――五月二日(土曜)
「すまん、もう一回言ってくれ」
「えっとね、ここの問題はこの式を使って――」
「というか問題文の意味がわからん」
「ええー……」
市営図書館の学習室で俺の右席に座っている冬木が困惑の声をもらした。数学の教科書を片手に困ったように眉を下げている。
「どうしようみなみちゃん。誠くん、もの凄く馬鹿だあ」
「あはは、本人の前でそれを言っちゃうんだ」
左席では眼鏡をかけたみなみが苦笑いを浮かべていた。
ただでさえお節介焼きで高校生とは思えないのに、眼鏡までかけると完全に女子高生のフリをしたOLだな。
なんて、こんなくだらないことを考えているから俺は勉強ができないのだろう。
逃げたくて仕方がないが、ふたりに挟まれるように座らされているせいで隙を見つけられそうにない。というか逃げて困るのは結局俺自身だ。
しかしだからといって集中できるわけでもない。
室内は十人は座れる横長の机が向かい合うような形でいくつも設置されており、前方と左右にはそれぞれの座席を区切るための仕切りが設けられている。各座席には照明まで完備、まさに勉強するための空間といった感じだ。部屋も教室と同じくらいの広さでスペースは申し分ない。
だが、俺のように普段から勉強する習慣のない人間はこういった空間だと逆に集中できないのだ。そわそわしてどうにも落ち着かない。
みんなよくこんな空間で勉強ができるな。
仕切りで姿は見えないが、向かいの席からはカリカリとペンを動かす音が絶えず聞こえてくるし、通路を挟んで背中合わせになっている後ろの子はヘッドホンをつけたままひたすら教科書を読みこんでいる。
そして、そんな様子を観察できてしまう程度には俺は勉強をしていない。
「誠くん、本当は部活行きたくないの?」
「そんなわけないだろ」
「じゃあどうして手が止まっているのかな?」
「……頑張ります」
やばい、いつもにこにこしている冬木の目がマジになっている。
「私のことは千歳先生、もしくは千歳と呼びなさい」
「よろしく冬木」
「……むう」
冬木は残念そうに頬を膨らませた。全然マジな目じゃなかった。
「そんなに千歳って呼ばれたいのか?」
「うん」
「へー」
まあ呼ばないけどな。もう冬木で定着してしまったし。
そんなこんなで、中間テストに向けての勉強会が始まった。毎週の土日と、テスト期間は放課後も。
テニスをやる時間は、お察しだ。
――六月三日(水)
「中間テストお疲れ様ー! そしておめでとう誠くん!」
いつにも増してうるさい冬木が、屋上前の階段で飛び跳ねた。座っている俺とみなみの間でくねくねと身をよじり器用に踊っている。まるでチンアナゴみたいだ。
そのお気楽な様子には心底呆れさせられるが、かくいう俺もその実、冬木同様小躍りしたいくらいの気持ちではあった。
「あー、マジでどうなるかと思った」
テストが終わって一週間、返却された答案用紙を見て胸をなでおろす。
全科目ギリギリで赤点回避。あと一点でも落とせば追試を食らう、という科目がほとんどだった。
とても胸を張れるような点数ではない。が、セーフなものはセーフなのだ。ひとまずはこれでいいとしよう。
「これも千歳ちゃんのおかげだね、感謝しなよ」
購買で買ったパンを片手にみなみからの横やりが入る。
「してるって」
言われなくとも感謝くらいしている。冬木のおかげで赤点を免れ、晴れて部活動に打ち込むことができるのだから。もっとも、俺を部活中止の危機に陥れたのも冬木なのだが。
「それにしても、すげえな」
俺は返却された答案用紙とは別の、テスト前に冬木から渡されていた紙に目を移す。
プリントの上部には『ここがテストに出るよ! 多分!』と丸文字で書かれており、その下には出題されるだろう問題とその答え、そして解説がびっしりと手書きで記されていた。
「へへへ、凄いでしょ」
「ああ、天才的だ」
珍しく心の底から褒めてやった。
実のところ俺が赤点を回避できたのは完全にこのプリントのおかげだ。冬木が予想した問題のほとんどが実際に出題されてくれたおかげで俺は何とか一命をとりとめることができたのだ。
「さて誠くん」
「うん? なんだ」
「私はご褒美が欲しいです」
小躍りを終えて腰を落ち着けた冬木が唐突にそんなことを口走った。
「……言ってみろ」
「えっとね――」
じっと固唾を飲んで言葉の続きを待つ。
一体何を要求されるのだろうか、考えるだけで恐ろしい。
「頭を撫でてほしいなあ!」
「はい却下」
また意味不明なことを。
「なんで?」
「なんではこっちの台詞だ。妖怪意味不明女め」
「む、こんなにも可愛い千歳ちゃんの頭に触れるんだよ? 名誉なこととは思わない?」
「思わない」
即断してやると冬木は「はあー!」とわざとらしいため息をついてのけぞった。ため息をつきたいのはこっちだよ。可愛いのは認めてやらないこともないが、それを自分で言うところに冬木の残念さが垣間見えている。
誰か助けてくれ、なんて思うがみなみは俺たちの様子を見てくすくすと笑うばかりで助け船のひとつも出してくれない。むしろ冬木の味方をしているような気さえもする。
「でも誠、千歳ちゃんに助けられているのは本当なんだし、お礼のひとつでもしてあげたら?」
思った通りだ。妖怪お節介ババアめ、余計なことを。
とはいえこの件に関してはみなみの言うとおりだ。遠からず何かしらの形で埋め合わせはするつもりだ。
「じゃあ、今度何か奢ってやるよ」
「え! 奢る!? お小遣い五百円の誠くんが!?」
「しばくぞ」
そういう心に刺さることを笑顔で言うのはやめろ。俺じゃなきゃ今頃そこのドアを突き破って屋上から飛び降りているところだったぞ。
「あはは、冗談冗談。私がやりたくてやったことなんだから、お礼なんてしなくても大丈夫だよ」
「さっきと言ってること違ってないか?」
ご褒美が欲しいですなんて言っていたのは忘れないからな。
「あれは、うん、ダメ元で言ってみただけ」
「つまり、あわよくば本当に撫でてもらう算段だったってことか」
「うへへ」
「きもちわりい笑い方だなあ」
やっぱり冬木の考えていることはちっともわからない。
「ちぇっ。ちょっとくらい撫でてくれてもいいのに!」
「全然よくない」
「いいの!」
「よくない」
俺としては一刻も早く冬木から解放されてテニスに集中したいのだが、この様子では難しそうだ。
ともあれ目の上のたんこぶであったテスト問題が解決した今、俺を阻むものは冬木以外に何もない。その冬木も、厄介ではあるが部活中は顧問の目もあって邪魔はしてこれないようだし、そこまで大きな障害ではないだろう。
顧問曰く「全部員のテストが返却されて、その点数が確認でき次第部活動を再開する」らしいから遅くても明日には練習を始められるはずだ。
「さーて、飯でも食うか」
「あ! 私があーんして食べさせてあげよっか!?」
「黙ってくれていいぞ」
横からの雑音をやんわりと流して、弁当箱を開いた。
――六月四日(木)
「よーし、今日からテニス部再開だ! 気合入れるぞ!」
授業が終わるや否や、意気揚々と宣言した。
普段テンションの低い俺が大声を出したことに驚いたのか、クラスメイトたちが怪訝そうな眼差しをこちらに向けてくる。その表情は何やら可哀想な人を見るようなものだった。
そして隣では、冬木もまた可哀想なものを見るような顔をこちらに向けている。
「ははは、どうした冬木。元気がないじゃないか」
「誠くん……現実を見よう」
冬木は悲しげに眉をひそめると白く細長い指を窓の外へ向けた。俺に現実を突きつけるためだ。
「……ああ」
言われるがまま窓の外を見た俺はたちまち現実に引き戻される。無理矢理高めていたテンションは急降下だ。
「……梅雨、だね」
「……だな」
窓の外は、土砂降りだった。
灰色の空からは絶え間なく雨粒が吐き出され、窓から見えるテニスコートを水浸しにしている。地面を叩く雨粒の音、そしていつもより薄暗い教室の空気は心地いいが、俺の気分は優れない。
「顧問の先生からの伝言……聞く?」
「聞かない」
「今日の部活、中止だってさ」
「やめてくれ」
言われなくてもわかっている。悲しいが、ちゃんと現実を受け止めた。追い打ちは要らん。
「俺の……テニスの時間が……」
膝から崩れ落ちるような勢いで椅子に腰を落とした。全身から力が抜けていくのがわかる。このまま力尽きて死んでしまいそうだ。
「この世の終わりみたいな顔だね……」
「そりゃあな」
十月の県大会まで残り四か月しかないのだから、焦りもするさ。
残り四か月。その間俺は何をしていた? 壁打ちと動画の確認だけだ。部活なんて数えるほどしかやれていない。
テストも終わりやっとの思いで打ち込めると思った部活動も雨で台無し。これでは壁打ちすらままならない。
「そういえば今年の梅雨は長いらしいよ。なんでも八月頭まで続くとか」
冬木は俺の後ろに立って、残業で疲れ果てたサラリーマンを労わるかのように肩を揉んできた。
聞きたくもない情報を立て続けに吹聴してくるのは俺への嫌がらせなのだろうか。
「あと、これが一番大事なんだけどね」
「今度は何だよ……」
俺の肩を揉みつつ、念を押すように言ってきた。
「雨で土砂崩れの危険があるから、注意してね」
「なんじゃそりゃ」
何かと思えばそんなことか。
「あ、今『俺には関係ないな』とか思ったでしょ」
いや、思ってない。まあ思う直前ではあったけど。
「ダメだよそういうの。どれだけ練習しても事故にあったら全部無駄になっちゃうんだからね。明日は我が身ってやつだよ」
そう言って、ぎゅっと、肩を揉む力が強まった。もはや握られているのではないかという力強さだ。
「わかった、わかったから。そんなに強く揉むな、痛い」
「あ、ごめんごめん」
慌てて手を離し、逃げるように窓際へ駆けていく冬木をしり目に、俺は心の中で小さく息をつく。背もたれに体を預けて力なく上を見上げると、薄暗い教室を励ますべく必死に振る舞う蛍光灯が目に入った。
そんな教室の片隅で、俺はひとつの不安に襲われた。
俺は、本当に県大会で優勝できるのだろうか。
母さんとの約束を思うと胸が苦しくなる。俺にはもう時間がないのだ。
友人も恋人も、テニス以外の全てを捨てる覚悟で俺は日々を過ごしている。だというのに、気が付けばいつも隣には冬木がいる。俺からテニスの時間を奪っていく。
しかし、だからといって練習ができないことを冬木のせいにするつもりはない。
俺自身、本当は気が付いているのだ、心の底では自分が冬木千歳という人間を許容していることに。