底なしの迷宮・見捨てられた冒険者は最深部で愛する君に出逢う

 どれくらい時間が過ぎたのだろうか……

 失った……アルセーヌの意識は……戻りつつある。
 彼の鼻腔へ、爽やかな草の香が、そっと入り込む。

 思わず気持ちが穏やかになり、目がゆっくりと開けられる。
 仰向けになり、横たわっていたアルセーヌの頭上には、真っ青で広大な空が広がっていた。

 空には、いくつもの千切れ雲が飛んでいる。
 ゆっくり動いて行く。
 大気は清々しく、風も心地良い。

 ここは、どこだろう?

 少し戸惑いながら、アルセーヌは起き上がった。
 周囲を見渡せば、彼はひとりだった。

 そして、今居るのは見渡す限り緑の大草原である。
 ところどころに森が点在していた。

 アルセーヌがすぐ目の前の森を見れば……
 木々には、鮮やかな果実が実っていて、土地がとても豊かである事を示している。

 遠くで、鳥が鳴く声がしていた。

 と、その時。
 背後で、いきなり彼を呼ぶ声がした。

「アルセーヌ」

 低くも甘いツェツィリアの声である。

「え?」

 慌ててアルセーヌが振り向くと……
 優しい笑顔を浮かべた、シルバープラチナの髪を持つ少女が、いつの間にか立っていた。

「ようこそ、私の世界へ」

「私の世界だって?」

 と、アルセーヌが聞けば、

「ええ、この地は……第3界であるオーラムイエツィラー」

「オーラムイエツィラー?」

「ええ、人間がエデンと呼ぶ楽園を模して、創った異界なの」

「エデン!? い、異界!」

「そう……私ツェツィリアが住まう世界よ……」

 答えたツェツィリアの瞳は……
 目の前のアルセーヌを見ていながら、何故か遠くをも見つめていた。
 呆然とするアルセーヌへ、ツェツィリアは悪戯っぽく笑う。

「うふふ、アルセーヌ。貴方、今自分の身に起こっている状況が、全く理解出来ないでしょう?」

「…………」

 アルセーヌからは、言葉が出て来ない。
 確かに頭が回らない。
 今迄持っていた、当たり前の常識という奴が、完全に破壊されているのだ。
 無理もない。
 
 起こった事実を改めて認識し、アルセーヌはやっと言葉を絞り出す事が出来た。

「あ、ああ……そうだ、こんな場所、今迄に見た事がない! う、生まれて初めてだよ」

「うふふ、でしょう? そして貴方の気持ちも……凄く強くなっているわよね?」

「そ、その通りさ! ツェツィリア! き、君を抱いてから……抱き合ってから! ……俺は何でも出来る! そんな気がするよ!」 

「そう……貴方は、大切な女の子を守れる立派な男の子よ。自信を持って!」

「ああ、で、でも! さ、さっき! 君が言った疑問を知りたいっ!」

「ふふ、知りたいの?」

「そうさっ! ツ、ツェツィリア! き、君は何故、俺を知っているんだ?」

「うふ、聞きたい?」

「聞きたいさ! 君みたいな可愛い子が! お、俺みたいな、さ、さ、さえない男と何故!」
 
 「抱き合ったのだ?」という言葉をアルセーヌは呑み込んだ。
 
 何故ならアルセーヌには分かっている。
 どんなに褒められても……信じられない。
 優れた才能も、綺麗な容姿も持ち合わせない、こんな自分には自信など全くないからだ。

 しかし!

「駄目!」

 ツェツィリアは、アルセーヌへ真剣な眼差しを向け、首を横に振った。

「え?」

「駄目よ、アルセーヌ。さっきも言ったじゃない? 貴方は素敵な男の子なの。自分をそんなに卑下してはいけないわ」

「俺が素敵?」

「ええ、貴方は生まれの逆境にけして負けず、明るく必死にやって来たわ。とても素敵よ」

 そう……
 実はアルセーヌには……暗く辛い過去がある。
 何故か、ツェツィリアは『全て』知っているようなのだ。

 アルセーヌは吃驚し、叫ぶ。

「ツェツィリア!」

「なあに?」

「お、俺の、な、名前の由来もそうだけど、君は俺の生い立ちを含め、全てを知っているのか?」

「うふふ、私は貴方をもっと知りたいわ」

「俺の事を知りたい? もっと?」

「ええ! 心ゆくまで、ふたりきりで、ゆっくり話しましょう。お互いを、もっともっと分かり合う為に……」

「え? お互いを?」

「ええ、私の事も貴方には良く知って貰いたいわ。その為に、この世界へ、私の住まう楽園(エデン)へ……アルセーヌ、貴方を……連れて来たのよ」

 何となく「ぼうっ」としていた、アルセーヌの意識は……
 はっきり戻りつつある。
 改めて見回して、今、広大な草原に居る事を実感する。

 爽やかな大気だ。
 思いっきり吸い込みたい。
 重くすえた臭いの迷宮とはまるで違う。
 豊かでさわやかな草の香りに囲まれ、思わず気持ちが穏やかになる。
 
 でも、さっきから楽園って?
 一体ここは、どこの国なんだろう?

 少し戸惑いながら、アルセーヌは考える。
 でも、はっきりしている事がひとつある。
 
「良く分からないけれど、ここは凄く素敵な場所だ……」

「ええ、そうね」

「ああ、俺がこれまで人生を過ごして来た場所とは雲泥の差だ」

 アールセーヌは記憶を手繰る。

 王国から予算が出ない為、孤児院での暮らしはとても貧しく、食事も満足に与えられなかった。
 明日が全く見えなかった。
 
 院を出て、何とか冒険者になってからも、事態は好転しなかった。
 冒険者ギルドで適性検査をしたが、単に魔力が高いだけ。
 肝心の魔法が使えない。
 
 これまでろくに訓練もしていないから、まともに武器も扱えず、体力さえもない。
 魔力供与士という特殊な職業から人間ポーションと呼ばれ、単なる便利屋扱いにされた。
 「お前は他に何も出来ない」と一方的に罵られ、重い荷物を運ばされ……
 非道な主人が無茶使いする哀れなロバのように休みなしで働かされた。
 結局、そんな日々を送った上、クランを馘《クビ》になった……
 
 同じ事の繰り返しだった。
 短期間で様々なクランを転々とした。
 反論する事も出来ず『使い捨て』にされる虚しい日々だった。

 挙句の果てに、最後は裏切られ、深い迷宮の奥へ置き去りにされたのだ。

「アルセーヌ、前向きに考えて……貴方は今迄、雌伏(しふく)の時を過ごして来た」

「雌伏の時……」

「これから私と一緒に巻き返すの。悔い無きよう素敵な人生を送る為にね」

「巻き返す……悔いの無い素敵な人生を送る為に」

「ええ、だから頑張りましょう。せっかく生まれて来たんだもの。生きる事を簡単に諦めては駄目よ」

 生きる事を簡単に諦めては駄目……
 それはかつて幼いツェツィリアがあの『お父様』と呼ぶ魔法使いから言われた言葉であったのだ。