絵里にはホテルからかけることにして、それまでに心の準備をしておくことにした。
夕食には早すぎる時刻だったが、通りすがりのレストランに入り、絵里にかける電話のことを考えながら食事をとった。電話をかけたら絵里はおどろくだろう。それだけならよいが、僕からの電話を迷惑だと思うかもしれない。そんな様子がうかがえたなら、早々に話をきりあげることにする。絵里の夫が電話に出るようなことになったら、どのように話をきりだしたものだろう。その場合には、絵里の兄の友人がヨーロッパを訪れたついでに、旧知の絵里に電話をかけた、と伝えるだけでよさそうだ。とはいえ、夫がそばに居ては絵里も話しにくいことだろう。
絵里の夫が会社から帰宅する前に電話をかけたかったので、食事をおえるとすぐにホテルへ向かった。
部屋に入って時計を見るとまだ4時半だった。1時間の時差があるロンドンは午後の時間帯といえたが、絵里が家に居るとはかぎらなかった。
僕は絵里が在宅していることを願いつつ、冷蔵庫から出した白ワインを持って、電話の前の椅子に腰をおろした。
僕はワインを飲みながら、旅行案内書でイギリスへ電話をかけるための手順を調べた。それをしっかり頭に入れてから、受話器をとりあげてボタンを押した。
呼び出し音が聞こえると、電話で話し合っていた頃の絵里の声が思いだされた。「坂田です」と静かに応える声、あるいは、「絵里です」と嬉しそうに応えるうわずった声。
しばらく続いた呼び出し音が消え、ようやく受話器から声が聞えた。
「ハロー、ズィスイズ、ホンダ」
英語で応える声に一瞬とまどったが、僕は懐かしさにせきたてられるまま、大きな声で呼びかけた。
「ひさしぶりだね絵里さん、松井だよ。いま、ドイツのフランクフルトに来てるんだ」
ぎこちない会話にならないように、僕は意識してかろやかな口調で話した。
僕が言葉を切ったとたんに絵里の声が聞こえた。
「松井さんなの、ほんとに。久しぶりねえ、松井さん。フランクフルトにいるって、松井さんも旅行なの?」
絵里の声には僕からの電話を快く受けいれている響きがあった。懐かしさを隠さないその声にほっとしながら、僕は電話をかけるに至ったわけを話した。太陽光発電に関わる学会に出席するため、数日まえからフランクフルトにいること。ロンドンのすぐ近くまで来ていながら、絵里に声をかけずに帰国するのは失礼だと思い、坂田から電話番号を教えてもらったこと。
ぎこちない雰囲気になるどころか、僕たちの会話はむしろ快活にはずんだ。
受話器を通して聞こえる絵里の声は、記憶していたそれと変わらなかった。誠実な人がらがにじみでるような話しぶりも昔のままだった。
明るくはずんだ会話に気持ちが昂ぶっていた。受話器を置くとすぐに立ちあがり、僕はしばらく室内を行ったり来たりした。懐かしさと満足感が、そして、ほっとするような気持ちがあった。
ベッドの上で仰向けになり、絵里との会話を思いかえした。絵里の声を耳に甦らせながら、僕はあらためて思った。絵里の声は以前のままだった。話し声から受ける印象も、あの頃の絵里を想わせるものだった。
絵里の姿が思い出された。草原の風に髪をなびかせながら、嬉々とした笑顔をうかべている絵里。その笑顔にはまだあどけなさがある。うつむきかげんに去ってゆく絵里のうしろ姿が、悔恨の感情をともなって思い出された。あのとき絵里は21歳だった。あれからすでに16年が経っている。声は以前と変わらなかったが、絵里の笑顔とあの瞳は、付き合っていた頃のままであろうか。
白い天井を見ながら、絵里に会ったものかどうかと考えた。できればロンドンに立ち寄ってほしいと言った絵里に、航空券が手に入りさえすればそのようにすると答えた。懐かしさに駆られるままに電話をかけたけれども、会うことには気おくれするようなところがあった。絵里の声を聴いたらますます会ってみたくなったが、絵里は本心から僕に会いたがっているのだろうか。空港に出向くことが、絵里の負担になりはしないだろうか。
つぎの日、その翌日のルフトハンザ航空の予約をキャンセルし、かわりにロンドン経由で帰国する手続きをした。それをすませてから絵里に電話をかけて、ロンドンに寄り道することを伝えた。絵里の喜ぶ声がうれしかった。ヒースロー空港での手続きに時間を要しても、絵里とゆっくり語り合うことはできるはずだった。
その日はハイデルベルクを観光するつもりだったが、ロンドン行きの手続きなどに時間をとられたために、予定を変えてフランクフルトで1日を過ごすことになった。
旧市街にあるゲーテの家を訪ねて、家の内部や展示品を見てまわった。ゲーテが使った羽根ペンや、紙に残されている筆跡を見て、学生時代に読んだ〈若きヴェルテルの悩み〉を思い出した。
ゲーテの家を出てしばらく行くと、フランクフルトの大聖堂があった。建物の内外を見てもまだ時間があったので、街を見物しながら散歩することにした。道なりに歩いてゆくと大きな橋があった。マイン川のほとりだった。
川にそった道をそぞろ歩いていると、ゲーテが活躍した時代の景観が想われた。ゲーテがかつて散策したかも知れないその道を歩いて、僕は新市街にあるホテルへ帰った。
今朝はアラームが鳴る前に眼がさめた。朝食をすませるとすぐにホテルを出て、フランクフルトの空港へ向った。
飛行機は少し遅れてヒースロー空港に着いた。乗り継ぎ手続きに予想外の時間を要したために、絵里と約束した時刻に遅れることになった。絵里が電話で教えてくれた場所に着いたとき、約束していた時刻を10分あまり過ぎていた。
絵里は約束した場所で待っていた。ひとめで絵里だとわかったが、子供をつれている姿にとまどいをおぼえた。記憶の中の21歳の絵里と子供づれの姿が、束の間のとまどいを経てから重なった。あれから16年が経ったのだ。
絵里はにこやかな笑顔をうかべ、明るい声でよびかけてきた。僕はその声に応えながら、絵里から受ける印象が、以前とは異なっていることに気づいた。かつての絵里はどことなく心もとなげに見えたものだが、目の前でほほえんでいる絵里には、そのようなところが少しもなかった。とはいえ、僕の前にはまぎれもない絵里がいた。やわらかいアルトの声ときれいな瞳、そして、控えめなものごし。
絵里の横で幼い子供が僕を見あげていた。僕は子供の前にしゃがんで、絵里が教えてくれた名前で呼びかけた。女の児はむじゃきな笑顔で応えてくれた。歳はいくつかと問いかけると、女の児が小さな声で「にさい」と答え、2歳になったばかりなのだと絵里がつけ加えた。そのような言葉を交わしているうちに、絵里を眼にした瞬間に覚えたとまどいが薄れた。
僕たちは場所を見つけて、ロビーのベンチに腰をおろした。
眼の前を人々が行きかう騒々しいロビーで、時間に追われながら絵里と語り合った。乗り継ぎの手続きに時間をとられたために、そこで過ごせるのは1時間たらずだった。
絵里は東京や大阪と比較しながら、ロンドンの特徴などを語った。僕は初めて訪れたヨーロッパの感想を、そして、10年前から暮らしている名古屋のことや、そこで取り組んでいる仕事について話した。
ぐずる子供をあやしていた絵里が、顔をあげると前を見ながら言った。
「おぼえてるでしょ、松井さん。出雲の砂浜で星を見たこと」
幾つもの想いが胸の底をよぎった。ときめきに似た想い、悔恨の情、そして懐かしさ。
僕は答えた。「おぼえているよ」
そのひと言を口にしている束の間に、情景が鮮やかに蘇った。夜の砂浜。満天の星と天の川。砂にねそべっている僕の横には絵里がいる。
絵里は膝に乗せていた子供を抱きなおした。
「私って、引っ込み思案だったのに、松井さんとは随分おしゃべりになれたし、思いきっていろんなこともできたのよね」
絵里は何を話すつもりだろうかと思いながら、僕は絵里が続けるのを待った。
「松井さんと出会えてとてもよかったわ。短い期間だったけど、ほんとに楽しかったし、それに・・・・」と絵里が言った。「松井さんのおかげで、私にも勇気があるということがわかったから。なんだか大げさな言い方みたいだけど」
絵里に対する想いの記憶がよみがえり、16年まえに引き戻されたかのように、絵里がいとおしく思われた。
「だからね、松井さんに感謝してるのよ、わたしは」
僕は気はずかしいような気持になった。絵里から感謝される資格があるとは思えない。それどころか、絵里は僕を責めてもよいはずではないか。
絵里が言葉を止めているので、僕はうながされているような気持ちになった。
「絵里さんには勇気が似合っているよ」
「わたしに?」と言って絵里は僕を見た。
絵里は膝に乗せた子供に向きなおり、「そうかも知れないわね、引っ込み思案の私には」と言った。
どうしたわけか、運命の赤い糸という言葉が思いだされた。絵里と最後に会ったとき、涙をうかべながら絵里が口にした言葉だ。
僕は心の中で言った。「あれからも、運命の赤い糸を自分で結ぼうとしてがんばったのか、絵里さんは」
その時ふいに、絵里に祝福の言葉を贈りたくなった。
「僕は知ってたよ、絵里さんが最高に幸せになっていることを。そのことを坂田から聞いて嬉しかった。ほんとうに嬉しかったよ」
絵里が声にだして笑った。絵里の幸せな想いがそのまま表れている笑顔と声だった。
「どうもありがとう。ずいぶん大げさに祝福されたみたいだけど、とても嬉しい、松井さんからそんなふうに言われると」
胸のうちに想いが湧いた。ようやくにして、絵里に祝福の言葉を贈ることができた。ロンドンに立ち寄って絵里と再会したのは、まさにそのためだったのだ。その想いに誘いだされるようにして、安堵感に似た感情がうかんだ。
夕食には早すぎる時刻だったが、通りすがりのレストランに入り、絵里にかける電話のことを考えながら食事をとった。電話をかけたら絵里はおどろくだろう。それだけならよいが、僕からの電話を迷惑だと思うかもしれない。そんな様子がうかがえたなら、早々に話をきりあげることにする。絵里の夫が電話に出るようなことになったら、どのように話をきりだしたものだろう。その場合には、絵里の兄の友人がヨーロッパを訪れたついでに、旧知の絵里に電話をかけた、と伝えるだけでよさそうだ。とはいえ、夫がそばに居ては絵里も話しにくいことだろう。
絵里の夫が会社から帰宅する前に電話をかけたかったので、食事をおえるとすぐにホテルへ向かった。
部屋に入って時計を見るとまだ4時半だった。1時間の時差があるロンドンは午後の時間帯といえたが、絵里が家に居るとはかぎらなかった。
僕は絵里が在宅していることを願いつつ、冷蔵庫から出した白ワインを持って、電話の前の椅子に腰をおろした。
僕はワインを飲みながら、旅行案内書でイギリスへ電話をかけるための手順を調べた。それをしっかり頭に入れてから、受話器をとりあげてボタンを押した。
呼び出し音が聞こえると、電話で話し合っていた頃の絵里の声が思いだされた。「坂田です」と静かに応える声、あるいは、「絵里です」と嬉しそうに応えるうわずった声。
しばらく続いた呼び出し音が消え、ようやく受話器から声が聞えた。
「ハロー、ズィスイズ、ホンダ」
英語で応える声に一瞬とまどったが、僕は懐かしさにせきたてられるまま、大きな声で呼びかけた。
「ひさしぶりだね絵里さん、松井だよ。いま、ドイツのフランクフルトに来てるんだ」
ぎこちない会話にならないように、僕は意識してかろやかな口調で話した。
僕が言葉を切ったとたんに絵里の声が聞こえた。
「松井さんなの、ほんとに。久しぶりねえ、松井さん。フランクフルトにいるって、松井さんも旅行なの?」
絵里の声には僕からの電話を快く受けいれている響きがあった。懐かしさを隠さないその声にほっとしながら、僕は電話をかけるに至ったわけを話した。太陽光発電に関わる学会に出席するため、数日まえからフランクフルトにいること。ロンドンのすぐ近くまで来ていながら、絵里に声をかけずに帰国するのは失礼だと思い、坂田から電話番号を教えてもらったこと。
ぎこちない雰囲気になるどころか、僕たちの会話はむしろ快活にはずんだ。
受話器を通して聞こえる絵里の声は、記憶していたそれと変わらなかった。誠実な人がらがにじみでるような話しぶりも昔のままだった。
明るくはずんだ会話に気持ちが昂ぶっていた。受話器を置くとすぐに立ちあがり、僕はしばらく室内を行ったり来たりした。懐かしさと満足感が、そして、ほっとするような気持ちがあった。
ベッドの上で仰向けになり、絵里との会話を思いかえした。絵里の声を耳に甦らせながら、僕はあらためて思った。絵里の声は以前のままだった。話し声から受ける印象も、あの頃の絵里を想わせるものだった。
絵里の姿が思い出された。草原の風に髪をなびかせながら、嬉々とした笑顔をうかべている絵里。その笑顔にはまだあどけなさがある。うつむきかげんに去ってゆく絵里のうしろ姿が、悔恨の感情をともなって思い出された。あのとき絵里は21歳だった。あれからすでに16年が経っている。声は以前と変わらなかったが、絵里の笑顔とあの瞳は、付き合っていた頃のままであろうか。
白い天井を見ながら、絵里に会ったものかどうかと考えた。できればロンドンに立ち寄ってほしいと言った絵里に、航空券が手に入りさえすればそのようにすると答えた。懐かしさに駆られるままに電話をかけたけれども、会うことには気おくれするようなところがあった。絵里の声を聴いたらますます会ってみたくなったが、絵里は本心から僕に会いたがっているのだろうか。空港に出向くことが、絵里の負担になりはしないだろうか。
つぎの日、その翌日のルフトハンザ航空の予約をキャンセルし、かわりにロンドン経由で帰国する手続きをした。それをすませてから絵里に電話をかけて、ロンドンに寄り道することを伝えた。絵里の喜ぶ声がうれしかった。ヒースロー空港での手続きに時間を要しても、絵里とゆっくり語り合うことはできるはずだった。
その日はハイデルベルクを観光するつもりだったが、ロンドン行きの手続きなどに時間をとられたために、予定を変えてフランクフルトで1日を過ごすことになった。
旧市街にあるゲーテの家を訪ねて、家の内部や展示品を見てまわった。ゲーテが使った羽根ペンや、紙に残されている筆跡を見て、学生時代に読んだ〈若きヴェルテルの悩み〉を思い出した。
ゲーテの家を出てしばらく行くと、フランクフルトの大聖堂があった。建物の内外を見てもまだ時間があったので、街を見物しながら散歩することにした。道なりに歩いてゆくと大きな橋があった。マイン川のほとりだった。
川にそった道をそぞろ歩いていると、ゲーテが活躍した時代の景観が想われた。ゲーテがかつて散策したかも知れないその道を歩いて、僕は新市街にあるホテルへ帰った。
今朝はアラームが鳴る前に眼がさめた。朝食をすませるとすぐにホテルを出て、フランクフルトの空港へ向った。
飛行機は少し遅れてヒースロー空港に着いた。乗り継ぎ手続きに予想外の時間を要したために、絵里と約束した時刻に遅れることになった。絵里が電話で教えてくれた場所に着いたとき、約束していた時刻を10分あまり過ぎていた。
絵里は約束した場所で待っていた。ひとめで絵里だとわかったが、子供をつれている姿にとまどいをおぼえた。記憶の中の21歳の絵里と子供づれの姿が、束の間のとまどいを経てから重なった。あれから16年が経ったのだ。
絵里はにこやかな笑顔をうかべ、明るい声でよびかけてきた。僕はその声に応えながら、絵里から受ける印象が、以前とは異なっていることに気づいた。かつての絵里はどことなく心もとなげに見えたものだが、目の前でほほえんでいる絵里には、そのようなところが少しもなかった。とはいえ、僕の前にはまぎれもない絵里がいた。やわらかいアルトの声ときれいな瞳、そして、控えめなものごし。
絵里の横で幼い子供が僕を見あげていた。僕は子供の前にしゃがんで、絵里が教えてくれた名前で呼びかけた。女の児はむじゃきな笑顔で応えてくれた。歳はいくつかと問いかけると、女の児が小さな声で「にさい」と答え、2歳になったばかりなのだと絵里がつけ加えた。そのような言葉を交わしているうちに、絵里を眼にした瞬間に覚えたとまどいが薄れた。
僕たちは場所を見つけて、ロビーのベンチに腰をおろした。
眼の前を人々が行きかう騒々しいロビーで、時間に追われながら絵里と語り合った。乗り継ぎの手続きに時間をとられたために、そこで過ごせるのは1時間たらずだった。
絵里は東京や大阪と比較しながら、ロンドンの特徴などを語った。僕は初めて訪れたヨーロッパの感想を、そして、10年前から暮らしている名古屋のことや、そこで取り組んでいる仕事について話した。
ぐずる子供をあやしていた絵里が、顔をあげると前を見ながら言った。
「おぼえてるでしょ、松井さん。出雲の砂浜で星を見たこと」
幾つもの想いが胸の底をよぎった。ときめきに似た想い、悔恨の情、そして懐かしさ。
僕は答えた。「おぼえているよ」
そのひと言を口にしている束の間に、情景が鮮やかに蘇った。夜の砂浜。満天の星と天の川。砂にねそべっている僕の横には絵里がいる。
絵里は膝に乗せていた子供を抱きなおした。
「私って、引っ込み思案だったのに、松井さんとは随分おしゃべりになれたし、思いきっていろんなこともできたのよね」
絵里は何を話すつもりだろうかと思いながら、僕は絵里が続けるのを待った。
「松井さんと出会えてとてもよかったわ。短い期間だったけど、ほんとに楽しかったし、それに・・・・」と絵里が言った。「松井さんのおかげで、私にも勇気があるということがわかったから。なんだか大げさな言い方みたいだけど」
絵里に対する想いの記憶がよみがえり、16年まえに引き戻されたかのように、絵里がいとおしく思われた。
「だからね、松井さんに感謝してるのよ、わたしは」
僕は気はずかしいような気持になった。絵里から感謝される資格があるとは思えない。それどころか、絵里は僕を責めてもよいはずではないか。
絵里が言葉を止めているので、僕はうながされているような気持ちになった。
「絵里さんには勇気が似合っているよ」
「わたしに?」と言って絵里は僕を見た。
絵里は膝に乗せた子供に向きなおり、「そうかも知れないわね、引っ込み思案の私には」と言った。
どうしたわけか、運命の赤い糸という言葉が思いだされた。絵里と最後に会ったとき、涙をうかべながら絵里が口にした言葉だ。
僕は心の中で言った。「あれからも、運命の赤い糸を自分で結ぼうとしてがんばったのか、絵里さんは」
その時ふいに、絵里に祝福の言葉を贈りたくなった。
「僕は知ってたよ、絵里さんが最高に幸せになっていることを。そのことを坂田から聞いて嬉しかった。ほんとうに嬉しかったよ」
絵里が声にだして笑った。絵里の幸せな想いがそのまま表れている笑顔と声だった。
「どうもありがとう。ずいぶん大げさに祝福されたみたいだけど、とても嬉しい、松井さんからそんなふうに言われると」
胸のうちに想いが湧いた。ようやくにして、絵里に祝福の言葉を贈ることができた。ロンドンに立ち寄って絵里と再会したのは、まさにそのためだったのだ。その想いに誘いだされるようにして、安堵感に似た感情がうかんだ。