残された俺たちは、しばらくそのまま茫然と立ちすくんでいた。

「えーっと……」

 並榎はさっきから、下を向いたまま微動だにしない。

 俺もできればそうしていたいのだが、そうも言っていられない。

 わざわざ来た意味が、なくなってしまう。

「とりあえず……座ろうか」

「は、はひっ!」

 なぜか初対面の時ばりに緊張している並榎をよそに、いつも食事をしていた椅子に座った。

 まだここに来なくなってから一カ月も経っていないはずだが、薬品の匂いと簡素なテーブルがやけに懐かしく感じられた。

 俺が座ったのを見て、並榎も慌てて反対側に腰を下ろす。

「さて……何から話そうかな」

 そんな畏まるような空気でなくなってしまったせいで、逆に一度テンションを平常に戻したかった。

 もう少し気まずくて重たい空気になると思っていた分、今のギャップに付いていけない。

 話しやすいに越したことはないが、余計な爆弾を投下していった先生にはあまり感謝したくない。

 折角、走りながら話すことも考えていたのに、今の空気では切り出しづらい。

 それが先生の言うところの、「蛇行したがる」ってことなのかもしれないが。

「あの……新山君」

 俺があれこれ考えて頭を悩ませていると、並榎の方が話しかけてきた。

 思えば、ここに来るといつもそうだった。

 正直言って俺は、人と話すのが苦手な方じゃない。人見知りもしない方だと思う。

 並榎は……多分人見知りだ。初めて話した時えらい緊張していたし。

 だけど、保健室で話す時、並榎は俺によく話しかけてくれた。

 俺はどこか、勝手に並榎は保健室登校で、気弱で助けてあげないといけないようなイメージを持っていた。

 今なら分かる。最初からそんな必要はなかったんだ。むしろ、救ってもらっていたのは……俺の方だ。

「新山君は、どうして……保健室に来なくなったの?」

「どうしてっていうか……。何となく、気まずくって」

 言語化すると、安っぽい話になる。

 要するに俺は、並榎の救いになりたかったのだ。

 兄貴が俺にそうしてくれたように。

 言葉で誰かを、導いてみたかったのだ。

 それができなかったから、並榎から逃げた。

 どう関わっていいのか分からなくなったから、俺は並榎と距離を置いた。

 だけど、距離を置いて。離れてみて、よく分かった。

 俺が並榎と関わっていたのは、そしてこれからも関わっていたいと思うのは。

 きっともう少し、シンプルな話だったのだ。

「並榎さ、やっぱり教室来なよ。それで、一緒に授業受けよう」

「でも……私」

「大丈夫だよ。ってか、大丈夫じゃなかった時、俺がいるから」

 そう言いつつ、苦笑してみせる。

「実はさ、最初に保健室に行ってた時、俺結構心折れてたんだよね」

「え?」

 並榎が目を見開く。

「女子の着替え覗いた時さ、本当に無意識だったんだよね。間違って開けちゃったから、反射で閉めて、反射でまた開けた。で、あとから何で開けたんだろうって考えてたのを、並榎にそれっぽく喋ってたんだ」

 当時小学生だった俺にとって、一度やったことをもう一度やるのはそれなりに苦痛だった。

 一度できたことを、もう一度やる理由が自分の中で見出せなかったのだ。

 だからもう無意識的に、反射レベルでできるようになるまで叩き込むことにした。

 まさかそれで覗き魔になるとは、俺自身予想していなかったが。

 でも、俺はそれで並榎と出会うことができた。

 それだけは、この先どんな失敗を起こそうが良かったと思える。

「俺さ、これからもきっと、この性質でいっぱい失敗すると思う。ほとんど俺が悪いんだけど……それでもちょっと凹んだりとか、多分する。そういう時にさ、並榎が俺を励ましてくれると、すごく助かる……っていうか、嬉しい」

「私が、新山君を?」

「そう。俺が駄目な時は並榎が俺を助けて。逆に並榎が大丈夫じゃない時には俺がフォローする。そういうのって、どうかな?」

 俺の、せいいっぱい。

 並榎と一緒にいるために、頭を捻って出した答えがこれだった。

 カンニングによって、並榎が失ったものや、抱いた傷や痛みは俺には計り知れない。

 だからこそ過去じゃなくて、これからに目を向けていきたい。

 生憎失敗には慣れている。
 
 なぜなら俺は、二回やる男だから。

「私は……」

 か細い声で、並榎が呟いた。

「やっぱり、まだ怖い。自分にも自信ないし、また同じようなことをやってしまうかもしれないって思うと……うまく、歩けなくなる。だから、」

 俺の方をジッと見つめ、それからこう言った。

「勇気が欲しいの。失敗をしてもくじけないで、また歩き出すための勇気が欲しい」

「それは……俺に与えられるものなのかな」

「分からない……けど。私は、新山君から、欲しい」

 並榎の顔がグッと近付く。

 目が、髪が、鼻が、頬が、唇が。

 感じたとこのない甘い香りに刺激され、脳の奥が小刻みに痺れる。

 喉と唇が急激に乾き、与えられるものの正体をそれ以外に思い浮かべることができなくなった。

「にいやま、くん」

 甘ったるい声が鼓膜に響いたのが、最後だった。

 体重を押し当てるように並榎にもたれ込んで、俺たちは机越しにキスをした。

 軽く、触れ合うだけの細やかな愛の行為。

 それだけのことが、俺にとっては真っ白になるほど想像を超えた出来事だった。

「……あ」

 唇が離れ、現実が戻った時、並榎はどこか呆けたような顔をしていた。

 それは多分、頭の中で俺が描いていたビジョンとは程遠いもので、唐突に後悔が押し寄せてきた。

 ……間違えたか?

 勇気、というものの名言がなかった以上、それはこの場の俺から与えられるものに限る。

 だからてっきり、俺は二人の距離を縮める行為だと思ったんが……。

「あの、その……新山君」

 おずおずと、申し訳なさそうに並榎が手を挙げる。

 顔の位置まで挙げた手は、そのまま並榎の唇に当てられる。

 その仕草がなぜだかとても色っぽく感じられた。

「な、何ですかね」

 思わず敬語になってしまう。

 やや青ざめている俺に対し、並榎の頬は赤かった。

 それから俺の方を見て、また反らし、ようやく顔を上げたところで、

「その……キス、もう一回、しないの?」

 潤んだ瞳と唇が、それぞれに語り掛けてくる。

 あまりに雄弁なその感情に、熱が出たかのように体温が上がった。

 赤面して、自分の行動を冷静に分析してしまう前に、俺は並榎の言葉に応じる。

 それから五時間目が終わるまで、俺たちは飽きもせず三回目を繰り返した。