底なしの迷宮・見捨てられた冒険者は最深部で愛する君に出逢う

 アルセーヌは『魂の契約』の内容を知り、慌てた。
 絶対に、確かめなければならない。

「ル、ルイ様! そ、その契約が! 俺とツェツィリアがパートナーになっても取り消しにはならず有効だと、い、いや! ゆ、有効なのですか?」

「その通りだ……小僧。お前がもしツェツィリアのパートナーになっても、私とツェツィリアの契約は……解除されぬ」

「え? か、解除されない?」

「うむ! 先ほど私が言った通り……このまま時が経てば……ツェツィリアは人の心を失い、冷酷で無慈悲な夢魔と化すだろう。その時、魂の契約は完全に成立する……」

 ルイの突きつけた非情な現実……
 このままでは、ツェツィリアが人ではなくなり、完璧な夢魔モーラとなる。
 運命の出会いをしたアルセーヌの下を離れ、闇深き魔界へと堕ちてしまう……
 そうなれば、彼女とは永遠に会えなくなってしまう。

 絶句するアルセーヌ……

「そ、そんな!」

「そんなもこんなもない……紛れもない事実だ」

「じゃ、じゃあ! ど、どうすれば! ツェツィリアが夢魔にならずに済みますかっ! お、教えて下さいっ!」

 ツェツィリアを救いたい!
 方法を知りたい!

 ルイへ迫るアルセーヌは、徐々に考えが変わり始めていた。
 ……自分と会えなくなるなど、どうでも良い。
 そう思い始めていたのだ。

 両親が人間なのに……
 ツェツィリアは夢魔モーラになど生まれてしまった。
 
 更に、それが理由で……
 彼女を生んだ実の両親から森に捨てられるという、過酷な運命を背負った。
 悲運としか言いようがない不幸なツェツィリアを……
 少しでも幸福にしてあげたい!

 何故ならば、自分が……
 親にあっさり捨てられた、心の辛い痛みを知っているから……尚更なのだ。

 アルセーヌは、もう必死だった。
 ルイならば、『解決方法』を知っているに違いない。
 すがるしかない。

 だがルイは、冷たくアルセーヌを突き放した。

「小僧! 甘ったれるな!」

「う、ぐ……」

 ルイの声は、魔王の持つ威圧、つまり金縛りの効果でもあるのだろうか……
 アルセーヌは、またも全身が硬直したのだ。

 そんなアルセーヌへ、ルイは鼻を鳴らし、吐き捨てるように言う。

「愚か者めが。私は言った筈だ、お前達が往く道は果てしなく困難だと」

「ううう……」

「茨《いばら》の道へ進む事を、自ら選んだのだ」

「…………」

「どうすれば、ふたりが幸せになれるのか、他者になど頼らず、自分達で探してみせい」

「…………」

 高い崖から、容赦なく突き落とされたようなショックを受け、アルセーヌは無言で俯いてしまった。
 ふたりの往く道は茨の道……
 ツェツィリアが、「覚悟はしている!」と宣言する。

「お父様、成し遂げます! 必ず! ふたりで幸せになってみせます!」

 ここで……
 突如ルイが、「にやり」と笑う。
 アルセーヌへ、『最初の取引き』を持ちかけた時と同じ笑いだ。

「ふふ、小僧、お前がそこまで言うのならば、私と取引きをしようか? 先ほど以上にとても良い話だぞ……」

「と、取引き? 先ほどよりも!? と、とても良い話なんですか!」

 アルセーヌは、甘い蜜に引き寄せられる蝶のように「ふわふわ」と、たよりなく身を乗り出した。

「そう、素晴らしい取引きだ」

 話を聞いていたツェツィリアは、嫌な予感がした。
 もしかしたら……

「お父様! ま、まさか!」

「ふふ……実は、ツェツィリアをすぐ人間にする方法がある」

「え? ほ、本当ですか、ルイ様っ!!!」
「お、お父様!」

「私にしか発動出来ない……禁呪。すなわち禁断の古代魔法(ハイエンシェント)があるのだ……」

「ツェツィリアを人間にする禁呪、禁断の古代魔法(ハイエンシェント)……」

「アルセーヌ。お前の魂と引き換えに、その魔法を発動してやろう」

「お、俺の魂!?」

 夢魔のツェツィリアを、人間にする超絶魔法。
 ツェツィリア自身、想像はしていたが……
 父と慕うルイから聞いたのは、初めてであった。
 
 しかし魔法発動の代償は……
 想い人アルセーヌの魂なのである……

「お、お父様!」「……ル、ルイ……さ、様!」

 ツェツィリアとアルセーヌの声が、同時に重なった。
 しかしルイは、相変わらずツェツィリアを無視している。

「何だ、小僧」

「ほ、本当なんですか! 俺の魂を貴方へ渡せば、ツェツィリアがすぐ人間になれる……のですかっ!」

 ルイに尋ねる、アルセーヌは……本気だ。
 
 これは……とてもまずい展開である。
 アルセーヌは……ルイに、もう魂を(とら)われ始めているのだ……

「だ、駄目! ア、アルセーヌっ!!!」

 ツェツィリアは、アルセーヌを止めようと大声で叫んだ。
 しかし、アルセーヌとルイの話は……
 彼女の制止も関係なく、どんどん進んで行く。

「……ああ、約束しよう。但し、アルセーヌ……お前とも、ツェツィリア同様、魂の契約を結ぶ事となる」

 ルイが約束をした瞬間、アルセーヌは躊躇(ちゅうちょ)なく言い放つ。

「な、ならばぁっ! 俺の魂をすぐ貴方へ渡すっ!」

「え? アルセーヌ!」

 驚いたのは、ツェツィリアである。
 まさか!
 心が通い合ったとはいえ、アルセーヌが自分の為に何の迷いもなく命を投げ出すとは……

 しかしアルセーヌは叫び続ける。
 早く、早くと! 

「ルイ様! すぐだ、すぐに魂を渡す! だからツェツィリアもすぐ人間にしてやってくれっ! そして解放してやってくれっ!」

 遂に!
 アルセーヌは、魂の契約を了解したのである。

「ア、アルセーヌゥゥゥ!!!」

 思わず、ツェツィリアは絶叫した。
 暴走するアルセーヌを止めないと!

 しかし、アルセーヌは言う。

「俺は……さっきまで死にたいと思っていた人間だ。魂なんて惜しくない」

 ルイも、獲物を完全に捕らえた喜びからなのか、にやりと笑う。

「ほう、アルセーヌ。さっきからお前はそう言っていたが……やはり死にたかったのか? ならば自分の魂など投げ捨てても構わないな?」

「ああ! こんな俺の魂で、彼女が……ツェツィリアが人間になり、幸せにもなれるのなら! 存分にやってくれっ!」

 覚悟を決めたアルセーヌが、ルイと魂の契約を取り交わそうとした、その瞬間!

 びしぃんっ!

 アルセーヌの頬が大きく鳴った。
 力を込め、ツェツィリアが平手で張ったのである。

「え?」

 打たれた、アルセーヌの頬がみるみる赤くなって行く……
 呆然と、頬を手で押さえるアルセーヌへ、

「馬鹿っ! アルセーヌの大馬鹿っ!」

「ツ、ツェツィリア……」

「馬鹿な事をしないで! 思い直して!! 魂を投げ捨てるなんて! そ、そんな事をして! あ、貴方が! 深き闇へ堕ちたら……」

「…………」

「もしも人間になれたって! 私は絶対、幸せにはなれないわっ! 駄目! 絶対に駄目よ! 駄目だからぁ!!」

 叱責するツェツィリアの言葉が……
 アルセーヌの魂へしみて行く……
 愛する想い人の、温かい、思い遣る言葉がしみて行く……

「で、でも! あ、ありがとう……」  

「…………」

「あ、ありがとうっ! 本当にありがとうっ!! アルセーヌっ! 大好き、貴方が大好きよっ! わあああああああんん!!!」

 ツェツィリアは、呆然と立ち尽くすアルセーヌへ飛びつくと……
 まるで子供のように、思いっきり号泣していたのであった。
 ツェツィリアの住まう異界(エデン)において……
 アルセーヌは結局、ルイの提示した『魂の契約』を断った。
 正確には……
 アルセーヌとルウの会話へ、ツェツィリアが強引に割り込む形で止めたのである。

 不思議な事に……
 一旦アルセーヌが了解した魂の契約締結を、勝手に断られた形のルイであったが、怒るどころか何の感情も見せなかった。

 ただひと言。

「全ては、お前達ふたりが選択する事だ」

 淡々と言い放ち、転移魔法を使い、その場から姿を煙のように消したのである。
 
 果たして、ルイの真意とはどこにあるのか?
 完全な夢魔モーラと化したツェツィリアを、自分に仕える忠実な『片腕』として……
 本当に魔界へ引き込みたいのか?
 アルセーヌには……全く分からなかった。

 更に……
 ルイがいきなり消えた事も、アルセーヌにはとても気になった。
 だが、ツェツィリアは全く意に介していない。

 微笑みを浮かべ、静かに、囁くようにアルセーヌへ告げたのである。

「大丈夫よ、アルセーヌ。お父様はいつもそうなの」

「え? いつも?」

「うん、いつもあんな感じ……用事が済んだら、さっさと行っちゃうの……」

「…………」

 ルイの意図を知りたいと、悩み黙り込むアルセーヌに対し、ツェツィリアは、突如『おねだり』をする。

「それより……私、貴方の家に行きたい」

「え? お、俺の家?」

「ええ、アルセーヌの家よ。今夜は貴方の家に泊まりたい」

「お、お、お、俺の家に!? と、と、泊まるぅ!? だ、だって!」

 若い女子が……
 自分の家に泊まる!?
 今迄アルセーヌが経験した事のない未知の世界だ。

 どぎまぎするアルセーヌを見て、ツェツィリアは悪戯っぽく笑う。

「うふふ、私……魔導水晶で見たわ。王都の女の子が『お持ち帰り』されちゃうの」

「おおお、お持ち帰りぃぃ!!!」

 女子をお持ち帰りする……
 その意味は……女子に全く縁のないアルセーヌだって知っている。

「お、お、お、俺はやってない。やってないからな、そ、そんな事ぉ!」
 
 動揺するアルセーヌへ、憂い気な表情のツェツィリアが迫って来る。
 小さく端麗な顔を寄せて来る。

 そして、囁く。
 咲き誇る花のように濃厚な甘い息が「ふっ」と、アルセーヌの鼻にかかる……

「ねぇ……嫌?」

「い、い、い、嫌じゃない……い、良いよ」

「ホント? ファイナルアンサー?」

「あ、ああ! と、泊まって良いよ」

「じゃあ決定ね! うふふふ」

 どぎまぎしながら、アルセーヌがOKすると……
 ツェツィリアの表情が一転。
 官能的な香りを発する大人の女が、無邪気に……
 まるで童女のような無邪気な笑顔となった。

 というわけで……
 気が付けば、不思議な事に……

 アルセーヌは王都の自宅へと戻っていたのである。
 夢魔のツェツィリアと……可愛い女子と共に。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 狭い……
 ぎゅうぎゅうだ。
 
 普段は、アルセーヌひとりきりで寝ている小さく粗末なベッド。
 しかし今は……
 ツェツィリアとふたり、一緒に寝ているのだ。

 ふと見れば、たったひとつある窓から見えた外は真っ暗だった。
 魔導時計の短針は、午前1時を指していた。
 
 果たして異界(エデン)でどれくらいの時間を過ごしたのか……
 アルセーヌの居る世界――現世はもう真夜中なのである……

 今ふたりが居るアルセーヌの部屋は、四方を薄汚れた壁に囲まれた小さな空間である……
 ベッドが置かれ、様々な生活用品、魔導書が雑多に置かれた部屋。
 空気も重く澱んでいて、あの広々として、清涼な空気に満ちた異界(エデン)とは大違いだ。

 アルセーヌは……
 自宅に戻った時の、ツェツィリアの仕草、発した言葉を思い出す……

 狭く汚い部屋なのに……
 ツェツィリアは、大きく目を見開き、「わぁ」と小さく声を出した。
 凄く嬉しそうに笑っていた。

「うふふふっ、これが男の子の部屋……アルセーヌの部屋なのね」

「あ、ああ、そうだ」

「ふうん……単に見るだけと……実際に来るのとでは大違いね」

「え? 見てたの?」

「うん……ごめんね……私、寂しくなると……魔導水晶で、いつもアルセーヌを見ていたの……」

 寂しい時には……
 いつもアルセーヌを見ていた……

 ハッとしたアルセーヌが、ツェツィリアを見れば、彼女はとても切ない眼差しを送って来る。

「ねぇ……今夜は私をきゅっと抱っこして寝て……」

「えええっ!? きゅっと? だ、だ、抱っこ?」

「うん……私、いつもひとりぼっちで寝ていたから……さみしいの」

「…………」

「あの日……森へ置き去りにされた時から……ずっと」

「…………」

「ごめんね……我が儘言って……貴方なんか、ずっとひとりぼっちで眠っていたのに……」

 ずっとひとりぼっち……
 確かに、アルセーヌも、親に見放された、捨てられた日から……
 生まれた日から、たったひとりで眠って来た……

 でも……
 今はひとりぼっちじゃない。
 愛するツェツィリアが、(そば)に居るのだ。

「…………良いさ、ツェツィリア、一緒に寝よう」

「あ、ありがとう」

 ツェツィリアは掠《かす》れた声で礼を言うと、アルセーヌへ「ひし!」と抱きついた。
 そしてふたりは、ベッドへ入ったのである……

 ……アルセーヌも健康な男子である。
 年頃の男子と女子が一緒に寝る。
 となれば、どうなるか期待が高まった。
 妄想が働き出す。

 加えて、ツェツィリアの恰好が、アルセーヌの本能を刺激した。
 会った時とは違う独特な黒いブリオーを、いつの間にか脱ぎ捨てたツェツィリアは……
 薄い生地の、身体が透けて見える、これまた独特の肌着を着ていたからだ。

 陶器のように真っ白な肌は勿論の事……
 細い首すじ、やや膨らんだ可愛い胸、流れるような丸い腰、小さなお尻……
 初めて会い、抱き合った時同様、彼女の髪と身体から甘い香りもする……

 しかし、アルセーヌの期待に反して……
 残念ながら、艶めかしい男女の行為は一切なかった。

 ひとしきりアルセーヌに甘えたツェツィリアは、疲れていたのか、すぐ眠ってしまったから……

 最初は興奮しきりだったアルセーヌも……
 落ち着いて来ると、ツェツィリアをしっかり抱きながら余裕をもって彼女を見る事が出来た。
 自分の胸の中で、軽い寝息を立て眠るツェツィリアは、安心しきった表情をしていた。

 アルセーヌは改めて思う……

 ツェツィリアは、いつも戦っている……
 自分が、いつか人間ではなくなる不安、恐怖と……

 見守るアルセーヌの心に、強い感情が起こって来る。
 固い、決意の気持ちが。

 この子は俺の宝物なんだ!
 世界で一番大事な!
 絶対に! 
 絶対に守ってやる!
 こんな俺の、命に代えても……
 必ず幸せにしてやるんだ!

 いつしか……
 アルセーヌも寝息を立て眠りに落ちた。
 ふたりが初めて過ごす王都の夜は、静かに静かにふけて行った……
 いつの間に、眠ってしまったのだろう……
 小さな窓から差し込む朝陽の眩しい光を感じて、アルセーヌは目を覚ました。

 と、同時に。
 低い声だが元気の良い、挨拶の言葉が掛けられる。

「おはよう! アルセーヌ」

「あ、ああ! お、おはよう! ツェツィリア」

 アルセーヌが慌てて身体を起こすと……
 ツェツィリアは既に起きていた。
 素裸に近い、肌着姿の彼女を見て、アルセーヌはつい目を背《そむ》けてしまう。
 
 ツェツィリアが眠っている時、見守るのは平気だったが、いざ相手が起きていると、まともに正視出来ないのだ。
 
 しかしツェツィリアは……
 アルセーヌが顔を背け、自分を真っすぐに見てくれない事が、大いに不満のようである。

「駄目、アルセーヌ! 目をそらさないで! 私をしっかり見て!」

「だ、だって……」

 われながら、自分でも情けないと思う……
 女子に不慣れなアルセーヌには、ツェツィリアとのやりとり全てが初体験。
 初めての連続なのである。

 そんなアルセーヌへ、ツェツィリアはきっぱりと言い放つ。

「構わない! 貴方になら……アルセーヌだけには……全てを見られても、私、全然恥ずかしくなんかない!」

「う、うん……」 

 叱咤激励されて……
 やっとアルセーヌは、ツェツィリアを正面から見た。
 
 相変わらずツェツィリアの身体は美しい……

 煌《きら》めくシルバープラチナの髪。 
 抜けるような白い肌……
 やや幼さが残るが、綺麗な曲線で作られたまろやかな身体……
 ピンク色の美しい瞳が、濡れたように光って、アルセーヌを「じっ」と見つめていた。

 愛しい『想い人』を見て、アルセーヌは安堵する。
 ツェツィリアは……確かに、自分の目の前に居る。
 彼女は幻の存在ではなかったのだ……
 昨日の『出会い』は、けして夢ではなかったと。

 「ほう」と、軽くため息を吐いたアルセーヌへ、ツェツィリアは甘えておねだりする。
 身体を「ぴたり」と寄せて来る……

「うふふ、……ねぇ、アルセーヌ。またぎゅって抱っこして」

「分かった」

「迷宮でしたみたいに……私に、美味しい魔力を頂戴《ちょうだい》」

「ああ、良いぞ」

 アルセーヌはもう遠慮しない。
 夢魔ツェツィリアの食事は『魔力』
 そう、彼女から聞いていたから。
 
 そもそも魔力供与は冒険者として慣れた仕事だ。
 しっかりツェツィリアと抱き合い、言霊を唱え、魔力を放出する。

 雑多なものが置かれた、アルセーヌの狭い部屋で……
 ツェツィリアへ魔力が流れ込む瞬間、抱き合うふたりの身体が眩く光る……

 同じだ!
 と、アルセーヌは思う。

 昨日の迷宮で抱き合った時の感覚も、ツェツィリアの存在同様、錯覚ではなかった。
 まるで自分の身体が、「とろとろ」に溶けてしまうような陶酔感……
 そして何故なのか気持ちに張りが出て、凄く前向きにもなって来る。

 更にアルセーヌは……全く違う、新たな感覚も得ていた。
 今迄はクランの一員として、仕事として……
 金品などと引き換えに渡していた自分の魔力が……
 運命ともいえる出会いを経て、渡すべき相手にプレゼント出来る。
 
 世界で一番大切な宝物である『想い人』へ……
 心を籠めて、惜しみなく奉げるという満足感に溢れていたのだ。

 アルセーヌの魔力を受け入れ、感極まったらしいツェツィリアが満足そうに鼻を鳴らし、更に甘える。
 官能的な声で囁いて来る……

 何かが起こる。
 特別なイベントの予感がする……

「ああ! 気持ち良いわ、アルセーヌ……唇へキスして……」

「え?」

「キスして」

「…………」

「実は私、生まれて初めてのキスなの……」

「ええっ?」

 予感は的中!
 何と、ツェツィリアはキスを求めて来たのである。
 それも男子には嬉しい事に、彼女のファーストキスだと言う……

「貴方の唇で、優しく私の唇に触れてみて……そっとよ」

「わ、分かった」

 ふたりは見つめ合い、そっと唇を合わせていたのである。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 ツェツィリアと甘いキスを交わし…… 

 アルセーヌは感激し「ぼうっ」としていた。
 唇から喜びが全身に伝わり、ふわふわする。
 ツェツィリアだけではなかった。
 実は彼にとっても生まれて初めての……
 ファーストキスなのである。

 もてる奴から話にはいろいろ聞いていたけど……
 やっぱり女の子の唇って……
 凄く甘いんだ……

 『素敵な思い出』を貰って大感動しているアルセーヌへ、

「アルセーヌ……昨日、私が言った事、覚えてる?」

 と、ツェツィリアが悪戯っぽく微笑んで、尋ねて来た。

「ええっと……」

 昨日は、ツェツィリアと話をした。
 いっぱい、いっぱい。
 数え切れないくらい……
 身の上話から始まってず~っと……

 ツェツィリアは、自身のいろいろな事を教えてくれた。
 だから、返す答えはあり過ぎるくらいたくさんあるが……
 『今の状況』を考えると、アルセーヌに求められた正解は分かる。

「俺とツェツィリアは、魔力の相性がぴったり、いや最高だって事?」

「うふふ、当たり! 嬉しいっ!」

「ああ、良かった」

 アルセーヌはにっこり笑う。
 ツェツィリアの期待に対し、見事に応えられ、彼も素直に嬉しい。

「私ね、貴方と抱き合ってとても良く分かったの。凄い偶然だったけれど……」

「偶然? 何が偶然なんだい、ツェツィリア」

「私がアルセーヌの魔力を、最高のご馳走にするのと同様に、貴方の身体も私の魔力を欲しているわ」

「ツェツィリアの魔力を? 俺の身体が欲している? そ、そうなんだ……」

「ええ、……私には分かるの」

「そ、そうか」

「うん! 私が貴方の魔力を貰う時、私の魔力も貴方へ流れ込むのよ……その時、貴方の眠れる素質が目覚め、隠された力が発動する」

「俺の眠れる素質? 隠された力?」

 アルセーヌには、隠された力があるという……
 しかし彼には、すぐにピンと来ない。
 散々、使えない、能無しと罵られて来たからだ。

「ええ、自信を持って。貴方には素晴らしい力が隠されているのよ。そして、アルセーヌ。貴方はどんどん成長し、誰にも負けないくらいに強くなって行くわ」

 考え込むアルセーヌの脇腹を、ツェツィリアはもどかしそうに「つんつん」と突いたのであった。
 アルセーヌの部屋で起床してから1時間後……
 ツェツィリアとアルセーヌは朝食を摂る為、王都中央広場付近のカフェに居た。
 パンと紅茶だけという質素でシンプルな食事を済ますと立ち上がる。

 食事に行こうよ! 
 朝ごはんを食べに!
 部屋でそう誘われた時、アルセーヌは「え?」と首を傾げた。
 ツェツィリアは魔力を糧《かて》とする夢魔の筈。
 彼女に普通の食事が摂れるのだろうかと。

 しかしツェツィリアいわく
 心配は全く無用だと言う。
 アルセーヌと普通の女子みたいに、仲良く食事をしたいと甘えるのだ。

 冗談っぽく、「美味しいケーキは魔力とは別腹なの!」と言われた時には、つい笑ってしまった……
 
 改めて彼女に聞けば……
 夢魔として必要な魔力さえ補給していれば、食事は不要なのだが……
 人間として、ちゃんと食事も出来ると言い張った。
 焼き立ての香ばしいパンも美味しく食べられるし、熟成した香りの良い紅茶も楽しめると。
 そう言われて、アルセーヌは安堵すると同時に、とても嬉しかったのである。

 閑話休題。

 今日、これから何をするのか……
 だが、これからの予定はツェツィリアが既に考えているらしい。
 彼女は小さく頷くと、アルセーヌへ出発を促す。

「さあ、アルセーヌ、そろそろ出かけましょう」

「出かける? どこへだい? ツェツィリア」

 一瞬。
 アルセーヌの胸がどきどきする。
 期待にとても高鳴る。
 このまま素敵な王都デートなのかと。
 
 アルセーヌの頭の中を妄想が目一杯支配する。
 しっかり手をつないで可愛いツェツィリアと、ふたり仲睦まじく街を歩く。
 誰もがふたりを振り向くだろう。
 
 だが、アルセーヌは容易に想像出来る。
 不似合いだ!
 という罵声が心の中で響き渡る。

 「男の方がくそダサくてあの子には全く釣り合わない!」
 と、酷い悪口も方々から聞こえて来た。
 確信出来る。
 リア充として、俺だけが叩かれるに決まっていると。
 
 でも、アルセーヌは胸を張れる。
 雑音など撥ね返せる。
 この子は俺のかけがえのない大事な『彼女』だと主張出来るのだ。
 侮蔑の眼差しをいくら投げかけられても、こちらも堂々と睨み返すと。

 見果てぬ夢に大いに期待したアルセーヌであったが、現実はとても非情だ。
 真面目な表情をしたツェツィリアの淡々とした答えが、アルセーヌの持つ、はかない『夢』を呆気なく打ち砕く。

「迷宮よ」

「め、迷宮?」

 何それ?
 と、アルセーヌは思った。
 デートの話ではないのかと。
 
 アルセーヌは、王都で若い男女がデートする場所だけは知っている。
 だが、女性に無縁なアルセーヌは実際にデートなどした事はないが。
 その知識は役に立つ事はない。
 完全に「がっくり」したアルセーヌへ、 

「ええ、アルセーヌ。今の貴方にはトレーニング、そしてトライアルが必要なの」

 相変わらず真面目な顔付きで告げるツェツィリアを見て、アルセーヌの表情が改めて引き締まる。
 俺は一体、何を浮かれていたのかと深く深く反省する。
 
 更に……
 アルセーヌはルイの発した厳しい言葉を思い出した。
 今後ふたりが歩むのは『茨《いばら》の道』なのだと。

 ツェツィリアを愛し慈しみ、けして夢魔にせず、最後まで守り抜く為には非常に困難な道が待っていると……
 そのような意味だろう。

 いずれ普通の人間になりたいというツェツィリアの悲願を叶える為にも、アルセーヌはもっともっと強くなる必要があるのだから。

 しかし、アルセーヌの冒険者ランクは、底辺から数えて2番目のE。
 現状では「強い」という表現には程遠い。

 さてさて……
 ツェツィリアの言うトレーニングとは訓練である事は予想出来る。
 だけど具体的に何をするのか?
 
 一体どこで自分は訓練を受け、鍛えられるのか?
 またトライアルとは本当の実戦に備える為の戦いだと考えてはいるが……

 つらつら考えたアルセーヌは、浮かんだ疑問の数々をツェツィリアへ尋ねてみる。

「ツェツィリア、俺のトレーニングって訓練だよな? それにトライアルって実戦に備えるって事か? 確かにこのままじゃ駄目駄目だよな」
 
「駄目駄目は言い過ぎでしょ? あくまで現状ではって事よ。アルセーヌの眠れる才能がちゃんと目覚めれば確実に強くなるわ。私が保証する」

「才能が目覚めれば、か……そう言われると不思議に力が湧いて来る。君を信じるよ、ツェツィリア」

「うふふ、そうよ、貴方を信じてる。だから私を信じてね。絶対よ、アルセーヌ」

 明るくウインクする、ツェツィリア。
 アルセーヌはふと彼女の辛い生い立ちを思い出した。
 両親に捨てられても、大きな不安を抱えていても……
 希望をけして捨てず、強く生きようとする。
 健気で愛おしいと感じる。
 と、同時に先ほどのつまらない『妄想』を思い出し、自分の甘さ、情けなさを痛感する。

 ごめんよ、ツェツィリア。
 俺は……
 自分の事しか考えない駄目な男だ。
 だけど……
 君を大事にし、愛する気持ちは誰にも負けない!

「ああ、ツェツィリア。俺は君を信じる! 絶対に信じるよ」

 アルセーヌの心には改めて、強く熱い誓いと決意が湧き上がる。
 その思いを裏付けるように、「ツェツィリアを信じる!」彼は堂々と言い放ったのである。
「俺は冒険者としては、全てにおいて未熟者だから」

 そう自分を卑下しながらも、アルセーヌは少しだけ余裕が出て来た。
 ツェツィリアを守り幸せにしようと決意したら、平気になった。
 死への恐怖もほぼ薄れた。
 生と死の狭間にある迷宮へ行く覚悟も決めた。

 そんなアルセーヌを、ツェツィリアは頼もしそうに見つめる。 

「頑張れば絶対に大丈夫よ、アルセーヌは」

「いろいろと、びっしり鍛えなくちゃならないのは自覚している。でも訓練の為のベストチョイスが迷宮なのかい?」

 アルセーヌが思い起こせば……
 子供の頃から魔法や武技に慣れ親しんだ他の冒険者と自分は違う。
 貧しい孤児院ではろくに訓練など出来やしなかったから。
 
 やがて15歳となり孤児院を出て、いろいろ苦労した末にやっとの事で冒険者にはなったが……
 相変わらず自分を鍛える余裕などなかった。
 
 アルセーヌの唯一の取り柄は、魔力の多さのみである。
 それ故、後方支援役《バファー》の魔力供与士として……
 つまり冒険者の中でも、単なる便利屋として生きて行くしかなかったのだ。

「ええ、いろいろと考えたけれど、やはり貴方達が底なしと呼ぶ、あの迷宮が最適なの」

「そうか……ツェツィリアがそこまで考えてくれたのなら、問題なしさ」

「アルセーヌが言った通りよ。短期間で貴方の眠った力を完全に目覚めさせ、覚醒させる為には、ある程度のトレーニングが必要なの」

「だな!」

「それに……行くのは貴方と運命の出会いをした、記念すべき迷宮よ」

 良く良く考えれば、ツェツィリアの指摘通りだ。
 確かに迷宮は危険が大きい。
 しかし、アルセーヌのような駆け出し冒険者には格好の訓練場所なのだ。
 まあ、階層にもよるのだが……
  
 アルセーヌは納得し、大きく頷く。

「良く分かった! 冒険者や戦士的にいえば武者修業って事だな」

「うふ、そういう事。ある程度修業して実力が付いたら、仮合格」

「仮合格?」

「ええ、暫定的な合格。その上でトライアルに挑戦するわ。おろしたての新馬車のようにフレッシュな気分で戦いの試運転と行きたいわね」

「成る程、新しい馬車のような気分で戦いの試運転か……うん! 分かるよ!」

「頑張ってね」

「おお、しっかり気合を入れ直さないと駄目だな」

「うふふ、やる気満々ね。それに安心して。私がアルセーヌをしっかりサポートするから」

「了解! ところでツェツィリア、迷宮の第何層へ行くつもりだい?」

「そうねぇ……」

「まあ俺くらいの低ランクなら……まずは第10階層くらいまでかな?」

 アルセーヌは『底なしの迷宮』を思い浮かべる。
 確か、第10階層までは大した敵が出現しない。
 『庭』とまでは言わないが、さすがに慣れた場所である。
 
 ゴブリン数匹の小さな群れ(クラン)を始め、通常の蜘蛛がふた回り大きくなり、凶暴化したものなど様々な昆虫系の魔物共だ。
 油断して気を抜きさえしなければ、大事なツェツィリアをしっかり守れる。
 彼女とたったふたりきりのクランでも充分戦える筈だ。

「第10階層?」

 アルセーヌに問われ、ツェツィリアは少しだけ考え込む。
 しかし、すぐに答えは出たようだ。

「いいえ、駄目。絶対に駄目」

「え? 絶対に駄目って?」

「そんな浅い階層へ行っても、無意味。時間の浪費、無駄よ。やはり昨日私とアルセーヌが出会った階層がベストだわ」

 第10階層が駄目?
 出た代案が……
 何と!
 昨日ツェツィリアと出会った階層へ行く!?

「え!? ツェツィリア! 行こうと思っているのは君と出会った場所かい? 俺がオーガの大群に囲まれていたあの場所だよな?」

 念には念を入れ、何度も確かめるアルセーヌ。
 そう、確認する事は大切だ。
 これで命が助かった事が何度かあるから。

 しかし、ツェツィリアの意見は変わらなかった。

「そうよ。貴方と出会ったあの階層なら今の私達の修業には適したレベルの敵が現れるわ」

「おいおい! 今の私達には適したレベルの敵だって?」

 再び聞き直したが、やはり間違いではなかった。
 思わずアルセーヌは気色ばむ。
 ツェツィリアの言う事が全く理解出来ないのだ。

 確かにツェツィリアとは地下深きあの階層で出会った。
 だがあの時とは状況が違う。
 ツェツィリアの師……
 底知れぬ実力者ルイが彼女の傍《かたわ》らには居たから。
 
 でも今、ルイは居ない。
 未熟な自分がツェツィリアの守護者だ。
 浅い階層ならともかく、深層では彼女をしっかり守る自信がない。
 
 万が一、ツェツィリアが迷宮で生命を失うような危険に陥《おちい》ったら?
 
 考えれば考えるほど大きな不安がよぎる。
 自分の命など、どうなっても構わない。
 
 しかし大事なツェツィリアを危険な目にあわせられない。
 到底納得がいかない。

 愛しいツェツィリアに反論したくはない。
 彼女を信じているから……

 でもアルセーヌは再び考える
 ……ツェツィリアの命が危険にさらされるのであれば話は別、絶対に反対だ。
 
 アルセーヌは自分の意思をきっぱりと言い放ったのである。

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