「よし、き、た、で。まっ、かな、水、てっぽう……」
 ショッピングモールの隅で、隣から呪文が聞こえてくる。人々の声が軽快な音楽に紛れて雑音となる場所で、その言葉は明らかに異質だった。だが私はそれに対し口を挟むことはない。いや、挟むことなど許されないのだ。
「吉宗、享保の改革、田沼意次、天明の飢饉。松平定信、寛政の改革、水野忠邦、天保の改革……」
 付箋だらけのノートを広げ、歴史の語呂合わせをブツブツと繰り返すのは、数週間後に受験を控えた日彩だ。
 本来、こんな所に連れてくるなど以ての外。それでも私は、男子三人と映画を観ることに抵抗する事が出来ず、藁にもすがる思いで日彩に頼み込んだ。
 当然、親にも叱られた。嫌なら断るか、断れないのなら行くかのどちらかだと。全くその通りだ。私が一番納得していたと思う。
「お願い日彩……お昼に大好きなステーキでも奢るから……」
 まさかこの一言に乗ってくるとは思いもよらなかったが、つまりはそういうことだ。目の色を変えた日彩は、獲物を狙う肉食動物のように、話題に食らいつく。結果、勉強道具を持って参戦してくれることになったのだ。
 まだ食べ物で釣られる歳で良かった。単に〝日彩だったから〟という理由なのかもしれないけれど。
 約束の時刻になるまであと数分。今日はいつもより一段と寒く、空からは天使の羽根の欠片が舞い降りていた。
 日彩が何度もくしゃみをしていたが、それも理解出来る。風邪を引かなければいいけれど。
「あ、あれじゃね? おーい前田さーん!」
 騒がしい中で、一際目立つ大きな声の持ち主が、こちらに手を振っている。誰かは見る以前からわかっていた。
 それは三人の定位置かと思えるほど綺麗な並びだった。ファー付きで深緑のロングダウンコートを羽織る上原くんを中心に、高身長の二人が横に並ぶ。
「ごめん、待った?」
「う、ううん……」
 上原くんの問いに、今度はしっかりと否定することができた。ただそれは口の中で発せられた言葉だ。音で溢れた世界で、私の声が空気の波を泳ぎ切ることは不可能だろう。
「あ、お姉ちゃんの友達ですよね? 初めまして、妹の前田日彩です。今日は勝手に付いてきてしまってすみません」
 ノートを両手でパタリと閉じた日彩が、私の隣に並んで挨拶をする。愛想良く笑うその子と、私の怯えたような表情は月とすっぽんだった。
「あ、妹さんも来てたんすね! 吉岡流星っす! よろしくっす!」
 相変わらずの穏やかな雰囲気で、吉岡くんは日彩に笑いかけた。日彩の方も、同種だとでも言うように「よろしくお願いします」と頭に生えた尻尾を振る。
 その後、大賀くんも挨拶を交し、上原くんに対しては先日商店街で会えたことへのお礼を述べていた。
 クールな大賀くん、まだよくわからない上原くん、元気な吉岡くんと、日彩は出会って数分のうちに打ち解けてしまっていた。
 私と過ごした時間の方が、多少は長いはずなのに。あの愛嬌は天性の才能なのではないかとすら思ってしまう。
「そろそろ行くか。席も取らねぇと」
 上原くんが先導して映画館へと向かう。三人が先程と同じ並びで進み、その後ろを私たち二人が歩いた。吉岡くんと大賀くんは、時折振り返って日彩と楽しく話をする。
 急に虚無感が私を襲った。私がここに同席する意味とは何だろうか。顔もうろ覚えである段階で、私の代わりに顔のよく似た日彩を送り込めば良かったのではないだろうか、などとくだらない会議を一人脳内で繰り広げていた。