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七時間の授業を終えて学校から帰宅すると、今朝足の不調を訴えていた日彩が、受験からの解放感からか、向かいにある彼女の部屋の扉を開け放ったまま、ベッドで眠っていた。
私は起こさないようにと、静かに自分の部屋に入り、ゆっくりと扉を閉める。
鞄を直し、制服から部屋着へと着替えた後、いつものようにパソコンに向かった。液晶タブレットも起こし、目を開けたそれは描きかけのイラストを映し出す。
そして黙々とペンを走らせた。
絵を描いている時間は、私にとって至福のひとときだ。ただ目の前の作品を眺め、改善点を見つけて直す。そしてまた新たな線を描き、色彩を加える。色使いや影の表し方で、登場人物の顔色や雰囲気までも自由自在に操ることができるのだ。それがひたすら楽しくて仕方なかった。
今日描くものは、この作品の最終話のラストシーンとなる。一つの作品が完成する喜びで、私の手は止まることを知らなかった。
一人で一つのアニメーションを作ることはとてつもなく大変で、細部の細部まで拘ってはいられない。大雑把にしてしまうところはあるが、取り敢えず何十枚もの絵コンテを描き上げた。
あとは線画を描き、色も付けて、動きやタイムラインを調整しようと考えていると、ドタッと鈍い音が、扉の向こう側から聞こえる。
何か重い物でも落ちたのだろうかと思いながらも、私はそのまま動画の作成を続けた。横目で時計を見ると、午後六時を少し過ぎたところだった。
「お願い、誰か来てぇ!」
悲鳴にも似た声が、私の手を止めた。日彩の声だ。いつもとは少し違う危機感混じりの震え声に驚いた私は、すぐさま立ち上がり、開けっ放しの彼女の部屋へ顔を覗かせる。
「日彩? どうしたの?」
そこには、恐怖を表す目でこちらを見つめる日彩が居た。ベッドから落ちたのか、脚は三角座りが崩れたような状態で、床に肘をつき、ガクガクと震えている。
「お、お姉ちゃん……。何故かわからないけど、た、立ち上がれなくて……。て、手足が震えて……。力が入らなくて……」
まるで痙攣を起こしているかのような状態と、辿々しい言葉しか出ない今にも泣きそうな日彩に私も怖くなる。
何が起こっているのかわからない。目の前に広がる状況を受け入れることができなかった。
それでも何とかしなければという思いが勝ち、私は咄嗟に一階にいる母親に向かって叫ぶ。
「お母さん!! 日彩が! 早く来て……!」
私は日彩の手を持ち上げ、座らせようとする。日彩は上手く四肢を動かせないのか、私にしがみつく形で、なんとか座り直すことが出来た。
「なんで……思うように動けないのぉ」
日彩が大粒の涙ながらに訴える。私は「大丈夫、大丈夫だから……」と震える手を握ることしかできなかった。
すると、次第に日彩の呼吸が荒くなった。「息が……」と漏らす彼女の顔色は益々悪くなる。
泣いているからということもあるだろうが、息が上手くできないだなんて。どうしたらいいの? どうしてこんな事になったの?
自分の身体が急速に冷えてくる。日彩も私も、パニック状態に陥っているのが目に見えてわかった。
すると、バタバタと階段を駆け上がってくる足音が近付いてきた。
「どうしたの!?」
母がエプロンで濡れた手を拭いながら私を見て、次に日彩へと視線を移す。怒っているような、驚いているような顔だったが、私は母の感情など悟る余裕すらなかった。
「力が入らないみたいなの! 手足が震えててて。あとさっきから呼吸が!」
私にできることは、日彩の代わりに症状を伝えるのみだった。母はそれを聞き、「ちょっと待ってて、救急車を呼ぶわ」と言って、元来た道を早足で戻る。
幼い頃から日彩は、大きな病気をしては入院をするということを繰り返していた。そのため、母は緊急時の対処に多少は慣れていたのかもしれない。
でも私は、自分の目の前で、死が迫るような危機を目の当たりにするのは初めてだった。そもそも、前回の入院はもう四年以上前であり、その時もインフルエンザをこじらせたものだったため、親からも心配はいらないと言われていたのだ。
それまでは昼間学校に行っている間に病院に運ばれるか、寝てる間に母か父のどちらかが日彩に付き添って病院へ行く。その間は祖母の家に預けられたり、入院中の日彩にお見舞いのため会いに行くほどしかなかった。私は何も知らなかったのだ。
空気を吐き出すことしかできないのか、何度も咳を繰り返す彼女は本当に苦しそうで、私までつられて泣きそうになる。
もはや喧嘩の仲直りなどどうでも良かった。私の大切な妹が苦しんでいる、もしかしたら死んでしまうかもしれない、二度と会話が出来なくなるかもしれないという恐怖が、じわじわと私の理性を奪う。
「……ったでしょ」
上手く酸素が回らない中、必死で私に何かを語りかける。目が虚ろで、ベッドに凭れていた背中も、咳と震えのせいで落ちてきていた。
「何!? 日彩、なんて言ったの?」
私は崩れた日彩の体をなんとか支える。肩に置いた手の甲を、結ばれたしなやかな髪が撫でた。
日彩は床を這うように必死で私の方を向き、最後の力を振り絞るかのように大きな瞳を全開にして私を貫く。
「言った……でしょ? 今は。今しか。来ないって……」
きっと彼女は私の肩を掴もうとしたのだと思う。だが、死に物狂いに上げた手は、重力に逆らうことが出来ないまま、肩まで届くことなく私の膝に落ちる。そして同時に、彼女の瞳が消え、私に抱きつく形で体が崩れてきた。
「ひ、日彩……?」
それからどうなったか、私はあまり詳しく覚えていない。母がまた部屋に来て、何を言っていたか、どうしていたかわからないけれど、とにかく日彩が運ばれて行って、私は家に残されたことはわかった。
どうして日彩は、自分が危険な状況で、私に「今は今しかない」と言ったのだろう。それが最後に伝えたかった言葉なのだろうか。
わからない。わからない。どうしてこんな状況になったのかも、日彩が言った言葉の意味も、今どんな状態になっているのかも。
心配と恐怖と後悔。それらが混じりあって乱れる。
私という固体だけを部屋に残し、徐々に暗くなる床を延々と眺めていた。