第5章 迷路

 坂田が入っている寮は工場と隣接していたけれども、そこへ行くには工場の門を出なければならなかった。僕は工場を出て、会社のグラウンドに沿った道を寮に向った。坂田はひと足さきに自分の部屋へ帰っているはずだった。
旅行中に写したたくさんの写真は、現像と焼増の依頼を母に頼んでおいたので、旅行から帰って二日目にはできあがっていた。絵里と綾子には坂田から渡してもらうことにして、3人ぶんの写真を持って坂田の部屋を訪ねたのだが、ついでに会社の寮を見たいという気持ちもあった。
 坂田の部屋は4畳ほどの広さで、ベッドと机が大半を占めていた。机の上には小さなテレビとミニコンポが置かれ、書き物をするには窮屈そうだった。
 坂田にすすめられた椅子に腰をおろして、僕はあらためて部屋を見まわした。ベッドの上には衣類や雑誌が置かれ、大急ぎでかたづけたらしいあとが歴然としていた。
「お前がつき合っている人のことだけど、どんな具合なんだ」
 インスタントコーヒーの準備をしていた坂田が、うしろ向きのままで言った。
 その問いかけにたじろぎながら、僕は「どんな具合って、ただつき合っているだけだよ」と答えた。
「いつからだ」
「去年から」
「それで、どんなつき合いなんだ」
 すぐにも話題を変えたかったが、その質問には答えなければならなかった。
「去年、いとこに紹介されたんだ。今でも、たまには会ってるよ」
 坂田は向き直ると、「あのな、絵里のやつだけど、じつはな、お前のことを好きみたいだぞ」と言った。
 僕が絵里の気持ちを知っていることに、坂田はすでに気づいていたはずだ。それどころか、絵里に対する僕の感情を見ぬいているに違いなかった。
 僕は坂田の言葉に黙ってうなづいたが、それだけでは足りないような気がした。僕はあわただしく言葉をさがし、さりげない口調で言った。
「おれだって、初めて会ったときから絵里さんを好きになったよ、とても感じがよかったから」
 坂田は湯をつぎながら、「お前がそう言っていたと、絵里に伝えておくよ」と言った。
 僕は黙って机の上のコーヒーカップに手をのばした。坂田が砂糖を入れようとしたが、それをことわってコーヒーを口に運んだ。
 つき合い始めてからまだ日は浅かったけれども、絵里を失いたくない気持ちはすでに強かった。佳子との仲がどのようなものかを、絵里だけでなく坂田にも隠したかった。コーヒーカップに眼を落としていると、不安な想いがわいてきた。絵里はもとより坂田にも、ずいぶん不誠実なことをしているような気がした。不安を胸にしながら、僕にとってはにがすぎるコーヒーをすすった。

 佳子と電話で話したのは、それより二日ほど前の夜だった。旅行から帰った翌日の月曜日に、佳子の方から電話をかけてきた。
 聞きなれた佳子の声はいつもと同じで、どこにも変わったところがなかった。当然ともいえるそのことに、僕はほっとするような気持になった。
「どうだった、旅行。天気が良かったでしょう」
「ずっと晴れてた。ついてたよ。でもよく知ってるな天気のこと」
「テレビの天気予報を見たら、全国の天気がわかるでしょ。いつも見てたんだからね、山陰地方の天気のことも」
 たとえ一緒にくらしていなくても、佳子には僕がそれほどまでに身近な存在なのだ。佳子のその言葉が、あらためて僕にそのような想いをいだかせた。佳子がいじらしかった。絵里とのことをうしろめたく思った。
 佳子とは土曜日に会うことになった。佳子にはいつも通りのことであっても、僕には心のあり方を試されるデートになりそうだった。

 土曜日の午後、僕は佳子に会うために、いつもの場所へ向かって車を走らせた。
それまでの一週間というもの、佳子と絵里にどのように向き合うべきかと考え続けたのだが、答はまったく得られなかった。自分のとるべき態度を決め得ないまま、僕は佳子と会うことになった。
 いつもと変わらぬ佳子の笑顔と声が僕をむかえた。いつも通りに身ぶりで挨拶を交わし合ったら、ほっとするような気持ちになった。佳子の笑顔を眼にして嬉しかったのは、自分がまだ佳子を愛していることを実感できたことだった。
 僕たちはいつものように早めの夕食をとった。食事をしながら写真を見せて、鳥取の砂丘や出雲での訪問先のことを話した。佳子には絵里のことをいっさい隠しておきたかったので、僕だけか、あるいは僕と坂田のふたりしか写っていない写真をえらんでおいた。友人とふたりで山陰地方へ出かけると伝えておいた僕の言葉に、佳子が疑いを持つことはなかったはずだ。
 佳子とホテルに入るような気分にはなかったので、それを避けるための口実を用意しておいたが、きげんのよい佳子を相手にしているうちに気持ちが変わり、結局のところは、いつものデートと同じようにことが運んだ。絵里は僕の心の奥に姿をひそめ、佳子にその存在を覚られることはなかった。
 駅の前に車をとめて、助手席を出てゆく佳子を見送った。佳子はきげんよく帰って行ったが、僕には自己嫌悪に似た感情が残った。僕が持っていたはずの良心や誠意というものも、本当はまやかしではなかったのかと、心のどこかが自分を責めていた。
その夜、僕は自室にこもって絵里との行く末を思った。佳子と別れないかぎり、絵里との将来はあり得ない。それならば、絵里のために佳子と別れることができるのか。できるはずがない。結婚するつもりで一年半も付き合ってきたのだ。あの佳子を悲しませ、苦しめることはできない。そうであるなら、付き合って間もない絵里とは別れることになる。絵里を悲しませたくないし、別れたくもない。ということは、今の自分は絵里をより深く愛しているということか。佳子を愛していることに疑いはないのに。
僕は佳子と知り合った頃を思い返した。そして思った。もしかすると、こんなことになったのは、俺自身の性格的なくせに問題があるのかも知れない。子供の頃から新しいことに夢中になる傾向がある。仮に絵里を選んだにしても、いつかまた、別の女に夢中にならないとは限らない。いや、それは考え過ぎというものだろう。女に対する感情は、遊びや趣味あるいは知識欲に対するものとは異質なものだ。
 なおしばらく考えたあげくに、僕は答を見つけることをあきらめた。僕は机を離れて居間へ移った。

絵里が電話をかけてきたのは、次の日の午前中だった。
 絵里は「たくさんの写真、ありがとうございます。兄さんから昨日受け取りました」と言った。快活な口調でありながら、話しぶりにはぎこちなさが感じられた。
 絵里はいくつかの写真について感想を語った。
 絵里が言った。「松井さんといっしょに写っている写真を見てるとね、そのときの気持ちが思いだされるのよね。楽しかったし・・・・ほんとに幸せだったなって。松井さんと一緒だったから」
 その声には震えがあった。気持をふるい立たせながら話している絵里を想った。僕は絵里をいとおしく思った。
 僕は浜辺での絵里を思い出しながら、「僕も楽しかったよ、絵里さんや坂田と一緒だったから」と言った。
「兄さんからも写真をもらったのよ、松井さんと写っている写真をたくさん」
 言葉を交わしているうちに、絵里の心の内が気になった。電話をかけてきた目的が、写真について語り合うことだけとは思えなかった。
 絵里は電話機のそばに写真を並べているらしく、次からつぎへと写真にかかわる話題を出してきた。どんな話題に対しても、僕は意識して楽しそうに応じた。特急列車での気まずい雰囲気が尾をひいており、会話に笑い声が混じることはあっても、ぎこちない笑い声はすぐにとぎれた。快活に声を交わしながらも、以前のように言葉が踊ることはなかった。
 会話が終わりそうな雰囲気になったとき、絵里が意を決したような口ぶりで、「もし、できればだけど……会ってもらえたらと思って。きょうの午後に会ってもらえたら嬉しいけど」と言った。
 その声が僕の気持ちを伺っていた。それに応じなければ、絵里との間に垣根ができてしまいそうだった。僕のささやかな理性は、すぐにも垣根を作れと命じていたが、感情はそれを望まなかった。それどころか、絵里のその言葉がうれしかった。そして結局は、その日の午後に絵里と会うことになった。
 前日の土曜日に佳子と会ってから、自分の優柔不断さを責める意識が強まっていた。早く答を出さなければ、事態は困難になるばかりだぞ。感情に流されて行く先には苦しみが待っているのだ。ところが、絵里と会う約束をしたら、そのような意識は心の奥に押しやられてしまった。僕は思った。デートをするからには、絵里に気まずい想いをさせてはならない。絵里を楽しい気持ちにしてやらねばならない。
 気持ちの整理がつかないままに、それ以来、絵里とのデートを繰り返すことになった。絵里と過ごすひと時が、以前にまして歓びをもたらすようになったが、絵里と別れた後は、いつも迷路の中にとり残された。僕は途方にくれているばかりで、出口を求める努力をしなかった。佳子とのつき合いはそれまで通りに続いており、会えばホテルに入るという習慣も変わることがなかった。
 僕は佳子と絵里の間で揺れていたわけではなかった。僕の心の中で、佳子と絵里はそれぞれの座を占めていた。
 佳子の前ではそれまでと変わることなく振る舞えた。佳子が絵里の存在に気づくはずはなかった。絵里は僕とのデートを重ねるうちに、佳子の存在をそれほど気にしなくなったに違いない。不安定で落ち着かない気持ちを抱えながらも、僕は佳子と絵里の間で奇妙な安定状態を保っていた。いずれはやってくるはずの破綻から遠ざかろうとして、僕は優柔不断という隠れ家に身をひそませていた。そのようにしてひと月あまりを過ごすうちに、暑かった9月も終わりになった。

 試作は進んでいたものの、商品化を阻む壁にぶつかり、小宮さんとともに残業をする日々が続いた。
 晴れた日には、昼の休憩時間にひとりで屋上にゆき、人家とビルが混在する街の風景や、遠くに見える山並を眺めた。屋上から見える会社のテニスコートでは、ラケットを手にした社員たちが走りまわっており、女子社員たちのはなやぐ声が聞こえた。かん高い歓声が聞こえてくると、佳子や絵里のことが想われた。
 会社にいる間にも、佳子と絵里のことは心にうかんできたが、そのことが仕事のさまたげになるようなことはなかった。実験や測定に取り組みはじめると、僕はそのことに集中できた。
 アイデアが閃いたのは、自動販売機の横でコーヒーを飲みながら、はげしい雨を眺めていたときだった。アスファルトをたたく雨がしぶきをあげていた。風が吹き過ぎると、しぶきの層が地表付近を霧のように流れた。霧のように見えているところは、雨滴にしぶきが加わっているのだから、その分だけ空間の水分量が多いのだ、と思ったとたんに、僕の中で閃くものがあった。僕は紙コップを手にしたまま職場にかえり、小宮さんをせきたてて会議室に入った。
 僕は白板に向かって、思いついたばかりのアイデアを記した。アスファルトで跳ね返る水滴の動きをヒントに、CVD装置内でのガス分子の動きを類推し、それをもとに試作方法を変更しようとする案だった。そのアイデアを小宮さんは即座に受け入れた。そのまま会議室で実験方法を検討し、1時間ほどで試作案を作った。
「よし、これで決まった」と小宮さんが言った。「今日のうちに準備しておいて、あしたから作ってみよう」
 それから一週間後には、厚かった壁を崩せる見通しが得られた。さらに一週間が過ぎた頃には、スピーカーユニット用の評価サンプルを作ることができた。
 評価試験の結果は満足すべきものだった。小宮さんとの努力が実を結ぼうとしていた。その材料を使ったスピーカーが実用化され、それを組み込んだシステムが製品になったら、それを手にいれて音楽を聴いてみたいと思った。
 それから先のおもな仕事は、生産に移すうえでの問題点を解決することと、試作品と同じものを安定して作れるようにすることだった。解決しなければならない課題は残っていたが、見通しは明るかった。
 僕が新しい目標を意識するようになったのは、試作に成功してから間もない頃だった。試作の仕上げに力を注ぎながらも、その一方で、スピーカーシステムを開発してみたい、という気持ちが芽ばえていた。その仕事に移れば野田課長のもとを離れられるので、新しい目標を僕は次第に強く意識しはじめた。それまでの仕事にはゴールがすでに見えていたから、担当業務を変えてもらえる可能性はありそうに思えた。

 事務室で実験データをまとめていると、池田からの電話があった。
 特別な用件はないと言いながらも、池田はなぜか僕に会いたがっていた。池田が大学院の入試に合格したことがわかったので、合格祝いということにしておごることにした。
 その日は残業をしないで、池田と会う約束の新宿駅へ向かった。
 どうしたわけか、池田には元気がなかった。おごるから一緒に飲もうと誘ったのだが、池田が望んだのはコーヒーだった。
 駅に近い喫茶店の片隅で、池田は大学院でつかもうとしている夢を語った。博士課程まで進んで将来は大学に職を得るつもりだと聞いて、池田らしい選択だと思いながら僕は声援をおくった。
「ところでな、松井」と池田が言った。「おまえには付き合っている人がいたはずだが、まだつき合ってるのか、その人と」
「どうしたんだよ、いきなり。お前はまさか、あのひとと別れたんじゃないだろうな」
 学生時代の池田にはつき合っている女がいて、結婚を前提にした付き合いをしていた。彼らといっしょに過ごす機会があったので、僕はその人と言葉をかわしたことがあった。活発すぎるようなところはあったけれども、とても感じの良い人だった。意外なことに、池田はその女と別れるつもりだと話した。理由を聞いても池田は答えなかった。
「よくそんな気になれたな」と僕は言った。「別れるといっても、簡単にできるものじゃないだろう」
「いろいろあるだろ、人それぞれに」
「人それぞれと言っても、あの人は納得してるのか」
「まだ話してないからな、あいつには」
「別れたくないと言ったらどうするんだ」
「おれはもう決めたんだ」
「いくらなんでも、あの人の気持を確かめもしないで決めたりはしないだろうな」
「あいつのことも考えたさ、もちろん」
「結婚するつもりだったんだろ」
「おれにはそんな気はない。あいつだって、最初からそんな気は無かったと思う」
 ずいぶん身勝手なことだと思った。池田の考え方に腹が立ったが、すぐにうしろめたいような気持ちになった。佳子と別れようなどとは思ってもいなかったが、自分には池田を非難する資格など無さそうな気がした。
 しつこいとは思いながらも、僕は「あの人は、お前にはもったいないくらいだぞ。よく考えたほうがいいぞ」と言った。
「言っただろ。おれはもう決めたんだ」
 池田の口調にはその話題を拒絶するような響きがあった。
 そのあとで、大学院のことがふたたび話題になったが、池田からは、会話に対する意欲が感じられなくなっていた。
 池田と別れたあとで考えたのは、時間をかけて話し合った大学院のことではなくて、池田の別れ話のことだった。池田がその話題を持ちだしたのは、そのことで僕に相談したいという気持ちがあったからに違いなかった。話が途中で終わったのは、僕が女の方に同情しすぎたためであろうか。池田はそれほど不誠実な男ではないから、彼の方にこそ同情すべき事情があったのかも知れないのだが、そのとき僕は一方的に女の方に同情していた。それと意識することはなかったけれど、僕は心の底で、その女と佳子を重ね合わせていたのかも知れない。佳子と別れることなど考えられなかったが、佳子との行く末を予想することはできなくなっていた。

 小宮さんに職場異動の話がもちあがった。小宮さんにとっては無論のこと、僕にもそれは大きな驚きだった。野田課長は小宮さんに告げたという、人事部からの要請に応えるもので、その異動先では小宮さんの知識と経験を生かすことができるはずだと。小宮さんは野田課長のその言葉を信用しなかった。
「小宮さんはスピーカーをやりたいんでしょ」
「もちろんスピーカーだよ、おれがやりたいのは」
「小宮さんがいなくなったらスピーカー部は困るはずなのに、どうしてだろう」
「野田さんが言うには、あっちの方でもCVDを使うことになったらしいんだ。だけど、やっぱり、おれが野田さんにきらわれてるからだろうな」
「もしも移ることになったとしたら、いつ頃だろう」
「決まったとしても、実際に移るのは来年になってからだな。吉野さんのときは一月だったから、その頃だと思うよ」と小宮さんは言った。
 僕たちの仕事に見通しはついていたから、数か月も先なら小宮さんが去っても、仕事への影響は無さそうだった。とはいえ、小宮さんの異動は僕にとっても好ましくなかった。小宮さんが出ていったなら、たとえ僕が望んでも、スピーカーシステムの仕事に移れなくなりそうだった。
 その翌日、僕は野田課長に申し出て、小宮さんの異動のことで話し合った。小宮さんには無駄なことはするなと止められたのだが、それでも僕は野田課長に疑問をぶつけずにはいられなかった。
 僕は野田課長にうったえた。CVD技術に精通している小宮さんは、自分たちの課に必要な人材であること。そしてなによりも、僕が小宮さんの指導をまだ必要としていること。
「君のことは僕が考える。これからの仕事のことだけでなく、君の将来のことについてもだ。だからな、君は何も心配することはないんだよ」と野田課長が言った。
「ほんとに僕は困るんですよ、小宮さんみたいなベテランがいなくなると」
「心配するな、松井君。君はもうりっぱなベテランだよ。それにな、小宮君がいなくなったら君はもっと伸びると思うんだ」
 ずいぶん不謹慎なことを言う課長だと思った。僕がだまっていると野田課長はさらに続けた。「僕は君に期待してるんだよ松井君。たいした新入社員だよ君は」
「小宮さんが教えてくれたからですよ」
「君だったらやれるな、小宮君がいなくても。君には自信があるはずだがな」
「僕はまだ小宮さんに教えてもらいたいし、それに、小宮さんだってスピーカーの仕事を続けたいと言ってます」
「僕は小宮君から感謝されると思ってるんだがな。今度のことは小宮君にとっても、そんなに悪い話じゃないんだ。とにかくだな、僕はこれからの課のことを、会社のことを考えなきゃならんのだよ。君にはわからないかも知れんけどな」
「それはわかっているつもりです。ですけど、小宮さんをここから出すなんて、誰が考えてもおかしいですよ」言い過ぎたとは思いつつも、野田課長を非難するような口調で僕は続けた。「CVDにはいちばんくわしい人だし、それに、あれだけ力のある人だし」
「このことは、会社のために必要なことなんだ。君が判断することじゃない」野田課長は怒ったように言うと立ちあがり、命令するような口調で言った。「いいか松井君。とにかくだな、このことは君が心配することじゃないんだ」
 野田課長は会議室から出て行き、小宮さんが予想したとおりの結果に終わった。
 会議室の椅子に残ったまま、僕は失望感にとらわれていた。野田課長に対する嫌悪感を強くおぼえた。小宮さんの異動が小宮さんのためになるというのはまだしも、僕のために小宮さんを異動させるかのような言い方をしたではないか。
 あんな課長のもとをすぐにも去りたいと思ったが、小宮さんの異動が実現すれば、たとえ僕が望んでも、スピーカーシステムの仕事には移れないはずだった。
 食堂で昼食をとっていると、同期入社の鈴木が近よってきた。きげんのよさそうな鈴木の様子にいやな予感がした。
 鈴木は僕の横に腰をおろすと、自動販売機で買ったらしいタバコを手にしたまま、音をたててテーブルに肘をついた。
 鈴木はタバコの封を切りながら、「小宮さんのことで助命嘆願したそうだな」と声をひそめて言った。
 野田課長と話し合ったことを、どういうわけで鈴木が知っているのだろうか、という疑念とともに、鈴木が話しかけてきた目的に対する警戒心が湧いてきた。
「なんのことだ」と僕は言った。「小宮さんがどうしたんだ」
 鈴木は黙ったままタバコをくわえ、ポケットから取り出したライターで火をつけた。僕はじらされているような気がした。
 ゆっくりと煙をはきだしてから鈴木が言った。
「君は本気で小宮さんに残ってもらいたいと思ってるのか」
「どうして知ってるんだ、小宮さんのこと」
 鈴木はもういちど煙をはきだしてから、手をのばして灰皿をひきよせた。
「野田さんが斎藤さんに相談してたぞ。君は小宮さんのことで野田さんに文句を言ったそうだな」
 用心しなければならないと思った。斎藤係長はいつも野田課長のきげんをとっているような男だったし、鈴木はどういうわけか斎藤係長に気に入られていた。
「僕はべつに文句をつけようなんて思っちゃいない」
「君がしゃべったことなど、野田さんは気にしちゃいないよ。心配するな。それよりもな、うまくやれば、小宮さんに残ってもらえるかも知れないぞ」
「うまくやるって、どういう意味だ」
「斎藤さんに相談するくらいだから、もしかすると、君の話を聞いて野田さんも迷ってるんじゃないのかな。CVDの装置に詳しいのは、君と小宮さんだけだから」
 野田課長が決断を迷うなどとは思えなかった。僕がだまっていると、鈴木は灰皿にタバコをこすりつけ、「がんばってみるんだな、野田さんが迷っているうちに」と言って立ちあがった。
 僕は定食の残りをたいらげながら、僕と話したことを、どうして野田課長は他の者に漏らしたのだろうか、と思った。課長が係長に相談するようなことだろうか。悪意に解釈すれば、単なる笑い話の材料にされただけかも知れなかった。そう思えば、野田課長に迷いがあるという鈴木の言葉にも、悪意が潜んでいそうな気がした。鈴木の言葉を真に受けてうかつなことをしたら、野田課長の反感を買うことになりかねないと思った。
 午後の実験室で、小宮さんに食堂でのことを話した。
「鈴木のことだから、野田さんに対して松井の印象を悪くするつもりかも知れないぞ。どうしたって、君にはかなわんことを知ってるわけだからな、あいつは。だからな、おれのことで野田さんに二度と相談なんかするな。そんなことをすれば、野田さんに憎まれることになるぞ、おれみたいに」と小宮さんは言った。
 実験室にほかの課員が入ってきたので、僕たちはしゃべることをやめて実験にとりかかった。

木曜日の夜、絵里が電話をかけてきた。
「だからね、友だちはついでに野辺山まで行ったんだって。ドライブも楽しそうだけど、秋の高原というのも素敵な感じよね」
 受話器から聞える絵里の声が心地よかった。電話の先の絵里の笑顔が想像できた。
 電話をかけてきた絵里はいきなり話しはじめた。友人が車で清里高原を訪れたこと。友人から聞かされた秋の中央自動車道と高原のこと。その声を聞いているうちに、絵里の期待に応えていっしょにドライブをしたくなった。
 ドライブをもちかけると、絵里は嬉しさを声に表して同意した。声をはずませている絵里と話し合い、ふつか先の土曜日に中央自動車道を走ることにした。その日は夕方から雨になっていたので、土曜日には好天になりそうだった。
 絵里との会話を終えるとすぐに、僕は道路地図をとりだして山梨県のページを開いた。僕が走ったことのある中央自動車道は、調布と河口湖の区間だけだった。
 土曜日の朝、三鷹駅の近くに停めた車の中で、絵里が現れるはずの場所を見ていた。
 絵里の姿が見えるとすぐに、僕は車からでて手をふった。絵里はすぐに気づいて、バッグを揺らしながら駆けよってきた。そんな絵里の気持ちに応えたくなり、僕はもう一度大きく手をふった。
 秋晴れの中央自動車道を西に向かった。双葉サービスエリアで飲み物をとり、ついでにゆっくり食事をとった。
 小淵沢インターチェンジで中央自動車道をおり、八ケ岳へ向かう道に入った。
 すでに葉を染めた樹が、草原の所どころに小さな林を作っていた。秋の日ざしが高原にそそいで、草原や木々の秋色をきわだたせていた。その光景に誘いだされて、僕たちは車をおりて草原を歩いた。
 草むらをぬって歩いてゆくと、二人が並んで腰をおろすのに格好の場所があった。草や枯草を足でふみならしてから、絵里と並んで腰をおろした。
 草原は南側の低地へむかってゆるやかな斜面をつくり、その先は落ちこむようにとぎれていた。低地を越えたかなたには、甲斐駒ケ岳やその他の峰が、そしてそれらの稜線が、巨大なびょうぶを拡げたように連なっていた。あたりの草を揺るがせて、ときおり風が吹きすぎた。草原にふりそそぐ日ざしは優しかったが、かすめる風は高原の秋の深さを思わせた。
 言葉をかわしながら空を見あげると、白い雲の群れがいくつか輝いていた。わづかばかりのその雲が、紺碧の秋空からにじみ出てくるものをおしとどめていた。空の奥を見つめていると、モーツァルトのピアノ協奏曲を評した文章が思い出された。〈この楽章は青空のような悲しみをたたえている〉 と記されていた言葉の意味が、ようやくわかったような気がした。
 雲の配列を眺めていると、心の中でモーツァルトのメヌエット楽章が鳴った。交響曲四十番のそれをハミングすると、絵里がそっと僕の手にふれた。絵里は僕を見ながらほほえんでいた。
「何を考えてるの」と絵里が言った。
「この空を見て、どんな感じがする?」
「空って、空の色のこと?」絵里は空を見あげた。「見ていると、なんだか吸い込まれそうに感じるわね。・・・・あのときの空・・・・あの星空もほんとに素敵だったけど」
 僕たちはデートを繰りかえしながらも、出雲の夜を話題にしたことはなかった。僕は意識してそれを避けていた。夜の浜辺のことを話題にすれば、絵里との仲が急速に進展するきっかけになりそうな気がした。そうなれば、どうにか保たれている状態がくづれる恐れがあった。絵里がその話題を避けていたのは、特急やくも号での気まずい雰囲気を、心のどこかで意識していたからだろう。そのような気まずさに立ち向かい、それを取り除こうとする努力が、内気な絵里にはできなかったにちがいない。夏の日のあの旅行から、まだ2ヵ月あまりしか経っていなかった。
 そのとき、僕たちはふたりだけの世界にいた。秋空のもとでふたりを見ているのは、南アルプスの山々だけだった。僕たちを束縛するものはなかった。ふたりを束縛していた感情は、東京を離れるにつれて薄まり、草原をわたる風のなかで消えようとしていた。流れ出ようとする言葉を、そのとき絵里はそのまま口にできたのだ。僕はその言葉にさそわれるまま、絵里の肩に腕をまわした。
 ゆっくりと首をまわした絵里が、そのまま僕を見つめるようにした。僕は想いをこめたその瞳をひきよせた。絵里はおずおずと、そしてぎこちなく応えた。ひかえめな絵里のしぐさのなかに、僕に対する絵里の気持ちがにじみでていた。にわかに僕の奥から衝動がわきおこり、それが僕をつき動かした。僕は絵里を抱いたまま体をたおし、絵里を草のうえに仰向けにして唇をむさぼった。
 絵里が顔を離すと、「松井さん」と声を発した。思わず僕は腕をゆるめた。絵里が体を起こそうとしたので、それに応えて絵里を抱きおこしてやった。つかの間の激情の余韻にとまどいながら、僕は絵里の体から手をはなした。絵里は驚きの表情を見せながらも、意外なほどに落ち着いていた。僕はとまどいとともに気はずかしさをおぼえた。
 僕が言葉を探しているあいだに、絵里はシャツの乱れをなおし、乱れた髪を両手でととのえた。絵里の髪や背中には、たくさんの枯葉の破片がついていた。それを取りのぞいてやると、絵里は小さな声で「ありがとう」と言った。その声が出雲の夜の砂浜を思いださせた。背中の砂をはらい落としてやったとき、絵里は同じような口調で「ありがとう」と言ったのだった。僕はあのとき、絵里の背中をなでながら、絵里の心の内の歓びに、シャツを通して触れているような気がした。暑かった出雲の夏から2ヵ月が過ぎ、僕に肩を抱かれている絵里は、白いシャツの上に茶色のセーターを重ねていた。えりもとを高原の冷たい風が流れた。
 南アルプスの山並が、先ほどよりも大きくせまって見えた。紺碧の空に散らばる雲は、先ほどと変わらずに輝いていた。
 僕たちは手をつないだまま立ちあがり、潅木をよけながら草むらを歩いて、車を停めておいた場所へ向った。10月が終わろうとする季節だったが、草原や辺りの木々の眺めはすでに晩秋だった。風が斜面を這いのぼり、絵里に口実を与えて僕に身を寄せさせた。風は少し冷たかったけれども、むしろそれが快かった。絵里は数メートル先まで小走りに走ると、にこやかな笑顔を見せてふり向いた。絵里は嬉々とした笑顔を浮かべたまま、僕にむかって写真をとるまねをした。そんな絵里に応えるために、僕はおどけた形でポーズをとった。
 僕たちは高原の道をドライブして、長坂のインターチェンジへ向かった。その途中で見かけた店に立ち寄り、記念になる土産物をさがしたのだが、ふたりが買い求めたのは、それぞれ数枚づつの絵はがきだけだった。
 帰りの中央自動車道は下りの勾配が続いた。速度のわりに車の中は静かで、ラジオからの音楽も快適だった。絵里の声がとぎれることはなかった。僕にもたれかかってくる声の響きが快かった。いつにも増して絵里にいとおしさを覚えた。
 僕たちは食事をとることにして、双葉サービスエリアに車を入れた。車をおりてみると、そこは丘のはずれで、甲府の街が遠くに見えた。
 食堂にはかなりの客が入っていたけれども、窓の近くに空いたテーブルがあった。いつものように絵里は僕の左横にこしかけた。
 僕たちは注文した品を待ちながら、テーブルに置かれていた観光用のパンフレットを見た。
「昇仙峡って名前は知ってたけど、甲府の近くだったのね」
「いい名前だよな、昇仙峡というのは」
「名前もいいし、馬車で観光できるし。おもしろそうね、馬車に乗れるなんて」パンフレットの写真を見ながら絵里が言った。「この写真みたいに、松井さんと並んで馬車に乗れたらいいな」
 いっしょに喫茶店などに入ると、絵里はいつも僕と並んで席をとり、あたりの人に遠慮するかのような声で話した。そのサービスエリアでも、絵里は僕の横にならんでいたが、いつになくその声は大きく、笑い声も明るくはしゃいでいた。
 僕がカツ丼をたいらげたとき、絵里の皿にはライスカレーが半分ほど残っていた。絵里にゆっくり食事をとらせるために、僕はコーヒーを注文した。
 食堂を出て車に向かうあいだ、絵里はほとんど口をきかなかった。助手席に座った絵里は、無言のままにシートベルトをつけた。いつのまにか絵里から笑顔が消えていた。
「疲れたみたいだな。シートを倒そうか」と僕は言った。
 絵里はフロントガラスに顔を向けたまま、「松井さん、あしたの日曜日、何か予定がありますか」と言った。
「昼過ぎまではひまだけど。どうしたんだよ、いきなり」
「もしよかったら・・・・」ためらうような口調で絵里が言った。「甲府に泊まって、昇仙峡を見たいけど」
 絵里がいきなり意外なことを言いだした。
「おれはいいけど、家の人が心配しないか」
 絵里は前をむいたまま、「いいの、電話でうまく話すから」と答えた。
 胸を高鳴らせながら、絵里はたしかに甲府に泊りたがっている、と思った。きょう一日の喜びを、明日まで持ち越したがっているみたいだ。せっかくの絵里の希望だ、いっしょに甲府に泊まることにしよう。
 食堂から持ってきた観光案内を見ながら、昇仙峡を訪ねることができるかどうかを調べてみた。絵里の口調はいつになく事務的だった。絵里が気持ちを昂ぶらせているのだと思うと、僕は心の視野が急速にせばまり、ぜひとも絵里と甲府に泊まりたいという気持ちになった。不意に、絵里とベッドをともにできるチャンスだ、という想いが湧いた。あわててその想いを消そうとしたが、それを期待する気持ちは消えなかった。
 相談はすぐにまとまった。その日は甲府に泊り、翌日は朝のうちに昇仙峡へ行くことになった。甲府と昇仙峡をゆっくり見ても、翌日の午後早くには家に帰ることができそうだった。佳子と会うために、午後の二時半に家を出る予定にしていたのだが、それにはじゅうぶん間に合うはずだった。
 それから間もなく、次のインターチェンジを出て甲府の街に入った。
 スーパーマーケットに立ちよって必要なものを買ってから、電話帳を頼りにホテルをさがした。最初に電話をかけたビジネスホテルに空室があったので、僕と絵里のためにシングルの部屋をふたつ予約した。
 およその場所と目じるしになる建物を聞いておいたが、ホテルに向う途中で道を尋ねなければならなかった。
 やがてホテルとおぼしい建物が見えてきた。さらに近づくと、建物に表示されている文字が判読できた。目指していたホテルだった。
「あの・・・・・・もし松井さんが・・・・松井さんさえかまわなければだけど」おずおずと、そして低い声で絵里が言った。「私・・・・松井さんといっしょの部屋でもいいんだけど」
 絵里が甲府に泊まりたいと言いだした時から、僕はそのことを期待していた。それどころか、絵里がそれを望んでいるような気さえしていた。そのために、絵里のその言葉を予期していたような気持で聞いたが、それでもなお、その言葉は僕を驚かせ、たじろぐような気持ちにさせた。
 心がはげしく騒ぎはじめた。僕は道のわきに車をとめた。泊まるはずのホテルはすぐ眼の前だった。
 僕はたかぶる気持ちを抑えながら言った。「ほんとにいいのか」
 絵里はダッシュボードに眼を向けたまま、無言で小さくうなづいた。絵里の気持を読みとろうとして、僕の心はいそがしく動いた。その一方で理性はすっかり鈍ってしまい、絵里を抱きたいという想いがすでに僕を支配していた。
 ホテルの建物と塀にはさまれた通路を通り、さほどに広くはない駐車場に車を入れた。
 フロントで手続きをすませて、絵里といっしょに三階の部屋へ向かった。洗面用具などの入ったスーパーの買物袋と、絵里の小さなバッグだけが僕たちの持ちものだった。
 最初に二人で入った部屋を絵里が使うことにした。部屋の入口から狭い通路が続き、そのわきにバスルームがあった。通路の先がベッドルームで、そこにはシングルベッドと机が置かれ、机のうえにはテレビがあった。つぎの部屋にもふたりでいっしょに入り、同じような造りの部屋の中をながめた。そこが僕の部屋になった。
 南側に面した窓をあけると、あかりのつき始めた街並のかなたに、富士山が思わぬ近さで見えていた。頂きの辺りを夕日に照らされた富士山は、夕方の空を背にしてひっそりとたたずんでいた。その光景をながめていると、はやるような気持ちが少しおちついた。
「いまのうちに家に連絡しときなよ。だけど」と僕は言った。「もしも、外泊に反対されたらどうするんだ」
「だいじょうぶ、心配しないようにうまく話すから」
 ほほ笑みながら言った絵里を見て、僕の心は少しだけほぐれた。しばらく忘れていたほほ笑みを、ようやく思い出したかのような、そんな絵里の笑顔だった。
「それじゃ、早く電話しなよ。部屋からかけられるから」と僕は言った。「おれも家に電話するけど、その前にシャワーをあびるよ」
 絵里はすぐに部屋から出ていった。数秒後にはドアの閉まるにぶい音がして、絵里がとなりの部屋に入ったことがわかった。その音を聴いただけでも僕は心がうきたった。
 外泊することを自宅に知らせようと思い、電話の前で口実を考えた。ホテルの部屋は静かで、近くを走る車の音だけがかすかに聞こえた。僕はふと思った、絵里は電話をおえてからどうするだろう。僕と同じようにシャワーを浴びるつもりだろうか。
 ノックの音が聞こえたのでドアを開けると、そこにいたのは絵里だった。
「ホテルの外へ電話をかける方法、説明書を見たけど間違えそうでこわいのよ。教えてもらいたくて」と絵里が言った。
「入りなよ、教えるから」
 部屋に入るようにと絵里をうながして、僕はベッドルームに向かった。うしろでドアの閉まる音がした。そのとたんに、いよいよ絵里を抱けるのだ、という期待感があらためて強くわきあがった。
 僕はベッドに腰をおろして、目の前のテーブルから電話の説明書をとり、絵里を横に腰かけさせた。
 絵里がそっと腰をおろすと、マットレスがたわんで絵里の体が押しつけられてきた。僕は絵里をだきよせて説明書をひらいたが、衣服を通して伝わる絵里の体温に気をとられ、首をまわして絵里を見た。絵里は僕が手にしている説明書を見ていた。不意に、それほどに急いで電話をかける必要はないのだ、という気がした。僕は身体をまわし、絵里にキスをした。
 絵里は思いのほかに積極的に応えた。嬉しさがわきあがると同時に、僕の感情の昂ぶりがはじけた。僕は絵里を抱いたまま身体をずらし、絵里をベッドの中ほどに寝かせてシャツに手をかけた。
 絵里が反射的に僕の腕を押さえて、「松井さん、待って」と声をあげた。
 はぐらかされたような気持ちになって絵里から腕を離すと、絵里は「ごめんなさい」と言いながら起き上がった。
 絵里は「ごめんなさい」と繰り返してから、「先に電話をかけさせて」と言った。
 気持ちの乱れを抱えたまま、僕は足元から説明書を拾いあげ、ホテルの外に電話をかける方法を調べた。
 その部屋から絵里に電話をかけさせることにして、その間に僕はシャワーをあびることにした。
 数分間でシャワーをおえて部屋に戻ると、絵里はまだ電話の前にいた。受話器はすでに置かれていた。
 僕に気づいて振り向いた絵里が、緊張した面持ちで立ちあがった。
「どうしたんだ」僕は絵里をのぞき込むようにして言った。
「ごめんね、松井さん。いそいで東京へ帰らなくちゃならないの」僕を見つめながら絵里が言った。「お父さんが入院したんだって」
 絵里を抱きたいと思う気持は一瞬にして消えた。ホテルに泊まるどころか、一刻も早く絵里をつれて帰らねばならなくなった。
 絵里が自宅に電話をかけたら、親戚の人が留守番をしており、絵里の父親が急病で入院したことを伝えたという。長く入院することはなさそうだと聞かされたらしいが、病気についての詳しいことがわからないために、絵里は強い不安におそわれていた。
 絵里に同情しながらも、僕は強い不満をおぼえた。偶然のことではあるにしろ、このようなときに絵里の父親が入院するとは、ついていないとしか言いようがない。そのような気持ちを胸にしながらフロントへ電話をかけて、宿泊をとりやめることを伝えた。
 僕たちはあわただしく身仕度をしてフロントへゆき、宿泊をとりやめる手続きをした。
 ホテルを出て十分後には、中央自動車道を東京へ向っていた。その一日の浮きうきした気分は消えて、僕たちはすっかり寡黙になった。そのうちに、FMラジオの音楽に雑音がまじり始めた。僕はラジオに手をのばして、甲府の放送局から東京の局にきりかえた。音楽を聴きたいという気持ちはなかったが、スピーカーからの音がほしかった。
 車でホテルを離れたときは、大切なものを取りあげられたような気分だったが、東京へ向かって走っているうちに、そのような気持はすっかり消えていた。それに代わって胸を満たしたのは、自制心を失っていた自分を責める感情だった。
 調布のインターチェンジで中央道をおり、三鷹駅へ向かった。
 三鷹駅の公衆電話で絵里は自宅に電話をかけた。自宅に帰っていた坂田から、絵里は父親のようすを聞くことができた。父親は心臓発作をおこしたのだが、十日も入院すれば退院できそうだと聞かされ、絵里はようやく安堵の表情をうかべた。高原の草むらで絵里と語り合っていたころ、絵里の自宅では救急車を呼ぶ事態がおきていたのだった。
 病院へ向かう絵里と三鷹駅で別れた。父親の病状が軽いことを知り、絵里はいつもの笑顔を取りもどしていた。
 自宅に向かう道すがら、絵里とホテルに入るに至った経緯を振り返ってみた。甲府に泊まろうと言いだしたとき、絵里はすでに僕との同室を考えていたに違いなかった。あの内気な絵里が、あのようにして僕に誘いかけ、いっしょにホテルに入ったのだ。あの言葉を口にしたとき、絵里にはどんな想いがあったのだろうか。
 それまでの絵里からは、想像することすらできない言動だった。絵里の気持ちを想っているうちに、僕は心に痛みを覚えはじめた。絵里はおれを信頼しきっており、みじんも疑っていないのだ。そのおれは、絵里と佳子のふたりに対して、不誠実極まりないことをしてきたのだ。
 僕は重い気持ちを抱えて家についた。
 居間では食事をおえた家族が話し合っていた。僕は夕食をすませたことを母に告げ、すぐに自分の部屋に入った。
 衣服をとり替えもしないで、ベッドのうえに体を投げだした。するといきなり、ホテルでの絵里とのことがまざまざと蘇えってきた。ベッドのうえの絵里の姿が思い出された。もしもホテルに泊まっていたら、今もまだ絵里を抱いているような気がする。
 そのまま空想の世界に引き込まれそうになったので、僕は急いでベッドをはなれ、すぐそばの椅子に移った。
 僕は絵里の気持ちを想った。僕を信じきっているはずだから、ホテルのことも幸せな気持ちで思い返すに違いない。これからの絵里は、さらに積極的に接してくるような気がする。絵里がどのように振舞おうとも、佳子にはこれまで通りに向き合わねばならない。佳子を悲しませるようなことはしたくない。絵里とあのようにしてホテルに入るようでは、これからも、自分の自制心をあてにはできないという気がする。逃げ場のない所に追いつめられるまでに、とるべき態度を決めなければならない。そのために、まずやるべきことは何だろう。なにはともあれ、優柔不断という巣から飛び出さねばならない。
 考えているうちに息ぐるしくなった。椅子から立ち上がって部屋を出ようとしたとき、まだ着替えていないことに気がついた。上に着ていたものを脱いでベッドに放り投げ、重苦しい空気に満たされた部屋を出た。
 居間では両親と兄がそろってテレビの特集番組を見ていた。僕がいつもの場所に腰をおろすと、番組をしめくくるナレーションが流れた。
「どうかしたの、滋郎」お茶を注ぎながら母が言った。「疲れてるみたいだけど」
「何ともないよ・・・・ちょっと疲れてるけど」
「疲れるでしょ、山梨県までドライブしたんだから。今日は天気が良くてよかったじゃない」
 母には友人と一緒に山梨へ行くと伝えてあった。
お茶を飲んでいると、父がとうとつに問いかけてきた。「このあいだ話していた実験、あれはどうなった」
 音楽好きの父はスピーカーにも興味をもっているので、僕の仕事に対して強い関心を抱いていた。
 僕が試作の進み具合を話すと、父は「それならよさそうだな。それにしてもだ、おまえもけっこう執念を燃やしているじゃないか」と言った。
 父がそんな言葉を口にしたのは、吉野さんから聞いた執念についての話を、居間での話題にしたことがあったからだ。
 居間で話し合っている間は気がまぎれたのだが、自分の部屋にひきあげてからは、再び悩みながらの思考を続けることになった。風呂に体を沈めて絵里と佳子のことを考え、寝床に入ってからも3人の行く末を思った。いくら考えても結論らしいものは得られず、寝つけないままに時間が過ぎた。
 つぎの朝、絵里が病院から電話をかけてきて、父親の病気がそれほど重くはないので安心したことや、日曜日のその日は父親の看病をすることを伝えた。絵里は前日のドライブに話題を移して、八ケ岳の高原や中央道の眺めを楽しそうに振り返ったが、ホテルのことには触れなかった。
 僕は優柔不断な態度から抜け出す決意をしたばかりだった。絵里に別れを告げることにもなりかねなかったので、絵里に合わせて明るい声で話していると、自分が不誠実なことをしているような気がした。会話を終えるまぎわまで、絵里の声は明るいままだった。
 午後には佳子と会う約束があったが、いつも通りに佳子と向き合うことはできそうになかった。僕は佳子に電話をかけて、急用ができたので埼玉へは行けなくなったと告げた。
離婚歴をもつ伯父に相談すれば、解決に向けたヒントが得られそうな気がしたけれども、親しい伯父に持ちかけるには勇気が要った。伯父の古傷に触れるのではないかと不安でもあった。そのようにためらっているとき、池田のことが思い出された。女と別れようとしている池田もまた、大きな悩みを抱えているに違いなかった。悩む者どうしで話し合えば、得られるところがありそうな気がした。
 大学の同期生会で会ったとき、池田から電話番号を知らされていた。手帳のメモを頼りに電話をかけたが、夜になってからの3度目の電話も通じなかった。そのときになってようやく、新宿で池田が話したことを思い出した。秋から翌年の春まで、池田は東京を離れているはずだった。
 ためらいはあったけれども、僕は伯父に電話をかけて、会ってもらう約束を得た。
 つぎの日の夕方、会社からの帰りに立川駅で電車をおりて、下りの電車に乗ってくるはずの伯父を待った。伯父は約束の時間に少しおくれて改札口から出てきた。
 並んで歩きだすなり伯父が言った。「どうしたんだ、ジロちゃん。元気がないぞ」
 相談の中身について問われていると思いながらも、僕にはあいまいな受け答えしかできなかった。
 駅から数分ほどのところで、伯父は僕をうながして店に入った。
 話をきりだせないまま、伯父に注がれたビールを飲みほした。伯父にすすめられるままにコップを空けたので、料理がならべられたときにはすでに酔っていた。
 伯父は料理に手をだしながら、「とにかく食おうよ、ジロちゃん。話はそれからでもいいだろ」と言った。僕はほっとする気持ちになって箸をとった。相談を持ち出すきっかけを、食事をしているうちに見つけることにした。
 食事が終ってテーブルの上がかたずけられた。追加のビールを注文していた伯父が、向き直るようにして僕を見た。
「話しにくいようだがな、ジロちゃん」と伯父が言った。「おれに相談したくてここにいるんだろ。思いきって言ってみろ。どんなことで困ってるんだ」
 伯父にうながされて僕は話した。一年あまりつきあってきた佳子のこと。出会ってからまだ日は浅いが、僕にとって大きな存在になってきた絵里のこと。同時にふたりと付き合うことに、強い不安を覚えていること。伯父に問われるままに僕は認めた、佳子とはいっしょにホテルに入るような仲だということを。
「相談というのは、要するにこういうことか」と伯父が言った。「前からつき合っているのと別れるのがむつかしいのだが、どうしたらいいんだろうと」
「別れたいなんて気持ちは無いんだよ、そいつのことを好きだから」
「それで……ほんとのところ、ジロちゃん自身はどうしたいんだ」
「自分の気持ちがはっきりしなくて、どうしたらいいのかわからないんだよね。だらしないとは思うんだけど」
「何とかしたいが、自分の気持ちがはっきりしない、ということか」
 伯父はくわえたタバコに火をつけると、キャップを閉じたライターをテーブルの上に置いた。
 伯父はゆっくりと煙をはきだすと顔をあげ、「それで・・・・おれにどんなことを聞きたいと思ってるんだ、ジロちゃんは」と言った。
 伯父からは人生経験にもとづいた助言を期待していたのだが、僕が必要としている助言がいかなるものか、自分でもわからなかった。そのような事情を僕は率直に話した。
 僕が話しているあいだ、伯父は眼をつむって聞いていた。僕が話しおえても、伯父は眼をつむったままだった。だまってタバコを吸っていた伯父は、眼をあけると灰皿にタバコをこすりつけ、それからようやく話しはじめた。
 伯父が語ってくれたのは、伯父自身のつらい体験だった。幼い頃から親しんでいた伯父に、そのような人生経験があったことを僕は初めて知った。
 語りおえた伯父は新しいタバコをとりだした。なれた手つきで火をつけている伯父を見ながら、僕は伯父が語ってくれたことを思いかえした。
 伯父が語った過去の体験は、僕が抱えていた問題とは質的に大きく異なるものだった。伯父がそのことを承知のうえで語ってくれたのだから、そこから僕が学べるところがあるはずだった。伯父は語った、自分はきちんと対処してきたから、今も後悔することはないのだ、と。僕は思った、自分が抱えているこの問題に真摯に対処しなかったなら、どのような形で決着をつけるにしろ、今の想いを伴った後悔を、いつまでも引きずることになるのかもしれない、と。
 伯父のはきだした煙が、見えない迷路をさ迷いながら、それでもゆくえは決まっているかのように、ゆっくりと昇っていった。伯父がふたたび煙をはくと、先ほどとは少しだけ違った方向へ流れていった。気がつくと伯父は僕を見ていた。伯父の眼は僕を通り越して、もっと遠いどこかを見ているようだった。僕の相談に応えながら、伯父は自分自身の人生をふり返っていたのかも知れない。
「むつかしいことだがな、ジロちゃん」と伯父が言った。「つらくても、自分をごまかすような決め方をしちゃだめだぞ」
 伯父の言葉にうなづきながらも、それでは、自分に正直な決断とはどんな決断だろうと思った。自分の気持を尊重するということであろうか。それとも、自分の信条なり信念に従い、妥協しない生き方を選べということであろうか。いずれにしても、僕が愛している佳子と絵里を、そして、僕を心から信頼している佳子と絵里を悲しませ、不幸にするようなことはしたくない。
「おれの友達がよく言うんだよ。人生の目的は幸福になることだから、幸福になるための努力をしなくちゃならないし、人を不幸にしないように気をつけるべきだ。確かにその通りだと思うけど、むつかしいことだね」
「人生の目的は幸福になること、か。そういう考え方もあるだろうな」と伯父は言ってタバコを口にくわえた。
 ゆっくりと煙をはきだしてから伯父が続けた。
「ついでだから、人生の目的とは何か、ということを考えてみないか。もしかすると、ジロちゃんが困っている問題を考えるうえで、参考になるかも知れないからな」
 その言葉が僕に期待を抱かせた。今の自分に必要な何かが、これから始まる話し合いの中で、ようやく見えてくるような気がする。
「幸福とは何かということから考えるべきだが、今はそれは措いとくことにしよう。ここではひとまず、自分は幸福だと思う人は幸福であり、不幸だと思う人は不幸だということにしておこう。そこでだな、人生の目的が幸福になることだとしたら、不幸だった人は、あるいは不幸だったと思っているような人は、せっかく生まれてきたのに、その目的をはたせなかった、ということになるんじゃないのかな。どんなに努力をしても幸福になれなかった、と思う人もいるだろうし、何かの事情でそのための努力すらもままならなかった、という人もいるだろう。運の悪い人はこの世に生まれた目的を果たせないというのでは、どこかおかしいとは思わないか。幸福とはいえなかったと思う人にも、生れてきた目的があったはずなんだよ」
 黙って耳を傾けている僕に向かって、伯父はさらに続けた。
「そこで、人生の目的ということだが、生きるということ自体が人生の目的だと考えたらどうだろうか」
 伯父は灰皿にタバコを押しつけて火を消した。灰皿の中で重なっている二本の吸い殻を見ながら、生きること自体がどうして目的になるのだろうか、と思った。
「生きること自体が目的って、どういうことだろう」
「人生を生きる過程で学んだことに意味がある、ということだよ。だから、どんな生き方をするのか、そしてどんな考え方で生きるかということが大切なんだ」
「たとえば、生きがいのある人生になるように努力する、というようなことかな」
「生きがいというのはたいせつなことだが、そのような生き方をすることが、人生の目的だとは言えないだろうな。いまの世の中には、生きがいを感じられない者がたくさん居るということだが、そういう人にも人生の目的はあるはずだからな。それで、生きること自体に目的があるということの意味なんだが、これはつまり、人生を生きるということから得られた結果に、なんらかの価値があるということなんだよ。どんな価値があるかということだな、その人が生きた結果に」
「自分が学んだり成し遂げたりしたことが、他の人のために役立つならいいけど、そうじゃない場合には人生の目的を充分に達成したことにはならない、というようにも聞こえるけど、多分そういうことじゃないよね」
 伯父は新しいタバコをとりだしたが、口にくわえるかわりに、ライターと並べてテーブルの上に置いた。ライターの横には、灰皿とビールで満たされたコップがあった。中身が半分ほど残ったビールのビンは、テーブルの中ほどに置かれたままだった。
 僕は眼の前のコップをとって一口だけ飲んだ。コップを手にしたまま泡の消えたビールに眼を落としていると、話しかける伯父の声が聞こえた。
「こんな話を聞いたことがないかな。人が生まれてくる目的は、この世での修業を通して魂を向上させることだ、という話を」
 意外な言葉だったが、それを聞いても僕は驚かなかった。伯父と父が霊魂の実在について議論したことがあったからだ。
 霊魂が実在する証拠は、その気になれば簡単に見つけることができると主張した伯父に対して、科学的にそれはありえないことだと父は反論した。それに対して伯父はさらに主張した。霊魂が存在するという確かな証拠があるにもかかわらず、この問題に真剣に取り組もうしないことこそ、非科学的な態度というべきだ。それとも、霊魂は存在しないということを科学的に証明できているのか。実際のところ、霊魂の実在を体験的にあるいは実証的に知ることが可能になっている。そのことを確かめてみたいというのであれば、それができる所へいつでも案内するつもりだ。
 そのころ僕は中学生だった。電子回路の勉強に熱中していた僕にとって、科学こそが信ずるに値する偉大なものだった。僕には考えるまでもなく父の主張が正しいと思われ、伯父は非科学的な考えにとらわれているとしか思えなかった。それから数年を経た学生時代に、友人から霊に関する書物をすすめられたが、そのようなことにはまったく興味がなかったので、僕はその書物を借りようともしなかった。
「聞いたこともないし、読んだこともないよ、そんな話は」と僕は答えた。
「ジロちゃんが抱えている問題は、やっかいで難しいものだし、ジロちゃんにとっては深刻な悩みに違いないけど、これを、ジロちゃんの魂を向上させるうえでの試練だと考えたらどうかな」
「おれがいい加減だったために起こった問題なのに、それがおれの魂を向上させるというのは、なんだか奇妙なことだという気がするけどね」
「自業自得による悩みだとも言えるし、厳しい試練に直面している人からは、甘えていると非難されるかも知れないけども、ジロちゃんのいまの悩みは、自分で用意した試練だと考えたらどうだろう。人間は試練を通して自分の魂を向上させるわけだが、場合によっては、自分で試練を用意することもありえるわけだよ。もしかすると、運命には自分が責任を持つべき部分があるのかも知れないな。もうひとつ考えておくべきことは、魂を成長させるために、人は互いに協力し合っているということだよ。人の運命は他の人の運命とも関わり合っているということだな」
 伯父はテーブルの上からタバコとライターをとりあげた。タバコに火をつけた伯父は、ライターをポケットにしまった。伯父のしぐさを僕は黙って見ていた。
 伯父はゆっくりと煙を吐いてから、僕に顔を向けた。「さっき話した試練のことだけど、試練だから甘んじてそれを受け入れるというだけで、それに積極的に対処しなかったなら、試練から逃げだしたことになるわけだよ。あきらめたり逃げたりしないで、それを克服しようと努力すべきだ、ということだよ。試練というものは、それを乗り越えてこそ意味があると思うよ。幸せな人生というものは、その結果として得られてこそ、価値があるんじゃないのかな。だから、ジロちゃんの友達の言ってることも、ある意味では正しいと思うよ。人生の目的は幸せになることだ、というのもな」
「どうしても克服できないような試練だったら、それから逃げても責められないと思うけどな」
「いかに努力しても解決できないような試練か・・・・・・そういうのも確かにあるわけだが、そのような場合であっても、絶望して暗い人生を生きる人もいれば、与えられた条件の中で有意義な生き方を見つける人もいるだろう。あとの例の場合には、試練にしっかりと対処したことになるんじゃないかな。だから、与えられた条件の中で最前を尽くすことや、そういう心構えを持って生きることも、試練から逃げない生き方と言えるわけだよ」
「試練についてはわかったけど、生きること自体が人生の目的ということが、おれには漠然とした感じでよくわからないよ。魂の向上ということの意味がよく理解できていないからだけど」
「こういったことを本当に理解するには、先入観にとらわれないで精神世界のことを学ぶ必要があるんだ。こんな言い方をすると、ジロちゃんは観念論や宗教のことだと思うかもしれないが、そうじゃなくてこれも科学なんだよ。アメリカなどには、こういうことを大学で本格的に研究している学者もいるし、日本にもすぐれた本をだしている人がいるんだ。そういう人たちが書いた書物を貸してやるから、ジロちゃんも読んでみたらどうかな。注意しておくけど、自分で買う場合には、いんちきな本に気をつけるんだぞ。本屋にはこういった方面の本がずいぶん並んでいるが、金儲けのためや自己満足のために本をだす人間もいることだし、うかつに手をだすと危険な本だってあるからな」
 心から信頼している伯父であろうと、霊に関することを素直に受け入れることはできなかったが、叔父が紹介してくれた書物は読みたいと思った。伯父が語ってくれたことを理解するためには必要と思われたし、伯父の話を聞いて、精神世界のことに興味をおぼえたからでもあった。
 人が生きることの意味や生き方について、伯父はなおも語り続けた。僕は感謝しながら伯父の話に耳を傾けた。僕が当面している問題とは関わりのない話だったが、それを聞いているうちに、伯父に期待していたのはこのような話を聞くことだったのだ、と言う気がした。そして、伯父と話し合ったことで、自分の進むべき道を、遠からず見つけることができそうな気がした。
 8時に近い時刻に、僕たちは店を出て立川駅に向かった。
 プラットホームのベンチで伯父が言った。
「ジロちゃんの問題は、理屈で解決できるわけじゃないけど、いずれは答えがでてくるんだからな。苦しいだろうけど、あせらないでな。いい答えが見つかるように祈っているよ」
 伯父の言葉を聞いて僕は思った。どんなにつらかろうとも、僕は答を見つけなければならない。いま抱えているこの問題を、自分の力で解決しなければならない。伯父は僕よりもさらに大きな悩みをのり越えたのだ。自分にもそれが可能なはずだ。
 高尾行きの電車が入ってきた。電車に乗りこもうとする伯父に、僕はあらためて感謝の言葉を伝えた。スピーカーからのアナウンスが、東京行きの電車がくることを告げていた。
第6章 道

 佳子がその電話をかけてきたのは、伯父と話し合ってから数日後のことだった。佳子の固い声と不自然な口調が、僕に強い不安をもたらした。
 僕たちは2週間近く会っていなかったから、どうしても会いたいという佳子の気持ちは理解できたが、佳子が望んだのはいつものようなデートではなかった。佳子は彼女の勤めている学校で会うことを望んだ。そのような場所にこだわる理由を聞いても、佳子は答えてくれなかった。佳子の意図がわからないまま、二日ほど先の日曜日に学校で会うことになった。
 僕はようやくにして決意し、佳子と絵里に向き合う態度を決めようとしていた。絵里を選ぶことに決めたわけではなかったけれども、佳子に対する負い目が強まって、心の負担を大きくしていた。そのような心境で佳子に会うのはつらかった。さらに僕の不安を強めたのは、佳子の声と口調が明らかにふつうではなかったことだ。学校で会うことに固執するのも不自然だった。日曜日までの二日間、僕は不安な気持ちを抱きながら過ごした。
 その日曜日は車を使えなかったので、早めの昼食をすませてから昼前には家を出て、バスで三鷹駅に向かった。電車を降りる武蔵野線の駅と、学校に近いバス停の名前は佳子から聞かされていたけれども、初めて訪れる場所だったので余裕をみておいた。
 佳子が教えてくれたバス停で降りると、すぐ近くに校門があった。約束の時刻には早過ぎたけれども、校庭で佳子を待つことにして校門を入った。
 校庭の奥には2階建の校舎と体育館らしい建物があった。樹木が校庭をとりまくように植えられ、それが建物のすぐ脇までつらなっていた。校舎に近いあたりだけが常緑樹で、校庭のまわりの樹はすべて桜だった。日曜日のその午後、校庭には誰もいなかった。はずれの方にベンチが見えたので、そこで佳子を待つことにした。
 ベンチの前に光るものが落ちていた。拾いあげようとして腕をのばすと日がかげり、眼にするどかった輝きがやわらいだ。
 落ちていたのはペンダントだった。拾いあげたペンダントを眺めていると、再び日がさしてきた。日ざしが雲の影を追って足ばやに校庭をよこぎり、校舎が日に照らされて一瞬のうちに明るくなった。日ざしをあびた校舎の近くに人がいた。校舎まではかなり離れていたが、こちらに向かっているのが佳子だとすぐにわかった。ペンダントをベンチに置いて僕は立ちあがった。
「ありがとう滋郎さん、こんなとこまで来てくれて」
 佳子は笑顔で声をかけてきたけれども、その声には固さがあった。2週間ぶりというのに、それほど嬉しそうな笑顔ではなかった。
 佳子の表情や話しぶりから、僕に対して重要な用件をきりだそうとしていることがわかった。用件をきいても答えないまま、佳子は校舎に向かって歩き出した。
 佳子が漂わせている雰囲気や態度に不安を抱いたまま、僕は佳子について校舎の中に入った。
 外来者用のサンダルに履きかえ、佳子とならんで廊下を進んだ。ふたつの階段を続けてのぼり、僕たちは屋上に出た。
 佳子はあたりを見まわしながら、その町や学校のことを話したが、僕の興味を引くようなものはなかった。民家にまじって小さなビルが散らばり、立ちならぶ建物の間で木々が枝をのばしていた。日本のどこにでもありそうな風景だった。そのような屋上で話しこむ人がいるのか、木製のベンチがひとつ置かれていた。
 用件をきりだそうとしないまま、佳子は学校やその町のことを語り続けた。僕はますます不安になった。
 佳子がベンチに腰をおろした。僕もその横に腰をおろして、身構えるような気持ちで佳子がきりだす言葉を待った。
「滋郎さん」佳子がこわばった声をだした。「私ね、妊娠しちゃった」
 思いもしなかった言葉に僕はぼうぜんとした。どうしたことだろう。気をつけていたのに、どこでまちがったのだろうか。それではいったい、自分はどうしたらよいのだ。佳子の横顔を見ながら、逃げ場のないところに追いつめられたような気持ちになった。佳子は膝に両手を置いて、うつむくように足もとを見ていた。
「ねえ、滋郎さん。どうしよう」
 佳子に問いかけられて、急いで答えなければならないと思った。僕が言葉を探していると、佳子が泣きだしそうにして言った。
「ねえ、滋郎さん。どうして黙っているのよ」
「びっくりしたよ。だって、そうだろ」
 言うべきことがまだあるはずだったが、適切な言葉が見つからなかった。
「どうしたの滋郎さん」佳子の声が泣いていた。「何か言ってよ」
「それで、どうしたいんだよ、佳子」
「私は・・・・産みたい」佳子が声をふるわせながら言った。
 うろたえていた僕を、その言葉がさらに追いつめた。どのように対応したらよいのかわからなかった。
 佳子が僕の左腕を両手でつかみ、顔を僕の肩に押しつけるようにして泣きだした。僕ははげしい不安におそわれた。佳子に大きな悲しみをもたらす何かが起こったのだ。泣いている佳子がいたわしかった。僕は佳子を抱きしめるようにしながら、悲しむわけを話すように求めた。
 佳子は泣きながらわけを話した。僕は愕然とした。僕が絵里とつき合っていることを、なぜか佳子は知っていたのだ。
 絵里のことを従妹の幸子が知って、それを佳子に報せたことがわかった。佳子と親しい幸子には、伯父に相談したことを知られたくなかったので、充分に気をつけるようにと伯父には念を押したつもりだった。それを守れなかった伯父をうらめしく思った。
 問われるままに僕は絵里のことを話した。同僚の妹と交際しているのは事実であり、その兄をまじえて演奏会に行くようなこともあるが、その人を愛しているわけではないのだと、僕は釈明し、そしてごまかそうとした。その人は本当に単なる知人かと聞かれて、僕はさらに嘘をかさねた。
「いいんでしょ、滋郎さん。産んでも」と佳子が言った。
 佳子と結婚しなければならないと思った。そのことを口に出そうとしたとき、絵里の面影がうかんだ。僕は急いで代わりの言葉をさがした。
「とにかく、身体に気をつけなくちゃな」
 うなずいた佳子の頬には新たな涙があった。佳子に心の中を見透かされているような気がした。
 僕は釈明の言葉を繰りかえしたが、佳子が抱いた疑念は消えそうになかった。悲しむ佳子の肩を抱いたまま、僕は途方にくれていた。悔恨の想いが胸で渦まいていた。佳子を悲しませている自分が情けなかった。
 近くで鋭い鳥の声がした。その鳴声に心の奥まで突き刺されたような気がした。僕をきびしく叱った鳥はテレビのアンテナにいた。風にゆれるアンテナで、鳥もいっしょに揺れていた。いつの間にか風がでていた。
 鳥の声をきっかけのようにして、僕はベンチから立ちあがった。とぎれがちの会話を続けることが苦痛であったし、ずいぶん疲れてもいた。佳子に対して釈明すべき言葉も、すでに尽きたような気がした。
 佳子の腕をささえながら、階段のおり口に向かった。階段をおりるときも、廊下を歩いているあいだも、僕は佳子をささえ続けた。校舎の横の出入口を出るまで、ふたりとも口をきかなかった。
 暗い校舎から外に出たとき、僕は戸惑いをおぼえた。自分たちはいま、何をするために、どこに向かえばよいのだろうか。そう思いながら佳子に顔を向けたとき、ふたりで話し合うべきことが、まだ残っていることに気がついた。
 校庭のはずれにベンチが見えたので、そこで佳子と相談することにした。僕たちはベンチへ向って校庭をよこぎった。人けのない校庭に白い猫がいた。僕たちを先導するかのように、猫もまっすぐベンチの方へ歩いていった。風がつちぼこりを巻きあげながら校庭をわたった。季節には早い枯葉が舞っていた。
 校庭に場所を変えてからも、佳子はうちのめされたように力なくうなだれ、ほとんど口をきかなかった。屋上での僕の狼狽ぶりを見て、佳子は絵里に対する僕の気持ちを見抜いたに違いなかった。僕自身も大きなショックを受けたばかりだったが、何をおいても佳子をいたわらねばならなかった。僕は佳子の肩を抱きながら、ほんとうに愛しているのは佳子なのだとくりかえした。自責の念にさいなまれつつ口にしたその言葉には、嘘や偽りは少しもなかった。そのとき、僕には佳子がこのうえなくいとおしかった。
 佳子の表情から険しさがうすれた。そんな様子にひと息つくと、絵里のことが気にかかってきた。絵里とはこれでつき合えなくなるのだろうか。これから絵里とはどうなることだろう。
 佳子がどうにか落ち着いたのを見て、そこでの話し合いを終えることにした。佳子と相談したいことがあったけれども、夕刻がせまっていたし、ふたりとも疲れていた。それだけが理由ではなかった。気持ちを整理しないままに、将来のことを佳子と相談するわけにはいかなかった。
 佳子は僕を駅まで送ると言った。今の佳子にまともな運転ができるだろうかと不安だったが、そのことを口にすることはできなかった。ほとんど口をきかない佳子といっしょに、体育館の裏がわにある駐車場へ向かった。
 佳子が運転する車で武蔵野線の駅に向かった。佳子の運転には不安を感じさせるところがなかった。佳子が無事に自宅へ帰れそうだとわかって、僕はひとまずほっとした。
 言いわけと慰めをかねた言葉を佳子に残し、僕は助手席のドアを開けた。いつもとはずいぶん違う別れかただった。
 どのようにして電車とバスを乗り継いできたのか、気がついたときには自宅に近い道を歩いていた。
 母は僕を見るなり具合でもわるいのかと聞いた。僕はひどく疲れていることに気がついた。母にお茶をすすめられて、ずいぶんのどが渇いていることがわかった。お茶を飲むとすぐに自分の部屋に入り、机の前にこしかけた。
 僕はいくども自分に問うた、自分はこれからどうしたらよいのか。どうしなければならないのか。そして思った、絵里を悲しませたくないし、自分もこのまま絵里と別れるのはつらいけれども、やはり、絵里との交際はやめるべきだろう。
 夕食のしたくができたと母が声をかけてきたとき、ようやく僕は椅子を離れて、灯りをつけないままの暗い部屋から居間へ移った。
 夕食をとっていると、屋上で泣いた佳子の姿が思い出された。佳子につかまれたときの腕の感触がよみがえり、佳子の悲しみが想われた。
「どうしたの、滋郎。元気がないみたいだけど」母が心配そうな声をだした。
「心配ないよ、ちょっと疲れてるけど」と僕は答えた。
 母がお茶の準備をしていたが、食事を終えるとすぐに自分の部屋へ移った。父と兄は帰宅が遅くなるということで、家にいたのは母とふたりだけだった。母のお茶につきあえればよかったのだが、そのようなゆとりはなかった。
 どんなに時間をかけて考えようが、選ぶべき道は最初から決まっていた。自分を納得させるための儀式を終えることにして、僕は自分に言って聞かせた。佳子との結婚を急ぐことにする。絵里には事情をつたえ、これ以降はつきあわないことにする。そのように自分を説得してみたものの、絵里に対する想いが胸中を行ったり来たりしていた。
 僕は思った。自分がほんとうに望んでいたのはどんな結末だったのだろうか。もしも佳子が妊娠するようなことにならなかったら、絵里を選んだのかも知れないではないか。心の中で絵里に言い訳でもするかのように、そのような感慨が胸の底を流れた。
 なるべく早く絵里に事情を伝えようと思った。どんなやり方をしたところで、絵里を悲しませることに変わりはなかったが、できるかぎり絵里を傷つけないようにしなければならなかった。佳子と別れることができないのであれば、いずれは絵里を悲しませる結果になったはず。ということは、こうなることを承知のうえで、絵里と付き合ったことになりはしないだろうか。もしもこのことを絵里が知ったら、絵里はどんなに傷つくことだろう。佳子が妊娠したために、止むを得ず絵里と別れることになったのだと、絵里には思わせねばならない。佳子が妊娠したことは、絵里にとって、そして僕にとっても救いになった。優柔不断な態度をとりつづけた僕に対して、何者かが僕に決着のための手段を与えてくれたのだ。僕自身は自業自得の痛苦に耐えるしかないが、佳子と絵里はその悲しみをどのように受けとめることだろう。絵里と佳子に与えた悲しみをやわらげるため、とにもかくにも心を砕かねばならない。
 あの高原で絵里は幸せそうだった。あの日の絵里は、このような結果になろうとは予想もしていなかったはず。絵里の父親が病気にならなかったなら、ふたりはあのままホテルで一夜を過ごすことになり、結果としては、さらに大きな悲しみを絵里に与えることになったであろう。絵里の父親が病気になったのは、単なる偶然のできことではなかったような気がする。もしかすると、僕たちふたりのために、絵里の父親は病気になってくれたのではなかろうか。僕が絵里を抱こうとしたとき、それを拒んで絵里は電話をかけようとした。絵里が電話をかけることにこだわったのは、父親の想いに応えようとしたからではなかったろうか。会ったこともない絵里の父親に、僕は感謝したい気持ちになった。
 みじめな気持ちを抱えて僕は椅子をはなれた。時計を見ると零時二十分になっていた。絵里は眠っていると思われた。絵里はあの日のことを夢に見ることがあるのだろうか。もしも夢に見るのであれば、嬉々として草原をかけまわる夢であってほしい。八ケ岳の高原を訪れた日から、まだ一週間しかたっていなかった。そのことが僕には信じがたいことに思われた。

 夕方に降りやんだ雨が、アスファルトのくぼみに大きな水たまりを残していた。工場の通用門から出てゆく社員たちは、水たまりを避けてふたつに別れ、そこを通り過ぎるとひとつの流れに合流していった。
 坂田が姿を見せた。僕は坂田に合図をしてから、バス停や駐車場に向かう退出者たちとは反対の方向へ歩きだした。
 坂田には絵里を介すことなく直に事情を伝えたかった。そしてまた、坂田の助言を得てから絵里に会いたいという気持もあった。坂田に社内電話をかけて、定時になったら通用門で会いたいと伝えてあった。
 追いついてくるなり坂田が言った。「なんだよ、相談というのは」
 坂田とならんで歩きながら、僕は重い口をひらいた。
「困ったことがあってな、絵里さんとはつき合えなくなったんだ」
「どうしたんだよいきなり。何があったんだ」坂田が驚きの声を出した。
 坂田は僕が事情を話しはじめるより先に、「例の、前からつき合っていた人のためなんだな」と言った。
 僕はうなづいた。
「絵里のことを好きだったんだろ、松井。絵里はそう思ってるんだぞ。どうしてそんなことになるんだ」
 坂田の声には僕を責める響きがあった。
「じつはな、前からつき合っていたほうに子供ができたんだ」
 まわりに他の者はいなかったが、僕は声をひそめて言った。
 坂田は何も言わずに歩みを止めた。僕が立ちどまると、坂田は「そうか」と言って歩きだし、問いただすように「お前、ほんとに好きなのか、そのひとのこと」と言った。
 このような自分を坂田は軽蔑するだろうと思いながら、僕は「信じないかもしれないけどな、おれは、ふたりとも好きなんだ。絵里さんとはあの演奏会からのつき合いだけど、おれは絵里さんのことがほんとに好きだ」と言った。
 絵里に対する気持ちに偽りがなかったことを、坂田にはなんとしてでも知って欲しかった。そのための言葉をさがしていると、坂田が口を開いた。
「わるかったかな、絵里に会わせて」
「いや、ちがうんだ。おれがいけないんだよ。おれがいいかげんだったんだ」
「でもな、絵里にはかわいそうなことになるよな」
 坂田の声がまたもや僕を責めているように聞こえた。
 坂田はその日のうちに絵里に事情を伝えると言った。僕は感謝して坂田にそれを頼んだ。僕がいきなり絵里に話すよりも、坂田を介して伝えたほうが良さそうに思えた。絵里に会うつもりだと言い残し、坂田は寮の方へと歩いていった。
 坂田のうしろ姿を見送りながら、絵里とホテルに入ったことを、坂田には知られたくないと思った。そのことをふくめて、これまでの優柔不断な自分の態度を、坂田としては許せないことだろう。足早に遠ざかってゆく坂田を見ていると、坂田の信頼をすでに失ったのではないかと不安になった。
 僕は急いでバス停に向った。坂田と同じバスに乗り合わせることは避けたかった。
 次の日の朝、坂田は絵里に事情を話したことを伝えてきた。そのときの絵里の様子にはふれないままに、坂田は社内電話を切った。
 坂田のおかげで絵里に電話をかけやすくなった。とはいえ、電話をかけるには、絵里の都合を考えなければならなかった。絵里がまわりを気にしないで話せるのは、職場がざわつく昼休みにはいったばかりの時刻だろうと考え、12時になったらすぐに電話をかけることにした。公衆電話のボックスは、工場の通用門を出てすぐのところにあった。
 試作した材料の特性を調べながら、絵里にかける電話のことを考えた。絵里に語りかける言葉を考えているうちに、測定器の設定をまちがえてしまい、最初からやり直さねばならなくなった。
 昼休みの時刻が近づいていた。電話ボックスまで急いで行かなければならなかった。測定作業のあとしまつをしていると、事務室から電話が転送されてきた。受話器から絵里の声が聞こえた。
 絵里の沈んだ声に胸をしめつけられた。さいわいなことに近くには誰もいなかったが、僕は声をひそめて、あらかじめ考えておいた言葉を口にした。絵里が受け入れてくれたので、その夜ふたりで会うことになった。
 僕は昼食をおえると屋上にあがった。よく晴れていたけれども風があり、手すりにもたれていると肌寒かった。テニスコートの辺りでときおり歓声があがった。女子社員のかん高い声がもの悲しく聞えた。
 僕は手すりによりかかったまま、その夜の絵里との話し合いを想った。これまでの自分の態度を、絵里に向かってどのように釈明したらよいのだろうか。悲しむ絵里をどのように慰めたらよいのだろうか。絵里に伝える言葉はすでに決めていたけれども、それだけではまだ足りないような気がした。
 体をかすめるように風が吹きすぎた。11月の初旬にしては冷たい風だった。テニスコートにはすでに人影がなく、昼の休憩時間が終わろうとしていた。
 定時になるとすぐに工場を出た。自宅に帰り着いてから数分後には、車を運転して三鷹駅へ向かった。
 車の中で絵里を待っていると、ドライブをした日のことが思いだされた。あの日の絵里は、手にしたバッグを揺らして駆けよってきた。絵里が浮かべていた満面の笑顔を、僕はもの悲しく思いかえした。
 絵里が姿をみせた。車から出て手をあげたが、僕の合図に応えることもなく、絵里は歩調を変えないでゆっくりと近づいてきた。僕は車に入って助手席側のドアロックを解いた。近づいてくる絵里を見ていると、絵里を悲しませることになった自分が、腹立たしいほど情けなく思えた。
 絵里はドアをあけ、ひと言も口をきかずに助手席に座った。僕も黙ったまま車を発進させた。
 信号で止まっているとき、僕は事情を話しはじめた。すでに坂田から話を聞かされていた絵里は、僕の話を黙って聞いていた。とぎれがちな僕の言葉のあいまにも、絵里はほとんど口をきかなかった。
 植物公園に近い脇道に入り、交通量の少ない場所に車をとめた。街灯が少ないうえに道端に植えられた樹が光を遮っているため、ヘッドライトが消えたとたんに道は暗くなった。エンジンが止まって車の中が静寂につつまれると、言いようのない感情が僕の胸を満たした。絵里をふびんに思う気持ちと自責の念、そして未練な想い、そのうえさらに、ようやくゴールが見えたと思える奇妙な安堵感。なにものかに押しだされるようにして、僕は迷路の出口に辿りつこうとしていた。
 絵里の心のうちを想いつつ、僕はあらかじめ考えておいた言葉を口にした。そのようにして始まった会話は、僕の言葉のあい間に、ときおり絵里の低い声が挟まるようにして続いた。ふたりの抑えた声が、静寂のすき間をおし拡げるように流れては、言葉がとぎれてふたたび静寂がもどった。車の中が静かになると、一刻の時間も無駄にしないで絵里を慰めるべきだと、なにかに脅迫されているような気持ちになった。ときおり通り過ぎる車のヘッドライトが、フロントガラスを通して僕たちをまぶしく照らした。
 絵里は僕を責めるような言葉どころか、ひと言のぐちも口にしなかった。それだけに、絵里が口にしたその言葉に、僕は激しく責められているような気持ちになった。絵里は膝に乗せたバッグに眼をやったまま、つぶやくようにして言った。「松井さんには他にもつき合っている人がいること、はじめからわかってたけど、そんなふうにしてつき合ってたなんて思いもしなかったから」
 僕は返すべき言葉を探したが、すぐには見つからなかった。すると、それまでは短い言葉しか口にしなかった絵里が、グローブボックスを見つめるようにして話し始めた。ふたりで聴いた演奏会のこと。デートをしたときの思い出や、あの山陰旅行のこと。そして、絵里は僕に対する想いを口にした。
「松井さんと知り合ってからすぐだったのよね、松井さんのことを好きになったのは。もちろん初めは友達のつもりで・・・・・・だから私たちって・・・・私は気らくにつき合えたし、自分を飾らないでつき合えたんだと思うのよね。・・・・・・それでね、私には松井さんはとてもよく知ってる人で、安心してつき合える人、そんな感じの人になったのよね。今まではそんな人がいなかったのよ、わたしには。今までは、うまくつき合えるという自信もなかったからだけど」
 絵里は静かにそこまで話すと、「ほんとはね、よくわからないところもあるんだけど」と言った。
 すぐに僕を好きになったと絵里は言ったが、それは恋愛感情ということではなくて、僕に対して好感を抱いたということだろう。それは僕についても言えることだった。絵里との仲をその段階にとどめるために、佳子のことを絵里につたえなければならなかったが、僕はむしろそれを隠そうとした。僕を責めてもよいはずのそのことに、絵里は触れようともしなかった。
 甲府のホテルで絵里を抱こうとしたことが、僕に対する不信感を強めている虞れがあった。絵里の心の傷を少しでも浅くするために、そのことでも釈明するつもりだったが、それを口にすることはできなかった。ホテルのことを持ちだせば、絵里の気持をさらに乱すような気がしただけでなく、釈明することには後ろめたさもあった。あの日の僕は、絵里を抱きたいという想いに完全に支配されていた。僕は釈明する代わりにひたすら努力した、絵里に対する僕の気持ちにいささかの偽りもなかったことが伝わるようにと。
 絵里は僕を責めるような言葉を避けて、静かに話し合うことだけを願っているように見えた。内省的で優しい絵里の心のうちを想いながら、僕はただ絵里の傷を癒すことだけに努めた。そのようにして、絵里とふたりだけの最後のひとときが、路上に停めた車の中を流れていった。
 話し合いを終えることになり、僕がエンジンをかけようとしたとき、それをさせまいとするかのように絵里が口をひらいた。
「これでお別れなんて・・・・とても悲しいけど・・・・いままで、ほんとにありがとう」
 ひと言ひとことに気持ちを込めたような絵里の言葉が、僕の胸中にあらためて感情の渦をおこした。いとおしさと不憫さ、絵里に対する罪悪感と自責の念。
「ごめんな、こんなことになって・・・・・・ほんとに悔しいよ」
「あやまるなんて、そんなのはいや」はっきりとした口調で言ってから、小さな声で絵里は続けた。「私のこと・・・・愛してくれていなかったみたいだから」
 不誠実さをわびるような言葉を、絵里は聞きたくなかったのかも知れない。
 僕はあわてて言った。「おれはほんとに好きなんだよ、絵里さんのこと。それなのに、こんなことになってしまって・・・・くやしいけどな」
 膝のハンドバッグを見ているかのように、絵里は俯いていた。淡い光が絵里の涙を照らしていた。木の葉の影が絵里の顔にゆらめき、涙をいっそう悲しく見せた。フロントガラスにむけて眼をそらすと、ゆれる枝の彼方で灯が瞬いていた。
「絵里さんには幸せになってほしいんだ。世界一しあわせに」と僕は言った。
「世界一だなんて・・・・おもしろい人ね、松井さん」
 絵里が笑いながら話しているように聞こえたけれど、いかにも悲しい声だった。絵里の横顔を見ながら、絵里には本当に幸せになってほしいと痛切に思った。
「ほんとにそう思うよ、おれは。絵里さんには最高に幸せになってほしいよ」
 まだ言い足りないことがありそうに思えた。言葉をさがしていると、つぶやくような絵里の声が聞こえた。
「いつかまた、棚から荷物を落としたくなるかしら、わたしは」
 絵里を抱きしめてやりたかった。ハンドバッグに眼を向けたまま、絵里は身じろぎもしなかった。淋しげなその横顔が僕の胸を締めつけた。
「絵里さんには勇気があるから、いくらでもチャンスを自分で作ることができるよ。だから、思いきってやってみなくちゃ」と僕は言った。
「がんばってもうまく行かないことがあるけど・・・・・・運命の赤い糸でつながっていなかったのかな」
 またもや、絵里を抱き締めてやりたくなった。けれども僕は絵里に顔を向けることすらできなかった。
「運命の赤い糸と言うけど、もとから決まっているわけじゃなくて、自分でその糸を作るのかも知れないよ。先に相手を好きになったほうが、いろいろと相手に働きかけてその糸を作るのかも知れないからな。だから・・・・とにかく、これからもがんばらなくちゃな」
 絵里を励ましたつもりだったが、言いおえてから、むしろ絵里を悲しませたのではないかと不安になった。
「ありがとう、松井さん・・・・・・でも、私はだいじょうぶだから」と絵里が言った。「だいじにしてあげてね・・・・松井さんもがんばって」
 絵里がふいに僕から離れた存在になったような気がした。僕の中には、そんな絵里に声援をおくる心とともに、淋しさを感じる未練な心があった。
 三鷹駅の改札口で絵里とわかれた。うつむきかげんに歩いて行く絵里を見送りながら、その日の絵里の服装を、そのときになって初めて識った。
 絵里の姿が見えなくなった。地味な印象を与える絵里のうしろ姿が、自戒と自責の思いとともに胸に残った。
 駅の出口へ向かっていると電車がはいってきた。階段をおりる途中で電車が出てゆく音が聞こえた。これで良かったのだと、僕はあらためて自分に言ってきかせた。選ぶべきほかの道などありえなかった。僕は心の中で愚痴をこぼした。「自分を甘やかさなかったならば、絵里を悲しませずにすんだのだ。優柔不断で未熟な俺は、絵里と佳子に悲しい想いをさせることになってしまった」
 初冬を想わせる冷たい夜風の中を、僕は車をとめておいた場所に向かった。
 運転席に座ると、助手席に眼をひきつけられた。そこに座っていた絵里の胸のうちが想われた。見送ったばかりの絵里の後姿が思い出された。
 内気でひかえめな絵里だが、運命の赤い糸で結ばれているであろう人にむかって、いつか心を励ますことだろう、と思った。そうであってほしいと強く願った。運命の赤い糸という言葉を、僕はそれまで聞いたことはなかったのだが、絵里がそれを口にした瞬間に、それが意味することを想像できた。僕は思った、こんな結果になったのは、僕と佳子が赤い糸で結ばれているからだろうか。