異界エデンに居るアルセーヌとツェツィリアの(かたわ)らに、いつの間にか立っていたのは……

 漆黒の法衣(ローブ)を着込み、同色の大きなマントをひるがえす。
 長身痩躯の30過ぎそこそこの若い男だ。
 
 彼こそがツェツィリアから『お父様』と呼ばれる謎めいた男……
 そう、10年前に全属性の魔法を軽々と使いこなし、ツェツィリアの危機を救った男である。

 青に近い色白の肌。
 小さい顔。
 なで肩まで伸びた、さらさらの美しい金髪。
 
 「ぴしっ!」と鼻筋が通った端正な顔立ち。
 切れ長の涼し気な目には感情が全く見えない。
 碧眼の瞳に映るふたりを、まるで『もの』を見るように捉えていた。

 不思議なのは……
 森での救出劇から約10年の月日が流れ、当時6歳だった幼子のツェツィリアが美しい少女へと成長したのに……
 この男の容姿は、10年前と全く変わっていない。
 全く年を取った様子がないのだ。
 
 当然アルセーヌは、その不思議な事実を知らない……

 ぞくり……
 
 アルセーヌに鳥肌が立った。
 男のまとう、感情が伝わらない冷え冷えとした雰囲気が、アルセーヌへ底知れぬ恐怖を呼び起こす。

 分かる。
 魔法使いのアルセーヌには気配、魔力の波動で分かる。
 冒険者としての感覚でも分かる。
 この男は……人間ではない。
 怖ろしい人外だと……

 いきなり男が問う。
 矢を射るような鋭い視線をアルセーヌへ投げかけて。

「少年……アルセーヌと言ったか? ツェツィリアに気に入られたようだな」

「あ、わわわ…………」

 しかしアルセーヌは恐怖に囚われ、身体だけではなく、口も動いてくれなかった。
 返事どころか、恐怖からろくに言葉が出ないのだ。
 もしこの男に会えたら、いろいろ『事情』を聞こうと思っていたのに。
 だが、すかさずツェツィリアがフォローしてくれた。

「そうよ、お父様。彼の名はアルセーヌというの」

 男は肩をすくめ、ツェツィリアに向き直る。

「ふむ……ツェツィリア、どうだ?」

「見込んだ通り、彼は、アルセーヌには素晴らしい素質があります。私とは魔力の相性も最高です」

「素質、相性……成る程。だが性根は?」

 アルセーヌの性格……
 聞かれたツェツィリアは、きっぱりと言い放つ。

「せ、誠実です。信じられます」

「そうか? この少年は真面目ではあるが、豪胆さに欠ける、つまり極めて小心だ。……気持ちが相当弱いと見たが……」

 男が指摘すると、何故かツェツィリアは必死に(かば)う。
 アルセーヌの事を。

「ア、アルセーヌは! や、優しいだけです。優し過ぎるのですっ! 私がパートナーとなり、(くじ)けないようしっかり支え助けますっ!」

「分かった。単にこの少年が下僕なら問題ないが……お前に相応(ふさわ)しいかどうか……彼アルセーヌの試験(テスト)をしよう」

 男はピンと指を鳴らした。
 瞬間!
 またも、アルセーヌは足元の感覚を失い、あっさり意識を手放していた。

 ただ意識がなくなる時。

「アルセーヌ、頑張って! 信じてる!」

 という、ツェツィリアの熱い励ましが、確かにアルセーヌの耳へ響いたのである。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 やがて……
 アルセーヌの意識が戻って来る。
 いつのまにか、アルセーヌはどこかへ横たわっていた。

 目を徐々に開けると、辺りの様子が変わっている。
 何もない……のだ。

 今迄あった楽園(エデン)の大草原が、森が、頭上の大空が……
 風もない、温かくも寒くもない。
 そして、色さえもない。
 周囲は真っ白な世界なのである。

「こ、ここは……」

 どこだ? 
 と思わず声が出たアルセーヌに対し、

「ここは、私が創った別の異界。先ほどのエデンともまた違う場所だ」

「は!?」

 いきなり『男』の声が響き、アルセーヌは吃驚して思い切り起き上がった。

「あ、貴方は!」

 声の主は、やはりツェツィリアが『お父様』と呼ぶ男であった。
 相変わらず漆黒の法衣姿でアルセーヌの前に、(たたず)んでいる。

「少年よ、私の事は、ルイと呼べ」
 
 ルイと名乗った男は淡々とした口調で、いきなり申し入れをして来る。

「ルイ……」

「そうだ! アルセーヌとやら、私と取り引きをしよう」

「取り引き?」

「うむ、ツェツィリアは魔導水晶でたまたまお前を見つけてから……何故か、ずっと執着している」

「俺に? 執着?」

「私は困っていた。お前が原因でツェツィリアは人の心を捨てきれず、夢魔モーラとして覚醒せず未だ完全体になれない」

「…………」

 困っていた?
 ツェツィリアが自分のせいで?
 完全な夢魔になりきれない?
 
 一体何を言っている?
 この男……ルイの意図は、何なのだろう。

 アルセーヌがつらつら考えていると、ルイは更に言う。

「まだ分からぬか? ツェツィリアはな、私の良き片腕になれるほどの逸材なのだ」

「え? ツェツィリアが?」

「ああ、そうだ。いっそ、事故に見せかけ、お前を殺しても良かったが……」

「え? 俺を殺す?」

「うむ、あの子が完全体になるには、お前という存在が邪魔だからな」

「あ、う……」

 アルセーヌは絶句した。

 ルイが、あっさり殺すと言い切る言葉の持つ恐怖。
 淡々と、感情がない。
 まるで人が、小さな虫けらを、無造作にひねり潰すような趣きだ。

「だが……もしもお前を殺せば、当時の幼いツェツィリアは生きる事に絶望し、自ら命を絶っただろう。だから私は、敢えてお前を見逃していた」

「…………」

「しかしツェツィリアは以前よりもずっと強くなった、心身ともに。それ故、お前が居なくても、もう死にはしない」

「…………」

「だが安心しろ……今更、お前を殺すつもりはない。ツェツィリアに免じて命だけは助けてやる」

「…………」

「その代わりアルセーヌ、お前からツェツィリアへ別れを告げよ。夢魔のお前など嫌いだ、もう二度と会わないと、きっぱり宣言するのだ」

「え?」

 夢魔のツェツィリアに嫌いだと言え……二度と会うな。
 ルイの持ちかけた『取り引き』とは……とんでもないものだった。

「永遠の別離を告げれば、お前の持つツェツィリアの記憶は完全に消去される。ツェツィリアからも同じくお前の記憶を消す」

「な、そんな!」
 
「ふむ、何故だ? 何か問題があるのか? ……お前には、そんなに動揺する理由がない筈だ」

 慌てるアルセーヌを不思議そうに見て、ルイは首を傾げた。
 そして、氷のように冷たい眼差しで、改めてアルセーヌを見据えたのであった。