当ですか、ルイ様っ!!!」
「お、お父様!」
「私にしか発動出来ない……禁呪。すなわち禁断の古代魔法があるのだ……」
「ツェツィリアを人間にする禁呪、禁断の古代魔法……」
「アルセーヌ。お前の魂と引き換えに、その魔法を発動してやろう」
「お、俺の魂!?」
夢魔のツェツィリアを、人間にする超絶魔法。
ツェツィリア自身、想像はしていたが……
父と慕うルイから聞いたのは、初めてであった。
しかし魔法発動の代償は……
想い人アルセーヌの魂なのである……
「お、お父様!」「……ル、ルイ……さ、様!」
ツェツィリアとアルセーヌの声が、同時に重なった。
しかしルイは、相変わらずツェツィリアを無視している。
「何だ、小僧」
「ほ、本当なんですか! 俺の魂を貴方へ渡せば、ツェツィリアがすぐ人間になれる……のですかっ!」
ルイに尋ねる、アルセーヌは……本気だ。
これは……とてもまずい展開である。
アルセーヌは……ルイに、もう魂を囚われ始めているのだ……
「だ、駄目! ア、アルセーヌっ!!!」
ツェツィリアは、アルセーヌを止めようと大声で叫んだ。
しかし、アルセーヌとルイの話は……
彼女の制止も関係なく、どんどん進んで行く。
「……ああ、約束しよう。但し、アルセーヌ……お前とも、ツェツィリア同様、魂の契約を結ぶ事となる」
ルイが約束をした瞬間、アルセーヌは躊躇なく言い放つ。
「な、ならばぁっ! 俺の魂をすぐ貴方へ渡すっ!」
「え? アルセーヌ!」
驚いたのは、ツェツィリアである。
まさか!
心が通い合ったとはいえ、アルセーヌが自分の為に何の迷いもなく命を投げ出すとは……
しかしアルセーヌは叫び続ける。
早く、早くと!
「ルイ様! すぐだ、すぐに魂を渡す! だからツェツィリアもすぐ人間にしてやってくれっ! そして解放してやってくれっ!」
遂に!
アルセーヌは、魂の契約を了解したのである。
「ア、アルセーヌゥゥゥ!!!」
思わず、ツェツィリアは絶叫した。
暴走するアルセーヌを止めないと!
しかし、アルセーヌは言う。
「俺は……さっきまで死にたいと思っていた人間だ。魂なんて惜しくない」
ルイも、獲物を完全に捕らえた喜びからなのか、にやりと笑う。
「ほう、アルセーヌ。さっきからお前はそう言っていたが……やはり死にたかったのか? ならば自分の魂など投げ捨てても構わないな?」
「ああ! こんな俺の魂で、彼女が……ツェツィリアが人間になり、幸せにもなれるのなら! 存分にやってくれっ!」
覚悟を決めたアルセーヌが、ルイと魂の契約を取り交わそうとした、その瞬間!
びしぃんっ!
アルセーヌの頬が大きく鳴った。
力を込め、ツェツィリアが平手で張ったのである。
「え?」
打たれた、アルセーヌの頬がみるみる赤くなって行く……
呆然と、頬を手で押さえるアルセーヌへ、
「馬鹿っ! アルセーヌの大馬鹿っ!」
「ツ、ツェツィリア……」
「馬鹿な事をしないで! 思い直して!! 魂を投げ捨てるなんて! そ、そんな事をして! あ、貴方が! 深き闇へ堕ちたら……」
「…………」
「もしも人間になれたって! 私は絶対、幸せにはなれないわっ! 駄目! 絶対に駄目よ! 駄目だからぁ!!」
叱責するツェツィリアの言葉が……
アルセーヌの魂へしみて行く……
愛する想い人の、温かい、思い遣る言葉がしみて行く……
「で、でも! あ、ありがとう……」
「…………」
「あ、ありがとうっ! 本当にありがとうっ!! アルセーヌっ! 大好き、貴方が大好きよっ! わあああああああんん!!!」
ツェツィリアは、呆然と立ち尽くすアルセーヌへ飛びつくと……
まるで子供のように、思いっきり号泣していたのであった。
ツェツィリアの住まう異界において……
アルセーヌは結局、ルイの提示した『魂の契約』を断った。
正確には……
アルセーヌとルウの会話へ、ツェツィリアが強引に割り込む形で止めたのである。
不思議な事に……
一旦アルセーヌが了解した魂の契約締結を、勝手に断られた形のルイであったが、怒るどころか何の感情も見せなかった。
ただひと言。
「全ては、お前達ふたりが選択する事だ」
淡々と言い放ち、転移魔法を使い、その場から姿を煙のように消したのである。
果たして、ルイの真意とはどこにあるのか?
完全な夢魔モーラと化したツェツィリアを、自分に仕える忠実な『片腕』として……
本当に魔界へ引き込みたいのか?
アルセーヌには……全く分からなかった。
更に……
ルイがいきなり消えた事も、アルセーヌにはとても気になった。
だが、ツェツィリアは全く意に介していない。
微笑みを浮かべ、静かに、囁くようにアルセーヌへ告げたのである。
「大丈夫よ、アルセーヌ。お父様はいつもそうなの」
「え? いつも?」
「うん、いつもあんな感じ……用事が済んだら、さっさと行っちゃうの……」
「…………」
ルイの意図を知りたいと、悩み黙り込むアルセーヌに対し、ツェツィリアは、突如『おねだり』をする。
「それより……私、貴方の家に行きたい」
「え? お、俺の家?」
「ええ、アルセーヌの家よ。今夜は貴方の家に泊まりたい」
「お、お、お、俺の家に!? と、と、泊まるぅ!? だ、だって!」
若い女子が……
自分の家に泊まる!?
今迄アルセーヌが経験した事のない未知の世界だ。
どぎまぎするアルセーヌを見て、ツェツィリアは悪戯っぽく笑う。
「うふふ、私……魔導水晶で見たわ。王都の女の子が『お持ち帰り』されちゃうの」
「おおお、お持ち帰りぃぃ!!!」
女子をお持ち帰りする……
その意味は……女子に全く縁のないアルセーヌだって知っている。
「お、お、お、俺はやってない。やってないからな、そ、そんな事ぉ!」
動揺するアルセーヌへ、憂い気な表情のツェツィリアが迫って来る。
小さく端麗な顔を寄せて来る。
そして、囁く。
咲き誇る花のように濃厚な甘い息が「ふっ」と、アルセーヌの鼻にかかる……
「ねぇ……嫌?」
「い、い、い、嫌じゃない……い、良いよ」
「ホント? ファイナルアンサー?」
「あ、ああ! と、泊まって良いよ」
「じゃあ決定ね! うふふふ」
どぎまぎしながら、アルセーヌがOKすると……
ツェツィリアの表情が一転。
官能的な香りを発する大人の女が、無邪気に……
まるで童女のような無邪気な笑顔となった。
というわけで……
気が付けば、不思議な事に……
アルセーヌは王都の自宅へと戻っていたのである。
夢魔のツェツィリアと……可愛い女子と共に。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
狭い……
ぎゅうぎゅうだ。
普段は、アルセーヌひとりきりで寝ている小さく粗末なベッド。
しかし今は……
ツェツィリアとふたり、一緒に寝ているのだ。
ふと見れば、たったひとつある窓から見えた外は真っ暗だった。
魔導時計の短針は、午前1時を指していた。
果たして異界でどれくらいの時間を過ごしたのか……
アルセーヌの居る世界――現世はもう真夜中なのである……
今ふたりが居るアルセーヌの部屋は、四方を薄汚れた壁に囲まれた小さな空間である……
ベッドが置かれ、様々な生活用品、魔導書が雑多に置かれた部屋。
空気も重く澱んでいて、あの広々として、清涼な空気に満ちた異界とは大違いだ。
アルセーヌは……
自宅に戻った時の、ツェツィリアの仕草、発した言葉を思い出す……
狭く汚い部屋なのに……
ツェツィリアは、大きく目を見開き、「わぁ」と小さく声を出した。
凄く嬉しそうに笑っていた。
「うふふふっ、これが男の子の部屋……アルセーヌの部屋なのね」
「あ、ああ、そうだ」
「ふうん……単に見るだけと……実際に来るのとでは大違いね」
「え? 見てたの?」
「うん……ごめんね……私、寂しくなると……魔導水晶で、いつもアルセーヌを見ていたの……」
寂しい時には……
いつもアルセーヌを見ていた……
ハッとしたアルセーヌが、ツェツィリアを見れば、彼女はとても切ない眼差しを送って来る。
「ねぇ……今夜は私をきゅっと抱っこして寝て……」
「えええっ!? きゅっと? だ、だ、抱っこ?」
「うん……私、いつもひとりぼっちで寝ていたから……さみしいの」
「…………」
「あの日……森へ置き去りにされた時から……ずっと」
「…………」
「ごめんね……我が儘言って……貴方なんか、ずっとひとりぼっちで眠っていたのに……」
ずっとひとりぼっち……
確かに、アルセーヌも、親に見放された、捨てられた日から……
生まれた日から、たったひとりで眠って来た……
でも……
今はひとりぼっちじゃない。
愛するツェツィリアが、傍に居るのだ。
「…………良いさ、ツェツィリア、一緒に寝よう」
「あ、ありがとう」
ツェツィリアは掠《かす》れた声で礼を言うと、アルセーヌへ「ひし!」と抱きついた。
そしてふたりは、ベッドへ入ったのである……
……アルセーヌも健康な男子である。
年頃の男子と女子が一緒に寝る。
となれば、どうなるか期待が高まった。
妄想が働き出す。
加えて、ツェツィリアの恰好が、アルセーヌの本能を刺激した。
会った時とは違う独特な黒いブリオーを、いつの間にか脱ぎ捨てたツェツィリアは……
薄い生地の、身体が透けて見える、これまた独特の肌着を着ていたからだ。
陶器のように真っ白な肌は勿論の事……
細い首すじ、やや膨らんだ可愛い胸、流れるような丸い腰、小さなお尻……
初めて会い、抱き合った時同様、彼女の髪と身体から甘い香りもする……
しかし、アルセーヌの期待に反して……
残念ながら、艶めかしい男女の行為は一切なかった。
ひとしきりアルセーヌに甘えたツェツィリアは、疲れていたのか、すぐ眠ってしまったから……
最初は興奮しきりだったアルセーヌも……
落ち着いて来ると、ツェツィリアをしっかり抱きながら余裕をもって彼女を見る事が出来た。
自分の胸の中で、軽い寝息を立て眠るツェツィリアは、安心しきった表情をしていた。
アルセーヌは改めて思う……
ツェツィリアは、いつも戦っている……
自分が、いつか人間ではなくなる不安、恐怖と……
見守るアルセーヌの心に、強い感情が起こって来る。
固い、決意の気持ちが。
この子は俺の宝物なんだ!
世界で一番大事な!
絶対に!
絶対に守ってやる!
こんな俺の、命に代えても……
必ず幸せにしてやるんだ!
いつしか……
アルセーヌも寝息を立て眠りに落ちた。
ふたりが初めて過ごす王都の夜は、静かに静かにふけて行った……