肉を焼く匂いで目が覚めた。薄い黄緑の毛布に包まれて寝ていた私は、もぞもぞと身体を起こす。
 目をこすりながら立ち上がると、窓から差す光が私の目を直撃した。

「…眩しい」

 我慢ができず背を向けた。思いっきり伸びをしてはぁっと息を吐くと、今度は味噌の匂いがする。

「真紀ちゃん、朝ごはんできたからおいで」

壁越しに聞こえたおばあちゃんの声。

 そうか、私は今おばあちゃんの家に泊まっているのか。

「今行きます」

私は壁越しに叫んだ。髪の毛を手でとかしながら部屋を出て、洗面台で顔を洗う。

 部屋に入ると、おばあちゃんがほうじ茶を注いでいた。食卓には、ご飯・味噌汁・ベーコンエッグ・千切りキャベツ・卯の花が並べられている。

「やった、卯の花だ」

「真紀ちゃんは卯の花好きだものね、おばあちゃん張り切って作っちゃった」

思わず笑顔がこぼれる。おばあちゃんが作る卯の花は私の大好物だ。

 いただきます、と2人で声と手を合わせて食べ始めた。

「それにしても真紀ちゃん、しばらく見かけないうちに随分大きくなったわね。こんな美人に育っちゃって」

「もう、そんなに褒めないでよ」

 1人っ子で両親が共働きだった私はおばあちゃん子だった。お父さんは飲食店の店長、お母さんは看護師だ。土日が休みになるような職場ではないし、早朝勤務も夜勤もある。だから、よくお父さん方のおばあちゃんに預けられていた。

 そして、しばらく会わなかったのにも理由がある。お父さんとお母さんは5年前に離婚した。きっと家庭内のすれ違いが原因なのだと思う。中学生にもなれば親が家にいなくても留守番くらいはできる。だからお母さんと2人暮らしになってからは、おばあちゃんにも会わなくなった。

 会うのは本当に久しぶりだった。

 でも、なぜだろうか。おばあちゃんの機敏さは何1つとも昔のままのような気がした。

 

✻ ✻ ✻



 私は、2人分の食器と3つのカップを洗った。3つのカップのうち2つは朝食で使ったものだ。残りの1つはすでに置いてあった。

「おばあちゃんはこれからお友達と合唱の練習に行ってくるわ。真紀ちゃんも来る?」

おばあちゃんが合唱をやっているだなんて初めて聞いた。

「私が行ったら邪魔にならないかな?」

「そんなことないわよ。若い子が来たらみんな喜ぶと思うし」

「なら行ってみようかな。身支度を整えてくるね」

 私は部屋に戻り、鞄に財布とリップを入れた。スマホをチラ見したものの、彼からの返信は来ていない。あーあ、と思いつつスマホを鞄にぶち入れた。



***



 練習場にはおばあちゃんと同じくらいの年齢の人が20人くらいと、時々それよりも若い人がいるという感じだった。

「孫の真紀ちゃんです」

おばあちゃんが私を紹介すると、みんなが拍手をくれた。

 早速、練習に混じる。

「真紀ちゃんの音程は正確だねぇ、素晴らしい」

「ありがとうございます。実は高校生の時、合唱部に入っていました」

「あら、どうりで上手なわけだ」

周りの人から次々と褒められて私は嬉しくなった。

「真紀ちゃんは何歳なの?」

「来週で19歳になります」

 刹那、音がぴったりと止み空気が静まった。

 来週が誕生日だと言えば誰だっておめでとうの一言は出てくるだろう。しかし、真紀のささやかな期待は散った。

「18歳ってことよね。いいのよ、最初は誰でもそういう言い方をするもの」

別のおばあちゃんからフォローが入った。

 今の年齢を聞かれたら18歳だけど…言い方を間違えた?私は疑問に思ったけれど、今は歌いたい気持ちの方が強かった。



 その後の練習は何事もなく進んだ。

「真紀ちゃん、また遊びにおいでね」

「また一緒に歌いたいわ」

終わる頃にはたくさんの人に声をかけて頂いた。



 おばあちゃんは仲間とお茶をしてから帰るとのことだったので、私は1人で道を歩いていた。初対面の世代の違う人達と会話を繋げられる自信がなかったからだ。

 スマホを開いてSNSをチェックするも、返信がない。彼と1日以上連絡が途絶えるのは初めてのことだった。

最後のメッセージは『ごめん!10分遅れる!』に対して私が送った『焦らないでいいからね』だ。何が10分だ、1日経っても来ないじゃないか。

『おかけになった電話番号は現在使われていないかーーー』

電話もダメ。もしかしたらここの電波が悪いだけなのかなぁ。実は返信しているけれど電波が悪くてメッセージが届いてないのかも。うん、きっとこれだ。

 私は電波を求めてさらに歩くことにした。彼もきっと、私の返信を待っている。

 ーーーところで、私は何を待っていたんだ?この様子だと彼と待ち合わせをしている?

 恐る恐るメッセージのやり取りを見返した。

『着いたよ!南口にいるね』

『間違えて違うホームに来ちゃって電車逃しちゃった…』

『こら!この方向音痴め』

『ごめん!10分遅れる!』

『いいよ、待ってるね』

 そう、私は彼を待っていた。

 ーーーどこで待っていた?

 だって私は、目が覚めたらおばあちゃんの家にいたのだから。

 だったら、彼はどこにいる?



 「もしかして、真紀ちゃんかい?」

後ろから急に声が聞こえてハッとした。

 反射的に振り返ると、おばあちゃんよりも少し若いくらいの男性が立っていた。

「真紀ちゃん。まさかこんなに早く会えるとは思わなかったよ」

 この男性には見覚えがあった。まるで、どこかで一度会ったことがあるような、そんな気がした。

「ごめんなさい…私、あなたのことがわからない。でもどこかで見たことがある気がします」

「小さい頃はよくうちに遊びに来ていたね」

質問の答えになっていなくとも、私は目の前の人の正体がわかった。

「真紀ちゃんが4歳くらいの時かな、私は病院で癌と戦う日々を過ごしていた。真紀ちゃんの世話は、ばあさんに任せきりで悪いことをした。もうずっと先まで会えないと思っていたよ、まさかこんなに早くここに来るなんて」

 おじいちゃんは私が小さい時に病気で亡くなった。癌だとは知らず、ただ病気とだけ聞いていた。

 その瞬間、私は全てを悟った。

「おばあちゃんは…いつ亡くなったの」

「5年前」

「知らなかった。5年前ってお父さんとお母さんが離婚した年なの」

「そうかそうか、ばあさんは最期くらい真紀ちゃんに会わせてほしいと何度も願ったそうだよ。全く、仕事ばかりで真紀ちゃんに伝えていなかったんだな、バカ息子め」

 おばあちゃんは私の知らない間に亡くなっていたらしい。

「最後にもう1つ知りたいことがあるの」

「なんだい?」

「私は、どうしてここにいるの」

 これが私の最後の抵抗。現実を受け入れたくないがための、答えがわかりきっている無意味な質問だ。

「真紀ちゃん、全てを受け入れなさい」

おじいちゃんの口調は優しさから厳しさに変わった。

「…我孫子駅の南口。じっと10分待っていれば良かったのに、私は暇潰しに通りを歩いた。そしたら信号無視の車が歩道に突っ込んできた。私はそれに巻き込まれた」



 いなくなったのは、彼ではなくて私だったのだ。