「永遠……前田永遠さんいますか」
 変に私の名を言い直すのは、先日の男だった。教室の後ろのドアに手をかけ、覗き込んでいる。
 クラスメイトは一度その人を見たあと、首を後ろに回し、私に視線の矢を放つ。
 私はその矢に抵抗することなく、寧ろ体中に刺した状態で、鞄を持って廊下に出た。
「永遠、部室こっちだけど」
 わざとらしく彼に背を向けたのに、いとも簡単に引き止められてしまった。名前を呼ばれてしまっては『誰に言ってるのかわからなかった』が通用しない。
 私は少し肩をすくめて、彼のいる方向につま先を向ける。
 そんな私の様子を見て、彼は歩き出した。高くも低くもない身長で、他の人より少し色素の薄い猫っ毛が揺れている。
 初めてまじまじと見た。この人があの絵を描いたのだろうか。
 その技術を自分のものにしたくて、私は一定の間隔を保ちながらついて行く。
 帰宅や部活の生徒が廊下に溢れているおかげで、誰も私が彼に付いて行ってることなど思いもよらないだろう。それほどに自然で、ある種不自然な距離感だった。
「はい、ようこそ映画研究部へ」
 スライド式の扉を全開にし、入りやすいようカーテンを持って、反対の手を室内に広げる彼に、正直戸惑った。
 この棟は特別教室ばかりで、生徒の影はおろか外で活動しているはずの声すら届かない。更に一番端の教室で普段は使われておらず、入学してからまだ一度も足を踏み入れたことのない部屋だった。
 あれだけ気になっていた部室に、簡単に迎え入れられている現実が不思議で堪らなかった。
 それこそ、夢であるように。
「し……失礼します」
 申し訳程度の挨拶をし、一切の音も立てぬほど、静かに浮いた上靴を床と接触させる。
「あ! どうもどうもー! 仮入部の子っすよねー?」
 私の気遣いなど無意味だと言わんばかりに、愉快な声が飛んでくる。
 一瞬驚いてそちらを見ると、二人の男子生徒がいた。
 まさか男子三人の部活なのかと、目が回って後退りをする。
「おい、吉岡。怖がらせてるぞ」
 ハイテンション男子に向かってそう言う男は、落ち着いた黒髪で、中指を使い、眼鏡を引き上げる。いかにも賢そうな人だった。
「うっそまじか! ごめんごめん、怖がらせる気はなかったんすよ〜」
 私は今すぐこの部屋から出ていきたかった。
 明らかに場違いだ。仲の良さもそうだが、何より男子三人の中に私がいることがおかしい。
 無理だ、耐えられないと扉に目をやったが、外部との接触を遮断されたように、既に扉もカーテンも閉め切られていた。
 そこに上原くんが椅子を持ってくる。
「いいよ、座って」
「あ……」
 ありがとうの、“あ”の言葉だけが空気とともに抜けていく。椅子を見つめながら気休め程度に頭を下げ、私は腰を下ろした。
「昨日言った、前田永遠さん。……って、何笑ってんだよ」
 私を部員に紹介しようとする上原くんに対し、何故か悪巧みをするような目で笑うハイテンション男子。隣のクール男子も鼻で笑っているように見えた。
「いや〜なんでもー! 前田さんっすね! 俺は吉岡流星(よしおかりゅうせい)っす! 上原とは中学から一緒なんすよー! よろしくっす!」
 吉岡くんは、まともに目も合わせられない私に、楽しそうな表情で挨拶をしてくれた。ここまでテンションが高くはないが、誰かさんに似ているなと、瞼の裏に可愛らしい笑顔が思い浮かぶ。
「俺は大賀歩(たいがあゆむ)です。同じく上原とは中学からの友達で、ここでは副部長してる。割と機械関係得意。よろしく」
 大賀くんは、見た目通り静かな紹介だった。ザ・理系という印象が強く、機械関係が得意なのも頷ける。
 個性派揃いの部だ。それにしても、何故上原くんとの関係を述べるのか、私にはわからなかった。上原くんとは商店街で会ったきりだったが、友達か何かだと思われているのかもしれない。
 二人の紹介が終わった後、吉岡くんに急かされた上原くんは、頭を掻きながら自己紹介をした。
「この前も言ったけど、上原康助(うえはらこうすけ)です。一応部長してます……」
 それから少し間があり、教室が静まり返った。元より四人しかいない部室で、自己を紹介する本人が黙ってしまうと、先へは進めない。
 そんな空気が面白かったのか、吉岡くんが吹き出して笑った。からからと笑う声により、緊張感が解けたのか、上原くんは吉岡くんを睨み、また表情を戻して私の方に顔を向けた。
「いや、その……永遠とは初めましてだよな?」
 その言い草に疑問を抱くも、私の記憶上にこのような声で黒縁の眼鏡を掛けた男などいなかった。誰かと勘違いしているのだろう。
「うん……」
 イエスかノーでしか反応できない自分が嫌になる。本当はしっかりと答えたいのに、言葉が喉の奥に引っかかって声に出せない。
 私の返答に、上原くんは何故か安心したように肩から力を抜いた。
「良かった。じゃあメンバーは以上だから、とりあえず部の説明をするな」
 何が良かったのかは理解できなかったが、上原くんは歩き出し、机上に並べられた機材を指差す。
「俺らの代は基本アニメを作ってる。一年の頃の文化祭では先輩がいたから、実際に人とかを撮影して映像を披露してたけど、引退したし好き勝手してる感じかな。元々緩い部活だし、顧問もほぼ来ないから、こんな感じ」
 上原くんはカメラに語りかけるように話していた。あとの二人も適当に頷いている。
 そうか、だから私は映画研究部の存在を二年の文化祭まで認知していなかったのだ。
 ぼんやりと、一年の頃に見せられた映像を思い浮かべる。映画研究部とはいえ、演技力までは研究しきれなかったのか、棒読みの嵐で、膝に顔を埋めている生徒が続出していたことを思い出した。
 あの頃から、アニメも作ることができると知っていれば良かったのにという考えが過ぎるも、このメンバーに自ら紛れに行くのは無理があると悟った。
「コンテストの情報も一応入ってくるから、それに出すのもあり。あと、ここで映画見て意見を言い合ったり、普通に研究したり、実際に映画を見に行くこともある」
 そう言い終えた後、上原くんは「あ」と声を漏らし、何か大事なことを思い出したかのように壁にかけられたカレンダーを見た。
「そういえば今度の土曜日、部員で映画見に行くから、永遠も参加よろしく」
「え?」
 唐突にそんなことを言われ、私は飴玉サイズの空気の通り道を作る。
 仮入部生は強制だから、などと明らかに不自然な理由をつけられた。
「あ、それなら、前田さんも連絡先交換した方がいいんじゃないすか! ほら、上原! 部長として、責任もって交換しろよー!」
 吉岡くんが椅子から立ち上がり、悪魔の微笑みを浮かべながら上原くんの肩に腕を絡ませた。
 簡単に腕を乗せられてしまうほどの背丈を持つ彼は、吉岡くんを横目で睨みつける。レンズ越しに映るその目は鋭かった。
「……わかったよ。じゃあ永遠、一応電話番号だけ交換するか?」
 諦めたようなため息混じりで、吉岡くんの腕を退かしながら自らのスマートフォンを見せる上原。黒い画面には、困った顔をした私がいた。
「う、うん……」
 本当は拒否したいはずなのに、言葉の数が一番少なくて済む回答は、イエスの意味が込められたものしかなかった。
 ここは一種の監獄だ。黒く分厚いカーテンで覆われた部屋は、太陽の光が入ることを一切許さない。監視として三人の男が詰め寄ってきているかのように思えた。
 画面を開き、電話番号を見せる。上原くんはそれを片手で入力し、程なくして私のスマートフォンが震えた。
「それ、登録しといて」
 抵抗する勇気もなく、私は掛かってきた電話番号に“上原くん”と表示をつける。
 連絡先の欄に新しく入居したそれは、家族と親戚しかいないマンションに上手く馴染めていない。違和感満載の新入りだった。
「じゃあ、また連絡するから。今日はこれくらいかな、他何か聞きたいことある?」
 私は山を描くように目線を上下させる。上原くんの表情を一瞬流し見て、最終古びた床の汚れに視点を置きながら首を横に振った。
 膝に置いた手に無意識に力が籠る。スカートにシワが入った。
 私の感情が伝わったのか、上原くんが扉の方へと進んでカーテンに手を伸ばす。骨ばった手がそれを掴むと、扉の窓から天井に付けられたものとは別の照明が姿を現した。
「無いなら今日はこれで仮入部は終わりかな。またいつでもどうぞ」
 扉が横に流され、一層光が強くなる。廊下の窓から差し込む夕日は、蛍光灯しかないこの部屋には眩しすぎて、思わず目を細めた。
 牢から解放された朝のような景色だった。急いで鞄を手に取り、光の方向へと走る。
 緊張はしたが、最低限の礼儀として私は振り返り、軽く頭を下げて歩き出した。
 本当に映画に行くのだろうか。いや、きっと自分のことなんて忘れられているはず。
 大丈夫だと言い聞かせるも、帰宅してから開いたスマホには、新入りの通知が入っていた。