底なしの迷宮・見捨てられた冒険者は最深部で愛する君に出逢う

 ここは、とある王国の人里離れた深い深い森の中だ……
 どこの誰が見ても……不気味な森である。
 
 何故ならば……この森は普通の森とは違う。
 呪いでもかかっているように、生えている木がまともではないのだ。

 普通は陽を求め、まっすぐ空へ向かって伸びる筈の木々が……
 真横に、斜めに、一旦上がってから下がり、複雑に曲がりくねり、お互い絡み合っている。

 木についている葉も、まるで血のような色をしている。
 葉の形状にしても普通の森では全く見かけない珍しいものだ。
 
 そのように不気味な葉が大量に生い茂っていて、完全に太陽の光を遮断していた。
 それ故、地上までは滅多に日が射しこまない。
 昼間でも、森の中がやっと見通せるほどの明るさなのだ。

 通常、森といえば……
 人間にとって生きて行く為に不可欠な大気を供給する場所だ。
 そう、美味しく清涼な大気が満ち溢れる場所なのだ。
 
 しかし、この森は息をするだけでも苦しく、視覚的にも不気味な雰囲気しかない。
 滅多な事がなければ、こんな森へ、人は誰も立ち入らないだろう。
 
 だが……意外にも3人の男女が居た。
 ふたりは壮年の男女だが、ひとりはまだ年端もいかない少女である。

 しかし、3人の様子がおかしい。

「おい! もう行くぞ!」

 男が苛ついたように、女へ呼び掛けた。
 しかし女は、「嫌だ!」と駄々をこねるように、小さく首を振る。

「あ、ああっ……ツェツィリアぁ!」

 女は少女の母親のようだ。
 我が子らしい名前を、大声で叫びながら……
 男に、無理やり引きずられる。

 女の手を引っ張る男は……多分父親なのだろう。
 どうやら、ふたりは夫婦であり少女の両親らしい……

 父親は、再び嫌がる母親の手を強く引く。
 何故か、足早に立ち去ろうとするのだ。

 何と!
 幼い少女を置き去りにして。

 だが!
 立ち去ろうとするふたりへ、小さな影が追いすがった。
 ツェツィリアと呼ばれた、美しいシルバープラチナの髪を持つ少女である。

 こんな場所へ、たったひとり置いて行かれてはたまらない。
 ツェツィリアは幼いながらに、生命の危機を感じているに違いない。
 
 可愛い声を振り絞り、ツェツィリアは叫ぶ。
 あらんかぎりに。

「待ってぇ! パパぁぁぁ!!! ママぁぁぁ!!! 怖いよぉぉぉ!!!」

「ツ、ツェツィリア~~っ!!!」
 
 泣き叫び呼ぶ声に、これまた絶叫に近い声で応える母親。
 愛しい娘へ、切ない想いを籠めて……

「パパぁ、ママぁ、いい子になるよぉ、ツェツィリアはぁ、いい子になるからぁ! だからぁ、お願いぃ! 置いて行かないでぇ~っ!」

「あああ、ツェツィリア~~っ!!!」
 
 しかし!
 母親の声を、乱暴にさえぎるかのように、父親の怒声が響いた。
 憎しみと殺意を籠めて。

「こら! こっちへ来るんじゃないっ、この化け物めっ!」

「え? ば、化け……物……」

 ついて来る事を拒絶され、更に激しく罵られたツェツィリアは……
 ショックで身を硬くした。
 思わず立ち止まり、その場へ、「ぺたん」と力なく座り込んでしまう。

 座り込んだツェツィリアへ、容赦なく父親の罵声が降り注ぐ。

「そうだ! 化け物だ! お前なんか、俺達の子じゃない! ふざけやがってぇ!」

「…………」

「この森で、化け物同士、仲良く暮らせばいいんだよぉ!」

「あ、貴方っ! ひどいわっ! ツェツィリアは血が繋がった実の! じ、自分の娘なのにっ!」

「いや! ひどかねぇ! 違う!」

「ち、違う?」

「そうだ、違う! こいつは俺達の子じゃないぞ! 怖ろしい化け物なんだ! 産まれなかった、最初から居ない! そう思うんだよ!」

「あ、ああ……ううう……」

 母親は泣き崩れるが、父親は構わずまた手を「ぐいっ」と引く。
 そして父親が急ぐのは、理由があった。

「おい! ぐずぐずしてると日が暮れて、人喰いゴブリン共がわんさか出て来やがる、急ぐんだ」

「…………」

 遂に、運命は決した。
 親子の、非情な別離の時が来たのだ。

 3人の影は、ふた手に分かれた。
 ふたりとひとりに……
 
 荒々しく靴が草を踏みしめる音。
 強引に引きずられる靴の音、嗚咽する母親の声……
 
 一方……
 残されたツェツィリアは……まるで固まったように動かない……
 お互いの距離が……どんどん開いて行く。
 多分、永遠の別れとなるのだろう……

 ツェツィリアの居る場所から、少し離れた場所で、馬の嘶きと車輪の軋む音が聞こえ……
 やがて荷馬車が走り出す音がした。
 車輪の発する重い音は、森の中へ吸い込まれ、聞こえなくなった……

 こうして……
 僅か6歳の少女、ツェツィリアは……
 実の両親から、無残にも置き去りにされたのである。
 ツェツィリアの両親が去って数時間が過ぎ、太陽が西の水平線へ落ち始めると……
 ただでさえ薄暗い森は、どんどん闇の濃さを増して行く。

 ひとり残された、幼いツェツィリアは怯え……
 近くの大きな木へ、華奢な身体を寄せ震えていた。
 彼女は昼から何も食べていなかったが、恐怖のあまり、空腹を全く感じない。

 身体を固くしたツェツィリアの周囲では、夜行性の獣の唸り声が聞こえる。
 ……それもたくさん。
 厳しい食物連鎖で成り立つこの森では、小さく、か弱いツェツィリアなど、
『格好の餌』でしかない。

 まず最初に、ツェツィリアへ目を付けたのは……
 数十もの、獰猛な狼の群れである。

 狼は群れで行動するイヌ科の肉食獣だ。
 獲物を見つけると集団で攻撃し、容赦なく喰い殺す。
 狼共に囲まれたツェツィリアの命は風前の灯火と思われた。

 しかし!
 群れのリーダーらしい大きな牡が、警告を発するように短く吠えると、狼共は慌てて姿を消してしまう。

 狼達が遠くへ去るのを感じ、ツェツィリアは安堵して、大きく息を吐いた。
 だが彼女の勘は、新たな危機の到来を予感している。
 狼でさえ怯えさせる、恐るべき存在が……
 すぐ自分の下へやって来る事を。

「こ、怖い……怖いよう……」

 絶望ともいえる深い悲しみに心が満ち、ツェツィリアの美しい瞳からは涙がとめどもなく流れて来る……

 自分は……
 「実の親から、忌み嫌われ汚物のように捨てられたのだ……」
 という辛い思いが、ツェツィリアの心をえぐるように傷つけていた。
 そして迫り来る死への恐怖もある……

「あ!」

 ツェツィリアは何故か、普通の子供より夜目が利く。
 気配を感じて見やれば、先ほどまで狼の群れが居た場所に、無数の血走った目が浮かんでいた。

「ひ!」

 自分を見つめる相手を知り、ツェツィリアは悲鳴をあげた。
 父親が怖れた、人を喰らうゴブリン共に違いない。
 
 ツェツィリアはゴブリンを、今迄に見た事はない。
 だが、母親からは散々といっていいくらい聞かされている。
 
 小柄ながら性格は狂暴。
 (おびただ)しい数で獲物を襲い、あっという間に喰い尽くす怖ろしい人外……
 そう、ツェツィリアを取り囲んだのは……
 先ほどの狼さえも餌とする、数百ものゴブリン共なのである。

 ほんの間近まで来た死への恐怖を感じ……
 ツェツィリアは先ほどより、更に大きく息を吐いた。
 直感的に、自分の足では逃げられないと分かってしまう……
 諦めと絶望が、ツェツィリアの全身を支配して行く……

 私は……あいつらに殺され、食べられる。
 もう終わりだわ……
 だけど、もう構わない……
 
 ……生きていても仕方がない。
 実の親から、「化け物!」と罵られたこんな私なんか……

 ごぎゃあああああおおお~~っ!!!

 いきなり!
 ゴブリン共が一斉に咆哮した。

 目の前の獲物を襲え!
 そして喰らえ!
 という、合図と鬨の声なのだろう。

 来る!
 いよいよ奴らが来る!
 喰われる!
 
 でも……良い!
 この身よ、死んで世界からなくなってしまえ!

 更に身体を固くしたツェツィリアは、覚悟を決めた。
 目を閉じ、俯く。

 と、その時!

 ぱあああああっ!
 と、白光が真っすぐ、遮るように鋭く伸びた。
 丁度、ツェツィリアとゴブリン共の間に。

 ぎゃひいいいいいいっ!!!

 ゴブリン共が何かに驚き、絶叫した。

 そんなゴブリン同様、驚いたツェツィリアが目を開けて見やれば、
 
 何と!
 眩いばかりに輝く球体が出現していた。
 この不思議な球体から放たれる強烈な光により、夜も更けつつあった森が、まるで昼間のように明るくなった。

「へ?」

 信じられない光景に、呆然とするツェツィリアの心へ、若い男の声が響く。

『ふむ、あっさりしたものだ』

「え?」

 ツェツィリアは吃驚して左右を見回すが……
 誰も見当たらない。

『小娘、せっかくこの世へ生を受けたというのに……』

「だ、誰?」

『お前は簡単に投げ出すのだな……生きる事を』

 淡々とした男の声が、まるでツェツィリアへ、問いかけるように響いた。

「誰なの?」

 ツェツィリアは声を出して呼び掛けたが……
 誰からも、返事はなかった。

 その間も……
 ツェツィリアの目前に、突如出現した輝く謎の球体は……
 何度も収縮を繰り返し、照度もめまぐるしく変わっていた。
 
 片やゴブリン共は、ツェツィリアを襲うどころではなく、臆したようにあとずさりしている。

 バチン!

 いきなり!
 前触れなく、何かが大きく弾けたような音がした。

 ツェツィリアは思わず声をあげる。

「あ!」

 驚いた事に、眩く輝いていた球体が消え……
 代わりにひとりの男が、地面より10mくらいの高さに浮かんでいた。
 
 漆黒の法衣(ローブ)を着込み、同色の大きなマントをひるがえす長身痩躯の男がひとり……
 空中に、何の支えもなく浮かんでいるのだ。

「ふむ……死ね」

 パチン!

 謎の男はゴブリン共を見据え、小さく呟くと、鋭く指を鳴らした。

 ぶしゃう!
 ぶしゅっ!
 ずぶうっ!

 肉を貫く鈍い音がたてつづけに起こった。

 いきなり!
 ゴブリン共の足元から鋭利な氷柱が何本も突き出ていた。
 彼等の胴体から顔までをあっさりと貫き、串刺しにする。

 氷柱に高々と持ち上げられ、血しぶきをあげる仲間の無残な死体を見て、ゴブリン共は絶叫する。

 あうぎゃあ~~っ!!!

 絶叫をあげ、死にゆくゴブリン共を見て……
 ツェツィリアは呆然としていた……

 いかに獰猛なゴブリンでも……
 何の前振りもなく、無防備な状況で、いきなり氷柱に身体を刺し貫かれては避けようがない。

 次に男は、軽くひとさし指を振った。
 まるで有能な指揮者が、オーケストラの楽団へ華麗にタクトを振るように……

 すると今度は、「ごうおっ!」と同じく数体のゴブリンが紅蓮《ぐれん》の炎に包まれた。
 炎はとてつもない高温らしく、ゴブリンはあっという間に炭化し、物言わぬ消し炭となる。
 いうまでもなく、男が使ったのは火の攻撃魔法だ。

「むう……たかがゴブリン如きでは準備運動にもならぬ」

 ぎゃおあああああっ!!!

 仲間が次々に殺され、嘆き悲しむゴブリン共。
 断末魔のおぞましい叫びを聞き、眉をひそめた男が何かを呟くと……

 ばひゅっ!

 今度は鋭い突風が吹き荒ぶ。
 ゴブリン数頭が血をまき散らしながら、切り刻まれた。

 ぎゃっぴ~~っ!!!

 男が使った風の攻撃魔法により……
 同胞が瞬時に、原型を留めぬ肉塊と化したのを見て、ゴブリン共はまたも泣き叫んだ。

 元々、ゴブリンはあまり知能が高くない。
 本能に従って行動するだけだ。
 但し、彼等は恐怖の感情くらいは持ち合わせていた。
 
 謎の魔法使いが、自分達には到底敵わない、『とんでもない相手』である事を充分認識したようだ。

 ツェツィリアを喰い殺そうとしたゴブリン共は、情けない悲鳴をあげ、一斉に背を向けると……
 あっさり逃げ始めたのであった。
 しかし……
 謎めいた魔法使いの男は、逃げ出したゴブリンに対し、全く容赦しなかった。

「ふん!」

 ほんの少しだけ気合を入れて、男が声を発すると……
 ゴブリン共が逃げる、行く手の地面が勢いよくせりあがった。
 それも、ただせりあがっただけではない。
 強固な岩の壁となり、一気に3mくらいせり上がったのだ。
 
 しかも!
 岩の壁があるのは、ゴブリン共の逃げる方向だけではなかった。
 いつの間にか、彼等は取り囲まれていたのだ。

 何と!
 背後からも、同じような岩の壁が凄まじい速度で動き、ゴブリン共へ迫っている。
 こうなると、ゴブリン共の運命は決した。
 やがて、岩の壁同士がどんどん近付き……ぴったりと合わさった。
 
 ぶしゃああああっつ!!!
 ぎぃやぁぁぁぁぁ!!!
 
 岩と岩が凄まじい力で合わさった瞬間。
 断末魔の叫び声と、水気の多い野菜を大量に握り潰したような音がした。

 何と!
 謎の男が、最後に使ったのは……
 地の魔法だった。

 大混乱と底知れぬ恐怖の中で……
 逃げようとしたゴブリン共は、強固な岩の壁に挟まれ、無残にも圧死させられたのである。

「す、凄い……」

 自分を襲い、喰い殺そうとしたゴブリン共が、あっという間に全滅させられたのを見て……
 ツェツィリアは、呆然としていた。

 男が使ったのが……
 水・火・風そして地……
 全属性の魔法である事だけは、幼いツェツィリアにも分かった。
 
 何故ならば、以前に母から教えて貰ったから…… 
 自分をこのように「捨てた」から、ツェツィリアはもう彼女を母とは呼べなくなってしまったが……

 中級魔法使いであった『かつての母』は、ツェツィリアへ素養があると言って、簡単な魔法の手ほどきをしてくれたのだ。

 そんな母が、魔法発動の手本を見せる時は、決まって精神の集中、魔力の高揚、難解な言霊、そして長い詠唱が付きものであった。

 だが目の前の男は、そんな手順など全く踏まず、いとも簡単に魔法を使っていた。
 詠唱は勿論、魔力を高める予備動作さえもなしに……

 閑話休題。

 恐るべき謎の男は、空中に浮いたまま……
 暫し、ゴブリン共の無残な死骸を眺めていた。

「ふむ……」

 小さなため息をついた男は、パッと身を翻すと、呆然としたままのツェツィリアの前に降り立った。
 ゆっくりと腕組みをする。

「ひ!」

 ツェツィリアは思わず悲鳴をあげた。

 圧倒的な力を持つ、正体不明な魔法使いの男……
 ゴブリンに喰い殺される、絶体絶命の危機を助けてはくれたが……
 かといって、ツェツィリアの味方とは限らない。

 幼いツェツィリアには……
 目の前に立つ男に対し、「助けてくれた」という淡い期待と共に、本能的な不安及び恐怖が混在していた。

「あ!」

 しかし男を改めて見て、次にツェツィリアのあげた声は、驚きだった。
 何故ならば、謎の男はとても美しい顔立ちをしていたからだ。

 色白の肌。
 小さい顔。
 肩まで伸びた、さらさらの美しい金髪。
 「ぴしっ!」と鼻筋が通った端正な顔立ち。
 
 だが切れ長の目には感情が見えない。
 碧い瞳がツェツィリアを、まるで『もの』でも見るように捉えていた。

 男は淡々と言う。
 何の感情も込めずに。

「小娘……二度は助けぬ。もしも生きたいのなら……死ぬのが嫌ならば、お前自身が力をつける事だ」

「力?」

「幸い、お前には……そこそこの素質がある」

「そしつ?」

「ああ、魔法使いの素質だ……結構なものがな。更にお前が人の心を失くし、完全に覚醒すれば、特別な強者になれる」

「かくせい? とくべつ? きょうしゃ?」

「うむ……そもそも、お前が何故この森へ捨てられたのか……分かるか?」

「…………」

 ツェツィリアは……男の問いに答えなかった。
 否、両親の言動を見て、薄々感じてはいたが、答えたくなかったのだ。

 しかし男は、ツェツィリアが答えるまでもなく……
 容赦ない、非情な現実を告げて行く。

「小娘……人の子から生まれたお前は、人にあって、人に非ず……だから捨てられた」

「…………」

「お前は夢魔……魔力を喰らう恐るべき人外、夢魔モーラなのだから」

「え? う、うそ……」

 自分は人間ではない……
 夢魔……モーラ。
 父親が「化け物!」と叫んだ言葉がリフレインする……

 ツェツィリアは首を振った。
 そんな現実、認めたくない。
 夢よ、醒めろ!
 そう念じてしまう。

 しかし男はきっぱりと言い放つ。
 まるで、ツェツィリアの辛い心を見透かしたように……

「否定しても、忘れようとしても……全く無駄だ。……お前が夢魔なのは、嘘でも夢でもない、はっきりとした現実なのだ……」

「…………」

 無言のツェツィリアを見て、男は僅かに笑う。

「ふ! 小娘よ、もう覚悟を決めろ。素直に現実を受け入れるが良い……」

「…………」

「お前の両親は恐るべき人外である事が分かり、年端も行かないお前を投げ捨てた。水より濃い血の絆をあっさりと断ち切ったのだ」

「あう、あううううううう~~………あああ~~」

 ツェツィリアの慟哭が森に響く。
 彼女は途中から、男の言葉を聞いてはいなかった。

 幼いツェツィリアは、全く予想もしていなかった……
 自分に突如降りかかった、過酷な運命が悲しい……

 幸せに暮らしていた家へは……
 二度と戻れない事を知り、ただただ泣くしかなかったのである。
 両親によって、人里離れた不気味な森へ捨てられた6歳の少女ツェツィリアが……
 突如現れた謎めいた魔法使いの男に出会い、ゴブリンに喰われる絶体絶命の危機寸前から命を助けられ……
 約10年の歳月が流れた……

 幼いツェツィリアは、あれからどうなったのか……
 彼女の行方どころか、生死さえ知る者は居なかった…… 

 所、変わり……
 ここはヴァレンタインという王国である。
 巨大な外壁に囲まれた都は人口約2万人のセントヘレナ。
 夥しい数の冒険者に対応する斡旋所ギルドも存在していた。
 
 そのヴァレンタイン王国の王都近郊には、深い迷宮が存在した。
 地下全50層からなる古く巨大な迷宮であり、いつ頃からあるのか誰も知らない。
 50層というのも定かではなく、秘密の通路から更に下層に繋がっていると強硬に主張する冒険者もおり、通称『底なしの迷宮』と呼ばれていた。
 一説によると、2千年前に建国されたヴァレンタイン王国より遥かに古い迷宮とされていた。

 通常、地下迷宮は下層に行けば行くほど、強い高レベルの魔物が出現する。
 発見且つ獲得出来る財宝も、比例してレアで高価なものとなって行く。
 それ故、冒険者達は自己の鍛錬と財宝の獲得を狙い、最終的に迷宮の最深部を目指すのである。

 長い長い、年月が経つうちに……
 迷宮の上層部は、魔法の(ことわり)を使用した半永久的に持つ灯り――魔導灯が完備され、人が暮らせるよう整備されて行った。
 今や……冒険者向けの装備品や、携帯食料等を扱う商店もたくさん出来ている。
 
 だが、今見える場所には店どころか、人すら居ない。
 上層のように魔法による灯りが全くないので、何もない暗黒の世界、漆黒の闇である。
 誰かがすぐ隣に居て、鼻をきゅっとつままれても、分からないくらい何も見えない。

 空気も重い。
 そして酷く淀んでいた。
 すえたような臭いを発する大気が、べたつくように立ち込めている。
 
 そう、ここは迷宮の地下40階を遥かに超えた下層部なのだ。
 気を抜けば、命など簡単に失う危険に満ちた下層部では、魔導灯を設置する余裕はない。
 また……わざわざそのように、親切な事をする冒険者も居ない。

 下層部には……
 中級レベル以下の冒険者では、想像する事も出来ないくらい、凶悪な怪物共が出現した。
 また、巧妙に隠されたえげつない罠がいくつも仕掛けられ様々な危険にも満ちていた。
 それ故、日々、数えきれない冒険者が命を落としていたのだ。
 
 冒険者達が死ぬのは己のレベルを過信し、無謀な挑戦による原因が殆どであったが、中には全くの例外もあった。
 
 今、ここに居る彼も……そのひとりである。
 真っ暗闇の中、革鎧を纏った10代後半の少年が放心したように座り込んでいた。
 
 少年は、致命傷こそ負っていなかったが出血が酷かった。
 着ている革鎧は激しい戦いの末、魔物共に食いちぎられ、引き裂かれ、ぼろぼろになっている……

「はぁ……もう、打つ手はなし……かよ……」

 あまりにも古い為、所々ひび割れ、壊れかけた石壁に、少年は力なくもたれかかっていた。
 彼の口から呟かれたのは、もはや生存を諦めた絶望の声である。
 
 少年が嘆くのも……無理はなかった。
 『ぼろぼろ』になった彼の四方を、人肉を好む飢えた怖ろしい怪物共が取り囲んでいたのである。
 
 一分のすきもなく取り囲み、少年へ「じわじわ」と迫る、怪物の名はオーガ。
 体長はゆうに5mを超え、全身を剛毛と凄まじい筋肉の鎧に覆われている凶悪な魔物だ。
 人間の10倍以上の膂力を誇り、低レベルの冒険者など簡単に引きちぎられる。
 そしてオーガは人肉を喰らう。
 冒険者を頭から骨ごと喰らってしまう。

 そのオーガが、数十以上もの群れで、少年をびっしり取り囲んでいるのだ。
 
 戦って包囲を突破して行ける可能性は、全くない。
 無理に突破しようにも、少年の手元にはもうろくな武器もないのである。
 根元からまっぷたつに折れ、掴しか残っていない古い鉄剣しか。

「まさか、あいつら俺を騙した上、見捨てて行くとはなぁ……結局生まれてからずっと捨てられ人生かよ」

 ……少年は嘆いた。

 この少年冒険者は、魔力供与士という一風変わった職業である。
 文字通り、魔法使いや司祭など魔法使用者が魔力切れを起こした場合、己の魔力を分け与える役割なのだ。

 しかし少年に魔力は殆ど残っていない。
 既にクランメンバー達へ与えてしまっていたのである。

 それに、もし魔力があったとしても少年には戦う手立てがない。
 常人の3倍の魔力を自身の身体に有しているが、彼は肝心の魔法を行使する事が出来ない。
 
 また少年は武器もろくに使えない。
 いわゆる魔力供与以外は使えない奴、つまり『ポーション野郎』とあだ名されていたのである。

 深層部のフロアを探索中、とある部屋で、クランはオーガの大群に遭遇した。
 いわゆるモンスターハウスである。
 
 戦士や魔法使いが必死に血路を開こうとしたが、相手はオーガ。
 強靭な魔物で、その上数が多過ぎ、抵抗は無理であった。
 状況はあまりにも厳し過ぎたのだ。
 
 結果、所属クランのリーダーは契約の継続を条件に少年を盾とした。
 いくつかのクランを馘となり、転々としていた少年は渋々応じる。
 
 しかし少年は騙されていた。
 使い捨ての囮にされていたのだ。
 
 案の定、オーガの隙を見たクランメンバー全員が逃げ出し、少年はあっさり見捨てられた。
 たったひとり残された少年はフロアの片隅に追いつめられ、死を待つ寸前だったのである。

「くそ、こ、こうなったら、あいつらに生きたまま喰われるより……やけっぱちで戦って死んでやる……その後は俺の(しかばね)を好きにするが良いさ」

 少年がそう呟いた時。

 「ぶちゃっ」という肉が破砕される、派手な音がした。
 と同時に、

「ぎぃゃあああ~っ」
「ぴぎゃああああっ」
「あひゃああああっ」

 それまでじりじりと包囲の輪を狭めていたオーガ共の一角から、凄まじい悲鳴の声が響いたのであった。
「え? な、な、何だ?」

 冒険者の少年は吃驚した。
 彼の認識では、強靭なオーガがこのように情けない悲鳴をあげるなど、ありえない。
 絶対に、とんでもない強者が現れたのだ。
 奴等の敵であり、それも怖ろしい脅威となる相手が。
 
 耳を澄ませていると、オーガ共は次々と咆哮し、突然現れたらしい敵をどうにか追い払おうとして威嚇しようとしている。
 しかし彼等の咆哮からは怯えの感情が伝わって来る。
 少年は驚くと同時に、首を傾げた。

 そもそもこの迷宮で、オーガは最強の魔物のひとつに数えられていた。
 彼等を凌ぐ強さを誇るのは小型の(ドラゴン)か、もしくは正体不明の存在としか考えられない。
 小型とはいえ、まず身体が10m以上にもなる大きい竜は、現れた気配がなかった。
 今迄少年は、竜に遭遇した事はない。
 だが上級ランカーと呼ばれる下層を探索したベテラン冒険者から、話を聞いた事はある。
 竜が現れる時は、必ず迷宮の石畳を重く踏み鳴らす足音や、怖ろしい唸り声が聞こえる筈なのだ。
 
 もうひとつの正体不明の存在……
 誰も見た者は居ないらしいが……
 冒険者達の間では、怖ろしい悪魔だと噂されていた。
 悪魔と言っても、そこいらの下手な召喚術士が呼ぶ、何の力もない中小の雑魚悪魔ではない。
 とてつもなく強大な力を誇る、高位悪魔であると。

 元々悪魔とは……
 天に住まう創世神の使徒達が、地の底へ堕ちた存在だと言われていた。
 ……それが何のきまぐれか、ときたまこの迷宮に現れると言うのだ。

 目撃した冒険者達によれば悪魔はひとりではないらしい。
 様々な大きさ、異なる容姿を持つ悪魔達が跋扈しているようだ。
 中には美しい少女の悪魔が居たという。

 もしこの場に現れたのが、高位悪魔だとしたら……
 オーガの群れ同様、少年にとってはどちらにしても歓迎すべき状況にはならない。

 ひた……

 常人よりは聴覚の鋭い少年の耳には、闇の奥から一瞬だけ、微かな足音が聞こえた……
 
 う、うわぁ!?
 な、な、何かが、来る。
 もしや! 
 噂の悪魔とやらがやって……来るのか……
 
 少年が「ぎゅっ」と身を固くし、膝を抱えた瞬間。

 ぶっちゃうううっ!
「ぐぎゃあああああっ」

 いきなり肉が破砕される音が響き、同時に断末魔ともいえるオーガの凄まじい悲鳴が同時にあがる。
 
 少年の鼻の奥を「つん」と深く突きさす独特な甘い臭い。
 ……これは新たな血の臭いだ。

 現れたらしい敵に対して、オーガの群れが怯え、動揺する気配が伝わって来る。
 床を「どんどん」と不器用に踏み鳴らし、走り出す足音と振動……
 そして間を置かず、周囲の気配が散って行く……
 少年を取り囲んでいたオーガ共はあっさりと抗戦する事を諦め、一斉に逃げ出し始めたらしい。

「お、おい、一体!? な、何が? 起こって……いるんだ? ま、まさかっ」

 少年の、声が震える……
 とんでもなく嫌な予感がする。
 
 あれだけ居たオーガの群れがあっさりやられ、怯えて逃げ出すのだ。
 もし現れたのが噂の高位悪魔だとしたら……
 自分など絶対に助からない……

 少年は真っ暗な闇に向かい、必死に目を凝らし、耳を澄ました。
 現れた者の正体を、何とか見極めようとしたのだ。
 
 相手が万が一人間なら、自分は助かるかもしれない……
 という、一縷の望みをかけて……

 すると運が少年に味方したのであろうか?
 ……何と!
 いきなり人間の会話が、聞こえて来たのだ。
 まずは、落ち着いた良く通る渋い男の声……
 老人ではなく、結構若い男のようだ。

「ふうむ……やはり駄目か。クズのような、オーガ如き雑魚では、手応えが無さ過ぎる……」

 そして、すかさず続いたのは……
 若い女の声にしては少し低い、こちらは少女のようである。

「お父様……確かにオーガなんて雑魚です。だけどお父様の戦い方はそのまま私のお手本にはなりませんわ」

「何だ? 何が言いたい」

「いえ、お父様から見れば、全てが雑魚……この世界に生きとし生ける者、誰もが敵わないですもの」

 このような場に似合わないふたりの平和的な会話。
 少年は呆気に取られて、漆黒の闇を見つめている。

 ぽっ!

 いきなり闇の中に、魔法らしい青白い灯りが点った。
 灯りはあっという間に、迷宮全体へと広がって行く……
 明かりに照らされた人物は……
 やはり男女ふたりだ。
 どうやら少年の存在は認識されていたようである。

 ひとりは冒険者が見た事もない、独特且つ複雑な紋章が入った、闇に溶け込むような漆黒の法衣(ローブ)を纏った若い男。
 不思議な事に男は武器を持っていなかった。
 魔法使いが好んで使う、(スタッグ)さえ携帯していない。
  
 そしてもうひとりも、何も武器を持っていなかった。
 更に服装も変わっていた。  

 何と!
 こちらも同じく闇に溶け込むような漆黒の……
 冒険者が身を護る革鎧や法衣などではない。
 迷宮にはまるでそぐわない、独特なデザインのブリオーを着た10代と|思《おぼ)しき少女なのである。

 ふたりは、興味深そうに少年を見ている。

「ほう、やっぱり冒険者か。まだ若いな、一体どうした?」
「結構酷い怪我ね……うふ」

「あ、あああ……」
 
 現れたのが独特な雰囲気とはいえ、一応は人間……
 安堵感と不安が交錯し、言葉にならない声を発した冒険者の少年は腑抜けになったように男と少女を見る。
 
 対して……
 正体不明なふたりの男女は、呆然とする少年を面白そうに見つめていたのであった。
 突如闇の中から現れ、オーガの群れを蹴散らした法衣姿の男、そしてブリオー姿の少女。
 魔法らしき幻想的な灯りに浮かび上がる男女の顔はとても美しかった。
 
 まずは男。
 漆黒の法衣から覗く二の腕は女のように白い。
 長身痩躯。
 肩まで伸びた、さらさらの美しい金髪。
 「ぴしっ!」と鼻筋が通った彫りの深い端正な顔立ち。
 切れ長の目に妖しく碧眼が輝き、少年を「じっ」と見つめている。
 しかし男の美しい碧眼には何の感情も浮かんでおらず、まるで石ころでも見るような眼差しだ。

 一方、少女の体格は男と対照的にとても小柄である。
 シルバープラチナの髪をなびかせる少女は、超一流の職人が造った美しい人形のように端麗な顔立ちをしていた。
 だが、ぱっちりした目に浮かぶ瞳だけは、真紅のルビー色をしており、完全に人間離れしている。

 ブリオー服の少女は冒険者の少年を一見して、柔らかく微笑む。
 何とも不可思議な雰囲気の……
 そして嬉しそうな笑顔である。 

「あら? 貴方はもしや……驚いたわ……これは奇遇ね」

 小さく驚く少女の反応を見て、彼女から『お父様』と呼ばれた男は無表情でぽつりと言う。

「ふむ……お前はこの少年を知っているのか?」

「はい……この子の事は良く知っています。……私と同じ子なのです」

 少女が言うと、法衣の男は少年をじっと見つめる。

「ほう、お前と同じ子なのか? なるほど……それにしてもこの少年、興味深い瞳を持っている」

 無表情のまま……
 まるで歌うように、少女が発した言葉を繰り返す法衣の男。

 どうやら少女は、冒険者の少年をよく知っているらしい。
 しかし少年には、この少女に全く見覚えがない。

 そして……
 何故か、少年の身体が硬直して動かない。
 声も発する事が出来ない。
 
 まるで蛇に睨まれた蛙のように。
 ただ目を大きく見開き、「ぺたん」と迷宮の冷たい石の床に座っていた。

 片や、少女は何か、男へ頼み事をするようだ。

「……ねぇ、お父様」

「何だ?」

「この子、良い子よ。私が頂いて良いかしら」

「頂く? どういうつもりだ?」

「私ね、丁度、可愛い下僕が欲しいと思っていたの。魔力の相性も良さそうだし……この子ならぴったりだわ」

「ふ! 下僕か……良いだろう。お前の好きにするが良い」

「じゃあ楽園(エデン)にも連れて行って宜しいですか? お父様」

「好きにするが良い。但し私との約束は忘れるな」

「忘れません、お父様」

「結構! では私はそろそろ行く」

「はい! お父様」

 少女が戻した短い返事と共に……
 法衣の男『お父様』は煙のように消え失せた。
 どうやら転移の魔法を使ったらしい。

 と、同時に。
 少年の呪縛が解けた。
 何故か怪我の痛みも和らいでいる。
 何とか声も出るようだ。

 首を「ぶるぶる」ふった少年は、まず聞きたかった事がある。 

「き、き、君は誰だ?」

 大いに噛んだが、質問は出来た。
 対して、少女は悪戯っぽく笑う。

「私? そう言えば、まだ貴方へ名乗っていなかったわね」

「う、うう……」

 改めて見やれば、少女はやはり美しい。
 笑顔も凄く素敵だ。
 
 しかし……彼女には底知れぬ恐怖を感じる。
 冷酷さと非情さと、そして憎しみの感情が伝わって来るのだ。

「そんなに怖がらなくても良いわ。貴方を取って喰おうなんて思っていないから……」

「……き、君は一体?」

「私はツェツィリア」

「ツ、ツェツィリア? ど、どうして? お、お、俺はっ! やはり、君なんか知らないぞっ」

 そう、少年は謎めいたシルバープラチナ髪の少女・ツェツィリアを全く知らないのだ。
 しかし……
 ツェツィリアは「全て承知だ」と、再び謎めいた笑顔を少年へ向けて来る。

「うふふ」

「な、な、何故? 君は、お、俺の事を知っている!」

 全身の力を振り絞って……
 何とか尋ねる少年であったが、
 
 ツェツィリアはシルバープラチナの髪を「すっ」とかきあげ、淡々と、そしてあっさり答える。

「ええ、貴方は私を知らなくても、私は貴方を良~く知っているわ、随分前からね、アルセーヌ・ルブラン君」

「わう! な、名前まで!」

「だけど、その名前は仮初《かりそめ》の名。実の親がつけた貴方の本当の名前ではない」

「な!? そ、そ、そこまで知っているのかぁ!」

「ええ、雪がたくさん降った日、孤児院の門前に捨てられていた貴方を拾った司祭が勝手に且つ、適当に付けた名前だもの」

「あううう……な、何故!?」

「しかし適当につけられた仮初の名でも……今迄貴方が背負って来た大事なものよ。まあ、詳しいお話はゆっくりと別の場所でね」

「詳しい話? べ、別の場所?」

「ええ、もう怪我は治ったでしょ? それにこんな迷宮では落ち着いて話も出来ないもの」

「うう」

 不思議であった。
 ツェツィリアの言う通り……
 確かに痛みは消えていた。
 ホッとして軽く息を吐き、アルセーヌは改めて辺りを見回す。
 
 深く底が知れない迷宮……
 物音ひとつしない。
 ふたりの周囲にあるのは、静寂と無機質な石の壁だけなのである。

「ふふ、でもね、ここでのんびりなんかしていたら、さっきみたいなオーガがまた来るかもしれないわ」

 オーガが来る。
 確かに、ツェツィリアの言う通りかもしれなかった。

「ああ、そうだな」

「まあ、あんな奴ら、私にはどうって事ないけれど……今の貴方には困るでしょ?」

「え? 今の俺?」

「ええ、貴方はまだ覚醒はしていない。真の力を得ていないの、かつての私みたいにね」

「かつての私?」

「そう、でも私との出会いで貴方は絶対に変わるの。私には……確信があるわ」

「ツェツィリア。き、君には、確信があるのか? こんな俺は……魔法も武技も度胸も……何の取り柄のない底辺冒険者の俺なんかでも……変わる事が出来るのか?」

「ええ、貴方は変われる。私の助けがあれば、がらりとね」

「がらりと……」

「そうよ。貴方の秘めた才能が開花すれば、素晴らしい存在になれるわ。間違いない。そして今迄貴方をバカにして散々裏切った奴らを、逆に思いっきり踏みつける事が出来る」

「あ、ああ!」

 ツェツィリアが囁く励ましを聞くと、不思議な力が湧いて来る。
 強力な身体強化魔法の言霊《ことだま》をかけられたように。
 アルセーヌの身体には底知れぬ力が漲《みなぎ》って来るのだ。

 そんなアルセーヌに、ツェツィリアは再び囁く。

「アルセーヌ……私には貴方が必要よ」

「必要? 俺が!? こんな俺が?」

「駄目よ、己を卑下しないで、アルセーヌ。そして、貴方には私・ツェツィリアが絶対に必要なの」

「俺には君が? ツェツィリアが絶対に必要なのか?」

「ええ、自信を持って、アルセーヌ」
 
 熱く励ましたツェツィリアは、何と!
 アルセーヌを抱きしめる。
 優しく、そしてしっかりと。

「あ……」

 な、何て冷たい。
 体温を感じない。
 この子は……やはり人間じゃない。

「さあ! 貴方もツェツィリアをしっかり抱いて、アルセーヌ。もう二度と離さないって誓って」

「!?」
  
 更にアルセーヌの心臓にある、残り少ない魔力が奪われて行く……
 でもアルセーヌは気にも留めなかった。
 
 どうなっても良い。
 この子に抱かれながら、魔力がなくなって死んでも構わない。
 そう思った。
 
 アルセーヌは、甘えるツェツィリアに応え、彼女の小柄な身体をしっかりと抱き締めたのである。 

「ああ! 誓うよ! ツェツィリア! 何があったってもう君を離さないっ!」 

 薄暗い迷宮にアルセーヌの決意が満ちた、その瞬間。
 彼は更に不思議な感覚に捉われた。
 「ふわっ」と、身体が宙へ浮き上がるような感覚だ。

 「あああっ」

  思わず漏らした悲鳴と共にアルセーヌは意識を失っていたのである。
 どれくらい時間が過ぎたのだろうか……

 失った……アルセーヌの意識は……戻りつつある。
 彼の鼻腔へ、爽やかな草の香が、そっと入り込む。

 思わず気持ちが穏やかになり、目がゆっくりと開けられる。
 仰向けになり、横たわっていたアルセーヌの頭上には、真っ青で広大な空が広がっていた。

 空には、いくつもの千切れ雲が飛んでいる。
 ゆっくり動いて行く。
 大気は清々しく、風も心地良い。

 ここは、どこだろう?

 少し戸惑いながら、アルセーヌは起き上がった。
 周囲を見渡せば、彼はひとりだった。

 そして、今居るのは見渡す限り緑の大草原である。
 ところどころに森が点在していた。

 アルセーヌがすぐ目の前の森を見れば……
 木々には、鮮やかな果実が実っていて、土地がとても豊かである事を示している。

 遠くで、鳥が鳴く声がしていた。

 と、その時。
 背後で、いきなり彼を呼ぶ声がした。

「アルセーヌ」

 低くも甘いツェツィリアの声である。

「え?」

 慌ててアルセーヌが振り向くと……
 優しい笑顔を浮かべた、シルバープラチナの髪を持つ少女が、いつの間にか立っていた。

「ようこそ、私の世界へ」

「私の世界だって?」

 と、アルセーヌが聞けば、

「ええ、この地は……第3界であるオーラムイエツィラー」

「オーラムイエツィラー?」

「ええ、人間がエデンと呼ぶ楽園を模して、創った異界なの」

「エデン!? い、異界!」

「そう……私ツェツィリアが住まう世界よ……」

 答えたツェツィリアの瞳は……
 目の前のアルセーヌを見ていながら、何故か遠くをも見つめていた。
 呆然とするアルセーヌへ、ツェツィリアは悪戯っぽく笑う。

「うふふ、アルセーヌ。貴方、今自分の身に起こっている状況が、全く理解出来ないでしょう?」

「…………」

 アルセーヌからは、言葉が出て来ない。
 確かに頭が回らない。
 今迄持っていた、当たり前の常識という奴が、完全に破壊されているのだ。
 無理もない。
 
 起こった事実を改めて認識し、アルセーヌはやっと言葉を絞り出す事が出来た。

「あ、ああ……そうだ、こんな場所、今迄に見た事がない! う、生まれて初めてだよ」

「うふふ、でしょう? そして貴方の気持ちも……凄く強くなっているわよね?」

「そ、その通りさ! ツェツィリア! き、君を抱いてから……抱き合ってから! ……俺は何でも出来る! そんな気がするよ!」 

「そう……貴方は、大切な女の子を守れる立派な男の子よ。自信を持って!」

「ああ、で、でも! さ、さっき! 君が言った疑問を知りたいっ!」

「ふふ、知りたいの?」

「そうさっ! ツ、ツェツィリア! き、君は何故、俺を知っているんだ?」

「うふ、聞きたい?」

「聞きたいさ! 君みたいな可愛い子が! お、俺みたいな、さ、さ、さえない男と何故!」
 
 「抱き合ったのだ?」という言葉をアルセーヌは呑み込んだ。
 
 何故ならアルセーヌには分かっている。
 どんなに褒められても……信じられない。
 優れた才能も、綺麗な容姿も持ち合わせない、こんな自分には自信など全くないからだ。

 しかし!

「駄目!」

 ツェツィリアは、アルセーヌへ真剣な眼差しを向け、首を横に振った。

「え?」

「駄目よ、アルセーヌ。さっきも言ったじゃない? 貴方は素敵な男の子なの。自分をそんなに卑下してはいけないわ」

「俺が素敵?」

「ええ、貴方は生まれの逆境にけして負けず、明るく必死にやって来たわ。とても素敵よ」

 そう……
 実はアルセーヌには……暗く辛い過去がある。
 何故か、ツェツィリアは『全て』知っているようなのだ。

 アルセーヌは吃驚し、叫ぶ。

「ツェツィリア!」

「なあに?」

「お、俺の、な、名前の由来もそうだけど、君は俺の生い立ちを含め、全てを知っているのか?」

「うふふ、私は貴方をもっと知りたいわ」

「俺の事を知りたい? もっと?」

「ええ! 心ゆくまで、ふたりきりで、ゆっくり話しましょう。お互いを、もっともっと分かり合う為に……」

「え? お互いを?」

「ええ、私の事も貴方には良く知って貰いたいわ。その為に、この世界へ、私の住まう楽園(エデン)へ……アルセーヌ、貴方を……連れて来たのよ」

 何となく「ぼうっ」としていた、アルセーヌの意識は……
 はっきり戻りつつある。
 改めて見回して、今、広大な草原に居る事を実感する。

 爽やかな大気だ。
 思いっきり吸い込みたい。
 重くすえた臭いの迷宮とはまるで違う。
 豊かでさわやかな草の香りに囲まれ、思わず気持ちが穏やかになる。
 
 でも、さっきから楽園って?
 一体ここは、どこの国なんだろう?

 少し戸惑いながら、アルセーヌは考える。
 でも、はっきりしている事がひとつある。
 
「良く分からないけれど、ここは凄く素敵な場所だ……」

「ええ、そうね」

「ああ、俺がこれまで人生を過ごして来た場所とは雲泥の差だ」

 アールセーヌは記憶を手繰る。

 王国から予算が出ない為、孤児院での暮らしはとても貧しく、食事も満足に与えられなかった。
 明日が全く見えなかった。
 
 院を出て、何とか冒険者になってからも、事態は好転しなかった。
 冒険者ギルドで適性検査をしたが、単に魔力が高いだけ。
 肝心の魔法が使えない。
 
 これまでろくに訓練もしていないから、まともに武器も扱えず、体力さえもない。
 魔力供与士という特殊な職業から人間ポーションと呼ばれ、単なる便利屋扱いにされた。
 「お前は他に何も出来ない」と一方的に罵られ、重い荷物を運ばされ……
 非道な主人が無茶使いする哀れなロバのように休みなしで働かされた。
 結局、そんな日々を送った上、クランを馘《クビ》になった……
 
 同じ事の繰り返しだった。
 短期間で様々なクランを転々とした。
 反論する事も出来ず『使い捨て』にされる虚しい日々だった。

 挙句の果てに、最後は裏切られ、深い迷宮の奥へ置き去りにされたのだ。

「アルセーヌ、前向きに考えて……貴方は今迄、雌伏(しふく)の時を過ごして来た」

「雌伏の時……」

「これから私と一緒に巻き返すの。悔い無きよう素敵な人生を送る為にね」

「巻き返す……悔いの無い素敵な人生を送る為に」

「ええ、だから頑張りましょう。せっかく生まれて来たんだもの。生きる事を簡単に諦めては駄目よ」

 生きる事を簡単に諦めては駄目……
 それはかつて幼いツェツィリアがあの『お父様』と呼ぶ魔法使いから言われた言葉であったのだ。
 アルセーヌとツェツィリアは現世とは異なる世界、『エデン』に居る。
 広大な草原で……
 ふたりは何を話すのでもなく、暫くの間、並んで座っていた。

 アルセーヌは、自分でも不思議であった。

 謎めいた、美しい少女ツェツィリアの事を少しでも早く、そして詳しく知りたい。
 間違いなく、強い強い気持ちがあるというのに……
 反面、「焦る事はない」という余裕の気持ちも同時にあったのだ。

「え? あ!」

 突如!
 ふたりの目の前に、直径30㎝くらいの水晶球が出現していた。
 誰が何をどうやったのか、魔法使いのアルセーヌにも不明であった。

 そして見る限り、ただの水晶球ではなさそうだ。
 とんでもなく強い魔力が放たれていたし、表面は鮮やかな虹色に輝いている。

「こ、これは!」

 思わずアルセーヌが驚けば、ツェツィリアは微笑む。
 どうやら、ツェツィリアの仕業らしい。

「うふふ、これはね、魔導水晶……とても便利なのよ」

「魔導……水晶……」

「全世界の、過去現在未来を見通す素晴らしい魔道具……この世界でひとりぼっちの私が、寂しくならないよう……お父様がくださったの」

「お、お父様? さっきツェツィリアと一緒に迷宮に居たあの人?」

「ええ、そう。とても優しい、私の大好きなお父様よ」

「…………」

 ツェツィリアの父?
 あの謎めいた魔法使いか?
 転移魔法も使いこなす恐るべき魔法使いだ。

 彼女の父親にしては若すぎる気もしたが……
 また何故、父とふたりきりで危険な迷宮に居たのか?

 曖昧なツェツィリアの話は、今のアルセーヌには理解出来ない。
 と、その時。
 ツェツィリアがいきなり水晶球を指さした。

「ねぇ、見て」

 アルセーヌが固唾を呑んで見守っていると、ツェツィリアは指を「ピン!」と鳴らした。
 すると!
 水晶球に映る光景は、アルセーヌにとっては見覚えのある王都の風景である。
 そして、これまた彼が見慣れた石造りの建物が見えて来た……

「こ、ここは!」

「ええ、アルセーヌ。貴方が良く知っている場所ね」

「…………」

「あの建物は王都セントヘレナにある、創世神教会付属の孤児院……貴方が育った場所」

「…………」

 やはり……ツェツィリアは、アルセーヌの素性を知っている。
 ここは黙って……彼女の話を聞いた方が良さそうだ。
 
 アルセーヌが無言になったのを見て、ツェツィリアはそのまま話を続ける。

「私は見た……貴方は16年前、誰もが凍える雪の日に……この孤児院の門前に捨てられていた……可哀そうに……」

「…………」

「天涯孤独な捨て子の貴方は……当然親の顔を知らない。でも腐らず、めげずに、たったひとりぼっちで、ずっと頑張って来た……まともに職にもつけず、仕方なく冒険者となり、辛い思いをしながら、今迄生き抜いて来た」

「…………」

「……私はね、この異界から魔導水晶を使って、ずっと見ていたわ、アルセーヌの事を」

「ツェツィリア……」

「貴方の生き方が私を救ってくれたのよ、アルセーヌ……」

「な? 俺が!?」

「ええ……貴方はとても不器用。だけど、ひたすら誠実……」

「…………」

「そんな貴方が励みとなり……同じく両親に見捨てられ、自暴自棄になり、怖ろしい悪鬼へ堕ちるはずだった……ひとりの女の子が救われたの……」

「お、同じく? そ、それに怖ろしい悪鬼!?」

 アルセーヌは驚いて声を出した。
 まずツェツィリアが自分と同じ捨て子だという事に。
 そして『悪鬼へと堕ちる』……とは、一体どのような意味なのだろうと。

「ええ、私も貴方と同じよ……10年前に人里離れた不気味な森へ、たったひとり置き去りにされ、捨てられたのよ……」

「えええっ!? で、でもさっき、君はお父様って!」

 またも驚き、アルセーヌは思わず尋ねた。
 捨てられたのに……父が居る?

「…………」

 対して、無言で真っすぐにアルセーヌを見つめ返すツェツィリアの顔には……
 氷のように冷たい微笑みが、張り付いていたのである。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 両親に捨てられた筈なのに……
 何故?
 『お父様』と呼ぶ存在が居る?

 そんなアルセーヌの疑問には答えず、ツェツィリアはまた話し始めた。

「貴方には正直に言う。それで……私を嫌いになっても構わないわ」

「そ、そんな!」

「いいえ、アルセーヌ。もし私が貴方の立場なら……嫌いになるのもありえる。仕方がないから……」

「…………」

「私を生んだ両親は人間よ。幼い私をあっさり捨てた鬼畜以下の奴等だけど、確かに人間。それは間違いない……」

「…………」

「でも私は……人間ではないの」

「え?」

 ツェツィリアが……人間ではない!
 あまりの事に、アルセーヌは言葉が出て来ない……

 そんなアルセーヌを他所に、ツェツィリアは淡々と話している。

「普通の人間から……唐突に魔族が生まれる。貴方は聞いた事ある?」

「…………」

「その魔族が私……よ」

「…………」

「創世神様の悪戯というには、あまりにも過酷な運命……そんな運命の星の下に生まれたのが……私」

「ま、まさか!」

「そう……私ツェツィリアは人間ではない。人外の夢魔……夢魔モーラなの」

「えええっ!」

 夢魔モーラ。
 冒険者のアルセーヌも名前だけは知っていたが、幸いというか、まだ遭遇した事はなかった。

 モーラは『獲物』の心臓から、魔力もしくは血を吸うと言われる少女の姿をした怖ろしい人外である。
 凄まじい魔力を持ち、変幻自在で姿を自由に変えるとも言われていた。

 そして……
 ツェツィリアが言う通り、夢魔モーラは稀に人間からも生まれる事があるという……

 あまりにも衝撃の事実に……
 アルセーヌは呆然として、目の前のツェツィリアを見つめていたのであった。
 ツェツィリアは夢魔モーラ!?

 目の前の美しい少女が?
 人間にしか見えない可憐な少女が?
 到底、信じられない。  

 衝撃の事実を聞き、呆然とするアルセーヌを尻目に、ツェツィリアの『告白』は続いている。

 遠い目をしながら、ツェツィリアは話す。
 淡々と……

「母が……魔法使いの母は空腹を訴える私に……密かに魔力を与えていた。彼女は気付いていたの。私が魔族である事を」

「…………」

「その秘密が、ある日父親に知れた。父親は母を殴って罵《ののし》り、私をどこか遠く、もう戻れない場所へ捨てると決めた……」

「…………」

「人間ではない、私……人々から忌み嫌われる夢魔モーラであるが故に……」

「…………」

「実の両親から、人里離れた深い不気味な森へ捨てられた私は……飢えたゴブリン共の大群に囲まれ、あっさり餌になる……普通なら、すぐに死ぬ運命だった……」

「…………」

「ゴブリン共に生きながら喰われる……もうお(しま)い……すんでの所で、私を助けてくれたのが、お父様なの……」

「ね、ねぇ、ツェツィリア! さっきから君が言ってる、そ、そのお父様って誰なの?」

 アルセーヌは気になる。
 ツェツィリアの言う『お父様』の正体とは一体、誰?
 果たして何者なのか?

 どうやら……
 ツェツィリアは、『お父様』に対する質問には、まともに答えたくないらしい。
 それより、アルセーヌがとても気になる事を言い放った。

「……ええ、お父様が私を助けてくれたのは、ほんのきまぐれ。でも魂の契約に基づき、私を鍛え、いろいろなものを与えてくれたのよ……」

「な? た、魂の契約って? な、何!?」

 アルセーヌはそう言うと、周囲を見渡したが……
 ツェツィリアの言う『お父様』らしき者は見当たらなかった。
 もしもこの世界に居るのなら、あの男『お父様』へいろいろ問い質したい……
 そう思ったのだ。

 しかし改めて周囲を見回しても、自分とツェツィリアのたったふたりきり。
 他に人間は見当たらない。

 困って頭をかいたアルセーヌは、仕方なくもうひとつの疑問を、ツェツィリアへぶつけてみる事にした。

「ええっと……ツェツィリアが夢魔モーラって事は分かったけれど……何故俺なの?」

「うふふ」

「笑わないでくれよ。俺、真面目に聞いているんだから」

「あら、私は真面目よ。貴方をからかってなんかいないわ」

「だってさ。孤児院には他にも、親に捨てられた孤児が大勢居た筈だ……俺よりずっとカッコいい奴がいっぱい」

 アルセーヌは思う。
 確かに自分は孤児で不幸な境遇だ。
 まじめに生きて来たという自負もある。

 しかし……
 地味な自分以上に、美しいツェツィリアには相応しい相手が居るとも思う。
 アルセーヌは、またも己を卑下したのである。

 そんなアルセーヌをツェツィリアはたしなめる。
 悪戯っぽく笑って……

「うふふ、駄目よ、そんな事言っちゃ。私には、貴方を選んだはっきりとした理由があるわ」

「え? 俺を選んだ、はっきりとした理由」

 アルセーヌは……選ばれた。
 間違いなく、ツェツィリアに選ばれた。
 大事なパートナーとして。

 まだ半信半疑のアルセーヌへ、ツェツィリアは言う。

「さっきも言ったけれど、貴方は私を救ってくれた……くじけそうになる私の心を……いつもしっかり支えてくれたの……」

「…………」

「うふふ、じゃあ教えるね。理由は他にもあるの、それも3つもよ」

「3つも? 俺を選んだ理由が?」

「そうよ。さっきも言ったけど……まず貴方の生き方。誠実さ、つまり人柄よ。第2は貴方の力……」

「力?」

「うふふ、だって私は魔力を糧とする夢魔モーラ。いっぱい魔力を与えてくれる魔力供与士の貴方は、パートナーとしてぴったりじゃない?」

 ツェツィリアの言葉を聞き、アルセーヌは納得し頷く。
 誠実さはともかく、魔力を喰らう夢魔ならば……
 彼女の言う通り、確かに魔力供与士の自分は、ぴったりのパートナーだと。

「な、成る程。だったら最後の3つ目は?」

「最後の……第3の理由は……貴方の持つ魔力の質が……最高だから。私と相性ピッタリなのよ」

「質が? さ、最高? 俺と君は相性がぴったりなのか?」

「その通り! 論より証拠……思い出してみて……貴方と私が抱き合った時の事を……」

「あ、ああ……」

 アルセーヌは思い出した。
 迷宮でツェツィリアと抱き合った甘美なひと時を……
 まるで身体が、とろけたチーズのようだった。

 いつも仕事で、事務的に魔力を与えていた時とは大違いだ。
 魔力を出す瞬間に、思わず情けない声が出てしまったくらいである。
 そしてツェツィリアも、甘い魅惑的な声で応えてくれた。

 単なる魔力の交歓であそこまで感じるのだ。
 もし男として、ツェツィリアを抱いたら……
 一体どうなるのか?

 想像しただけで、怖くなる。
 否、期待に胸が打ち震えてしまう……

 そんなアルセーヌの心の中を読んだように、ツェツィリアがまたもや悪戯っぽく笑う。

「ねぇ……アルセーヌ。私が……欲しい?」

「あ、ああ……ほ、欲しい! 君を抱きたい!」

「うふふ、安心したわ。貴方、健康な男の子ね。でも……」

「…………」

「アルセーヌ」

「…………」

「貴方が……本当に私を愛してくれるのなら……夢魔の私は……変われるかもしれない……」

 ツェツィリアが謎めいた言葉を告げ、何故か口籠った、その時。

「少年!」

 凛とした男の声が、いきなりアルセーヌの背後から響く。
 声を聞いたツェツィリアが、にっこり笑う。

「あら? お父様」 

「へ? お父様?」

 ツェツィリアの声に反応し、アルセーヌも慌てて振り返った。

 何という事だろう。
 
 いつの間にか……
 迷宮でアルセーヌが出会ったあの謎めいた男、
 転移魔法で煙のように消えた魔法使いが居た!
 
 10年前のあの運命の日……
 恐怖に慄き、泣き叫ぶツェツィリアをゴブリンの大群から助けた魔法使いが……
 ふたりの傍に立っていたのである。