*
「ピアノ、すごく感動しました。特に最後の曲」
「僕も、最後の曲が一番心に残った」
コンサートホールを名残惜しく出るさなか、私と先輩はお互いに感想を言い合っていた。
私も全身全霊をかけて、一つの絵を完成させてみたい。そんな思いが沸き上がるほどの演奏だった。
「やっぱり、人の心に響く作品を創れるってすごいことですよ、ね……」
言いかけた言葉が、途中で不自然に途切れる。
ゾク……と寒気に襲われたかと思うと、また誰かに睨まれている感覚があった。
前方を見ると、見知った人物――沢本君がこちらを見据えていた。
偶然コンサートに来ていたわけではないなら、これはまるで、ストーカー行為。
嫌な予感を振り切るため、彼から目をそらし、蓮先輩を見上げる。
先輩は沢本君のことを知らないはずだから、特に変わった様子はない。
内心焦っているのは自分だけ。
“蓮先輩と触れ合っているときに、自分と関わりのある誰かと目が合えば。その人との記憶を思い出す……”
ふと、最近気づき始めた一つの考えが、再び頭の中に浮かんだ。
月曜日になればきっと、真鳥が私の過去について教えてくれるはず。
でもその前に、自分で少しは記憶を取り戻しておきたかった。
他人から聞いただけでは、実感がわかない。
怖いけれど、思い出したい。
一体、私は何を、いくつ忘れているんだろう。
知らないうちに先輩に対して失礼なことをしていないか、不安でたまらなくなる。
私は蓮先輩に、どうにかして触れてもらおうと考えを巡らせた。
でも、まさか先輩に『手を繋いでもらえますか』なんて頼んだり、いきなり抱きついたりできるはずもなく。さりげない方法はないかと必死に画策していた。
どうしよう。
どうしたら、変に思われずに触ってもらえる……?
「結衣、大丈夫? 具合でも悪い?」
想いが伝わったとは考えにくいけれど。先輩が突然、私の顔を覗き込んだ。
「……あの。何だか私、熱があるかもしれないです」
「えっ……確かに、顔が赤いね」
そっと私の前髪をよけ、先輩は遠慮がちに額へ触れてくれる。ひんやりとした感触が心地良い。
先輩の優しさを使って騙した、そんな罪悪感に胸が締めつけられながらも。今にも離れそうだった彼の手を、自ら触れて引き止めた。
彼の驚いた顔を一瞬視界に入れつつ、通路の端に立つ沢本君の強い視線を受け止める。
その途端、脳裏に何かが滑り込んでくる気配がした。
それは、過去の記憶だった。
頭の中に流れてくる、夕焼け色の映像。
大きなキャンバスの前で私と蓮先輩が話している。
『この絵を描き終えたら、伝えたいことがあるんだ。だから……』
最後の方が聞こえないまま場面が変わり、次に流れてきたのは男の声だった。
『こんなヤツ、好きになるわけないだろ。こんな――嫌われてる女なんか』
鋭く、きつい言葉が私の胸を突き刺した。
そうだ……思い出した。
私は中学時代に、この言葉を投げつけられたことがある。
誰だって、周りから嫌われている人間をわざわざ好きになったりしない。
だから先輩も、私が嫌われていた事実を知ったら。手のひらを返したように冷たくなるはず。
それを私は、ずっと恐れていたんだ。
心の奥底で、過去に言われたあの台詞がトラウマとなっていたから――。
あの男の声は、沢本君の声に似ていたと思う。沢本君は、想像している以上に私の過去に関わっているらしい。
私が体調不良なのではと心配した蓮先輩は、家まで送ってくれた。
過去を思い出すためとはいえ、先輩の腕をつかんでしまったこと、不審に思われていないといいけれど……。
*
そして真鳥と約束した月曜日が来た。
今日こそ、全ての記憶を取り戻す。
本当の自分を知るのは怖くてたまらないけど、周囲からの視線を気にしながら生きるよりはずっといい。
朝、教室へ向かう途中、廊下の奥から沢本君がこちらへ歩いてくるのがわかり、体が凍りついた。
またあの鋭い目を向けられ、話しかけてきたらと思うとゾッとする。一刻も早くどこかに隠れないと。
「白坂さん、おはよー」
そのとき、後ろから椎名さんが声をかけてくれたおかげで、沢本君はそれ以上私に近づくことはなく、教室へ入っていった。
「おはよう、椎名さん」
もし、沢本君が私の過去を話して、椎名さんにまで嫌われたら。もう、こんな気さくに話しかけてくれることはなくなるんだろうな。
切ない気持ちを抑え、笑顔を作る。
「そうだ白坂さん。今度一緒に帰らない? 学校の近くに行ってみたい雑貨屋があるんだよね」
「えっ、いいの? 美容室の向かいのお店だよね。私も前から気になってたんだ」
「ほんと? じゃあちょうど良かった。部活ないとき一緒に行こう」
涼しげな瞳を輝かせ、椎名さんは爽やかに笑った。
できることなら、真実を知らないまま、ぬるま湯につかっていたい。
本当はこのまま平穏な生活を続けていきたいし。自分の好きな人、大切な人には私の闇の部分を知られたくない。
そんな都合のいい話はないと、わかっているはずなのに……。
*
昼休みになり、複雑な気分のまま私は中庭に呼び出された。
強い陽射しを避けるため、木陰で真鳥と向かい合う。
「最近、何か変わりない?」
青空をちらりと見たあと、軽く首を傾けた真鳥は何気なく訊いてくる。
「変わったこと……そういえば私、たまに過去のことを思い出すんだ」
「――え? たとえば、どんなときに?」
切れ長の目を丸くした真鳥は、こちらへ一歩足を踏み出した。
「たとえば……、好きな人と一緒にいるときとかに」
慎重に言葉を選びながら答えると、真鳥はしばらく黙ったあと、「そっか」と小さくつぶやいた。
「たぶん、記憶を取り戻すのに手っ取り早い方法が他にもあって」
そう言いながら、真鳥は私の前髪の辺りを指差した。
「白坂の額にもう一度キスすれば、全て思い出せるはずなんだ」
淡々とした口調で、あり得ない台詞を吐かれ、目を見開く。
……どういうこと?
キスなんて、まさか真鳥とできるはずがない。
「……っ、ならいい。教えてくれなくても」
慌てて断ったら、真鳥の言葉に違和感を覚えてハッとする。
今……“もう一度”って言わなかった?
キスをもう一度する――ということ?
それは、いつか見たあの幻覚が、現実のものだと証明されたということで。私は確かに、真鳥からキスをされたことがあるらしい。
「本当に、教えなくていい? 白坂だけが何も知らないままで生活していくの?」
私の前髪に触れた真鳥が、顔を覗き込むようにして問いかけた。
「それ、は。何も知らないままは困るけど」
「じゃあ……、ちょっとだけ目を閉じてみて」
真鳥にしては優しい声。
柔らかな声音に導かれるまま、軽く目を閉じる。
「落ち着いて、深呼吸して。楽になれるよ」
その言葉が終わると同時に、額に何かが触れた。
「…………」
もう一度目を開けたら、頭の中が真っ白になっていた。
――今、私は何をしようとしていたのか……
真鳥と大事なことを話していた気がしたのに、思い出せない。
私は一体……。
「大丈夫? 白坂」
ふらついた私の体を、真鳥が抱き止める。
「……あ、うん」
曖昧にうなずき、答えを探そうと真鳥の顔を見つめた。
確か、大切な記憶を取り戻そうとしていた。
でも、何の記憶を?
混乱しているうちに、真鳥が低く何かをつぶやいた。
「忘れたままの方が幸せなこともあるよ。君が、っていうより、周りの人間がね」
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side 蓮
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「白坂さんのことで話があるの」
三井に呼び出されたのは昼休みのことだった。
結衣の名前を出されたら簡単に断るわけにもいかず、仕方なく三井についていく。
ひとけの少ない廊下を歩き、ちょうど中庭が見下ろせる、眺めの良い位置に案内された。
三井と1m以上間隔を開けて窓際に立つ。付き合っているときとはまるで違う距離感。
「蓮は知ってる? 最近、白坂さんと仲良くしてる男の子がいること」
真鳥朔哉のことか。
「それが何?」
声が若干、冷たく廊下に響いた。
「もう、付き合っていたりしてね」
「……」
「実際に見てもらった方が早いかも」
窓枠に手を置いた三井の視線を辿り、中庭の一角を見下ろす。
そこには――結衣と真鳥と思われる男子生徒が至近距離で向かい合う姿があった。
それを見て、思わず息を呑む。
信じたくはない光景だった。
真鳥は結衣の額に唇を寄せていた。
彼女の肩に触れ、優しく抱きしめる。
(どう、して……)
さっきよりも近くで、三井が笑った気配がした。
「わー、中庭で昼間からキスするなんてすごいね。積極的。彼女の方も全然嫌がってなかったみたいだし」
ちらりとこちらの様子をうかがいながら、三井はほくそ笑んでいる。
この時間、結衣が中庭に来ることをなぜか知っていて、わざと目撃させられたのだと気づいた。
「ね、これでわかったでしょう? 彼女はすでに、あの男の子のものだって」
これ以上、彼女のことを想っていても無駄だと、三井は暗に告げてきた。
結衣は嫌がっているそぶりがなく。
彼の方は愛しげに結衣の髪を撫でていて――。
さすがにそれを見てしまったら、彼女のことを忘れるしかないのではと気持ちが沈む。
真鳥は結衣の肩を抱き寄せたまま、校舎に入っていった。
三井は機嫌よく教室へ戻り、自分はしばらくその場に残る。
廊下の向こうで――結衣の同級生、永野未琴が腕を組み、柱に寄りかかってこちらを見ていたが。それを気にしている余裕はなかった。
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