僕たちは食事をとることにして、双葉サービスエリアに車を入れた。車をおりてみると、そこは丘のはずれで、甲府の街が遠くに見えた。
食堂にはかなりの客が入っていたけれども、窓の近くに空いたテーブルがあった。いつものように絵里は僕の左横にこしかけた。
僕たちは注文した品を待ちながら、テーブルに置かれていた観光用のパンフレットを見た。
「昇仙峡って名前は知ってたけど、甲府の近くだったのね」
「いい名前だよな、昇仙峡というのは」
「名前もいいし、馬車で観光できるし。おもしろそうね、馬車に乗れるなんて」パンフレットの写真を見ながら絵里が言った。「この写真みたいに、松井さんと並んで馬車に乗れたらいいな」
いっしょに喫茶店などに入ると、絵里はいつも僕と並んで席をとり、あたりの人に遠慮するかのような声で話した。そのサービスエリアでも、絵里は僕の横にならんでいたが、いつになくその声は大きく、笑い声も明るくはしゃいでいた。
僕がカツ丼をたいらげたとき、絵里の皿にはライスカレーが半分ほど残っていた。絵里にゆっくり食事をとらせるために、僕はコーヒーを注文した。
食堂を出て車に向かうあいだ、絵里はほとんど口をきかなかった。助手席に座った絵里は、無言のままにシートベルトをつけた。いつのまにか絵里から笑顔が消えていた。
「疲れたみたいだな。シートを倒そうか」と僕は言った。
絵里はフロントガラスに顔を向けたまま、「松井さん、あしたの日曜日、何か予定がありますか」と言った。
「昼過ぎまではひまだけど。どうしたんだよ、いきなり」
「もしよかったら・・・・」ためらうような口調で絵里が言った。「甲府に泊まって、昇仙峡を見たいけど」
絵里がいきなり意外なことを言いだした。
「おれはいいけど、家の人が心配しないか」
絵里は前をむいたまま、「いいの、電話でうまく話すから」と答えた。
胸を高鳴らせながら、絵里はたしかに甲府に泊りたがっている、と思った。きょう一日の喜びを、明日まで持ち越したがっているみたいだ。せっかくの絵里の希望だ、いっしょに甲府に泊まることにしよう。
食堂から持ってきた観光案内を見ながら、昇仙峡を訪ねることができるかどうかを調べてみた。絵里の口調はいつになく事務的だった。絵里が気持ちを昂ぶらせているのだと思うと、僕は心の視野が急速にせばまり、ぜひとも絵里と甲府に泊まりたいという気持ちになった。不意に、絵里とベッドをともにできるチャンスだ、という想いが湧いた。あわててその想いを消そうとしたが、それを期待する気持ちは消えなかった。
相談はすぐにまとまった。その日は甲府に泊り、翌日は朝のうちに昇仙峡へ行くことになった。甲府と昇仙峡をゆっくり見ても、翌日の午後早くには家に帰ることができそうだった。佳子と会うために、午後の二時半に家を出る予定にしていたのだが、それにはじゅうぶん間に合うはずだった。
それから間もなく、次のインターチェンジを出て甲府の街に入った。
スーパーマーケットに立ちよって必要なものを買ってから、電話帳を頼りにホテルをさがした。最初に電話をかけたビジネスホテルに空室があったので、僕と絵里のためにシングルの部屋をふたつ予約した。
およその場所と目じるしになる建物を聞いておいたが、ホテルに向う途中で道を尋ねなければならなかった。
やがてホテルとおぼしい建物が見えてきた。さらに近づくと、建物に表示されている文字が判読できた。目指していたホテルだった。
「あの・・・・・・もし松井さんが・・・・松井さんさえかまわなければだけど」おずおずと、そして低い声で絵里が言った。「私・・・・松井さんといっしょの部屋でもいいんだけど」
絵里が甲府に泊まりたいと言いだした時から、僕はそのことを期待していた。それどころか、絵里がそれを望んでいるような気さえしていた。そのために、絵里のその言葉を予期していたような気持で聞いたが、それでもなお、その言葉は僕を驚かせ、たじろぐような気持ちにさせた。
心がはげしく騒ぎはじめた。僕は道のわきに車をとめた。泊まるはずのホテルはすぐ眼の前だった。
僕はたかぶる気持ちを抑えながら言った。「ほんとにいいのか」
絵里はダッシュボードに眼を向けたまま、無言で小さくうなづいた。絵里の気持を読みとろうとして、僕の心はいそがしく動いた。その一方で理性はすっかり鈍ってしまい、絵里を抱きたいという想いがすでに僕を支配していた。
ホテルの建物と塀にはさまれた通路を通り、さほどに広くはない駐車場に車を入れた。
フロントで手続きをすませて、絵里といっしょに三階の部屋へ向かった。洗面用具などの入ったスーパーの買物袋と、絵里の小さなバッグだけが僕たちの持ちものだった。
最初に二人で入った部屋を絵里が使うことにした。部屋の入口から狭い通路が続き、そのわきにバスルームがあった。通路の先がベッドルームで、そこにはシングルベッドと机が置かれ、机のうえにはテレビがあった。つぎの部屋にもふたりでいっしょに入り、同じような造りの部屋の中をながめた。そこが僕の部屋になった。
南側に面した窓をあけると、あかりのつき始めた街並のかなたに、富士山が思わぬ近さで見えていた。頂きの辺りを夕日に照らされた富士山は、夕方の空を背にしてひっそりとたたずんでいた。その光景をながめていると、はやるような気持ちが少しおちついた。
「いまのうちに家に連絡しときなよ。だけど」と僕は言った。「もしも、外泊に反対されたらどうするんだ」
「だいじょうぶ、心配しないようにうまく話すから」
ほほ笑みながら言った絵里を見て、僕の心は少しだけほぐれた。しばらく忘れていたほほ笑みを、ようやく思い出したかのような、そんな絵里の笑顔だった。
「それじゃ、早く電話しなよ。部屋からかけられるから」と僕は言った。「おれも家に電話するけど、その前にシャワーをあびるよ」
絵里はすぐに部屋から出ていった。数秒後にはドアの閉まるにぶい音がして、絵里がとなりの部屋に入ったことがわかった。その音を聴いただけでも僕は心がうきたった。
外泊することを自宅に知らせようと思い、電話の前で口実を考えた。ホテルの部屋は静かで、近くを走る車の音だけがかすかに聞こえた。僕はふと思った、絵里は電話をおえてからどうするだろう。僕と同じようにシャワーを浴びるつもりだろうか。
ノックの音が聞こえたのでドアを開けると、そこにいたのは絵里だった。
「ホテルの外へ電話をかける方法、説明書を見たけど間違えそうでこわいのよ。教えてもらいたくて」と絵里が言った。
「入りなよ、教えるから」
部屋に入るようにと絵里をうながして、僕はベッドルームに向かった。うしろでドアの閉まる音がした。そのとたんに、いよいよ絵里を抱けるのだ、という期待感があらためて強くわきあがった。
僕はベッドに腰をおろして、目の前のテーブルから電話の説明書をとり、絵里を横に腰かけさせた。
絵里がそっと腰をおろすと、マットレスがたわんで絵里の体が押しつけられてきた。僕は絵里をだきよせて説明書をひらいたが、衣服を通して伝わる絵里の体温に気をとられ、首をまわして絵里を見た。絵里は僕が手にしている説明書を見ていた。不意に、それほどに急いで電話をかける必要はないのだ、という気がした。僕は身体をまわし、絵里にキスをした。
絵里は思いのほかに積極的に応えた。嬉しさがわきあがると同時に、僕の感情の昂ぶりがはじけた。僕は絵里を抱いたまま身体をずらし、絵里をベッドの中ほどに寝かせてシャツに手をかけた。
絵里が反射的に僕の腕を押さえて、「松井さん、待って」と声をあげた。
はぐらかされたような気持ちになって絵里から腕を離すと、絵里は「ごめんなさい」と言いながら起き上がった。
絵里は「ごめんなさい」と繰り返してから、「先に電話をかけさせて」と言った。
気持ちの乱れを抱えたまま、僕は足元から説明書を拾いあげ、ホテルの外に電話をかける方法を調べた。
その部屋から絵里に電話をかけさせることにして、その間に僕はシャワーをあびることにした。
数分間でシャワーをおえて部屋に戻ると、絵里はまだ電話の前にいた。受話器はすでに置かれていた。
僕に気づいて振り向いた絵里が、緊張した面持ちで立ちあがった。
「どうしたんだ」僕は絵里をのぞき込むようにして言った。
「ごめんね、松井さん。いそいで東京へ帰らなくちゃならないの」僕を見つめながら絵里が言った。「お父さんが入院したんだって」
絵里を抱きたいと思う気持は一瞬にして消えた。ホテルに泊まるどころか、一刻も早く絵里をつれて帰らねばならなくなった。
絵里が自宅に電話をかけたら、親戚の人が留守番をしており、絵里の父親が急病で入院したことを伝えたという。長く入院することはなさそうだと聞かされたらしいが、病気についての詳しいことがわからないために、絵里は強い不安におそわれていた。
絵里に同情しながらも、僕は強い不満をおぼえた。偶然のことではあるにしろ、このようなときに絵里の父親が入院するとは、ついていないとしか言いようがない。そのような気持ちを胸にしながらフロントへ電話をかけて、宿泊をとりやめることを伝えた。
僕たちはあわただしく身仕度をしてフロントへゆき、宿泊をとりやめる手続きをした。
ホテルを出て十分後には、中央自動車道を東京へ向っていた。その一日の浮きうきした気分は消えて、僕たちはすっかり寡黙になった。そのうちに、FMラジオの音楽に雑音がまじり始めた。僕はラジオに手をのばして、甲府の放送局から東京の局にきりかえた。音楽を聴きたいという気持ちはなかったが、スピーカーからの音がほしかった。
車でホテルを離れたときは、大切なものを取りあげられたような気分だったが、東京へ向かって走っているうちに、そのような気持はすっかり消えていた。それに代わって胸を満たしたのは、自制心を失っていた自分を責める感情だった。
食堂にはかなりの客が入っていたけれども、窓の近くに空いたテーブルがあった。いつものように絵里は僕の左横にこしかけた。
僕たちは注文した品を待ちながら、テーブルに置かれていた観光用のパンフレットを見た。
「昇仙峡って名前は知ってたけど、甲府の近くだったのね」
「いい名前だよな、昇仙峡というのは」
「名前もいいし、馬車で観光できるし。おもしろそうね、馬車に乗れるなんて」パンフレットの写真を見ながら絵里が言った。「この写真みたいに、松井さんと並んで馬車に乗れたらいいな」
いっしょに喫茶店などに入ると、絵里はいつも僕と並んで席をとり、あたりの人に遠慮するかのような声で話した。そのサービスエリアでも、絵里は僕の横にならんでいたが、いつになくその声は大きく、笑い声も明るくはしゃいでいた。
僕がカツ丼をたいらげたとき、絵里の皿にはライスカレーが半分ほど残っていた。絵里にゆっくり食事をとらせるために、僕はコーヒーを注文した。
食堂を出て車に向かうあいだ、絵里はほとんど口をきかなかった。助手席に座った絵里は、無言のままにシートベルトをつけた。いつのまにか絵里から笑顔が消えていた。
「疲れたみたいだな。シートを倒そうか」と僕は言った。
絵里はフロントガラスに顔を向けたまま、「松井さん、あしたの日曜日、何か予定がありますか」と言った。
「昼過ぎまではひまだけど。どうしたんだよ、いきなり」
「もしよかったら・・・・」ためらうような口調で絵里が言った。「甲府に泊まって、昇仙峡を見たいけど」
絵里がいきなり意外なことを言いだした。
「おれはいいけど、家の人が心配しないか」
絵里は前をむいたまま、「いいの、電話でうまく話すから」と答えた。
胸を高鳴らせながら、絵里はたしかに甲府に泊りたがっている、と思った。きょう一日の喜びを、明日まで持ち越したがっているみたいだ。せっかくの絵里の希望だ、いっしょに甲府に泊まることにしよう。
食堂から持ってきた観光案内を見ながら、昇仙峡を訪ねることができるかどうかを調べてみた。絵里の口調はいつになく事務的だった。絵里が気持ちを昂ぶらせているのだと思うと、僕は心の視野が急速にせばまり、ぜひとも絵里と甲府に泊まりたいという気持ちになった。不意に、絵里とベッドをともにできるチャンスだ、という想いが湧いた。あわててその想いを消そうとしたが、それを期待する気持ちは消えなかった。
相談はすぐにまとまった。その日は甲府に泊り、翌日は朝のうちに昇仙峡へ行くことになった。甲府と昇仙峡をゆっくり見ても、翌日の午後早くには家に帰ることができそうだった。佳子と会うために、午後の二時半に家を出る予定にしていたのだが、それにはじゅうぶん間に合うはずだった。
それから間もなく、次のインターチェンジを出て甲府の街に入った。
スーパーマーケットに立ちよって必要なものを買ってから、電話帳を頼りにホテルをさがした。最初に電話をかけたビジネスホテルに空室があったので、僕と絵里のためにシングルの部屋をふたつ予約した。
およその場所と目じるしになる建物を聞いておいたが、ホテルに向う途中で道を尋ねなければならなかった。
やがてホテルとおぼしい建物が見えてきた。さらに近づくと、建物に表示されている文字が判読できた。目指していたホテルだった。
「あの・・・・・・もし松井さんが・・・・松井さんさえかまわなければだけど」おずおずと、そして低い声で絵里が言った。「私・・・・松井さんといっしょの部屋でもいいんだけど」
絵里が甲府に泊まりたいと言いだした時から、僕はそのことを期待していた。それどころか、絵里がそれを望んでいるような気さえしていた。そのために、絵里のその言葉を予期していたような気持で聞いたが、それでもなお、その言葉は僕を驚かせ、たじろぐような気持ちにさせた。
心がはげしく騒ぎはじめた。僕は道のわきに車をとめた。泊まるはずのホテルはすぐ眼の前だった。
僕はたかぶる気持ちを抑えながら言った。「ほんとにいいのか」
絵里はダッシュボードに眼を向けたまま、無言で小さくうなづいた。絵里の気持を読みとろうとして、僕の心はいそがしく動いた。その一方で理性はすっかり鈍ってしまい、絵里を抱きたいという想いがすでに僕を支配していた。
ホテルの建物と塀にはさまれた通路を通り、さほどに広くはない駐車場に車を入れた。
フロントで手続きをすませて、絵里といっしょに三階の部屋へ向かった。洗面用具などの入ったスーパーの買物袋と、絵里の小さなバッグだけが僕たちの持ちものだった。
最初に二人で入った部屋を絵里が使うことにした。部屋の入口から狭い通路が続き、そのわきにバスルームがあった。通路の先がベッドルームで、そこにはシングルベッドと机が置かれ、机のうえにはテレビがあった。つぎの部屋にもふたりでいっしょに入り、同じような造りの部屋の中をながめた。そこが僕の部屋になった。
南側に面した窓をあけると、あかりのつき始めた街並のかなたに、富士山が思わぬ近さで見えていた。頂きの辺りを夕日に照らされた富士山は、夕方の空を背にしてひっそりとたたずんでいた。その光景をながめていると、はやるような気持ちが少しおちついた。
「いまのうちに家に連絡しときなよ。だけど」と僕は言った。「もしも、外泊に反対されたらどうするんだ」
「だいじょうぶ、心配しないようにうまく話すから」
ほほ笑みながら言った絵里を見て、僕の心は少しだけほぐれた。しばらく忘れていたほほ笑みを、ようやく思い出したかのような、そんな絵里の笑顔だった。
「それじゃ、早く電話しなよ。部屋からかけられるから」と僕は言った。「おれも家に電話するけど、その前にシャワーをあびるよ」
絵里はすぐに部屋から出ていった。数秒後にはドアの閉まるにぶい音がして、絵里がとなりの部屋に入ったことがわかった。その音を聴いただけでも僕は心がうきたった。
外泊することを自宅に知らせようと思い、電話の前で口実を考えた。ホテルの部屋は静かで、近くを走る車の音だけがかすかに聞こえた。僕はふと思った、絵里は電話をおえてからどうするだろう。僕と同じようにシャワーを浴びるつもりだろうか。
ノックの音が聞こえたのでドアを開けると、そこにいたのは絵里だった。
「ホテルの外へ電話をかける方法、説明書を見たけど間違えそうでこわいのよ。教えてもらいたくて」と絵里が言った。
「入りなよ、教えるから」
部屋に入るようにと絵里をうながして、僕はベッドルームに向かった。うしろでドアの閉まる音がした。そのとたんに、いよいよ絵里を抱けるのだ、という期待感があらためて強くわきあがった。
僕はベッドに腰をおろして、目の前のテーブルから電話の説明書をとり、絵里を横に腰かけさせた。
絵里がそっと腰をおろすと、マットレスがたわんで絵里の体が押しつけられてきた。僕は絵里をだきよせて説明書をひらいたが、衣服を通して伝わる絵里の体温に気をとられ、首をまわして絵里を見た。絵里は僕が手にしている説明書を見ていた。不意に、それほどに急いで電話をかける必要はないのだ、という気がした。僕は身体をまわし、絵里にキスをした。
絵里は思いのほかに積極的に応えた。嬉しさがわきあがると同時に、僕の感情の昂ぶりがはじけた。僕は絵里を抱いたまま身体をずらし、絵里をベッドの中ほどに寝かせてシャツに手をかけた。
絵里が反射的に僕の腕を押さえて、「松井さん、待って」と声をあげた。
はぐらかされたような気持ちになって絵里から腕を離すと、絵里は「ごめんなさい」と言いながら起き上がった。
絵里は「ごめんなさい」と繰り返してから、「先に電話をかけさせて」と言った。
気持ちの乱れを抱えたまま、僕は足元から説明書を拾いあげ、ホテルの外に電話をかける方法を調べた。
その部屋から絵里に電話をかけさせることにして、その間に僕はシャワーをあびることにした。
数分間でシャワーをおえて部屋に戻ると、絵里はまだ電話の前にいた。受話器はすでに置かれていた。
僕に気づいて振り向いた絵里が、緊張した面持ちで立ちあがった。
「どうしたんだ」僕は絵里をのぞき込むようにして言った。
「ごめんね、松井さん。いそいで東京へ帰らなくちゃならないの」僕を見つめながら絵里が言った。「お父さんが入院したんだって」
絵里を抱きたいと思う気持は一瞬にして消えた。ホテルに泊まるどころか、一刻も早く絵里をつれて帰らねばならなくなった。
絵里が自宅に電話をかけたら、親戚の人が留守番をしており、絵里の父親が急病で入院したことを伝えたという。長く入院することはなさそうだと聞かされたらしいが、病気についての詳しいことがわからないために、絵里は強い不安におそわれていた。
絵里に同情しながらも、僕は強い不満をおぼえた。偶然のことではあるにしろ、このようなときに絵里の父親が入院するとは、ついていないとしか言いようがない。そのような気持ちを胸にしながらフロントへ電話をかけて、宿泊をとりやめることを伝えた。
僕たちはあわただしく身仕度をしてフロントへゆき、宿泊をとりやめる手続きをした。
ホテルを出て十分後には、中央自動車道を東京へ向っていた。その一日の浮きうきした気分は消えて、僕たちはすっかり寡黙になった。そのうちに、FMラジオの音楽に雑音がまじり始めた。僕はラジオに手をのばして、甲府の放送局から東京の局にきりかえた。音楽を聴きたいという気持ちはなかったが、スピーカーからの音がほしかった。
車でホテルを離れたときは、大切なものを取りあげられたような気分だったが、東京へ向かって走っているうちに、そのような気持はすっかり消えていた。それに代わって胸を満たしたのは、自制心を失っていた自分を責める感情だった。